林健太郎『ワイマル共和国』

タイトル通り、ワイマル共和国14年の歴史についての本
1963年刊行の本だが、分かりやすくて読みやすい本であった。とりあえず、ワイマル共和国史について最初に読むにはよさそうな本であった。
というか、なんでパウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』 - logical cypher scape2から読み始めたのか、自分。ルクセンブルクの伝記もそれはそれで面白くはあったが、よく分からない箇所も多かったわけで、そのあたりがこの本を読んで大分解消したし、ルクセンブルクやドイツ革命周りで知りたかったことは、大体こっちの本に書いてあったなあと思った。
いやしかし、14年しかないのだなあ、ワイマル共和国
なんか途中で「共和国から成立して5年」みたいなこと書いてあるんだけど、そこに至るまでの出来事が多すぎて、読んでいて「え、まだ5年しかたってないの、このボリュームで」と思ったりした。

第一章 共和国の成立

帝政ドイツにも憲法と議会はあったけれど、政府は議会とは独立に構成され、議会には責任を負っていなかったという意味で、議会政治ではなかった。
大戦末期にヒンデンブルクルーデンドルフが、いよいよもうまずいと掌をかえして、社会民主党、中央党、進歩人民党による内閣が成立する
キール軍港の反乱がおきて、その後、ドイツでもっとも保守的とされたバイエルンミュンヘンでまず革命が起きて、バイエルン王が退位する(連邦国家なので皇帝以外にも王が各地にいた)
なかなか退位しなかったウィルヘルムもオランダへと逃亡。
ドイツの左翼として、オップロイテとスパルタクス団という2つの集団がいた
オップロイテは金属労働組合から端を発したグループで、スパルタクス団はリープクネヒトやルクセンブルクを中心としたグループ
どちらも、暴力革命により議会主義を排して社会主義化を目指すという点で一致していたが、革命の戦術に違いがあった(後述)。
オップロイテは、ルクセンブルクの伝記にもでてきていたんだけど、いまいちどういうグループかよく分からなかった。

第二章 民主主義か独裁化

で、労兵協議会(ソヴィートないしレーテ。評議会と訳されることが多いような気がするけど、本書では協議会となっている)とは何か
これは、マルクスエンゲルスの理論の中にもレーニンの思想の中にもなかったもので、ロシア革命の中で自然発生的にでてきた組織だという。
そもそもロシアには労働組合がなく、労働者の代表機関がなかったため、革命の中でそれに代わるものとして生じた。また、当時は戦争中で、兵営も人々の生活拠点になっていたので、労働者と兵士による組織となった。
レーニンは、これをボルシェヴィキ独裁のために利用した。
もともと、労働組合が存在していた西欧では不必要な仕組みであったが、大戦中に労組が戦争遂行のための組織と化していたドイツでは、あらためて労働者を代表する組織としてレーテがつくられ、また、ロシア革命の影響もあり、革命の「シンボル」として重視されるようになった、と。


社会民主党の首脳部はだいぶ保守化していて協議会を警戒していたが、協議会を構成している労働者たちの多くは社会民主党の支持者で、国民議会に権力を委ねることになる。
仮政府の首脳となったエーベルトは、軍のグレーナーとの間に密約を交わしていた。評議会の動きに軍が反発していたため


ソヴィエトないしレーテの説明が分かりやすかったというか、今まで全然ちゃんと分かってなかったことがわかった。

第三章 一月蜂起

オップロイテとスパルタクス団との違い
先に述べた通りオップロイテは労働組合がベースなので当然労働者たちのグループだったのに対して、スパルタクス団はルクセンブルクなど言論人中心なので、実は労働者とは距離があった。このため、スパルタクス団は基本的に街頭デモを通じて労働者に働きかける方法をとったのであり、そこから自然発生的に革命へといたるということを考えていた。それに対してオップロイテは指導部が秘密裏に作戦を立ててそれにしたがって革命を起こすという考えだったので、スパルタクス団のやり方とは相いれなかった
スパルタクス団は、別の左派グループと一緒になりドイツ共産党を結党するが、オップロイテはこれへの参加を拒んだ。
1月、ベルリンでデモが発生し、これが革命につながると考えたリープクネヒトらが革命委員会を発足させ、一月蜂起が起きる。
いわゆるスパルタクス団の蜂起などといわれているが、本書ではこれはスパルタクス団の蜂起ではなかった、と述べている。確かにリープクネヒトが参加していたし、また、オップロイテからも参加者がいたが、しかし、あくまでもデモから自然発生的に生じたもので、スパルタクス団やオップロイテが起こしたものではなかった。
で、結局ぼやぼやしている間に、軍が出動して鎮圧されてしまう。その鎮圧の過程で、リープクネヒトとルクセンブルクも暗殺されてしまう。
ところで、当時から極左の中でスパイの挑発行為によるものという説があったが、これは証拠が薄弱であると退けられている(ルクセンブルクの伝記に書いてあった話だが)。
ローザ・ルクセンブルクについて一節をさいて論評されている。
彼女は非妥協的な革命家でありつつ極左的冒険主義を退け、ボルシェヴィキ一党独裁を批判したので評価されているが、これはやや偶像化されたものである、と。内乱こそスパルタクス団にとって有利だと述べたりしていたし、また、大衆の「自発性」への宗教的に近い信頼があって、しかし、それはある種の幻想だったのだと。
この「自発性」への信頼については、伝記の方でも繰り返し述べられていた。あちらの方では、その点をルクセンブルクマルクス主義者としての優れたところとして評価していたけれど、まあ、マルクス主義者じゃない側からみると、そういう感じの評価になるよなあ、と思った。


終戦から「スパルタクスの蜂起」までの流れや、ローザ・ルクセンブルクの人物評価など、いまいちよく分からなかった部分も含めて、本書の1~3章までを読んで大分整理できた。
これくらいの感じの解説が読みたかった。


仮政府のノスケは、軍隊を出動させて極左への取り締まりを行った。このため、皆殺しのノスケなどと言われて忌み嫌われた。
また、仮政府は、軍隊とは別に義勇軍もつくったが、これは右翼的な人物たちの根城みたいになって、のちのち共和国への禍根となってく(ひいてはナチスへとつながっていく)。

第四章 憲法と平和条約

最初の国民議会選挙が行われ、社会民主党、中央党、民主党、国家人民党、独立社会民主党、人民党が議席を得る。
ベルリンはまだ焼け野原だったので、ワイマルで議会が招集され、エーベルトが議会によって大統領に選出される。
社会民主党、中央党、民主党による連立政権ができるが、この3党のつながりを「ワイマル連合」と呼ぶ。国家人民党などの右翼、独立社会民主党などの左翼を除いた中道政党のあつまり。
ワイマル憲法の特色として、大統領権限の強さと「経済生活」の項における社会主義的政策が挙げられる。
しかし、後者は、共和国がそもそも経済的になかなか安定しなかったので、あまり実現はしなかった。


とにかく、政党がたくさん出てくるし、内閣が次々替わるし、連立の顔ぶれも変わるしで、となかなか大変なんだけど、巻末に、選挙結果の表と内閣の年表がついているので、都度、それを見返しながら読むと、あまり混乱せずにすんだ。

第五章 カップ一揆

ミュンヘンでは、アイスナーが政権を担い安定させていたが、アイスナーが暗殺されたのち、「バイエルン・レーテ共和国」が宣言されるも、直後に共産党が再度革命を起こして政権を担う。しかし、ベルリンの中央政府は共産政府を許さず、軍が送られ壊滅する。
もともと保守的なミュンヘンでは、そもそも共産政権は受け入れられていなかった。左翼のアイスナーがミュンヘンで受け入れられていたのは、ミュンヘンに反ベルリン意識があったため。共産政権壊滅後は、ミュンヘンは(やはり反ベルリン意識によって)右翼化していく。右翼団体が乱立し、その中の一つに「ドイツ労働者党」があり、その党員としてヒトラーがいた。
一方ベルリンでは、右翼政治家であるカップによるカップ一揆が起きる。このため政府は一時ベルリンを離れるが、社会民主党の指示によりベルリン市民はゼネストによる抵抗を行い、カップ一揆は失敗に終わる。
ゼネストを率いたのは労働組合だったので、組合は労働者内閣を要望する。結局、組合の要望通りの内閣は作られなかったが、内閣の顔ぶれ自体は変わる。
新内閣成立に伴い、国防相のノスケが退職し、代わりにゲスラーが就任する。そして、ゲスラーのもとで軍の長官となったのがゼークトであった。
ノスケは、反共産主義者であり、軍隊による取り締まりを行い、国軍を強化させた人物ではあるが、一方的に軍を助長させてはこなかった。これに対してゼークトは、政府から半ば独立した集団として国防軍をつくりあげていき、ゲスラーもこれを容認した。
1920年選挙において、社会民主党は退潮する(163議席→102議席


ドイツが連邦国家であるというのは知っているけれど、実際それがどういうものかという認識は全くなかったので、それぞれの州で革命が起きたりなんだりしているのが、最初よく分からなかった。
ワイマル史としては、このバイエルンの存在が結構重要っぽい
あと、地図見ると驚くのだが、プロイセン州が巨大で、ワイマル共和国の半分くらいはプロイセン州になっている。第二次大戦後は分割されたので、今はないらしいが。

第六章 内外の難問

コミンテルン加盟をめぐり独立社会民主党が分裂する。
独立社会民主党はそもそもベルンシュタインやカウツキーによる党で、彼らは、戦争中に戦争反対を掲げて、社会民主党から離れたが、一方で、リープクネヒトやルクセンブルクのような暴力革命には批判的で、その点では社会民主党とあまり変わりはなかった。
一方で、普通の党員には極左寄りの者たちも多く、コミンテルン加盟の賛否が割れる。結局、コミンテルン加盟派は共産党と合流し、コミンテルン加盟反対派は社会民主党と合流することになり、独立社会民主党は消滅する。ただ、コミンテルン側もかなり傲慢な態度であったため、これに反発して共産党にはいかなかった者たちもいる。
その後、ドイツ共産党は、コミンテルンの方針転換に何度も振り回されることになる。
当時のドイツ共産党の指導者レヴィは、コミンテルンとの意見対立があった。
マンスフェルトで蜂起が起きるが、コミンテルンは当時世界革命路線を撤回していたので、これを批判する。そして、それはレヴィによるマンスフェルト蜂起批判と全く同じ内容だったのだが、レヴィはコミンテルンと対立していたので、罷免されてしまう。
ソ連のラデックは、右翼であるゼークトと接触し、ドイツ軍との関係を深めていく。
ドイツの外務省の中には、「東向き政策」と「履行政策」という二つの政策があった。前者はソ連と手を結び、ポーランドと戦うというもの。後者は、ヴェルサイユ条約での賠償を履行して西側諸国との協力関係を強化するというもの。
内閣は基本的に履行政策側だったのだが、外務省内部には「東向き政策」推進派がいた。
賠償などの内容を具体化させるジェノア会議において、西側諸国がソ連にも賠償を要求する権利があることを示唆され、ドイツは、「東向き政策」に転換して、ソ連と単独でラッパロ条約を締結する。
外相ラーテナウ暗殺
ヴィルト内閣の瓦解とクーノ内閣


コミンテルン加盟後、ドイツ共産党は基本的にコミンテルンの方針通りに動くのだが、このコミンテルンの方針というのが結局ソ連国益に沿ったもので、ソ連の事情が変わるところころ変わる。ドイツでの革命に反対したり、革命させようとしたり。

第七章 一九二二年の危機

イギリスは反対していたがフランスがルール占領を行う。
(賠償をめぐって、イギリスは無茶な賠償だという認識がありこれを緩める方向をもっていたが、フランスは厳しい対応をとっていた。ルール占領についても、英仏のこうした差異があった)
クーノ内閣は「消極的抵抗」策をとるのだが、工業地帯での生産力低下はむしろドイツ自体に対してダメージを与えることになる。
「消極的抵抗」のせいだけではないのだが、悪名高いインフレーションが発生する。
中産階級が没落し、コンツェルンが出現する。
もともとドイツは労働者階級の中から経済的に豊かになった中産階級がうまれ、この層が結構厚かったのだが、ここが没落していく。
クーノ内閣が退陣し、シュトレーゼマンの「大連合」内閣(ワイマル連合+人民党)が発足する。
シュトレーゼマンは人民党の右派政治家で、戦中は「勝利の平和」論者であった*1が、戦後、ドイツを立て直すためには「履行政策」をとるしかないと方針転換した。
彼の首相としての功績は、消極的抵抗の中止とレンテン・マルクの発行による、インフレーションの解消。
レンテン・マルクを発行したのはライヒスバンク総裁のシャハトであり、この功績によって称賛されている。ただ、このアイデア自体は蔵相のヒルファーディングに由来するのだが、彼はレンテン・マルク発行前に辞職してしまったので、あまり功労者とみなされていない(ヒルファーディングは学者として優秀だったが、政治家としては実行力不足だったと評されている)
地方政府において、左右それぞれのクーデターが起きる。
まず、バイエルンの右翼的政権発足について
バイエルンでは「ドイツ労働者党」がナチスに改名し、突撃隊を創設するなどして勢力を拡大していた。
バイエルン人民党がカールを擁立して右翼政権をたちあがるのだが、それと同時期に、ルーデンドルフを戴いたヒトラー一揆計画(ミュンヘン一揆)が実行される。バイエルン人民党ヒトラー一揆と一瞬だけ手を結ぶのだが、ヒトラーナチスをよく思っていなかったので、即座にヒトラーは切り捨てて、ナチスミュンヘン一揆自体は失敗する。
一方、ザクセン、テューリンゲン両州は、もともと共産党の地盤が形成されており、そこにコミンテルンの方針転換があって、革命が起こされた。しかし、中央政府によって即座に鎮圧される。
ところで、社会民主党は革命に否定的だったので、ザクセン、テューリンゲンの鎮圧には賛成していたのだが、一方、同じようなことが起きているバイエルンが黙認されていることの不釣り合いに対して批判が起き、社会民主党は政府を離脱することになる。

第八章 シュトレーゼマン時代

6つの内閣で外相をしたシュトレーゼマン
履行政策のもと、シュトレーゼマン外交は効果をあげる。
ドーズ案が成立し、共和国の経済は次第に安定していく。
本書は、かなりシュトレーゼマンを高く評価している(シュトレーゼマンは、ナチスからは平和主義と批判され、戦後は逆にシュトレーゼマンの平和主義は本気ではなかったと批判されたらしいが、筆者は、こうした評価はあたらないとしている)。


この時期、2つの重要な裁判が行われる。
1つはミュンヘン裁判で、ヒトラーを被告としたものだが、ヒトラーはこの裁判の席で弁舌をふるい評価を高めていく。有罪判決を受けるものの、かなり軽めであり、獄中でも優遇をうけ『わが闘争』を書くことになる。
もう一つはマグデブルクでの裁判で、ナチス党員がエーベルトの戦中におけるストライキを国家反逆罪だったと訴えたもので、エーベルトは無罪とされるが、国家反逆だったという事実認定はされる。これがエーベルトの積み重なった心労へのとどめとなり、彼は早逝する。
ドイツの官僚は、戦前の体制がそのまま維持されており、それ自体は仕方ないとしても、司法官に右寄りの者が多く、戦後の裁判でも、右翼に甘く左翼に厳しい判決がでがちで、上の2つはそれらを象徴している。
マグデブルクの裁判でいわれているのは、いわゆる「匕首伝説」で、ドイツが戦争に負けたのは国内の左翼のせいだ、という右翼のプロパガンダ


エーベルトが亡くなったため、1925年に初の大統領選挙が行われた。
第1回投票の結果は、ヤレス(国家人民党・人民党)1040万、オットー・ブラウン(社会民主党)780万、マルクス(中央党)390万、テールマン(共産党)190万、ヘルパッハ(民主党)150万、ヘルト(バイエルン人民党)100万、ルーデンドルフナチス)30万であり、過半数をこえなかったため、第2回投票が行われることになった。
第2回投票では、第1回投票で立候補していなかった者も立候補できるようになっており、右派政党は、ヒンデンブルクを担ぎ出す。
第2回投票では、ヒンデンブルク1465万、マルクス1375万、テールマン193万となり、ヒンデンブルクが大統領となった。
中央党のマルクスとの差は僅差であり、左派の敗因は、共産党が独自候補を下げなかったためだと、分析されている。
そもそも大戦中の参謀総長であったヒンデンブルクが、大統領となる、というのは諸外国にとっては衝撃であり、そもそもヒンデンブルク自身、当初は辞意していた。
ただ、彼は良くも悪くも無思想の人間であり、そのため、請われれば大統領になるし、そして、意外にも(少なくとも当初は)あまり右傾化することもなく、立憲体制の擁護者となった。
また、現場たたき上げの軍人であったヒンデンブルクは、参謀出身のゼークトをあまりよく思っておらず、独断でことを進めていたことをきっかけに、ゼークトを罷免する。
しかし、その後、国防軍に実力者として登場してきたシュライヒャーは、ゼークトよりもさらにくせ者であった。共和国が滅ぶ要因となる人物である。
防相もまた、ゲスラーからグレーナーへと人が代わる。

第九章 経済復興と社会主義

1920年代後半、ドイツは経済復興をとげ、労働時間の改善、失業保険の充実がみられるようになる。労働時間については政策的に掲げられた8時間/日自体は達成されなかったものの、相当改善することになった。
ただし、経済復興はアメリカ資本の流入によるものであり、短期信用が多く、その基盤は脆弱だった。
のちの共和国崩壊の要因として、社会民主党に対して「社会化(国有化)」政策を行わなかったことが批判されることが多かったらしいが、筆者は、そもそも当時のドイツで社会化は現実的ではなかったと述べている。
一方で、社会民主党の責任として、筆者は、官僚(司法官)改革と中産階級の取り込み・民主主義の擁護をしなかったことを挙げている。
司法官が右翼に甘かったことは既に述べた通りだが、それを統制する改革が必要だった、と。
また、ドイツはそもそも中産階級が発展していた国だったのに、社会民主党はこの層をあまりに軽視していた。次第に、労働者階級の利益だけを代表するようになってしまったため、国政政党としてよくなかった、と。また、イデオロギーとしては社会主義を掲げていたために、民主主義の擁護ということができていなかった、と。
軍艦建造の予算に、社会民主党が反対するという出来事が起きる。この建造費はそれほど高いものでもなく、ヴェルサイユ条約に反するものでもなかったのだが、社会民主党内部に反軍拡の声が強く、これに反対していた。その後の選挙でもこれを争点としてしまう。
選挙後成立したミュラー内閣は、改めて軍艦建造の予算案を提出するのだが、社会民主党はやはり反対する。この予算案自体は成立するのだが、社会民主党ミュラーおよびその内閣は、自分の提出した案に自分に反対するというよく分からないことをする羽目に陥る。

第十章 経済恐慌の襲来

ドーズ案は5年の計画だったので、その後の計画としてヤング案が提案される。
ヤング案は賠償的にも軽くなるだけでなく、ラインラント撤兵も約束され、かなりドイツにとってよい内容であった。
しかし、右翼によるヤング案反対運動が起きる。右翼にとっては、賠償額減額よりもヴェルサイユ体制の打破が重要だった。右翼の大物政治家のフーゲンベルクとヒトラーが結びつき、シャハトが右翼化する。
そして、シュトレーゼマンが若くして亡くなってしまう。
世界恐慌に先駆けて、アメリカ資本の流入減少による失業が増加。
失業保険の国庫負担が間に合わなくなり、失業保険の負担率増加を行おうとして、蔵相ヒルファーディングは失脚してしまう。ヒルファーディングはマルクス主義経済学者でもあったので、資本家側が攻撃してきたのである。
ヤング案はなんとか議会を通過して成立するが、議会の論点は、再び失業保険の負担増へと向かう。
中央党のブリューニングが妥協案を提出するが、社会民主党がこれを蹴って、ミュラー内閣と社会民主党は下野することになる。
ここで陰謀家のシュライヒャーが暗躍する。彼は自分が表立って政治の舞台にたつことはせず、傀儡をたてることを画策しており、ブリューニングに白羽の矢を立てた。ヒンデンブルクにブリューニングを推薦し、ブリューニング内閣成立
これ以降、議会の多数派ではなく、大統領が擁立した内閣=大統領内閣時代が訪れる。

第十一章 大統領内閣

ブリューニングは、大統領の緊急令発令により法律を成立させ、さらに国会解散へと手を打つ。
しかし、ブリューニングの誤算があった。
ブリューニングは、国家の危機に際して、大統領の権威を高めることで対応しようとした。そしてそれは、ワイマル憲法が想定していることでもあった。
しかし、この頃のヒンデンブルクへ右翼政治家たちが接近しており、もはやヒンデンブルクは、ブリューニングが期待するような憲政の支持者ではなくなっていた。ヒンデンブルクはもともと帝国軍人であり、右翼からの働きかけを受ければ、容易にその思想に染まっていった。
また、国会解散でブリューニングは勝てると思っていたのだが、選挙結果は、ナチス共産党の躍進、社会民主党の漸減、国家人民党の大幅減であった。
ミュンヘン一揆に失敗した後のナチスは、2つの新戦術を掲げていた。
1つは資本家への接近、もう一つは国防軍と対立しないこと
ナチス躍進により、海外資本の引き上げが起きて、経済はますます悪化した。
ブリューニングは独墺関税同盟を成立させることで、経済の回復を図ろうとした。既に多民族帝国でなくなったオーストリア共和国は、民族的にはドイツ人で構成されており、独墺の接近は自然なことであったが、しかし、ヴェルサイユ体制は国境の変更を禁じていた。むろん、関税同盟であればそれに抵触することはないが、英米への事前の根回しをブリューニングが怠ったため、フランスが反発。資本引き上げによりオーストリアの銀行がつぶれ、連鎖的にドイツ経済の悪化へと繋がった。
共産党ナチスが接近
ナチスと資本家を仲介したシャハト
グレーナーは反ナチだったが、シュライヒャーがナチスに接近
そして、大統領選挙へヒトラーが出馬することになる。これへの対抗馬として、もう高齢のヒンデンブルクが再び擁立され、再選することになる。
もともとヒンデンブルクは右翼政党の支持により大統領になったが、今度は、反ナチスの左翼政党の支持による当選で、ヒンデンブルク自身は変わっていないのに、支持政党がまるっと逆転する事態となった。
ナチスとの協力関係を模索するシュライヒャーにより、グレーナー辞任劇、ブリューニング罷免が起きる。


ナチス共産党は、いずれも共和国体制の打破を目指していて、議会制民主主義を軽んじているという意味で似ていたようだ。
また、共産党は、社会民主党の方をより危険視・敵視していて、ファシズムの危険性を軽視していた、というのもあるみたい。

第十二章 共和国の最期

ブリューニングの後、シュライヒャーが担ぎ上げたのは、パーペンであった。
パーペンは国民的には無名の人物で、シュライヒャーとしては傀儡にうってつけではあった。
1923年7月選挙の直後、国会が解散され、11月にも選挙が行われた。
この7月選挙と11月選挙の間に、ベルリンでストが起きたのだが、この際、ナチス共産党の共闘があった。資本家への接近を続けていたナチスが、もとの支持層である労働者への人気をてこ入れするために行われた協力関係であったが、あまり功を奏さず、11月選挙においてナチス議席は減少する。ナチス人気はここでピークをすぎたと思われた。
ところで、シュライヒャーの傀儡としてたてられたパーペンだが、パーペンにも野心はありシュライヒャーと対立した。
結局パーペンは失脚し、シュライヒャーはついに傀儡者を見つけられず、自身で内閣を組織することになる。
シュライヒャーはヒトラーを警戒し、ナチス内部の反ヒトラー派であるシュトラッサーを通じてのナチス工作を行うが、既にナチスは完全にヒトラー派で占められており、この工作は失敗する。
そして、パーペンによるシュライヒャーへの反撃が始まる。元々反ヒトラーだったパーペンが、ここにきてヒトラーと組む。また、首相となったシュライヒャーは、あらゆる階級に対して政策を約束せざるをえず、元々の支持基盤であったユンカーと対立してしまう。
この結果、シュライヒャーは退陣。翌年、シュライヒャーはナチスによって殺されている。
ヒンデンブルクヒトラーを嫌っていたが、まだヒトラーをコントロールできると思っていたパーペンにより、ヒトラー内閣が成立する。パーペンは副首相の立場につくが、しかし、ヒトラーをコントロールできるわけもなく、授権法の成立などをなすすべもなく見守るしかなかった。


全然どうでもいい話だけど、ミュラーとかゼークトとか出てくると、どうしても銀英伝がちらつく

*1:これに対して「和解の平和」を主張した3党がのちのワイマル連合となる

ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』

超巨大な竜グリオールを描く連作シリーズの最終作。
グリオールシリーズは、以前、第1作目の短編集であるルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』 - logical cypher scape2を読んだ。
第2中短編集として『タボリンの鱗』があり、本作は3作目であり、唯一の長編作品となる。今回、刊行順ではなく『タボリンの鱗』は飛ばして先に『美しき血』から読んだのは、他の人の感想とかを読む限り、『タボリンの鱗』はちょっと異色の作品で、本作の方が普通に面白そうだったので。
筆者が2014年に70歳で亡くなったため、これが遺作となった。


グリオールは、何千年にわたって全く動かず横たわっていて、その周辺にテオシンテという町ができている。町の住人たちからは信仰の対象ともなっており、また、実際に人々の精神に働きかけていると信じられている。
本作の主人公リヒャルト・ロザッハーは、グリオールの血がある種の麻薬となることを知り、これを販売して巨万の富を稼ぐ。
そんなロザッハーが、妻や部下から裏切られたり、グリオールへの信仰に目覚めたり、テオシンテと周辺国をめぐる謀略に巻き込まれたりしていく物語で、彼の半生を描いていく。
なお「竜のグリオールに絵を描いた男」の主人公であるメリック・キャタネイも登場する。また、「タボリンの鱗」のエピソードもかかわってきていたらしい。


ロザッハーはもともと血液学を専攻しており、その延長で、グリオールの血液について研究することを思い立つ。
ところが、グリオールの血液採取を依頼した男と報酬をめぐりトラブルを起こし、グリオールの血液を注射されてしまう。すると、彼の感覚に変化が生じ、目に見えるあらゆるものが光り輝いて見えるようになり、その頃世話になっていた娼婦のルーディの姿が理想の女性に見えるようになった。
しかし、その後、ロザッハーが眠りから目を覚ますと、4年の月日が経っていた。彼はその間、グリオールの血液をもとにして作った薬マブの販売で巨万の富を得ていた。妻となったルーディは、よきビジネスパートナーとなっていたが、一方、夫婦としての関係は完全に冷え切ったものになっていた。ロザッハーは4年間の間に起きたことを知識としては思い出せたが、自分で体験したという感覚はなくなっていた。
彼はもはや研究者ではなくなり、麻薬組織のボスとなっていた。
マブは、それを取り締まる法律がそもそも存在していないので、違法というわけではなかったが、当然ながら、教会と議会はそれぞれよく思っていなかった。ロザッハーは、教会や議会とも色々と取引を持ちかける。
そうした中で、議員のブレケとの知己を得る。また、グリオールを殺す策を議会に上申しにきたメリック・キャタネイとも出会う。


その後、また時間が飛んだり、暗殺されかけたり(そしてそれを未来の自分からの警告で回避したり)する。
妻と部下からの裏切りにあった後、かつての使用人であったマルティータと再会する。彼女は、ロザッハーの知らぬところでロザッハーとの子を妊娠し、そのままロザッハーの屋敷を追い出され、流産していた。しかし、彼女はロザッハーに対して依然好意的であり、ロザッハーは彼女のもとに身を寄せる。
マルティータの店にいた鱗狩人に連れられて、グリオールの翼のもとへといく。「ひらひら」という虫に襲われて、顔におおきな傷跡が残る。一方、そこの生物群集の豊かさや静謐さに魅了されていく。
そして、マブをもとにグリオール信仰の宗教をたちあげていく。
かつての娼館を立て直し、表向き娼館としつつ、「グリオールの館」という聖堂の建築に取りかかる。
ブレケが、ロザッハーの動向をさぐるべくスパイを送り込んでくる。この女スパイであるアメリータとも恋愛関係が生まれる。彼女は、芸術的才能を発揮するようになる。
ロザッハーは、人と比べて著しく老化が遅くなっており、マルティータとの間もそうであったが、アメリータとの間でもその差が目立つようになっていく。彼はようやくそれがグリオールの血を大量注射されたためではないかと気付き、アメリータにも注射するのだが、アメリータには違う効果が出る。
ブレケは、隣国のテマラグアへの領土的野心を抱き、また、やはり隣国で宗教国家であるモスピールとも緊張関係を抱えていた。
ブレケとロザッハーは再び手を結ぶことになり、ロザッハーは渋々ながら、テマラグアの皇帝カルロスの暗殺計画に加担することになる。
平原に住むチェルーティというアウトサイダーな男と、そのもとにいる謎の存在フレデリックフレデリックは、かつてグリオールの翼の下にいたものの正体で、もとは人間だったらしいのだが、今は不定形で残虐な獣のような存在になっている。そのフレデリックにカルロスを殺させようという計画だった。
こうしてロザッハーは、チェルーティ、フレデリックを連れてテマラグアへ密かに潜入するのだが、そこで出会ったカルロスは、まごうことなき善人で優れた統治者であった。ロザッハーは、カルロスがナルシストであることを見抜くが、そのナルシズムが彼の善政や勇気をの源でもあった。ロザッハーは、カルロスに自分と似たものを見いだすが、だからこそ、その違いもはっきりしており、罪悪感に苛まれる。


もともとは科学の徒であり、グリオールに対してもその超常的な能力を全く信じてはいなかったロザッハーが、次第次第に、自らもまたグリオールによって使役されているだけの存在だったのではないかと思うようになる。
彼はしかし、その人生の大半を、ある種の犯罪者・謀略者として生きた。その過程で裏切りにもあうが、ブレケとは互いに騙し合いをしていたりしている(ただその点でブレケの方が若干上手ではあったのだが)。
彼は、グリオールの血の効果によって、老化が止まって(ないし著しく遅くなって)いたので、周囲の人々が先に老いて亡くなっていったりしていく。ただ、最終的には、決して不老不死になったわけではなく、彼もまた老いて死んでいくことになることが示唆されているが、グリオールの力が失われたからなのだろう(キャタネイの策がうまくいったのか、グリオールは滅ぶ)。


ところで、この作品はもちろんファンタジーなのだが、本作では、完全な異世界ではなく、どうもテオシンテは南米あたりにあるらしいということが示されている。
テオシンテ、テマラグア、モスピールは明らかに架空の地名・国名であるがしかし、テマラグアがグアテマラのもじりなのだろう。
そして、ヨーロッパやアジア、ロシアといった地名も出てくるし、ロザッハーがドイツで生まれ育った人物であることも明示されている。ロザッハーは、グリオールのもとの生物群集に対して、当初は、ウォレスやフンボルトを引き合いにだして理解しようとしていたりもする。
実は、他の人の感想記事見たりした時は、このあたりが一体どうなっているのかが気になったのだけど、読んでみると意外と違和感なくすんなり読めてしまうし、逆に、現実世界の中にテオシンテがあることが何かの仕掛けになってる感じもしなかった。

上田早夕里『ヘーゼルの密書』

1939年から1940年にかけて、上海を舞台にして行われた日中和平工作を描いた作品。
具体的には「桐工作」という実際にあった和平工作に基づきつつ、その「桐工作」の一部をなす「榛ルート」というミッション(これは本作の創作)に携わった民間人の物語となる。
榛=ヘーゼル
上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2に続く戦時上海・三部作の二作目。ただ、三部作といっても、1930~40年代の上海を舞台にしているという共通点があるだけで、物語としてはそれぞれ完全に独立している。
日中和平工作については、自分は筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2で少し読んだくらいしか知らないのだが、盧溝橋事件以降、日中の対立が高まる中、しかし日中双方・官民両方で和平への道を模索する人々はいて、そのために様々な和平交渉・和平工作が行われていた。ただ、複数のルートが同時並行的に行われたため、逆に中国側の信頼を失った、というところがある。
日中和平工作は結局全て失敗に終わり、日中は戦争の道を歩んでいくことになる。つまり、この物語は、最初から主人公たちの作戦は失敗に終わるだろうことを読者は織り込み済みで読んでいくことになる。
また、上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2のようなファンタジー要素はない。上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2は最後の最後に大きな歴史改変ネタがあるが、そういうのもない。
後半に、若干カーチェイスがあったりもするし、アクションシーンもいくつかあるけれど、活劇としてもわりと地味な作品だとは思う。
そういうわけで派手さはない物語なのだが、しかし、最後の章での「密書」をめぐる罠のかけあいと、最後の電話シーンなどが面白かった。


この物語は冒頭、小野寺中佐による和平工作が、影佐大佐による別ルートの和平工作と衝突したために失敗するところから始まる。
小野寺は蒋介石との交渉を行おうとしていたが、影佐は、汪兆銘政権を擁立しての和平を模索していたためだ。
この小野寺工作に参加していた民間人が、本作の主人公である。
語学教師として働きつつ、和平工作での通訳を担当している倉地スミ、
上海自然科学研究所で生物学者として勤務し、やはり和平工作では通訳を担当している森塚、
そして、2人の護衛を担当している、本職は料理人の新居周治だ。
小野寺中佐の後を引き継いで、今井大佐が赴任してくる。彼が、桐工作の責任者である。そして、その中でも榛ルートを担当することになるのが、大使館の一等書記官の黒月である。
黒月は、倉地、森塚、周治の3人に、今回から参加することになる費春玲と双見を引き合わせる。倉地と費はやはり以前和平工作で知り合った仲であり、周治と双見は同郷の友人であった。
桐工作は、再び蒋介石との直接交渉を目指す和平工作であるが、既に日本は一度蒋介石からの信頼を失っている。蒋介石重慶政権にこの桐工作が信頼できるものであると思ってもらうために、複数のルートから蒋介石に働きかけるという計画で、榛ルートは、アメリカ公使から働きかけてもらうことを目指すものである。
というわけで、物語の前半は、黒月らとアメリカ公使との交渉で進んでいく。
和平工作への妨害とも対峙しつつ、最終的に、重慶政権へ宛てた密書を重慶へと送り届けるというミッションが、榛ルートの面々に課せられることになる。


主要登場人物である、倉地らは架空の人物だが、歴史上実在した人物も何人か登場する。
中盤にかけてストーリーにかかわってくるのが、鄭蘋茹(テン・ピンルー)と丁黙邨(ディン・モーツン)だ。
鄭は、父親が中国人、母親が日本人であり、小野寺工作の際の協力者であったが、彼女が日本側に紹介した戴笠は偽者であった。その後、鄭は蒋派となり、ジェスフィールド76号の幹部である丁の暗殺計画のため、丁の愛人となる。
当時上海には、ジェスフィールド76号という特務機関があった。これは、日本側が組織した親日中国人の組織で、抗日中国人の取り締まりを行っていた。彼らは、汪兆銘政権樹立の暁には政府の要職に就くことが約束されていた。当時の上海では、抗日派とジェスフィールド76号との間で、中国人同士でも暴力による対立が生じていた。
ところで、今、これを書きながら、鄭蘋茹)と丁黙邨のWikipediaを読んでいて、張愛玲「色、戒」のモデルだと知った。なるほど、作中の毛皮店の話に若干の既視感があると思ったらそういうことか(そこでは起きる展開は「色、戒」とは異なるが)。
この二人の末路は実際にあった出来事のまま、ということであろうが、まさに、時代の流れに翻弄されたといえる。


上海では、すでに2度の戦闘(上海事変)が起きており、市民もまた暴力にさらされる事態がたびたび起きていた。
抗日運動の高まりもあり、日本人と中国人との間の対立も激しくなっており、上述の通り、ジェスフィールド76号のような組織もあった。
租界には、憲兵隊や警察組織もあったが、複数の組織が縦割りで管轄しており、また欧米人の警察はアジア人に対しての差別もあり、必ずしも治安を十分に守っていたとはいえないだろう(管轄が縦割りであるため、犯罪者はそれを利用して逃げていた。一方、その任務上、日中双方と接触する主人公たちは、スパイ容疑をかけられるおそれがあり、彼らにとっても、憲兵の縦割りは都合がよいものではあった)。
また、日本人の中にヤクザのような連中もいて、和平工作の妨害などを行っていた。
そうした状況下の中、例えば、主人公の倉地もかつて日本人と中国人の暴動に巻き込まれて傷を負っていたし、新聞記者である双見は同僚のカメラマンを中国人に殺されたことがある。
そうした背景を持ちつつ、どういう動機や心情を抱えながら、和平工作へと参加していったのか、といったあたりも


当時の普通の日本人の考え方と、それがもたらす中国人との齟齬が度々垣間見える。
例えば、和平交渉においては、満州国をめぐってその違いが現れている。
中国側は予備交渉で「黙認する」とまで答えているのだが、日本側はこれに反発している。
満州を中国人がどのように思っているかは、最後に宋美齢が寝取られた妻の喩えで説明している。
ところで、普通の日本人という意味では、本作の中で注目すべきは、双見をどうとらえるかという点だろう。
倉地はわりと確固たる信念をもった女性だし、周治は周治でその飄々とした態度で大陸に適応している。彼らは軍人でも外交官でもなく、また科学者のような知識人でもなく、市井に生きる一般人ではあるものの、当時の多くの日本人とはまた異なるタイプでもあり、現代の日本人読者から見ても、しっかりした人物だな、という印象はあると思う。
対して双見という人は、その点では「普通の日本人」という枠内におさまってくる人ではあろう。彼は、結局、ヤクザな男に利用されてしまうわけだが、彼が簡単に「日本スゴイ」思想に浸ってしまうところを、批判するか、同情するかは悩むところだろう(そして、作中でも他の登場人物たちの双見への態度は割れる。この割れ方も結構面白い)。
双見は最初から最後まであんまりパッとしないまま終わるが、しかし、そういう登場人物が主要なキャラクターにしている、というのは本作のポイントの一つだと思う。


抗日派中国人が発行している、実在した婦人雑誌も登場している。
主人公の倉地も女性だし、榛ルートのメンバーの中にはもう1人女性がいる。また、鄭蘋茹もいて、前半この3人の女性の人間関係が物語をすすめていくところもあって、この作品はかなり意図的にも女性にもフィーチャーしている作品になっている。


歴史上実在の人物という意味では、「宗子良」も出てくるが、これは今かぎかっこでくくったように、実は偽物である。
桐工作で、今井大佐は中国側と予備交渉を行っており、その際、中国側の窓口となったのが「宗子良」なのだが、これが本人なのかどうかというのが問題になってきた。写真を関係者に見せるのだが、本人だという人もいれば、偽物だという人もいたのである。結局、戦後になって「わたしは偽物でした」と今井大佐本人に打ち明けたらしい。
で、既にちらっと述べたが、物語の最後に宗美齢も出てくる。もっともこの宗美齢登場のエピソードは本作が創作したフィクションだが、一番本作の歴史小説らしいところだと思う。
榛ルート自体がそもそもフィクションなので、そこで起きている出来事は全てフィクションなのだけど、最後に宗美齢との接点があることで、実在の歴史とのつながりが生まれている(そもそも桐工作の一部なので、当然実在の歴史と繋がっているわけだが、そうではなく、登場人物の行動と歴史との関わりというか、何というか、うまく説明できないが、「あ、ここでこの人がこういう登場の仕方するのねー」というのが歴史小説の面白さだと思うので、そういう意味で)。
また、上述した通り、女性たちの物語である、という点でも、最後に出てくるのが蒋介石ではなく宗美齢であるというのが大事なのだろう。

パウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』

ローザ・ルクセンブルクの評伝
上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2で参考文献としてあがっていて、検索してみたら図書館に置いてあったので。
ほんとはもっと軽めの本を読みたかったので、思いのほか分厚いかつ二段組でひるんでしまったが、かなり飛ばし読みしつつ読むことにした。


筆者は、社会民主党左派で、ドイツ革命当時はルクセンブルクとは対立していた人だったらしいが、本書は、ルクセンブルクageの本でルクセンブルクへの賞賛で満ちている。が、それゆえに、読みにくいというか、どれくらい差し引きながら読めばいいのか分からないので、その意味でも飛ばし読みになった。
賞賛というのも、人格に対する賞賛も結構書かれているが、どちらかといえば、マルクスをより正しく理解できているからすごい、予言が正しかったからすごい、というものが多く、このあたりもマルクス理論わかっていないと図りかねるものがあった。
まあ、ルクセンブルクの原稿や書簡から多く引用されており、ルクセンブルク研究にあたってはまずおさえるべき本なのだろうとは思うけど。
なお、この本の初版は第二次大戦勃発直前に出ている。

第1章 青春

当時、ロシアの支配下にあったポーランドの出身
1870年生まれ
全然関係ないけど、ディアギレフ(1872年生まれ)とかミシア・セール(1872年生まれ)とかと同世代かー

第2章 ポーランドの運命

チューリッヒへ亡命し、大学進学。
チューリッヒというのは、当時、ロシアや東欧からの亡命者が集まってくる街らしい。これは1880年代の話だが、のちにチューリッヒでダダ発祥の地になるのもそれが理由だったはず。
大学では最初、動物学を学んだらしいが、結局は政治・経済を学ぶようになる。動植物への関心は趣味の領域として、その後も持ち続けていたらしい。
理論家として、社会主義革命とポーランドの民族問題の関係について取り組む。
民族自決について原理主義的な立場はとらず、それぞれの地域の特性ごとに対応が異なると考え、ポーランドについては、まずは革命が先、という立場をとった。
それで年長世代とかとも対立したけど、とかく若手の理論家としてめちゃ優秀だったみたいな話

第3章 マルクスの遺産の継承

こちらもまた、マルクス理論を自家薬籠中のものとしていて、敵う者なしだった的な話
ヨーロッパは、1860・70年代に戦争があったあと、80・90年代で景気が回復して好景気へ入っていく。帝国主義の安定期に入り、マルクスが言っていた定期的な恐慌は20年ほど起きておらず、また社会主義運動・労働運動も合法化されていった。
帝国主義の確立された時期について、ルクセンブルクは、日清戦争から日露戦争の頃までという書き方をしていて、英仏独米と並んで日本についても指摘がある。
そうした中、ベルンシュタインによって修正主義が提唱される。革命ではなく議会を通じて改良していけばよい、という考えで、これが広がっていった。
マルクス理論を完全に自分のものとした上で研究していて、のちの戦争や大恐慌をちゃんと予言しているのだ、すごいぞ、ということを筆者は述べているが、ここらへんは自分が経済学分からんので、よく分からんかった。マルクス理論は科学的、というのが大前提で書かれているしな、これ。
あと、革命の必然性と人民の意志の関係の話とか。マルクス主義的にいえば革命は歴史の必然として起こるわけだけど、ルクセンブルクは、その中で人民の意志という意志をすごく重視する(このあたりは後の章でレーニンとの比較でも触れられている)。

第4章 政治権力の奪取

ルクセンブルクは修正主義に反論する。「改良か?革命か?」という論文でどっちもだ、と説く。最終的には革命が必要であり、その点で修正主義は退けつつ、プロレタリアートの意識を高めるための手段として改良というのは位置づけられる。また、社会主義者がイギリスで入閣したりしていたのだけど、入閣しちゃうとその内閣の方針に従わざるをえなくなるわけで、ブルジョワ国家のもとでは、社会主義者は入閣するのではなく議会で反対者の立場にいるべきだ、ということを論じている。

第5章 1905年のロシア革命

章タイトル通り、1905年のロシア革命血の日曜日事件とかの方)の話
ボリシェビキとメンシェビキの分裂とか
ブルジョワ革命の段階はブルジョワに任せればいい(メンシェビキ)、というのに対して、フランス革命が成功したのはプロレタリアートを取り込んだから、1848年の革命が失敗したのはブルジョワプロレタリアートを排除したから、だから、ブルジョワだけに革命を任せてはいけない、という対立だったらしい。
この頃、レーニンが党の超中央集権主義的な方針を打ち出し、ルクセンブルクがこれに反論する。中央集権体制自体には賛同しているのだけど、レーニンのはやりすぎというか、その都度、下からの批判・意見を受けて柔軟に対応できる組織じゃないといけない、という話をしている。
筆者の解説としては、当時のロシアはまだグループの組織化が全然なされておらず、無数の小グループがばらばら動いていただけだったので、レーニンはそれを統一しようとしていたわけで、実際のレーニンは柔軟さももちあわせていたけど、まああえて強いこと言ってるんだよ的なことかな、と。一方のルクセンブルクにしても、党を自由な集まりと考えていたわけではなく、あくまでもマルクス主義の枠内で、という縛りがあったんだよ、と。

第6章以降

第6章 前線で
第7章 新しい武器
第8章 資本主義の終焉をめぐって
第9章 反帝国主義のたたかい
第10章 両端の燃える蝋燭のように
第11章 世界大戦
第12章 1917年のロシア
第13章 ドイツ革命
第14章 死にいたる道

時折、病気についての記述があり、あまり身体が強くなかったようである。
ポーランドからドイツへ亡命してきているわけだけれど、ポーランドでも活動していたっぽい。第二インターナショナルには、ポーランド代表として参加しているようで。また、ポーランドで投獄されていたこともある。
資本主義と帝国主義とが必然的に結びつくということを、マルクス主義的に証明した。資本蓄積のメカニズムで、資本主義化していないところ(要はアジアアフリカの植民地)からとっていく必要があることを示した、と。このあたりは、なんかマルクス理論内部のテクニカルな話と絡んでいるようだった。
党の学校というところで、マルクス経済学を教えていたこともあるらしい。一方的に講義するスタイルではなく、生徒から考えさせるタイプの授業をする先生だった、と。
第一次大戦直前、インターナショナルでは、社会主義者は戦争が起きた場合に平和のために行動するという指針を持っていたのだが、これが実際には全然だった。すでに開戦していたオーストリア共産党がインターナショナルの総会の場で、自分たちには期待しないでくれ的なことをのべて、さらにドイツ社会民主党も開戦に反対しない。これに対するルクセンブルクの失望
この当時、社会主義運動の中心というのはドイツであって、しかし、ドイツ社会民主党指導部というのは次第に右傾化していく。
世界大戦が始まった後、ルクセンブルクはまた捕まったりしていて、ロシア革命の時もドイツ革命の時も獄中に。
ロシア革命は、農民をうまく取り込んだのがポイントだったのかな。
レーニンボリシェヴィキルクセンブルクについて、基本的な考え方は一致していたが、細かい政策や戦術面では批判もしていた、と(ボリシェヴィキの農地改革とかをルクセンブルクは批判していたりしている)。レーニンは一時、ルクセンブルクを批判していたこともあるが、それは誤解に基づくものであったとか。
戦争中、社会民主党の左右分裂は激しくなって、左派が独立社会民主党ができたりするが、これはルクセンブルクと対立していたカウツキーとかがいるところ。さらに最左派は、社会民主党とは別に、スパルタクス・ヴントを結成する。リープクネヒトやルクセンブルクらを指導層としつつ、弾圧を逃れるため、なかなか大規模にはなれずに活動していた(戦後、ドイツ共産党に)。
ドイツの帝政が崩壊した後、ある政治家が速やかに「共和国!」と叫んだから、共和制になったエピソード、『リラと戦禍の風』でも読んだけど、こっちの本だとリープクネヒトが叫んだことになっているなー。と思ってWikipedia見てみたら、シャイデマンが宣言したあと、2時間遅れてリープクネヒトも宣言しているのか。
リープクネヒトらの方が、ルクセンブルクよりも先に釈放されている。
で、ルクセンブルクスパルタクス・ヴントは、プロレタリアート革命を進行させるために活動を続けるのだけど、社会民主党が本格的に牙をむき始める。
スパルタクスの叛乱なるものはなかった、と本書は述べる。というのも、この段階でルクセンブルクは大衆の革命意識を高めることをまずは目標としていて、一揆やテロルなどは考えていなかった。経済ストライキ(賃上げ闘争)が社会主義化の要求・実現へとつながっていくという考えだった(かつては、政治的主張が賃上げに堕してしまうから経済ストライキになるのはよくない、といわれることもあったが、ルクセンブルクはむしろ賃上げ闘争からこそ社会主義へつながっていくという考え)。
というか、ルクセンブルク自身、まだスパルタクスは本格的に革命を担えるような組織になっていない、という認識であったらしい。
本書曰く、スパルタクスの乱というのは、社会民主党指導部の罠にかかった結果だという。
スパルタクスプロパガンダを打っている新聞社ビルを武装占拠することになって、それを口実に攻められる。ルクセンブルクは、事ここに至っては行動あるのみ、と主張するも、リープクネヒトは交渉を行おうとする。が、この交渉はまったくうまくいかず、事態は悪化していった、と。
で、リープクネヒトやルクセンブルクに対しては暗殺命令も出るようになって、最終的に殺されることになる。
ルクセンブルクの未刊行原稿とかは、虐殺者たちによって処分されており、また残っていたものについてもナチスによって処分されていたりしている。
ところで、ルクセンブルクすごいという立場から書かれており、ルクセンブルクの予言や見込みは正しかった、というのを随所で述べているがゆえに、逆になんでうまくいなかったんだろうねという話にもなり、筆者自身、彼女とレーニンは一体何が違ったんだろうか、という問いを最後に発していたりもする(体力不足だったのか、それともどこか素質に欠けるところがあったのか、と)。
そういえば、議会と評議会(ソヴィエトやレーテ)の違いっていまいちよくわからないな。議会ではなく評議会へ、というのがロシア革命にはあって、ドイツ革命でも評議会はできているんだけど、これがうまくいかない。前者はブルジョワの議会、後者はプロレタリアートの議会ということなんだろうけど。

青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』

タイトルにあるとおり、19世紀後半のベルエポック期から、狂乱の時代とも呼ばれる1920年代までの、パリのサロンにおける芸術家たちの人間模様について書かれた本。
クラシック音楽にはあまり知識や関心がなかったので、「パリの音楽サロン」についても事前には何の知識も関心もなかったのだが、サブタイトルの「ベルエポックから狂乱の時代まで」に惹かれて読んでみることにした。
ここでいうサロンというのは、美術の官展のことではなくて*1、貴族やブルジョワの夫人が邸宅などで定的的に(毎週何曜日とかで)開いていた社交の場のことである。
楽家が招かれて演奏会をやっていることが多い(様々な作品が、サロンで初演されていたりする。まずはここで試しにお披露目して、という感じだろうか)。
サロンに来ているのは音楽家だけではなくて、文学者や画家も多い。
本書も、音楽にとどまらず、当時のパリの芸術家たちが目白押しで登場する。
個人的にはやはり、後半の「バレエ・リュス」まわりの話などが面白かった。「バレエ・リュス」については別途他の本を読もうとも思っていたところで、この本にも出てくるとは知らなかったので思わぬ収穫だった。


筆者はピアニスト・文筆家で、ドビュッシー研究で博士号も持っているという。
本書は、岩波の『図書』での連載(検索してたらこの連載は筆者のブログでそのまま読めるっぽい)に、他の雑誌媒体での原稿も加えて一冊の本にしたもの。
研究書とかではなくて、芸術家たちの人間模様について書いた読み物、という感じのもの。
なお、出てくる芸術家たちについては、当然知ってますよねという体で書かれていて、どういう作品を作ったのか、どういう主義・潮流の人なのかみたいな教科書的な説明はほぼない。
一方で、「あ、この人(作曲家)とこの人(詩人)って同じ時代の人で、ここで会ってたりするのかー」みたいな感じで楽しむ本、のような気がする。
どこかで「文学と音楽の壁は厚い(のでこのことがあまり知られていない)」みたいなことが書かれていたが、確かに、どうしても文学史なら文学史音楽史なら音楽史という形で切り分けて学びがちである。サロンという切り口から見ることで、当時の雰囲気がもう少しつかめるのかもしれない。


各章、大体1人か2人の人物に焦点を当てて書かれている。
特に、サロンの女主人が主人公になっている章が多い。

はじめに サロンという登竜門

Ⅰ 団扇と婦人

ニナ・ド・ヴィヤール(1843~1884)について
マネの「扇子と婦人」のモデルとなった女性で、1868年頃からサロンを開いてマラルメリラダンアナトール・フランスなどの芸術家たちが集まっていた。高踏派詩人たちのミューズであった。
詳しくは次の章で書かれるシャルル・クロという詩人が、ニナともっとも長く「オフィシャル」な恋人であったが、常に複数の関係をもっていたらしい。
平服で参加できる親密な雰囲気のサロンで、サロンのある日はいつもどんちゃん騒ぎみたいな感じだった、と。
なお、ニナ自身も詩人・ピアニストであった。
上述の通り恋多き女性だったが、30代後半から体型が崩れはじめ、当時の恋人とも別れ、41歳の時に精神病院で亡くなっている。

Ⅱ シャルル・クロ

ニナの恋人だった詩人(ニナと別れた後、別の人と結婚している)
象徴主義の詩人であると同時に、発明家・科学者であった。現在では、どちらかといえばマイナーな人だと思うが(とはいえWikipediaはあるレベル)、ヴェルレーヌと仲違いしたせいで、ヴェルレーヌの評論集で取り上げてもらえなかった(ユイスマンスの『さかしま』には少し言及がある。のちにブルトンによって評価されるようになる)。
カラー写真や蓄音機の発明をしているのだが、いずれも先取権争いで負けている。
ピアノの打鍵を記録してインスピレーションを数値化しようと試みたり、『恋愛の科学』という作品の主人公は、女性と会った際の身体的反応とかを測定するなどの研究をしていたりした。

Ⅲ ニコレ街一四番地

この章はサロンの話からはやや離れて、ランボーヴェルレーヌの話になる。
(自分は見たことないけど)『太陽と月に背いて』で有名なあれ。
この章はそこにひねりが効かせてあって、当時10歳のドビュッシーが実は近くにいたのだ、という話になっている。
ヴェルレーヌは、共にニナのサロンの常連であった作曲家のシヴリーから妹を紹介されて、結婚している。
さて、このシヴリーは、パリ・コミューン後に監獄に収監されていたことがある。で、一方、ドビュッシーの父親もまたパリ・コミューンに関連して同じ牢獄に収監されていた。ドビュッシーは当時既に音楽の才能を垣間見せており、ドビュッシーの父親はこの息子のことをシヴリーに相談する。シヴリーはピアノ教師である自分の母親を紹介する。
つまり、ヴェルレーヌにとっての義理の母親が、少年時代のドビュッシーのピアノの先生だったのである。
この章にはシャルル・クロも登場してくる。最初にランボーの面倒を見たのはクロだったらしい。また、ヴェルレーヌの離婚の際には、クロがヴェルレーヌの妻側の肩をもったのが、最終的に仲違いする理由になったらしい。
ところで、このランボーヴェルレーヌの関係、才能のある若者に慕われて、ついには共同生活をするまでに至るけど、若者の行動についていけなくなって生活が破綻するのって、ゴッホゴーギャンに似てるな、とちょっと思った。調べてみたら、年齢もほぼ一緒だった(ランボー1854年生まれ、ヴェルレーヌ=1844年生まれに対して、ゴッホ=1853年生まれ、ゴーギャン=1848年生まれ)

Ⅳ ポーリーヌ・ヴィアルド

ポーリーヌ(1821~1910)はオペラ歌手で、のちにサロンを開くようになる。
ジョルジュ・サンドに気に入られて、当時、サンドの恋人であったショパンとも共演している。実際、ショパンとかかわりのある歌手、として語られることが多いらしい。
ただ、サンドとショパンが別れたことでショパンとの関係は絶え、その数年後にはショパンは亡くなる。
ショパンが亡くなったあと、ポーリーヌはサロンを開催するようになり、サン=サーンスベルリオーズ、リスト、あるいはフローベル、さらにはアングルやドラクロワなど、錚々たるメンツが募り、ポーリーヌは歌を披露していた。
ポーリーヌのサロンの常連には、ツルゲーネフも名前を連ねている。
ツルゲーネフってパリに住んでたのか? と思ったら、どうもモスクワとパリを行ったり来たりしていたらしい。
ポーリーヌはサンクト・ペテルブルク公演で訪露しており、その頃にツルゲーネフと知り合う。ポーリーヌ22歳、ツルゲーネフ25歳の時である。そして、ツルゲーネフが65歳で亡くなるまで関係が続いた。ポーリーヌはその死を看取り、遺産も受け取っている。
しかしこの2人が一体どういう「関係」だったのかははっきりしないようだ。そもそもポーリーヌは夫のある身ではある。ツルゲーネフツルゲーネフで同棲していた女性との間で子供を作っているが、終生独身であった。筆者はプラトニックな関係だったのかと疑問を呈しつつ、しかし、ポーリーヌは「友情」こそ長続きする決めてであり、サンドとショパンの間には「友情」がなかったと述べていたことで話をしめている。

Ⅴ ガブリエル・フォーレとサロン

このフォーレ(1845~1924)という作曲家、全然知らなかったのだが、本書ではこの前にも名前が出てきているし、この後にも度々名前が出てくる。
ポーリーヌ、サン=マルソー夫人、ルメール夫人、ポリニャック大公妃、グレフュール伯爵夫人と多くのサロンの主宰者たちからの庇護を受けていた、サロンの音楽家なのである。
フォーレも女主人やその家族に曲を捧げている。
パリ音楽院の教授になるまで経済的には困窮しており、オペラを書くことを進められていたが、気乗りしなかったという。当時、作曲家として成功するためにはオペラを書く必要があった。ドビュッシーは実際にオペラで成功している。一方、ショパンフォーレと同じで、オペラを書くよう薦められたが書かなかったという(音楽教師として生活した)。
本章では、ジャン=ミシェル・ネクトゥーによるフォーレの伝記が度々引用されるが、本章に限らず他の章でもこのネクトゥーの伝記は参照されていて、音楽サロンというテーマとフォーレという作曲家はかなり密接に結びついているのが分かる。
フォーレは、ポーリーヌの娘と恋仲だったことがあり、また、後のドビュッシー夫人となるエンマ・バルダックと関係を持ったこともある(バルダックの第二子は、フォーレとの不倫でできた子)。
ヴェルレーヌの詩をもとに歌曲を作っていて、これを初演したのがエンマ・バルダック。
ところで、サン=マルソー夫人がなんか謎のくじびき大好き人間で、フォーレバイロイトワーグナーを観劇しにいくことができるための「なぞなぞびっくりくじ」(何それ?)を作ったり、フォーレの結婚相手をくじ引きで決めたりしている。

Ⅵ ドビュッシーとサロン

ドビュッシー(1862~1918)はもともとは貧しい家庭の生まれ
1889年に開店した「独立芸術書房」というサロン的な書店で交友関係を広げる。
マラルメと知り合ったり。
で、次第に上流階級のサロンへも行くようになるが、ある婚約話の際に、他の女性との付き合いが切れてなかったことがわかり破談になり、サロンへの出入りが禁止される。
別の女性と結婚
1902年、オペラ『ペレアスとメリザンド』で名声が高まる。
エンマ・バルダックの息子ラウール経由で、エンマと知り合い、のちに駆け落ちする。

Ⅶ サン=マルソー夫人

サン=マルソー夫人は1850年生まれ、1870年に最初の結婚をして(ボーニ夫人となった)、1891年に夫と死別、1892年に再婚した。1875年から1927年まで世紀をまたいで50年以上、サロンを開いていた。パリ音楽界の有力者という感じである。
日記を残しており、サロンでの演奏や見に行ったコンサート等の感想が記されている。
フォーレを寵愛したほか、ラヴェルドビュッシーのことも評価していて、サロンの常連であった。
ドビュッシー出世作である『ペレアスとメリザンド』も、オペラ=コミック座での初演前にサン=マルソー夫人のサロンで披露されている。この『ペレアスとメリザンド』というのは、メーテルリンクの戯曲でドビュッシーがオペラとしての曲を書いたのだが、メーテルリンクが自分の愛人を主演に推していたのだが、別人が主演になって激怒したというエピソードが書かれている。で、この別人というのは、オペラ=コミック座の音響監督であったメサジェの愛人だったという。
メサジェもまたこのサロンの常連だったので、夫人は事の顛末を知らされていたという。
夫人のサロンの特徴は「譜読み」で、作られたばかりの曲や初演前の曲について、ピアノで演奏されていた。
サン=マルソー夫人自身が初見能力が高くて「春の祭典」を初見で弾いていたりする。
ただ、音楽の好みとしては保守的で、「春の祭典」を試しに弾いてみたりはするけれど、ストラヴィンスキーやサティなどは好みではなかったようである。

Ⅷ オギュスタ・オルメスとジュディット・ゴーティエ

オギュスタは、劇作家マンデスの愛人で作曲家
ジュディットは、同じくマンデスの妻で詩人・文芸評論家

Ⅸ ポリニャック大公妃

ポリニャック大公妃(1865~1943)は、1887年から1939年までサロンを開いており、サン=マルソー夫人のサロンとかなり期間が重なっている。
サン=マルソー夫人が再婚によりボーニ夫人からサン=マルソー夫人になったように、ポリニャック大公妃も再婚によってセ・モンベリアール侯爵夫人からポリニャック大公妃となった。
ポリニャック大公妃という響きからはいかにもフランス貴族の娘という雰囲気だが、本名をウィナレッタ・シンガーといい、アメリカ人富豪(シンガーミシン創設者)の娘である。ただ、2歳の時に渡仏している(とはいえ英語アクセントがあったようだが)。
サン=マルソー夫人のサロンは親密な空間で、音楽が流れると自然に静かになったというのに対して、ポリニャック大公妃のサロンは、おしゃべりがやまず音楽が聞こえなかったという。また、サン=マルソー夫人の音楽の好みが保守的であったのに対して、ポリニャック大公妃は、若い作曲家やバレエ・リュスなどへの積極的に出資・助成して、社会との結びつきが強く、大公妃亡きあと彼女のサロンはシンガー・ポリニャック財団となって、若い音楽家を支援する奨学金制度などが展開されているという。
1906年、のちにバレエ・リュスの主宰者となるディアギレフと出会う。1909年、ロシア側の支援者が亡くなったことで資金難に陥ったディアギレフが大公妃に泣きつき、大公妃は自身が資金援助するとともに、他に援助者を募る。あとの章で出てくるミシア・セールが出資するのもこのときから。
資金援助だけでなく、ストラヴィンスキーに作曲を委嘱したりもしている。
1916年には、サティに高額で交響劇を依頼している。
同じ頃、バレエ・リュスはサティ作曲の「パラード」が大騒動を引き起こし、サティは告訴されてしまう。この時の罰金の肩代わりもしている。

Ⅹ グレフュール伯爵夫人

音楽が流れると自然に静かになったサン=マルソー夫人のサロン、おしゃべりが騒がしくて音楽が全然聞こえなかったというポリニャック大公妃のサロンに対して、グレフュール伯爵夫人のサロンには、演奏中には静寂さを求めて注意書きなどが貼ってあったというから、主宰者によってサロンの雰囲気は様々なのだな、と思う。
1890年「フランス音楽協会」を設立している。新しい作曲家を紹介するのが目的。同じ目的の組織として国民音楽協会があったのだが、こちらは保守化が進んでいたため。一方、1909年にはラヴェルらが「独立音楽協会」を設立。夫人は、独立音楽協会との競演というコンサートを主催するが、それが「フランス音楽協会」としては最後の公演になったという。
また、ディアギレフと、フランス側の興行主であるアストリュックを引き合わせ、バレエ・リュスの資金難にあたっては、呼びかけを行った。グレフュール伯爵夫人自身には資金力がなかったが、人脈等で貢献した、と。
なお、フランス音楽協会はグスタフ・マーラーの公演も行っているのだが、当初、夫人はマーラーのことを知らなかったといい、筆者は、既にニューヨークデビューも果たしていたにもかかわらず、当時の情報環境だとかくも名声が伝わらないものなのか、と不思議がっている。

ⅩⅠ ルメール夫人とプルースト

ルメール夫人というのは、プルースト失われた時を求めて』ヴェルデュラン夫人のモデルとなったうちの1人らしい。
プルーストって『失われた時を求めて』を書くまでは社交界評論家みたいな人だと思われていたとか。
この章は『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人についてのあらすじがまとめられている

ⅩⅡ 六人組誕生

サティの影響下にあり、またコクトーが仕掛けて、批評家のコレが1920年に「フランス六人組」と名付けた6人の作曲家
彼らはそれ以前からそれぞれ互いに親しい友人でもあった。
大体10代のころにサティの音楽に触れて衝撃を受ける経験をしている。
1917年、バレエ・リュスでサティ作曲の「パラード」が初演され、当時ブラジルにいたミヨー以外の6人組が結集する。その後、メンバーとしては3人だったりなんだったりするのだが、サティを中心に「新青年派」という形で活動。
1918年で第一次大戦が終わって、ミヨーも帰国し、毎週土曜日に集まってわいわい騒ぐようになり、これが「六人組」となっていく。
が、「六人組」としての活動はあまりない。ラヴェルの評価について割れていたりしたので。

ⅩⅢ ジャーヌ・バトリ

ジャーヌ・バトリはメゾ・ソプラノ歌手
初見能力がとても高くて、主演が出られなくなった時に、ラヴェルドビュッシーから急遽代演を頼まれて、それを見事にこなしている。ただそんな風に助けられている割に、ドビュッシーはバトリに冷たかったようだが(出演したいという要望を断ったりしている)。
ヴィエ・コロンビア座というパリの小劇場の支配人が渡米した際に、音楽監督代行の座につくと、次々とコンサートを企画していく。アポリネールの講演とか、のちに六人組となる若手作曲家たちを世に送り出したりしている。

ⅩⅣ 旧時代と新時代のメセナ ココ・シャネルとミシア・セール

ココ・シャネルとミシア・セールは、2人ともバレエ・リュスへの資金援助を行ったメセナである。
ディアギレフが行ったムソルグスキー作品の公演を見たミシアは、すぐにディアギレフと会って二人は意気投合する。二人は同じ年だったが、ディアギレフはミシアのことを「母親のように」慕ってなんでも相談するようになった。また、ミシアは、サティやコクトーをディアギレフに紹介した。そして、ディアギレフとシャネルを引き合わせたのもミシアだった。
シャネルは1913年頃からサロンに出入りするようになる。彼女がミシアやディアギレフと初めて会ったエピソードなどが書かれているが、当時の彼女は、あくまでも出入りの業者であり、その場では基本的に何も話していない。
しかし、ミシアはシャネルを気に入って友人となり、彼女をあちこちに旅行へ連れて行っている。
そして、シャネルはディアギレフやストラヴィンスキーに、ひそかに、しかし多額の資金援助をするようになる。ミシアはそれが気に食わなかった。
これについて、ある伝記作者は、ミシアに所有欲や保護者意識があったとしている。対してシャネルはそうした所有欲を嫌悪していた。
ミシアは音楽一家に育ち、パリではフォーレにピアノを習っていたこともある*2。それでムソルグスキーを聞いて魅了された、わけだが、一方で、『春の祭典』再演への資金援助をしたシャネルは『春の祭典』を見ていない。
グレフュール伯爵夫人やポリニャック大公妃が生まれつきないし結婚によって資金が備わっていたのに対して、シャネルは自らの労働の成果として資金を得ていた。自ら働き創造する者であったという点で、シャネルはこれまでのメセナたちとは異なっていた。
ポリニャック大公妃は密かにライバル心を持っていたらしいが、ディアギレフが「お金がないよ~ポリニャック大公妃に泣きついたらいくらくれたよ~」とかいうと、シャネルがそれを上回る額をポンと渡した、というエピソードがあったりする。
ミシアはシャネルのことを恩知らずだと言っていたが、それでも2人の友情は亡くなるまでずっと続いた。シャネルは、ディアギレフとミシアをそれぞれ見送っている。
シャネルの「私は、服を愛さなかったけど、仕事は愛した」という晩年の言葉が、「なかなか重みがある」という筆者のコメントともに紹介されている

ⅩⅤ ヴァランティーヌ・グロス

グロスは画家で、バレエ・リュスの舞台裏や練習風景、ダンサーの様子などを描き残している。1913年以降社交界にも入り始めて、サロンを開くようになる。
この章では、コクトーが撮影したサティとグロスの写真から始まり、その写真の裏にある顛末について解説している。
グロスは、コクトー、サティそれぞれと親しく、コクトーキュビスムの画家との結びつきを作ったりした。
バレエ・リュスの次の企画を、コクトーとサティがともに計画しはじめるのだが、ディアギレフへ影響力を持つミシアへの相談をめぐって、2人のやりとりがすれ違い仲がぎくしゃくする。最終的には2人は仲直りするのだが、先の写真はその1,2日後に撮影されており、グロスは双方から事の成り行きを聞かされていたのだという。
こうしてできあがったのが、台本コクトー、音楽サティ、そして衣装と舞台装置をピカソが担当したバレエ・リュスの問題作「パラード」なのである。
なお、グロスはのちにヴィクトル・ユゴーの曾孫ジャック・ユゴーと結婚している。

ⅩⅥ サティとマン・レイダダイスム

マン・レイがパリ時代にサティと非常に親しかったようだ、という話
ダダがシュールレアリスムへと切り替わっていく時代
ツァラも、ブルトンに呼ばれてパリに来ていたがしかし、ブルトンツァラは考え方に違いがあってずれていく。
マン・レイシュールレアリスム側に合流するが、サティはツァラ側にいた。
ただ、マン・レイという人は、どのグループとも親しくできる人だったようだ。
1924年『幕間』という映画に、サティとマン・レイ、ピカビアなどが共演している。
筆者は、サティとマン・レイの共通点として「永続性」をあげる。つまり、彼らは新しさを追い求めてはおらず、自分らしい作品をずっと続いていて、それがたまたまダダっぽかったり、シュールレアリスムだったりしただけでは、と。

*1:というか官展のことをサロンと呼ぶ方が派生的用法だけど

*2:ここでもフォーレ

スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(柴田元幸・訳)

久しぶりにミルハウザー読んだ。
原著は2015年に刊行された”Voices in the Night”で、邦訳は2020年の『ホーム・ラン』と2021年の本書『夜の声』に二分冊されて発行された。


スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』 - logical cypher scape2
スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『十三の物語』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』 - logical cypher scape2
これまで読んだミルハウザー
読み逃している作品も多々あれど、まあまあ読んでるかなと思う。
2017年~2020年にかけて大体年に1冊ほど読んでいたんだけれど、その後途絶えていた。『ホーム・ラン』と『夜の声』が刊行されていたのは知っていて、あとで読もうと思っているうちにいつの間にか時間が過ぎた。
まあしかしミルハウザー、ある意味で、訳者も書いているのだが、わりといつも同じような作品を書いている。いつも同じような作品を手を替え品を替え書いているのが面白いといえば面白いのだが、まあ、飽きてくるといえば飽きてくるところがある。それで手に取るのに時間がかかったというのはある。
最近、どこかで本書収録作の「マーメイド・フィーバー」の感想を見かけて、やはりそろそろ読むかと思い直して読むことにした。
「マーメイド・フィーバー」も面白かったが、「場所」「夜の声」が特に面白かった。あ、どっちも人生の話だな。

ラプンツェル

童話「ラプンツェル」をミルハウザー流に語り直した作品。
ラプンツェルというとディズニーアニメになっていて、何となくは知っているが、個人的にはあまり馴染みのない童話ではある。
王子、魔女、ラプンツェルの視点での語りが交互に進む。

私たちの町の幽霊

ミルハウザーにわりとよくある一人称複数形の語り手による作品だが、最後に「わたし」と単数形での語り手も出てくる。
そして、他の町とは一風変わった伝統・風習のある町、と言うのもミルハウザー作品によくある奴だろう。
タイトルにあるとおり、幽霊が出てくる町なのだが、この町に出てくる幽霊たちは見られると嫌悪感を示してすっと立ち去ってしまう、という点で共通点が見られる。それ以外では直接的に害をなすということはないが、しかし、作中では、幽霊を目撃したことで幽霊にある種魅入られてしまったエピソードも語られたりしている。
幽霊に対する仮説、幽霊について知られていること、そして実際の幽霊目撃にまつわるエピソードが断章形式で綴られていく。

妻と泥棒

就寝中、階下での足音に気付いた妻。夫を起こすべきかどうか悩む。ただの家鳴りかもしれず、もしそうだとすると、一度起こされると二度寝できない夫を起こすのは忍びない。しかし、これは泥棒の足音に違いない……という逡巡がずっと書かれている。
いざ、1階に降りてみると肝心の泥棒はおろか、泥棒が侵入した形跡も見当たらない。しかし、次の日の夜も足音が聞こえてくる。
最後、妻自身が、袋を持って泥棒がごとく家の中のものを袋の中へ入れていくところで終わる。

マーメイド・フィーバー

「私たちの町の幽霊」の人魚版とでもいうべき作品
ある時、海岸にマーメイドの死体が流れ着くところから始まる。本物のマーメイドだと鑑定され、歴史協会の建物で展示され、そして、マーメイドブームが訪れる。
「私たちの町の幽霊」の幽霊ははるか昔から町に幽霊がいたという話なのに対して、こちらはにわかにマーメイドが発見されてもりあがり、そしてそのブームが去っていくまでの話になっている。
女性たちはマーメイド風の水着を身にまとうようになり、ひれのようなスカートをはくようになる。マーメイド・パーティが開かれ、男性はマーメイドのように脚をくっつけていないと欲情しないようになって……と事態がエスカレーションしていく。

近日開店

1年前に大都市から郊外に引っ越してきた男。今まさに成長中の街で、そこかしこで新しい建物が建ったり新しい店ができたりしているが、それがある程度把握できる規模におさまっていて、それを楽しんでいる。
のだが、一度マイアミに帰省した後、戻ってくると、そのスピードがあがっていて、見慣れていたはずの場所がどんどんなくなっていく。
このあたりのエスカレーションの仕方(建て替え速度が明らかに非現実的なレベル)がミルハウザー流だが、この話は前半の(まだ常識レベルにおさまっている間の)街の成長を見ているところのワクワク感もまた楽しい。
最後、友人との約束のために車で走り出したが、全く道が分からなくなってしまい、高速道路に乗ってどこかへ走り去ってしまう。

場所

私たちの町には単に「場所the place」とだけ呼ばれている場所がある、という、これまた、私たちの町の変な風習シリーズ(?)の一つだが、面白かった。
「私たち」という一人称複数形も多少出てくるが、基本的には「私」というこの町で生まれ育った男性の一人称で語られる。短篇の中で、1人の登場人物の半生を描くのはミルハウザー作品では珍しいのではないか。かなり叙情的な作品になっていた気がする。
「場所」というのは、具体的に言うと町の外れにある小高い丘で、基本的には何もない。昔の農場主が建てたという壁のあとが残っているくらい。町の人たちは、時々「場所」を訪れている。開発計画なども度々持ち上がるのだが、そのままにされている。
「私」は、5,6歳くらいの頃に母親と訪れたことがあるのだが、母親がどこか違うところを見ていて自分を見ていない、と感じたのが印象に残っている。
高2の頃、友人のダンと訪れると、ダンもまたかつての母親のような目になる。ダンは社交的で活発な少年だったが、それ以来、何かと1人で場所へ行くようになり、「私」とも疎遠になる(そしてその後引っ越してしまう)。
「私」が再び場所を訪れた時、白いワンピースの女性を見かけ、あとを追うと、階段を降りて高い窓のある部屋へと誘われる。そこには大勢の人がいて、母親やダンの姿もある。そこで非常に大きな本を読む。そして、いつの間にか元のところへと戻っている。
それは白昼夢のような体験で、その後、「私」はその部屋へ行く経験自体はしていないのだが、これにより「私」は決定的に「場所」に魅了されることになる。
高3の頃に、初めてできた恋人とも行くのだが、今度は逆に「私」が何かに惹かれて気もそぞろになってしまう。恋人と行くような場所ではなかったと後悔する。
大学に入ると「私」は場所の誘惑を振り切って、勉学や就活に励むようになり、別の街へ行って法律職となる。が、結婚して再び生まれた町へと戻ってくる。
明らかに生活に支障を来すレベルで「場所」の誘惑にはまってしまった女性のエピソードや、「私」が40歳くらいのときの同窓会でダンと再会したエピソードなども入っている。また、「場所」が町の人々にとって一体どういう意味をもっているのか、という考察もたびたび入っている。
「私」は老人になっても、時折「場所」を訪れる。町の住民にとって、町と場所とはセットなのであり、場所に行くために町で生活しているのであり、町で生活するために場所へ行くのである。そうやって安定を保っているのだ、と結論づけられている。
私たちの町に、他の町にはない奇妙な要素があって、それに町の住民はある種取り憑かれている。そしてそれは時に有害な場合もあるのだけど、概ね受け入れられている、という、この手のミルハウザー話のパターンを踏襲している。わけだけど、幽霊やマーメイドと違って、「場所」というもっと抽象的(?)な何かで、もっと穏やかな形で受け入れられていて、よい話だった(幽霊やマーメイドが悪いわけではなくて、同じパターンだけど、雰囲気や作りがが全然違う)。

アメリカン・トールテール

アメリカの伝説の木こりであるポール・バニヤンには、実は弟のジェームズ・バニヤンがいた、という話。
このジェームズは、ポールと違って、ガリガリに痩せ細っていて何もせず、ほとんど寝て過ごしている。ポールはそんな弟が気に入らない。弟の家を訪れた際に、お前は何をやっても俺には勝てないんだぞ、と言ったところ、どれだけ長く寝ていられるかだったら自分の方が勝つと反論されてしまい、どちらが長いこと寝られるか勝負が始まる。
10年以上2人とも寝続けて、僅差でジェームズが勝つ(というか、ポールが起きてジェームズの様子を見に行ったらジェームズも起きた。ジェームズは「もっと寝かせてくれよ」と言ってまた寝た)。
ポール・バニヤンの話を知らないので、あんまりよく分からない話だった。
あらすじよりも細かい描写とかが面白い話なのかも。
アメリカの伝説に出てくると思われる他の人物とかが出てきたりとか。
あと、単に仰向けに寝てるというだけのことなんだけど、3通りくらい言葉を変えて表現されていたりとか。

夜の声

表題作にあたる作品だが、この短編集の原著タイトルは”Voices in the Night”で、本作のタイトルはA Voice in the Nightである。
これも面白かった。
旧約聖書に題材をとっているのだが、聖書に出てくる少年サムエルと、1950年代のニューヨークに住むとある少年、そして、その少年の老後、という3つの時点のエピソードが交互に進んでいく。ちょっと面白いのが、節番号が、サムエルは1、ニューヨークの少年は2、老人は3となっており、以後、1→2→3→1→2→3と同じ番号が繰り返す形になっている。
サムエルというのは、司祭エリに仕えていて、ある夜に自分の名前を呼ぶ声がしたので、エリのもとへ行くのだが、エリは呼んでいないという。それが3度繰り返されて、実は、エホバに呼ばれていたということが分かる。
つづくニューヨークの少年だが、サムエルの話を知って、自分ももしかして名前が呼ばれるのではないかと思って、夜に起きようとしている。とはいえ、彼の父親は無神論者で、少年自身も呼ばれることはないと思っている。しかしそれでも気になって、寝れない夜を過ごす。
そして、老人のパートだが、年齢のせいで眠れなくなっている作家で、夜の声を待つために起きていた少年の頃を思い出す。そしてまた、自分の半生を振り返る。
この少年=老作家は、上述した通り父親は無神論者なのだが、母親がユダヤ系ロシア移民の子であり、少年は無神論者のユダヤ人といういささか複雑なアイデンティティを形成していくことになる。普通にクリスマスはするし、ユダヤ文化(行事や食事)には触れているし、普通の世俗化したユダヤ人とさして変わらないかもしれないが。また、ニューヨークで育っており、周囲は基本的にプロテスタントという環境でもある。なので、彼は周囲の教師や友人に対してはユダヤ人として振る舞うし、しかし一方で、敬虔なユダヤ人に対しては無神論者的な態度をとるのである。
少年にとって、夜の声が聞こえること・聞こえないことが、今後の自分のあり方を決定的に決めるものになる。そして、まず確実に聞こえないはずだとは思っているが、もしかして呼ばれるかもしれないという宙ぶらりんの状態が、自分のあり方と重なるのだろう。
ところで、少年は大学教授である父親に仕事のことを聞き、父親にとって教師の仕事が天職(コーリング)であることを知る。ここで、天職と声(コーリング)が重ねられている。
そして、半生を振り返る老人にとって、天職は作家であった。
ラプンツェルへの言及がいくつかある。
早口言葉や体言止めなど、どこかリズミカルな短文が続く。

千足伸行『もっと知りたい世紀末ウィーンの美術』

ベル・エポック期から大戦間期の歴史を勉強するぞシリーズとして、この前、福井憲彦『世紀末とベル・エポックの文化』 - logical cypher scape2を読んだので、今度はもう少し具体的な都市に着目した本を読もうと思って、世紀末ウィーンへ。
世紀末ウィーンというのはなんか面白そうな時代と場所であるという認識はあるのだけど、これまでそれをテーマにした本を読んだりなんだりしたことはなかった。
ウィーンについては以前、田口晃『ウィーン 都市の近代』 - logical cypher scape2というのを読んだことはある。
本書は、東京美術の「もっと知りたいシリーズ」の一冊であるが、同シリーズについては、最近松井裕美『もっと知りたいキュビスム』 - logical cypher scape2を読んだところで、これが結構良くて、今回たまたま、世紀末ウィーンのものがあったので読むことにした。
ウィーンの世紀末美術って、クリムトとか名前は有名ではあるけれど、あまり美術館でも見る機会がなかったし、いまいちよく分からんままでいたので、これを機会に勉強してみようか、と。
まあ、読んでみた結果としても、クリムトもシーレもココシュカも、個人的にはそこまで惹かれるところはなかったが、しかし「なるほど、こういう位置づけなのか」とか「こういう雰囲気だったのか」とかは大づかみにはつかめたので、勉強という意味ではよかった。

はじめに
序章 世紀末ウィーンを読み解く6枚のカード
第1章 世紀末への胎動
第2章 新しい美の創造
第3章 世紀末の夢の終り
付録

序章 世紀末ウィーンを読み解く6枚のカード

〈1〉帝国都市ウィーン
〈2〉多民族都市ウィーン
〈3〉人物都市ウィーン
〈4〉音楽都市ウィーン
〈5〉ウィーン気質
〈6〉ウィーンとユダヤ
以上、6つの観点から世紀末ウィーンの特徴を紹介している。
オーストリア帝国の人口はかなりウィーンに偏重していたらしい。
ウィーンっ子の気質として、享楽主義があげられ、これは今後も事あるごとに述べられている。あと、政治や社会改革への無関心。

第1章 世紀末への胎動

ビーダーマイヤーの時代と芸術

ビーダーマイヤー時代というのは、ウィーン会議(1814~15)から1848年の3月革命までを指すということなので、まあ世紀末ではないが、その前史として
もともと、実用的な家具、室内装飾の様式をさすが、しみじみ、こぢんまり、牧歌的、夢想的なもので、家族や農村の風景を描いた絵画がよくこの時代を反映している、と
また、音楽でいえばシューベルトが典型、とも

リングシュトラーセの時代

ウィーンといえばリングシュトラーセだけれど、その範囲すごく狭くて(1周4㎞)、知ってたけど驚く。
ネオ・ギリシャ、ネオ・ゴシック、ネオ・ルネサンスなどのネオ様式の建築が並ぶ

時代の寵児ハンス・マカルト

モネやルノワールと同世代の画家だが、歴史主義的なネオ・バロックの画家
ウィーン画壇の帝王的存在
一時、クリムトもそのもとで学んでいた。マカルトは44歳と若くして亡くなるが、そのおかげでクリムトクリムトになれたのではないか、と

ウィーン万国博覧会/ウィーンのジャポニスム

1873年の万博を機にジャポニスムが席巻
1900年の分離派展が日本美術特集を行っていて、コレクターであるフィッシャーのコレクションが展示された

ウィーンのカフェ文化

「あれこれトラブったらカフェへ! もっともらしい口実をつけて彼女はやってこない、だったらカフェへ! 自分に合いそうな女性が見つからない、だったらカフェへ! 自殺したい気分になったらカフェへ! 人間がいやになり、それでも人間なしにはやってゆけない時はカフェへ!」(ペーター・アルテンベルク)というのが書かれていて、ああなるほどSNS、と理解したw
カフェ文化の始まりは、第2回ウィーン包囲でトルコからクロアチア人経由でコーヒーが入ってきたのがきっかけらしい
トロツキーが偽名でいたカフェとかもあるらしい

第2章 新しい美の創造

ウィーンの自然主義印象主義

世紀末ウィーンには3つの様式があった、と
(1)リングシュトラーセ様式(ネオ様式)
(2)自然主義印象主義
(3)分離派様式
ウィーンは、美術の流行という点では田舎であって、遅れて受容している。自然主義印象主義が一緒になったような感じになっているらしい。

分離派

ウィーンにおける美術アカデミーないしサロンとして、キュンストラーハウスというのがあって(建物の名前であり組織の名前でもある)、それへの反発として分離派ができる。
1897年分離派結成、初代会長クリムト
主なメンバーとして、ホフマン、モーザー、建築家のワーグナーやオルブリヒなど
分離派展のポスターがいくつか掲載されているが、これがいずれもモダンなデザインでかっこいい。ポスターがかなり分離派のエッセンスというか尖ったところというかが出ているところっぽい
第1回の分離派展には皇帝フランツ・ヨーゼフも来ており、完全に官民分離していたわけでもないとのこと。
分離派展の特徴はテーマ展でもあることで、海外美術の動向を紹介していたりする。上述の通り、日本美術特集をしたこともある。また、分離派として海外作品を購入したりもしていたらしい。
「聖なる春」という機関誌があった。
「万人のための芸術」という理念を掲げていたけれど、現実としてはパトロンに買ってもらっていたので、一部の富裕層向けでしかなかった。
年表があったので、そこから一部抜粋すると、
1898年に第1回・第2回分離展があるが、この年に起きた出来事として、エリーザベト暗殺がある。
1904年に第20回分離派展。これがクリムトの最後の出品
1905年にクリムトら18名脱退。一方、ドイツでは表現主義グループのブリュッケが結成される。
エリーザベト暗殺のことは、本書の後半でも再度触れられている。ミュージカル『エリザベート』で有名だが、そういえばいまいちどういう時代の話かわかっていなかった。

クリムトと世紀末芸術

クリムトについて色々書かれていたが、うーんいまいちよくつかめなかった。
クリムトは折衷主義的であり、色々な様式を取り入れた人なので、一言では説明しにくい人なんだ的なことが書かれていた気がする。いわゆる「装飾」的な絵を描く人だけど、風景画だと印象主義的な点描を用いていたり、もともとマカルトの弟子なので、新古典主義的なものが実は見え隠れもするし、みたいな感じらしい。
クリムトにおけるエロスとタナトスみたいなことも色々書かれていたが

【トピックス】“性都”ウィーン:「精神分析」発祥の町

世紀末ウィーンで性といえば、まずはフロイトがいるが、サディズムマゾヒズムという言葉を作ったクラフト=エビング、性表現を描いた作家のシュニッツラー、そしてクリムトやシーレがいる、と。

【トピックス】“死都”ウィーン:享楽・耽美にふける理由

現実の政治にかかわりたいハンガリー人に対して、バロック風の死のイメージにとらわれたオーストリア
主な自殺者として、作家・画家シュティフター、劇作家ライムント、建築家ファン・デル・ニュル、『性と性格』のワイニンガー、画家ゲルストルがあげられている。自殺者が多いのは世紀末ウィーンに限ったことではないが、自殺があまりに多いので自殺ではないのに自殺と処理された例もある、という。

ウィーン工房

分離派の流れの中で、デザインを扱うグループとして1903年設立
ヨーゼフ・ホフマンなど
アーツ・アンド・クラフツ(1882~1910年代後半)、アール・ヌーヴォー(1893頃~1900年代後半)、アール・デコ(1918年頃~)、ウィーン分離派(1897~)、ウィーン工房(1903~)、ユーゲントシュティール(1893頃~1900年代半ば)、ドイツ工作連盟(1907~)バウハウス(1919~)、未来派(1909~)、ロシア構成主義(1915~)などの時期を示した年表があって大変よかった。
1900年の第8回分離派展でマッキントッシュなどのイギリスのアーツ・アンド・クラフツのデザインが入ってきていて、それに影響されていた。
流線型などアール・ヌーヴォー的なデザインもありつつ、幾何学的形態、機能性を意識したデザインでバウハウスアール・デコを予告していた、とも。
ウィーン工房は、アーツ・アンド・クラフツなどの精神を受け継いだ運動で、質の高い工芸品を安価に民衆のもとへ広げる、という理念を持っていた。
が、理念は理念であって、現実においては、質の高い工芸品を安く提供するのは難しいわけで、ウィーン工房の作品を実際に手に取ることができたのは上流階級に限られていた。
ホフマンはオットー・ワーグナーの弟子で、総合芸術として建築をとらえていた。建築としては、ストクレ邸やキャバレー・フレーダーマウスなどがある。
ウィーン工房では絵はがきやカレンダーなども作っており、例外的に、一般民衆が手に取れるウィーン工房の品となっていた。

世紀末建築

(1)オットー・ワグナー
1841~1918
駅や郵便局、教会などを手がけた。
様式としては新古典主義的だが、建築素材については鉄、ガラス、アルミニウムを使うなど柔軟で、用と美の一致を説く点でアール・ヌーヴォーに連なる
(2)オルブリヒの分離派館
ワーグナーの弟子であるオルブリヒ
彼の手による分離派館は、平面性を強調したファサードである白い壁面に金文字のレリーフが施され、さらに上部には「黄金のキャベツ」が置かれている。
カール・ウィトゲンシュタインが出資し、ルエーガー市長が市有地を提供した(ウィトゲンシュタインユダヤ人だったので、反ユダヤ主義者であるルエーガーは苦々しい気持ちだったらしいが)。
(3)ホフマンとストクレ邸
ワーグナーの弟子ホフマンは、幅広い分野でのデザイナーとしての仕事が多く、建築も万博のパビリオンなど一時的なものをやっていたりして、あまり建築の仕事が残っていない。
そんな中建築家としてはストクレ邸が代表作となるのだが、これ、ブリュッセルにあってウィーンにはなかったりする。
ウィーン工房の総力を結集した作品らしい。
(4)アドルフ・ロース
アンチ分離派な建築家で、快楽的な装飾を否定した。装飾に対しては、カール・クラウスも否定的だった。
代表的作品として、カフェ・ニヒリズムともあだ名されたカフェ・ムゼウム、さらにはホラーハウス、監獄とまで言われたロース・ハウスがある。ロース・ハウスの写真が載っているが、現代の人間から見ると全然そんな簡素で冷たいデザインではなく、普通に洒落たビルではある(戦後のモダニズム建築に比べれば装飾があるし、それでいてモダニズム建築と並べても遜色ない感じがある)が、立地的に周囲の建物が古典様式の建物なので、特に悪目立ちしたようである。
評論家でもあり、ウィーンを張りぼての街だと批判した「ポチョムキン都市」や、文化の発展史を紐解いて装飾不要論を展開した「装飾と罪悪」などがある(装飾というのは古代のものであって、現代にあってはもう不要というような考え方らしい)。

【トピックス】世紀末ウィーンのパトロンとコレクター

ユダヤパトロンの話で、このあたりは圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2の第3章で読んだことがあった。
ウィトゲンシュタインやレーデラーの話

第3章 世紀末の夢の終り

エゴン・シーレ

1890~1918
シーレについては名前は知ってるものの、全然知らなかったので勉強になった。
表現主義の系譜にいる人ということにはなるだろうが、なかなかインパクトが強い。
個人的には好みのタイプの絵ではないのだけど、すごいことはすごい。
28歳という若さで亡くなっている(インフルエンザ(スペイン風邪)のため)。
裸婦像を多く描いているのだが、伝統的ではないポージングで描いている(股を開いていたりとかそういうのだが、色々なポーズを描くのを試しているかのような感じがある)。
10代の頃、妹と関係をもっていたらしい。
自画像もたくさん描いている。ものにもよるけど、どことなく『ジョジョ』に出てきそうな雰囲気がした。
裸婦像、自画像に次いで風景画が多い。クリムトが「春」だとしたらシーレは「秋」で暗い色調の作品が多い。街並みを平面的に描いている等の特徴がある。
また、筆者は、シーレの「目」と「手」が表現している表情の多様性にも注目している。

  • 【トピックス】シーレのノイレングバッハ事件/【トピックス】ウィーンのロリコン趣味

シーレの裸婦像の中には未成年の少女のものもあるのだが、それを巡って、とある事件が起きる。少女を自宅に招き入れたことで親から訴えられて、未成年誘拐・レイプなどで逮捕されたのである。誘拐などについては無罪とされたのだが、未成年にわいせつな絵を見せた罪で投獄されてしまう。
シーレは確かに少女の裸を描いてはいるが、おそらく当人はロリコンではなかっただろうと筆者は述べている。ただ一方で、ウィーンの文化人の中には、確かにロリコンであった者たち(アルテンベルクとロース)もいた。

オスカー・ココシュカ

1886~1980
年齢としては、クリムトとシーレの間となるが、筆者は、知名度などからウィーン世紀末美術の「第三の男」と位置づける。
活動初期は、ウィーン工房に所属していた。
「精神的な父」としてロースに出会い、ロースから言われて分離派からは離れていく。
筆者はココシュカを、ドイツ表現主義とはまた異なる、ウィーン的表現主義だ、と述べている。
平面的な画面構成など、一概に表現主義とはいえない、分離派的な特徴もあると思う。プリミティズムの影響でもあるのか。
初期作品の「夢見る少年たち」とか。
ウィーンには若い頃の10年ほどしかおらず、あまりウィーンでは評価されなかったらしい。第一次世界大戦に従軍し、戦争が終わった後は、ドレスデンにいき、そこで美術学校の職を得ている。
クリムトとシーレがいずれもスペイン風邪で亡くなったのに対して、1980年に93歳で天寿を全うしている。

  • 【トピックス】ココシュカとアルマ・マーラーの“嵐の恋”

アルマ・マーラーは、グスタフ・マーラーの妻。クリムトとの浮名も。グスタフとは19歳差の結婚であったが、彼が亡くなったため、未亡人となる。ココシュカはその際に彼女と恋愛をしている。
が、まあかなり振り回されるような恋愛であったようだ。最終的にココシュカは別れることになり、アルマはヴァルター・グロピウスと再婚している。
ココシュカとアルマが寄り添うような絵(「風の花嫁(テンペスト)」)が掲載されている。難破船の中に横渡る2人を描いているが、筆者は(背景が海ではなく)宇宙空間のようだと形容しており、暗示的、象徴的、表現主義的、バロック的だと述べている。
ココシュカは別れた後、アルマの人形を作らせたりしているらしい。うあ。なお、人形のできあがりが悪かったので、冷めたみたい。

オーストリア表現主義

オーストリアにも表現主義の潮流があり、何人かの画家が紹介されているが、代表的存在でもあるココシュカがウィーンを去ったこともあり、あまり盛り上がりはなかったみたい。

悲劇の皇室

エリザーベトの暗殺
その10年前に、息子のルドルフが自殺している。
それにより皇位継承権は皇帝の弟へ移ったが、しかしその弟も病死し、さらに皇位継承権を引き継いだ皇帝の甥について、サラエボ事件が起きる。

ウィーン世紀末の終焉

本書は1918年までを扱っているのだが、まさに終焉と呼ぶに相応しい年である。
第一次世界大戦終結の年であり、これに伴い、オーストリア=ハンガリー帝国も終わりを迎えるわけだが、同年、クリムト、シーレ、モーザー、オットー・ワーグナーと、ウィーン世紀末美術を代表する者たちが相次いで亡くなっているのである。また、分離派に属するわけではないが、分離派に影響を与えたスイスの画家ホドラーの没年も1918年だという。
なお、クリムトとシーレの死因はいずれもスペイン風邪ということで、猛威を揮ったことの一端を垣間見た気がした。

付録

  • 世紀末ウィーンを知るウィーンの美術館
  • もう一度観てみたい! ウィーン名画座オーストリアが舞台の傑作・問題作