『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』

東京宝塚劇場での宝塚星組公演を見てきた。
原作が並木陽『斜陽の国のルスダン』といい、何を隠そう、学生時代の先輩が書いた小説なのだ。
知り合いの書いた作品が宝塚で舞台化される、という得がたい経験をしてきたわけで、開幕の際の影ナレで原作者の名前が読み上げられた時には、何とも言えない感慨があった。
原作はむろん読んでいたが、とはいえ、もうそれも相当前の話で、今回観劇に行く前に予習・復習もしていなかったので、正直、話自体は結構忘れている状態で見に行った形となった。
見ている間に「そういえば、こんな展開だったなー」と思い出しつつ、舞台ならではの点を楽しみながら見ていた。
ちなみに、ブログ内を検索しても出てこなかったのでこのブログに書いたことなかったみたいだが、自分は宝塚については、銀英伝を見たことがあり、人生2度目の宝塚観劇である。
宝塚大劇場・東京宝塚劇場 公演案内> 星組公演 『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』『JAGUAR BEAT-ジャガービート-』

『斜陽の国のルスダン』と並木さんについて

原作である『斜陽の国のルスダン』は、並木陽さんが、2016年に文章系同人誌即売会であるテキレボにあわせて刊行した作品。その後、文学フリマなどで頒布していたが、2017年に、NHK-FMの藤井プロデューサーが通販でこの本を購入したことがきっかけで、同局のラジオドラマ「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化された。
まあそれだけでもなかなかすごい話なのだけど、その後、並木さんは、この藤井プロデューサーとのタッグで、オリジナルドラマの脚本を次々と書き下ろしていった(参考:並木陽さんの原作・脚本・脚色作品の一覧 - 特集【演出家・脚本家別一覧】)。
で、この「青春アドベンチャー」では、宝塚OGを始めとしたミュージカル俳優が声優をやっている*1。ラジオドラマ化された際には、主人公のルスダンを宝塚OGである花總まりが演じたわけだが、それ以外の作品にも宝塚OGがたびたび出演していた。
おそらく、そこからの縁で今回の演出である生田大和氏が、本作を知り、宝塚での舞台化につながったようである。
また、宝塚での舞台化をきっかけに、星海社より商業版が刊行されている。



さて、並木さんは、自分にとって大学の文芸サークルでの先輩にあたる。
このサークルは、主に小説を書き、年に2回会誌を発行するという活動をしていた。
僕は何故かこのサークルで主に批評を書くようになっていくのだが、自分ももともとは小説を書くつもりでこのサークルに入ったし、小説を書く会員のほうがもちろん多かった。
並木さんは、当時から歴史(主にヨーロッパ)ジャンルで小説を書いていて、サークル内での人気も高かった。
この『斜陽の国のルスダン』については、僕自身は2016年の文学フリマで入手していたようなのだが、多分、僕が参加した最後の文学フリマでもあったと思う。
第22回文学フリマ感想その2 - logical cypher scape2
僕が文学フリマなど同人活動が遠ざかっていった一方で、並木さんはこの後、文学フリマをはじめとして、地方開催のものも含め、多くの文章系同人誌即売会に参加するようになり、瞬く間に人気を獲得していった。
その過程の中で、上述した「青春アドベンチャー」採用もある。
かなり希有なルートではあるし、まさか小説ではなくラジオドラマの脚本を手がけていくことになるとは思いもよらなかったけれど、同人活動からこうやって世に出ていくこともあるんだなあと思いながら、その活躍を眺めていた。
ところで、妻はミュージカルが好きということもあって、以前から並木陽作品が舞台化されないだろうかという希望をたびたび口にしていた。
NHKでラジオドラマ化されたのだから、いずれは舞台化されることだってありえなくはないんじゃないかと語る妻に対して、しかし僕は、ラジオドラマと舞台*2じゃ規模感も違うし、さすにが同人小説のままでは無理でしょ、と思っていたのが正直なところだった。
ところがである。


2022年4月に、宝塚での舞台化決定の知らせが入ったのである。

衣装、音楽、舞台装置等を中心にした感想

衣装については、ジョージアの民族衣装をもとにしたという話は、リリースか何かで見かけていたのだが、そのジョージアの民族衣装がどういうものなのかということはあまり調べずに見に来ていたので、こんな衣装なのかと結構驚かされた。
服飾文化に疎いので何とも言えないが、エキゾチックというか、ヨーロッパとアジアのテイストが両方入っているように感じられた(女性衣装の振袖っぽいところとかにアジア要素を感じた)。
また、ジョージア軍の衣装は、どことなく「帝国軍」風であり、13世紀にこんな服あったのかと思いつつも、敵対するモンゴルやホラズムとの対比という点も含めて、見栄えが良くかっこよかった。
ミュージカルという点で言うと、都・トリビシでたつ市場のシーンでの群舞が、とても楽しくてよかった。ミュージカルというとやっぱりこういうのが見たいよなあ、という感じ。
上述のジョージア軍の衣装とも関連するが、ジョージア軍のダンスは、細かい足さばきが多くて、ちょっとコサックっぽいなという気もした。衣装とあわせて、ロシアからジョージアの影響があるのかなあと感じたところ。
ただ、この細かい足さばきというのは、ジョージアンダンス由来の動きらしく、ググってみると「ロシアのコサックダンスと勘違いされてしまうのがジョージアンダンス関係者の悩みなのだそうです。」*3なる記述を見つけたりもしたので、ここらへんの影響関係はよく分からず。
結婚式のシーンは、パーカッション主体の曲がかっこよかったという印象
また、ダンスなどの演出でいうと、銀橋を派手に使うのが多かった。兵隊が銀橋の上をだーっと駆けていくとか。今回、関係者枠でチケットをいただけて、なかなか前の方の席だったこともあり、ここらへんは非常に迫力があった。
それから、舞台装置のこと。
ステージ上のターンテーブルが回転する中、役者がその回転とは逆方向に歩くというのは、他の舞台でも見たことがあったが、それに上下動も加わった上で、役者が歩いてるのを見たときは「すげぇ」となった。
また、寝室全体がせりに乗っていたのもすごかったし、花道にもせりがあって驚いた(ところで、この記事を書く際にググったら、花道のせりは歌舞伎にもあって「スッポン」と呼ばれているらしく、むしろかなり昔からある装置のようなので、無知による驚きであった……)
小説ではなかなか表現が難しい視聴覚的な要素をめいっぱい楽しませてくれる舞台化で、原作者本人の感動はいかほどか、と思わせてくれた。
ところで、原作タイトルは『斜陽の国のルスダン』とあり、ルスダン女王が主役であるのに対して、宝塚版ではタイトルが『ディミトリ』に変更されている。
内容うろ覚えだった自分が何を言うかという話だが、観劇に行く前日まで「ディミトリって主人公か?」と宣っていた。しかし、いざ実際に見てみると、ディミトリが完全に主人公になっており、ジャラルッディーンがディミトリの最期を見届けるシーンでは、思わず涙ぐんでしまった。
また、帰ってきてから原作をぱらぱらっと見直していたら、セリフが結構そのまま採用されていることに気付いた。物語内容は長篇小説のボリュームがあるんだけど、それをかなりコンパクトに組み立てているから、わりとそのまま1時間なりの舞台作品に仕立て直すことができるんだなと思う。
並木さんはもともと小説を書いている人ではあるが、ラジオドラマの脚本やったりマンガの原作をやったりと、今ではメディアの別なく活動しており、小説かどうかよりは、物語を書くことに力点があるんだろうなと思うし、その意味で言うと、ある尺の中に物語をおさめることができるのが強みなのだろうと思う。
あともう一つ、並木さんの強みをあげると、題材チョイスの上手さがあると思う。
この『ディミトリ』という作品の魅力、物語の面もさることながら、やはり衣装やダンスという点でジョージアという土地を出してきたところにあるので。
青春アドベンチャー」で書いているラジオドラマも、高校世界史レベルの歴史教養だと微妙によく分からんというあたりを突いてくる。

同時上演『JAGUAR BEAT-ジャガービート-』

宝塚の舞台は、物語劇とレビューの二本立てになっていることが多いと思う。
今回、『ディミトリ』と同時上演であったレビューが、この『ジャガービート』
自分は宝塚観劇2回目で、ほとんどレビューというものが何なのか分からない状態で見ていたので、ただただ「うわ、すげ」となっていたが、後になって、ヅカオタの中でも賛否両論となっている作品だと知った。
世界観がなかなかカオスで、ハイテンションノンストップで進んでいくので、僕は途中から楽しくなってきて、面白く見れたのだが、同行者の中には「ずっとギラギラしていて疲れた」という感想を漏らす人もいて、またやはり後になって知ったのだが、ヅカオタの中でも同様の感想を持つ人がいるようだった。
逆に、同行者の中で、アイドルやら何やらのライブを多少なりとも行っているような面子は、「よくわからんところもあったが、わからんなりに分かった」という感じであり、自分もそういう印象。
しかし、正直なところを言うならば、見ていて何度も「ダサ」とも思った。
というか、歌やダンスについて技術的な卓越があるのは分かるし、見ていて楽しくなるところもあるし、つまり、よさやすごさは伝わってくるのだが、しかし一方で、否応なしにダサさも感じる。「すごい」んだけど「ダサい」、「ダサい」んだけど「すごい」という感想をいったりきたりしながら見ていた。
ある種の異文化交流感はあって、「なるほど、この文化ではこれが楽しまれているんだな」という感じでの理解は得られるのだけど、自分の価値尺度で留保なく「よい」って言えるかというとちょっと……というのはあった。
音楽的な教養を求められる感じはあって、かなり多様なジャンルの音楽要素が使われているなとは思ったが、しかし、それらが結局のところ、昭和歌謡曲的な曲に集約されてしまうと感じた。
あと、多様なジャンルの音楽の要素が使われているとは述べたが、そうは言っても、クラシック、ジャズ、ロックであって、ヒップホップ、ハウス、テクノとかは入っていなかった。まあそりゃお前の好みの問題だろと言われればそれもそうなのだが、しかし、ある種のカオスさみたいなのを売りにしているようでも、ロック止まりなのかーという気持ちは抱かざるをえない。
そのロックにしても、メタルに振り切った曲は悪くなかったかなと思うんだけど、出てくるエレキのフレーズとかでよかったなと思うのがあんまりなかった印象で、一方で、サックスかなんかだと「それ好き」ってなるフレーズがあったりしたので、クラシックやジャズまでは自家薬籠中のものになっているのだけど、ロック以降はそうでもないのかなと思ってしまった。
ところで、では宝塚のレビュー鑑賞は、クラシックやジャズ鑑賞のようなものなのかといえばおそらくそうではなくて、そういった要素を盛りこみつつタカラジェンヌが浪々と歌い上げる歌謡曲に仕立てて大衆芸能にしてしまっている*4のであり、まあアイドルライブの鑑賞に近いのかもしれないなあとは思う(推しがいると非常に楽しいだろうな、これは、というのは見ていて思った)。
つまり、これはもはやそういうものなのであって、それを外部から見て「ダサい」と言ってしまうのもいかがなものかとは思うけど、しかし外部から見るとそう見えてしまうんだよな、という感想。

*1:なお、坂本真綾が出演した時もあり、並木さんの脚本で坂本真綾が、と(特別に坂本真綾ファンというわけでもないが)わが家が騒然となったこともある

*2:なお、ここで僕と妻の間で言っている舞台化は宝塚とか東宝ミュージカルとかを前提にしている

*3:ダンサーそして私たちは踊った | おどりびより|社交ダンス情報メディア]

*4:いや、ジャズも大衆芸能だが

『日経サイエンス2023年2月号』『Newton2023年2月号』

日経サイエンス2023年2月号

SCOPE 不要なシナプスを”食べて”整理

グリア細胞シナプスを食べることによって、記憶定着に一役買っているという話
また、精神病理との関係も

ADVANCES 軟組織が化石になるには

軟組織がどうやって化石になるのかはまだ謎が多く、同じ内臓組織でも、化石に残るものと残らないものがあるが、何がそれを分けているのか分かっていない。
pHの違いではないかと言われていたのだが、実際にpHを計測しながら腐敗過程を調べた研究で、これは関係なさそうということが示され、リン酸の量の違いではないかと言われ始めているとかなんとか

撮像の舞台裏  C. モスコウィッツ

ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡特集の中の記事の一つ
パラパラ眺めた中で目にとまったのが、JWSTの画像処理している人の「これはリアルだよ」というコメント
JWSTは赤外線望遠鏡なので、JWSTから得られた画像は、人間が直接その天体を見た場合の見え方とは異なる。異なるけれども、画像処理の仕方は、普通のカメラマンがやってる処理と同じなんだから、という話っぽい

小惑星リュウグウから火星のフォボス

はやぶさ2プロジェクトマネージャの津田雄一とMMXプロジェクトマネージャの川勝康弘の対談・インタビュー
触ることで(実際に着陸してみて)初めて分かることがあるという話とか
サンプルが手に入るっていうのはやっぱ色々と重要だという話とか(リュウグウのサンプルの60%はそのまま保存するらしい。今後の調査技術の発達を見越して)。

にくづきにくら  柞刈湯葉

タイトルからはどんな話がよく分からないが、月面を舞台にしたSFスリラー
そもそも月面基地作ったとして金になるのかよという問題に対して、低重力を利用した人工臓器培養を挙げている。が、作中でもそれが軌道にのっているわけではなく、なんとかそれを月面開発・産業の端緒に据えようとしている頃の話。
そこに1人のテロリストが乗り込んでくる。
たまたまその時に宿直にあたっていた科学者とテロリストとの間で、トロッコ問題みたいな問答が繰り広げられる

データを駆使したクリミアの天使 ナイチンゲール  RJ アンドリューズ

ナイチンゲールが、戦地の衛生状況改善のために、インフォグラフィックスを駆使したという話
実状、要因、改善案を短いページのパンフレットにまとめて、わかりやすいグラフによってそれらを語らせる彼女の方法論を、筆者は「データ・ストーリーテリング」だと述べている。

Newton2023年2月号

ゼロからわかる分子生物学

次世代シーケンサーのあたりだけ読んだ

隠れた「異次元」を探しだせ

高次元がミクロスケールに畳み込まれている云々の話
90年代の研究だけど全然知らなかったものとして、高次元ってプランク長じゃなくてもっとマクロなスケールにあるのではないかという説
重力が距離の二乗に比例する、というのが、空間が3次元であることの証拠らしいんだけど、重力の強さの計測って難しくて数センチとか数ミリとかの幅だとよく分かっていなかったらしい。そういうスケールで、二乗則が破れていた場合、そこにより高次の次元があることになるらしい。残念ながら、今のところ、二乗則の破れは発見できていない、と

世界の高速鉄道

文字通り、世界の高速鉄道の写真
日本の新幹線から、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどのヨーロッパから、中国、ラオスウズベキスタン、モロッコなどのアジア・アフリカまで
イタリアの車両かっこよくてさすがイタリアだなと思ったり、アジア・アフリカの奴は、どの国から技術提供受けたかとかがその国の背景を物語ったりしていて面白い

バイアスの心理学

色々な認知バイアスについて紹介している
確証バイアスとかその他色々、大体まあ聞いたことのある項目ではあった。
ネット上で「脳は否定形を理解できない」というよく分からん題目で紹介されることのある「皮肉過程理論」ないし「シロクマ実験」について
これ、「シロクマについて考えない」ように指示された後、「シロクマについて考える」ように指示されると、単に「シロクマについて考える」ように指示されるよりも、よりシロクマについて考える頻度が増える、という実験だったらしい。
あと、「シロクマについて考えない」ように指示されている間も、シロクマについて考えたかどうか計測してて、この場合も、全く考えないのは無理で、時々シロクマについて考えていた、という結果になっている。
また、「シロクマについて考えそうになったら、赤いなんとかについて考えてください」(なんとかはもっと具体的に書いてあったが忘れた)という指示をすると、シロクマについて考える頻度がぐんと減るとかで。
まあ、この実験から一体どういう理論ないし教訓(?)を引き出せるのか、というのは正直よく分からんな、という印象。まあ、そういう実験があったんだな、と。
上で、大体聞いたことあるって書いたけど、勉強した内容について勉強を完了させてしまうと逆に忘れやすくなる、みたいなのがあって、経験的になんか分かるけど、心理学的にもそういうこと言われているのは知らなかった。
それから、正常性バイアスは、非常に有名な奴で、特に目新しいことは書いてなかったが、自分これに当てはまる気がして怖いなあと常々思ってる。

生殖医療の未来

生殖医療関連で色々あったが、iPS細胞から配偶子を作ることができるという話とか色々。
iPS細胞から配偶子が作れると、同性愛者やあるいは独身者でも自分の遺伝子で子どもが作れるようになったり、不妊治療というものが不要になるかもしれなかったり。
あと、一般の人たちに、どこまでだったら許容できるか、ということをアンケート調査している研究があって、一般の人たちの倫理的直観がきれいに割れている結果になっていて興味深い。また、高齢カップルが使うのは許容できるかとか、同性カップルが使うなら許容できるかとか、色々なアンケートがあって、国によってそれも色々違うとか(概ねその国の結婚制度とかと対応しているっぽい)。

暗号通貨の技術と課題

ブロックチェーン、トラストレストラスト、ビザンチン将軍問題、プルーフオブワークとプルーフオブステークについて
ビザンチン将軍問題は、なんか別のところで以前読んだような気もするけど忘れてた。
プルーフオブワークとプルーフオブステークは、全然知らなかった。プルーフオブワークは普通の暗号通貨の仕組みだけど、マイニングで電気消費量食い過ぎ問題があり、それを解決するのがプルーフオブステーク方式。でもこっちは、保有し続けることにインセンティブが生じるので、格差が拡大する・流動性が低下するという問題がある、と。


広告に『暇と退屈の心理学』(Newton新書)という本があった
Newtonこういうタイトル付けすることあるのか
というか、そもそもThe Psychology of Boredom(サブタイトルが)という本の翻訳なのか。まあ、とはいえそこに「暇と」をつけるのは明らかに意識しているだろうけど。

津原泰水『ブラバン』(再読)

作者が2022年10月2日に亡くなったのを受けて、再読した。
受けて、というにはちょっと時間が経ちすぎた感じもするが。
追悼というのもなんか変な感じである。
再読したのは亡くなったことがきっかけだが、読んでいる最終は、この作者が最近亡くなったのだということは全く意識せずに、一気呵成に読んでいた。
やはり面白かったが、詳しい感想はすでに初読時に書いており、今回特に改めて書くことはないかも。
やはり、辻さんはいいなあ。
あと、エリートサラリーマン来生との再会シーン、なんか途轍もないよな
沖縄出身の少女、普天間純のエピソードの中で、子供の頃に海洋博があった旨の話があった。『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」を読んだばかりなので、目についた。

sakstyle.hatenadiary.jp

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』

海外文学読むぞ期間実施中。いよいよ「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」へ突入
とりあえず短編アンソロジーから読む。
この「短編コレクション」は1と2があり、1は南北アメリカ、アジア、アフリカの作家、2はヨーロッパの作家から作品が採られている。
1の方が、名前を知ってる作家が多く、より気になったので1をチョイス。2は今のところスルーの方向で。
面白かったのは、コルタサル「南部高速道路」張愛玲「色、戒」金達寿「朴達の裁判」トニ・モリスン「レシタティフ――叙唱」マクラウド「冬の犬」
面白いというのとはちょっと違うのだが、カナファーニー「ラムレの証言」目取真俊「面影と連れて」も特筆すべき作品。

南部高速道路 フリオ・コルタサル 木村榮一

日曜日、パリに向かう高速道路で渋滞が起きる、というよくある事態から物語は始まるが、渋滞がいつまでもいつまでも解消されない、という奇妙な状況へと突入していく。
夏に起きた渋滞が冬になってもまだ解消されないくらい。
たまたま、近くで停まった者同士でグループが形成され、互いに気遣ったり、あるいは他のグループと食料や水の交渉を行うようになっていく。
亡くなってしまう人がでてきたり、その一方で、(長期の渋滞の中で親しくなって)妊娠が分かる人もいる。
しかし、登場人物たちの名前は書かれておらず、車種(ドーフィヌとかシムカとか)または職業名(技師とか農夫とか)で表記されている。
そして、ついに渋滞が解消された時、車列はばらばらに進んでいき、生活をともにしてきた者たちのグループは瞬く間に霧消していくのだった。
なお、コルタサルはアルゼンチンの作家だが、1914年ブリュッセル生まれ、1918年にアルゼンチンへ帰国し、以降ブエノスアイレスで育つが、1951年にパリへ留学し、そのままパリに居住し、1984年にパリで亡くなっている。ブエノスアイレス時代から小説を書いているが、それでも主な作品はパリ時代に書いているようだ。この作品も1964年に書かれたもの。
コルタサルは、ラテンアメリカの作家として紹介されていて、本書でもラテンアメリカ枠(?)だと思うのだが、読んでみたら、作品の舞台はパリだったので最初ちょっと驚いた。

波との生活 オクタビオ・パス 野谷文昭

海で出会った波と同棲することになった男の話
汽車の水タンクに入れて連れていく
部屋に海のものを色々置いてあげたんだけど、魚に嫉妬したり
しかし、冬になるにつれて関係が悪くなる。最後、氷の像に
オクタビオ・パスはメキシコの作家(1914~1998)。小説家ではなく詩人らしい。

白痴が先 バーナード・マラマッド 柴田元幸

自分の死期を悟った男が、白痴の息子を叔父のいるカリフォルニア行きの電車に乗せようと、金策に走る一夜を描く
なんか、男の方は死神のような奴につきまとわれている
老いたラビのところに赴くシーンもあったりして、ユダヤ人の話なんだなということが分かる。
バーナード・マラマッドは、ユダヤ系のアメリカ合衆国の作家(1914~1986)

タルパ フアン・ルルフォ 杉山晃

病苦にさいなまれる男を、妻と弟が、タルパの聖女のもとへと連れていくも、タルパで亡くなってしまう話。
この弟視点で、タルパから帰ってきたところから始まって回想形式で進む。
この妻と弟は関係を持っていて、タルパ行き自体は夫自身が望んだことではあったが、2人は半ば無理矢理タルパへと連れていき、その途上で死んでしまうだろうことを予期していた。
しかし、実際に死んでしまうと、妻の方は後悔に苛まれて、弟との関係もなくなる。
フアン・ルルフォは、メキシコの作家・小説家(1917~1986)
小説は、短編集『燃える平原』と長編『ペドロ・パラモ』の2冊のみ。その後のインタビューでは「何を書いても『ペドロ・パラモ』になってしまう」と言っていたとか。

色、戒 張愛玲 垂水千恵訳

第二次大戦中、日本占領下の上海が舞台
佳芝(チアチー)という女子大生が、名前と身分を騙って、易(イー)という男に近付く。
易に色仕掛けで接近し、佳芝の仲間が暗殺するという計画を立てていたが、最後の最後に佳芝が易を助ける。
易は日本側のスパイ。
佳芝はもともと大学で演劇をしていたが、その演劇仲間が易への色仕掛け計画を発案し、そこに本職の特務ものっかった。
のちに『ラスト・コーション』というタイトルで映画化された作品らしいが、物語の冒頭と結末、易夫人が他のご婦人たちと雀卓を囲んで宝石や美食について自慢話をしあうシーンだったり、そこからなんとか抜け出した2人が(暗殺実行予定地点の)小さな宝石店に訪れ2人で宝石を見ているシーンだったり、確かに映像的なシーンが多く、とてもエンターテインメント感が強い。
それでいて、池澤夏樹のコメントにある通り、短編としてまとめていることで、ある意味ではかなりあっさりとした終わりというか、ばっさりと色々切られているので、余韻がある。
(実際にあった事件をもとにしているらしい)
張愛玲は、1920年に上海で生まれた中国の作家。香港や上海で作家活動をしていたが、1955年にアメリカへ移住、1995年にLAで死去。曽祖父が李鴻章

肉の家 ユースフ・イドリース 奴田原睦明訳

後家と3人の娘がいる家。後家といっても35才と若く、娘は20才から16才と年頃なのだが、器量がよいわけでもなく、父親もいない娘たちに結婚相手は現れない。
彼女らが唯一関わりのある男性は、全盲クルアーン読みだけである。後家はこの男と再婚することになるのだが、ある時から、娘たちがその男が盲であることを利用して関係を持つようになる。
宗教的タブー(妻以外との姦淫)を犯していることに気付きつつも、結婚指輪をしているから自分は妻以外とはしていないのだ、と男の方は思うようにしている。
ユースフ・イドリースは、エジプトの作家(1927~1991)。反王政・反英闘争をしていた。

小さな黒い箱 P・K・ディック 浅倉久志

タイトルの「小さな黒い箱」は、マーサという宗教家と感覚を共有する共感ボックスのこと。
当局の宗教弾圧とそれから逃れようとする信者についての物語で、ディックはこの短編をもとに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を書いたとのこと。
テレパスが出てきたり、当局がマーサのことを宇宙人ではないかと疑っていたりというあたりにSF要素がある。マーサ教への対応について、米ソが協力していたりする。
ストーリー自体はシンプルでわかりやすい。
ディックはアメリカ合衆国の作家(1928~1982)

呪い卵 チヌア・アチェベ 管啓次郎

天然痘によって活気の失われた市場
主人公は、許嫁と会った夜の帰りに卵を割ってしまう
チヌア・アチェベは、1930年生まれのナイジェリアの小説家

朴達の裁判 金達寿

池澤夏樹が、これは短めの長篇小説と評していて、おそらく、本書収録作品の中でページ数が最も長いと思われる作品。
物語の舞台は、朝鮮戦争直後の韓国(南朝鮮)で、朴達という男が釈放されて出所してくるところから始まる。
さて、池澤夏樹が冒頭で、左翼の文学は硬いものが多いけどこれはコミカル、みたいな内容のことをコメントしているのだけど、朴達が一体どういう経歴の男なのかというのを語り出すあたりから、一気に面白くなっていく。
これ、語り手の存在が前面に出てきている語りで、そのあたりも含めてコミカルな感じが出てくる。
で、朴達というのは学のない小作農なのだが、軽犯罪で捕まった時に、拘置所政治犯・思想犯でごった返しになっており、彼らに色々なことを学ぶようになる(そもそもの文字の読み書きから始まって、歴史や共産主義についてなどまで)。朴達は、以降、出所と逮捕を頻繁に繰り返すようになる。政治犯たちに習ったことを街角で叫べばすぐに逮捕されるし、また、朴達は拷問をうけてもこたえない体質で、いくらムチでぶたれても痛がる様子がなく、「へへっ、えらいすんません、もうやりません」と「転向」してまた出てくるのである。
官憲側からも、政治犯側からも、こいつ一体なんなんだと思われながらも、彼は彼で色々な考えを持って行動するようになる(政治犯からすれば、刑務所の中で抵抗するのが彼らの闘争のあり方だろうが、朴達は自分みたいなのは外で色々やるのがいいだろうと考えている)。
朴達のところは、第二次大戦が終わって日本が引き揚げていった後、一時的に人民委員会というのができて、すぐに米軍占領下になり、朝鮮戦争の際にはまた一時的に北に占領され、米軍の参戦とともにまた米軍占領下になったというところで、朴達は、たびたび、アメリカのみなさんは帰ってくださいみたいな内容のビラを貼ったりしている。
物語としては、再び出所してきた朴達が、インフレにあえぐ労働者たちとストを決行するというのが中心になる。なお、この町の人はほとんどが米軍基地で働いているので、その米軍基地で働く労働者による組合を結成し、組合を認めさせるためにストに入る。
朴達の存在にムキーっとなっている検察と、彼からの追求と拷問を飄々といなす朴達。朴達に協力する彼の妻。そして、町の人々が朴達の裁判へと傍聴へいき静寂を保ったままプレッシャーをかけるクライマックスシーンへとつながっていく。
どちらかといえば北寄りなのでそこに引っかかりを覚える人もいるかもしれないが、南北統一を素朴に望む庶民的な思いが主たるところだし、「えへへっ」と笑いながら飄々と「転向」し、覚えた文字を書くのが楽しくてたまらず下手くそな手書きで何枚もビラを書く朴達の姿は、上からの思想によるものというより、下からの庶民的な生活に根付いているもので、そのユーモラスな描かれ方や、語り口とあわせて、どこか民話っぽい雰囲気すらある。
金達寿は、1920年南朝鮮に生まれ、1930年に日本へ渡ってきた在日朝鮮人作家(1997年没)である。
なお、日本語で書かれた作品である。

夜の海の旅 ジョン・バース 志村正雄訳

冒頭の池澤夏樹コメントで、本作は「僕」や「僕ら」の正体が明かされないが、すぐに分かるのでここでも明かさないことにしよう、ということを書いている。
実際、読むとすぐに正体が分かる。池澤は伏せているが、このブログはネタバレ配慮をあまりしていないので書いてしまうと、精子の擬人化なのである。
で、自分たちは一体何で泳いでいるのだろうというのを、色々考えたり考えなかったりしている話
ジョン・バースは、1930年生まれのアメリカ合衆国の作家。

ジョーカー最大の勝利 ドナルド・バーセルミ 志村正雄訳

バットマンのパロディ
正直、バットマンが分からないので、この作品の面白さがどこにあるかよく分からず。
ドナルド・バーセルミアメリカ合衆国の作家(1931~1989)

レシタティフ――叙唱 トニ・モリスン 篠森ゆりこ訳

子どもの頃の一時期を児童施設の同室で過ごした2人の女性が、人生の中で何度か再会をするという話。
語り手(「わたし」)であるトワイラは母親が夜の仕事をしているか何かで、もうひとりのロバータは母親が病気のためそれぞれ施設に預けられている。施設の他の子はみな孤児なので、2人は施設の中でちょっと浮いている。また、年上の子たちの柄が悪くて、施設で働いている唖の職員をいじめたりしている。ロバータは先に施設を出ていくことになり、2人は分かれることになる。
トワイラがハイウェイのレストランで働いていた頃、客として現れたロバータと再会する。そのときのロバータは、これからジミヘンと会ってくるのだと言ってトワイラとの再会をあまり喜んでいない。
その後、また10年後くらいに再会したりするのだが、トワイラが貧しい生活を続けているのに対して、ロバータ上昇婚を成し遂げたりしているのだが、人種政策をめぐって2人の立場は分かれていく。
トワイラとロバータは人種が違うとは書かれているが、どちらが白人でどちらが黒人かは明示されていない。そしてもう1人、施設で働いていた唖の職員についても、トワイラとロバータの記憶は食い違っていく。彼女をいじめていたのは誰だったのか、そして彼女の人種は何だったのか……。
トニ・モリスンは、1931年生まれのアメリカ合衆国の小説家。1993年、アメリカの黒人作家としては初のノーベル賞受賞。

サン・フランシスコYMCA讃歌 リチャード・ブローティガン 藤本和子

詩を好む男が、自分の家の水道周りの配管を詩に置き換えた、というショートショート
風呂をシェイクスピアの詩にしたりしていく。が、実際に使ってみたら(?)勝手が悪くて、元に戻そうとしたら、詩たちから反発された、という話
リチャード・ブローティガンは、アメリカ合衆国の詩人・小説家(1935~1984)。池澤夏樹は、ブローディガンは小説もたくさん書いているけど、やはり詩人だったのだと思うと述べている。

ラムレの証言 ガッサーン・カナファーニー 岡真理訳

イスラエルのラムレに暮らすパレスチナ人の話。
いや、「ラムレに暮らすパレスチナ人の話」と書いてしまったが、これはラムレでのパレスチナ人の「暮らし」を描いた作品ではなく、あくまでもある瞬間を切り取った作品だ。
池澤夏樹が、短編小説の時間について触れている文章の中でも述べているが、本作は、描かれている作品世界の時間が本書収録作品の中で最も短い作品だろう。描かれているのは、長くても数時間程度の出来事だ。
突然イスラエル兵がやってきて、住民が集められ、小突き回される。そのさなか、理不尽に幼い子とその母親が殺される。残された男は2人を埋葬し、そして事に及ぶ。
自爆テロ」の背景が、少年の視点から静かな筆致で紡がれている。
語り手の少年は少年で、ともに広場で立たされながらも自分の身を案じている母親に対して、自分は大丈夫だとなんとかして伝えようとして、そんなさなかに、親しくしている床屋の男の身に起きた一部始終を目撃することになる。
ページ数的にはとても短いが、ずっしりとした読後感が残る。
ガッサ-ン・カナファーニーは、1936年にパレスチナで生まれ、1948年、イスラエル建国により難民となった。パレスチナ人民解放戦線のスポークスパースンとして、作家、ジャーナリストとして活動したが、1972年に爆殺された。

冬の犬 アリステア・マクラウド 中野恵津子訳

子どもたちが、クリスマスを前に雪が降ったことに歓喜して、早朝4時から起き出して外で遊び始める。隣の家の犬がいつの間にか抜け出してきて、子どもたちと一緒に遊んでいる。
遠く離れた実家で入院の話があって、カナダ中に散らばった家族たちがさてどうするかと気を揉んでいる(もしもの時には駆けつけなければならないが、季節的に移動が大変)さなか、無邪気に遊ぶ子どもたちと犬の姿を眺める父親は、自分の子ども時代を思い出す。
で、この回想が本編
牧畜犬として買った犬だったが、とんだ役立たずで、しかしソリをひかせると抜群だったその犬。主人公は、ある冬の日、自分のソリをその犬にひかせて海へと遊びに行く。流氷が着岸していて、流氷の上を進んでいく。途中、死んだアザラシを見つけ、あまりにもきれいに氷漬けになっているのを見て、主人公はそれをソリにくくりつけて持って帰ろうとする。
しかし、帰路において天候が悪化、何度か流氷の上から海に落ちたりしながら、犬とともに賢明に帰ろうとする。
流氷の上から海に落ちてぐしょ濡れになった状態で吹雪に突入して、よくもまあ生きて帰ることができたな、という話なんだけど、少年の半ば焦りつつ半ば冷静なところが書かれていて、手に汗握りつつ、冬の自然の厳しさを感じながら読むことができる。
どうにか帰り着くと、親から怒られるのが嫌だなと思って、裏口からこっそり帰って何事もなかったかのように振る舞ったりするあたりも、ある意味ほほえましい。
ただこの犬、単に役立たずなばかりか家畜に噛みついたりしてむしろ有害なので、結局、殺処理されてしまう。この犬に命を救われながら、命を救ってやれなかったことへの後悔が綴られている。
アリステア・マクラウドは1936年生まれのカナダの作家。無名の作家だったが、1999年に発表した長篇がヒットし、これまでに発表された短篇が再刊されたらしい。
この長篇、カナダの島を舞台にしたファミリー・サーガものらしいので、ちょっと気になる。

ささやかだけれど、役にたつこと レイモンド・カーヴァー 村上春樹

8才の息子の誕生日のためにケーキを予約する母親。そのパン屋は無愛想で母親は苦手に感じている。そして誕生日の日の朝、登校中に息子は轢き逃げにあい、緊急入院。医者は問題ないと請け負うが、息子はなかなか目覚めない。
子を案じ続ける夫婦の心情が胸にくる。
レイモンド・カーヴァーは、アメリカの詩人・小説家(1938~1988)

ダンシング・ガールズ マーガレット・アトウッド 岸本佐知子

主人公は、カナダから留学してきて都市デザインを学んでいる女子大生で、安い下宿暮らしをしている。
大家さんの声が筒抜けの下宿で、隣の部屋には、大家さん曰くアラブ系だという男が住んでいるが、非常に静かなので当初は全然気づかないほどだった。
その部屋にはもともとトルコ人の女子大生が住んでいて、主人公と親しくしていたが、さすがに安普請すぎて出ていった。この下宿にはほかに中国人留学生も住んでいる。
とまあ、留学生が多く住む下宿なのだが、主人公は大家さんから留学生だと思われていない(カナダ人なので)。
ある時、その物静かな男が友人や踊り子を部屋に招いてパーティをして、大変やかましいために大家さんから追い出されてしまう。
しかし、主人公はそんな彼に対して、友人がいたことに少し安心しながら、多国籍な人々の暮らす緑豊かな都市を夢想する。
マーガレット・アトウッドは1939年生まれのカナダの作家。『侍女の物語』が有名。
ところで、カナダ文学ってこれまで全く意識したことがなかったが、南北アメリカ、アジア、アフリカから作品を集めたアンソロジーでカナダ文学が2作品入っているのは、なんかすごいな。

母 高行健 飯塚容訳

40過ぎの主人公が、学生時代に亡くなった母親について追悼するというか回想するというかという作品
母に対して「あなた」という二人称で語りかけるような文章になっていて、自分は確かに作家として有名にはなったけれど、亡くなった時に間に合わなかったし、墓の登記はなくすし、母のことを思い出すことも少ないし、ひどい親不孝な息子ですと延々懺悔している。
母親の若い頃(より正確に言うと結婚してすぐで主人公を身籠っていた頃)の写真で旗袍(チャイナドレス)を着た姿で写っているものを、文革時代に色々な本や原稿と一緒に焼いてしまった(旗袍も打破すべき旧習の一つとされていた)ことを、特に悔やんでいるのだと思う。
文学的には、自分を指す人称代名詞が「ぼく」になったり「彼」になったりはたまた「おまえ」になったりと変わる、というのがポイントなのだと思う。
高行健は1940年生まれの中国の作家。
以前、高行健『霊山』 - logical cypher scape2を読んだことがある。

猫の首を刎ねる ガーダ・アル=サンマーン 岡真理訳

レバノン出身で今はパリで生活している主人公が、故国の伝統的な価値観と西欧の自由主義的な価値観の間で揺れる話だが。
主人公は同じくレバノン出身でパリ育ちの女性と付き合っており、プロポーズしようかと思っているところ、家に、パリでは珍しく自分の本名を知っている謎の婦人がやってくる。母を訪ねてきたのかと思ったら、自分に対して、花嫁を紹介しはじめる。
ここで、この仲人をしようとしている婦人が語る釣書のようなものがすごくて、とにかく徹底して夫に隷従する妻だということを述べている。
タイトルの「猫の首を刎ねる」だが、結婚の際に、新郎が猫の首を刎ねて新婦は夫に付き従うことを誓うみたいな風習があるらしい。
レバノンでは、男に生まれたというだけで優遇され、主人公もパリに移住してくるまではそうであって、この婦人の登場に、そのことを思い出し始める。
一方の恋人というのは、男女は対等であるということを常々言っている。主人公は、恋人のそういうところに魅力を感じると同時に、戸惑いも覚えている。
かつて、彼女からバンジージャンプに誘われながら、怖くて結局跳ぶことができなかったというのと、プロポーズをしようと思っているけれど結局まだできない、というのが重ね合わされている。
最後にこの婦人らが実は伯母の幽霊だったということが分かる。
ガーダ・アル=サンマーンは、1942年にシリアで生まれた小説家、ジャーナリスト

面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) 目取真俊

ある女性が、自分の一生を「あなた」に語るという体裁の作品で、うちなーぐちで書かれている。
池澤夏樹のコメントにもある通り、客観的に見れば悲惨な人生だったとしか言いようがないのだが、その語り自体に悲壮さはあまりない。
彼女は那覇の生まれだが、発達に遅れがあったために両親は彼女のことを北部に住む祖母のもとに押しつける。彼女は神女をしていた祖母のもとで育てられ、自身も霊感があって、幼い頃から亡くなった人の魂の話を聞いたりしていた。小学校にあがるとすぐにいじめられるようになり、以降、学校には行かなくなる。祖母が亡くなったあとはスナック勤めをするようになり、そこで1人の男性と出会う。
この男性と過ごした3ヶ月間が彼女の人生の中の短い幸福な時(むろん、祖母と暮らしていた頃もそうだっただろうが)なのだが、この男性は姿を消してしまう。さらに最終的に彼女は、集団にレイプされ殺されてしまう。つまり、この語り自体が、既に魂となっている者の話だったというのが最後に分かるつくりになっている(ネタバレ)。
この男性は一体何だったのかというと、どうもひめゆりの塔事件 - Wikipediaの犯人だったということらしい。ただ、Wikipediaによるとこの事件の犯人は現行犯逮捕されているが、この作品の中では、逮捕されていないっぽい。).
目取真俊は、1960年沖縄生まれの小説家。1997年に芥川賞

山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』

山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2に引き続き、今度は戦前昭和篇
もともと日本思想史とか全然だったので、大正篇も知らないことが多くて勉強になったところではあるが、とはいえ、大正篇は、自分の従来持っていた日本史・世界史・哲学等の知識でもなんとなく概観は知っているものも多かった。
これに対して、戦前昭和の思想は、そもそも知らなかったようなものも多くて、より圧倒された感じがある。また、多様性というか、例えば右翼思想や軍国思想ないしそれら寄りの思想の中での幅というのは、あまり今まで意識したことがなかったので、面白かった。
国家改造を巡っては、右翼と左翼が入り乱れている感じもあるし。
また、左翼系でいうと、「社会科学」や「天皇制」がマルクス主義に由来する用語だというのに、どこかで聞いたような気もするのだけど、「なるほど、そうだったか」と改めて勉強になった。
また、大正から昭和初期にかけては、政友会と民政党の二大政党時代があるわけだが、それが崩壊してから戦後までの期間の政党に何があるのか、というのを(大政翼賛会を除いて)全く知らなかった。本書も思想史であって政治史ではないので、当時の政党史については書かれていないが、無産政党が少しずつ議席を獲得し始め、最終的に社会大衆党ができる、というのが分かった。


ちくま新書の昭和史関係では、以前に以下も読んでいる。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2
筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志
コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀
第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之
コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之
第3講 講座派と労農派 黒川伊織
コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦
第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭
第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋
第6講 転向 近藤俊太郎
コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司
第7講 農本主義の時代 藤原辰史
コラム5 生活綴方運動  須永哲思
第8講 昭和の日本主義 福間良明
コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明
第9講 国体明徴論 昆野伸幸
コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也
第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀
第11講 自由主義 松井慎一郎
コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩
第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋
コラム9 一国一党論 渡部亮
第13講 国家総動員論 森靖夫
コラム10 女性動員論 堀川祐里
第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史
第15講 京都学派の哲学 藤田正勝
コラム11 日本浪曼派 岩本真一

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志

1920年代、国家から社会へという傾向「社会の発見」
政治が国家だけでなく、労働組合や協同組合など中間集団へと還元されていき、20世紀初頭の英米で「多元的国家論」が登場
日本では、中島重がこれを受容
国家もまた「団体」
第一次大戦前後のイギリスで登場した「ギルド社会主義
労働組合を通じた資本主義の克服を説くが、国家の調整機能を重視する点でサンディカリズムとも異なる
中島のほか、室伏高信、土田杏村、長谷川如是閑らが紹介
ただし、イギリスでは1923年頃より衰退し、日本でもその議論は姿を消し、マルクス主義復権することになる
この頃、「社会科学」という言葉が使われるようになるが、マルクス主義とほぼ同義

コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀

第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之

1924年に論壇デビューした理論家・福本和夫
ドイツの知を背景に持っていたことと、その「分離=結合」論により、知識人から人気となる
コミンテルンの「27年テーゼ」により、福本イズムは否定されるが、本講では、このテーゼの受容の背景に、福本イズム隆盛期にロシアの知を権威とする構造があったからだと指摘する
1928年の衆議院議員選挙で、共産党は合法無産政党である労働農民党から党員を立候補させて、公然化させる。共産党員は落選するも、無産政党議席獲得に成功。
しかし、このことが治安当局により警戒され、一斉検挙が行われ、共産党の運動は断絶する。
福本は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で名前が出てくるし、そうでなくても、ちらちら名前を見かけることはあるがよく知らなかったので、概要が知れてよかった。

コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之

1921年『種蒔く人』創刊から1934年ころまでの運動
1928年「日本無産者芸術連盟(ナップ)」結成。ナップの機関誌には「蟹工船」などが掲載。
共産党が弾圧により見えない存在となる一方、合法組織ナップが共産党のスピーカー役を果たす

第3講 講座派と労農派 黒川伊織

1920年代半ば~1930年代半ばのマルクス主義社会科学のグループで
『日本資本主義発達史講座』に拠ったグループが「講座派」
雑誌『労農』に拠ったグループが「労農派」
前者は戦前・戦後の共産党
後者は戦前の無産政党左派・戦後の社会党の理論的根拠をそれぞれ担った
もともと、両派ともに、福本主義にも社会民衆党社会民主主義にも与さなかった山川均の影響下
日本の資本主義が一体どの段階にあるのか、ということで理論的に対立
明治維新ブルジョワ革命であり、重工業の発展などを重視し日本は資本主義国となったと捉えるのが、猪俣ら労農派
一方、明治維新は不十分な革命であり、地主と小作農の関係を重く見て、日本はいまだ封建国家であると捉えるのが、野呂ら講座派
コミンテルンも、27年テーゼで日本は中進国(ブルジョワ革命とプロレタリア革命の両方が必要)と位置づけ、さらに32年テーゼでは日本の権力体系が「絶対主義的天皇制」「地主的土地所有」「独占資本主義」からなるとした。
ここで「天皇制」という言葉が出てきたが、この用語は共産党が生み出した術語だった。
実はここまで共産党天皇制を特に敵対視していなかったが、コミンテルンが、ここで天皇制を持ち出したのは、日本のソ連侵攻を警戒したため。また、日本国内の共産党員も、治安維持法により(つまり、天皇中心の国体を守ることを理由に)検挙されるので、次第に天皇制への敵意を持つようになっていた、と。
一方、労農派は、天皇制の日本的独自性を否定した(既に日本は立憲主義国家に移行しているという認識)。
1930年代後半にかけて、論争の当事者はみな検挙される(労農派は非共産党系だが、治安維持法の拡大解釈によって検挙された)
講座派と労農派の理論的対立が、現実社会に影響を与えるのは戦後になってから。


講座派と労農派、あるいは日本資本主義論争という言葉自体は知っていたが、詳しくは知らなかったので勉強になった。

コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦

柳田民俗学が成立しはじめた頃、地方でも郷土研究が盛んになりつつあった。
柳田民俗学があって、それが地方で展開されたようにも見えるが、地方側から見ると、柳田のこと「も」受容していただけで柳田一辺倒ではなかったという指摘

第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭

経済自由主義において、国際的な経済活動を担保するものは金本位制だった。
日本も日清戦争金本位制へ移行するが、第一次世界大戦の際、世界各国で一時的に金本位制が停止される。多くの国は1920年代半ばまでに金本位制に復帰した。
1920年代の日本は、事後的に見れば成長率が高い方であったが、当時は国内的に不況の認識が強く、また1923年の関東大震災、続く1927年の昭和金融恐慌により、金本位制への復帰が遅れる
為替安定のため、金本位制への復帰(金解禁)が求められ、1929年に発足した立憲民政党の浜口内閣(および井上蔵相)は金解禁を公約とし、金解禁のために緊縮財政を進める。
金解禁については、元の平価で解禁するか、切り下げて解禁するかで議論があったが、いずれの立場でも、産業合理化・財界の整理の認識は共有されていた。企業統制、企業の組織化、科学的管理法、規格の統一などがすすめられていく。
しかし、満州事変勃発およびイギリスの金本位制離脱により、日本も再度金本位制を離脱するのではという見通しが高まり、実際、1931年、政友会の犬養内閣と高橋是清蔵相により金輸出停止。その後、高橋財政により景気回復するが、農村は不景気が続き、国家改造運動の機運が高まる。
満州事変以降、軍部が「国防国家」を唱え、経済政策への介入をするようになる。陸軍がパンフレットを発表すると賛否両論が起きたが、無産政党社会大衆党はこれに強く賛成した
1935年、内閣調査局設置、1937年には資源局と統合し企画院へと改組。軍事費を中心とした財政拡大により景気は過熱し、経済統制が必要となる。企画院に集った革新官僚が、経済新体制を主張するようになる。
経済自由主義に基づいた浜口内閣の政策が、結果的に経済統制への道を開いた、とまとめられている。

第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋

国家社会主義」自体は明治に初出があり、日露戦争頃に政党も作られるがこれは弾圧され潰えている
ここで論じられているのは、1910年代末、高畠素之による国家社会主義である。
高畠は、マルクス資本論』を日本で初めて全訳した社会主義者
社会進化論に立脚し、国家の社会統制機能を重視。マルクス主義の、国家は階級廃絶後に死滅するという考え方を批判した。また、Massの訳語としての大衆概念に着目。消費者という側面から大衆による社会変革を目指した。一方、労働組合運動など無産階級の団結に懐疑的で、関東大震災の際の自警団活動に「愛国心」を見た高畠は、大衆は国家による統制を望んでいるという考えを深めた。
高畠は1928年に亡くなるが、国家社会主義は、1920年代後半から1930年代初頭にかけて、特に満州事変以降、盛り上がる。
一つには、無産政党議席獲得のため、国家社会主義を標榜し始めたこと
もう一つは、北、大川、満川の国家改造運動との接近で、大川らの思惑により、国家社会主義政党が成立する
国家社会主義は、左派からはファシズムと批判された。
そして実際、高畠やその弟子である石川は、自分たちに近い思想としてイタリア・ファシズムやナチズムを論じてもいた(ただし、高畠も石川も、ファシズムやナチズムは後進の思想ないし過渡期の思想であり、いずれ国家社会主義にいたると考えていた)
一方、1930年代、国家社会主義内部で「日本主義」への移行が起こり、国家社会主義という思想自体は勢いを失っていった、と。

第6講 転向 近藤俊太郎

治安維持法の1928年の改正で結社に加入していなくても処罰が可能になり、検挙者が急増
ただし、検挙数と起訴数の間に大きな隔たりがあって、それは処罰よりも拘束が重視されたことにある(最高刑は死刑だったが、治安維持法違反による死刑判決も出ていない)
長期間の拘留が思想犯を消耗させた
共産党幹部の転向において、平田勲という検事が大きな役割を果たしていた
大量転向への転機となったのは、佐野学・鍋山貞親の転向
天皇制廃止を誤謬とし、コミンテルンの指示から離れつつ、日本、朝鮮、台湾、満州、中国を含んだ巨大な社会主義国家を目指す
佐野の転向の背景に仏教からの影響がある
1936年、思想犯保護観察法が成立し、転向の基準として、単にマルクス主義思想や運動を放棄するだけでなく、日本精神を理解することという条件が加わった
本講は、しめくくりとして、この日本精神の理解というのは、何も思想犯に限った話ではないとして、転向を日本社会全体に向けた教化政策の一部と位置づける。

コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司

技術論としてはマルクス主義由来のそれがあるが、ここでは、同時並行的に日本主義的な科学思想があったことを指摘している。
それは科学する主体の側に日本精神を置くというもの。
転向とのかかわりも言及されている

第7講 農本主義の時代 藤原辰史

農本主義:農業や農村の価値を重視し、都市や工業を批判する思想
丸山真男が「日本ファシズムの特質の一つ」として批判した
1930年代の日本で影響力を持った。
横井時敬
農本主義という言葉を作った。この人は1927(昭和2)年に亡くなっている。
室伏高信
→当時人気の思想家で農村回帰論を訴える。農学に通じていた横井と違って、抽象的に「土」の価値を訴えるだけだが、転向したマルクス主義者たちに影響を与えた可能性。
橘孝三郎
→1930年代に最も政治的に影響を与えた農本主義者。井上日召と結びつく。資本主義を乗り越えるという点でマルクス主義と問題意識を共有しつつ、機械を重視するマルクス主義を近代を乗り越えられていないと批判。天皇崇拝による精神論とも併存。
権藤成卿
アジア主義の系譜。「社稷」概念を論じ、資本主義・産業社会を批判。五・一五や二・二六の青年将校たちの思想的背景ともなった
農業経済学会
→1925年創設。満州移民に関わった官僚や研究者が所属。また、柳田国男も発起人の一人で民俗学的な研究とも関わった

コラム5 生活綴方運動  須永哲思

昭和初期から隆盛し、明治期の作文教育を批判した「随意選題」論や、『赤い鳥』との影響関係の中で形成された運動
当時の「国語」は「読み方」「書き方」「綴り方」の三領域であったが、「綴り方」には国定教科書が存在しなかったがことが背景にある

第8講 昭和の日本主義 福間良明

クーデターなどの行動ではなく、あくまで言論活動をしていた日本主義者について
美濃部達吉などの東京帝国大学教授(特に法学部)への言論上の攻撃を行った。
護憲的で、国家改造運動や統制経済、新体制運動とも相いれなかった
最終的には、日中戦争の長期化を批判して、検挙されるようになる
帝大教授を攻撃していて一見反学歴エリートのように見えるが、実際には彼らも正学歴エリート

コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明

皇国史観を唱えた歴史学者平泉澄について
現在でも、卓越した中世史家としての評価は高いが、皇国史観を唱えて以降は、専門外のことを論ずるようになった

第9講 国体明徴論 昆野伸幸

大正時代の天皇機関説論争は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で触れられた通りだが、美濃部説は通説となっていった。美濃部説は、政党政治の理論的根拠を提供するものだったから
しかし、国家改造主義者は美濃部説を攻撃し続け、1934年頃から議会での機関説攻撃が活発化
国体明徴運動が始まる
国体とは何かという政府声明が出たり、それに基づき、文部省が大学の授業を統制したりした他、当時、行われていた楠木正成の顕彰事業とも関連して、様々な領域に国体論が浸透した
例えば、生長の会などの新宗教など
1937年、文部省から『国体の本義』刊行
天皇機関説を否定し、天皇主体説をとり、天皇親政を憲法の根本原則とし、法は国体の表現だとした
『国体の本義』はまた一方で、政府が国体明徴運動を鎮めようとする目論見であった。国体とは何かを論じるのが盛り上がるというのは、現状の秩序を維持したい側には必ずしも面白いものではないから。
で、『国体の本義』は、色々な立場から批判されることになる

コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也

第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀

北一輝の弟とか石原莞爾とかの話

第11講 自由主義 松井慎一郎

自由主義者河合栄治郎の思想について
個人の理想は「人格の完成」にあると謳う哲学から、「社会は個人の人格の完成のためにそれを阻害するものを除くべきである」という社会思想まで、体系的な思想を作りあげようとした。
本講では、戦前において、河合のほか、石橋湛山清沢洌など反戦的な自由主義者はいたが、何故戦争を止められなかったのか、という問いを立てている。
河合の自由主義哲学には、理想主義哲学が背景にあるが、それはさらに新渡戸稲造や内田鑑三のキリスト教思想からの影響を受けている。さらに筆者は、石橋など他の自由主義者にも、札幌農学校クラークの教え子からの影響があることを指摘している。
また、河合は自らを「第三期の自由主義」と位置づける。第一期は自由放任主義、第二期は社会改良主義で、第三期は社会主義である。ただし、革命ではなく議会を通じた漸進的な体制変化を考える社会主義であり、現実的には社会改良主義の立場に近い。
河合は、第一次大戦後の欧州を訪れその焼け跡を見ており、次の戦争がより悲惨な結果になるだろうと考え、国際連盟がより実際的な効力を発揮するような改良案を提案していた。
ただ、自由主義は、民族の独立も主張しており、これは独立戦争は肯定している。
自由主義の中にはナショナリズムがあり、河合や石橋らは、太平洋戦争勃発後、こうした戦争に対して肯定的な見解も書くようになっている。
筆者は、しかし、河合の自由主義については、体系化を希求するあまりに、似た立場の論者との共闘などを拒んだところを問題視しており、悪い意味でアカデミズム的で大衆に影響を与えなかったことが、戦争を止められなかった理由だろうと論じている。

コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩

毛沢東がどういう人となりをしているのか、戦前日本や、本国中国ですらよく知られていなかったのだが、そんな中、どのように紹介されていたか。

第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋

世界的に「反ファシズム人民戦線」運動があったが、それに対して日本ではどのような動きがあったか。
世界的には、コミンテルンの方針転換(社会民主主義勢力との共闘)と、フランスの作家たち(ロマン・ロランら)の動きの2つがあった。
これらは、海外にいた共産党員(野坂参三)や京都で発刊された『世界文化』や『土曜日』などの雑誌・新聞により、日本国内にも伝えられる。
世界的には、反ファシズム人民戦線は、共産党が中心になって組織されたが、当時の日本では既に共産党が壊滅しており、代わりに、反ファシズムを掲げる社会主義者自由主義者が広く集った。
しかし、当時の代表的な無産政党である社会大衆党は、反ファッショを謳いつつも人民戦線には批判的で、未組織大衆へアプローチして選挙で票を得た。また、社大党は戦時体制へ参画していく
人民戦線論者は検挙され、日本の人民戦線運動は成り立たなくなる
人民戦線運動が続いたのは中国で、中国では日本人捕虜の再教育に野坂参三ら日本の共産主義者が加わった。

コラム9 一国一党論 渡部亮

ナチスの成功に影響され、一党体制による強力な指導力の確立を目指す論が一国一党論
議会制を定める憲法に反しないよう、独裁ではなくあくまでも党による政治を目指す。
左右両翼から展開され、1940年には東方会や社会大衆党は自主的に解党した。
結果として、大政翼賛会ができるが、しかしこれは、また別の右翼から、翼賛会は事実上の「幕府」であって天皇親政を定めた憲法に反すると批判され、形骸化する。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2にもあった)

第13講 国家総動員論 森靖夫

従来、「国家総動員」というと戦前の軍国主義的な政策と捉えられてきたが、近年、そうではない観点から捉え直されており、本講はそれについて紹介している。
国家総動員という考え方は、第一次世界大戦から世界各国に広まり、アメリカやイギリスといった民主国でも取り入れられていたし、日本の国家総動員英米を参考にしていた、と。
民間でも兵器の生産をすることができるようにするというもの。平時には産業振興や資源調査を行い、むしろ軍事費を抑制するもので、また、強制的に行うものではなく国民の自発的な行動により成功するものであって、むしろ民主政と親和性のあるものと考えられた。
産業や資源を内閣総理大臣のもと一元的にコントロールする政策なので、軍に対してはシビリアンコントロールとして働く面をもっており、政党政治時代に進められた総動員政策に対して、軍はむしろ反発する側でもあった。

コラム10 女性動員論 堀川祐里

貧困により働く必要のある女性は既に働いていたので、戦時中は、そうではない女性の動員が必要となった。そうした女性のうち未婚女性を対象としたのが女性挺身隊。

第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史

もともとは、明治から民間の右翼の間にあった「アジア主義」だが、長らく国策にはなっていなかった。
まずは、満州国において国策となり、日中戦争以降、日本でも国策化していく。
満州の「五族協和」論、日中戦争期の「東亜新秩序」、アジア・太平洋戦争期の「大東亜共栄圏」論へと変化していく。
また、実は、左翼側にもアジア主義があり、本講はむしろ左翼側がいかにこのアジア主義にのっかっていったのかを見ていく。

第15講 京都学派の哲学 藤田正勝

京都学派は、批判的に言及されることが多いが、現代からみての可能性を論じてみようという趣旨
内部での相互交流・相互批判が盛んであったことを特徴としてあげている。
例えば、西田と田辺は師弟関係にあるが、田辺側から西田を批判する論文を書いて、西田もそれに応答するというような関係にあった、と。
また、三木清や戸坂潤がマルクス主義に関心をもっていたことから、西田も現実世界・社会への関心を示し、また、下村寅太郎ライプニッツ研究や数理哲学にも影響を受けていた、と。


京都学派については、本講と同じ著者が筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2にも書いてた。

コラム11 日本浪曼派 岩本真一

橋川文三曰く、日本浪曼派=保田與重郎なので、このコラムは主に保田の思想を取り上げている。
保田の思想=近代否定の思想。
ファシズムもまた近代否定の思想であり、日本浪曼派がファシズムと接近したのはその意味で当然であった、と。
保田の近代否定がはっきり現れている「ヱルテルは何故死んだか」の再刊に見られるように、この思想は戦後にも続いていると指摘して終わっている。

藤野可織『ピエタとトランジ』

身近な人の死を引き寄せてしまう体質の名探偵トランジと、彼女の友人で何故かトランジと一緒にいても死なないピエタの友情ないしシスターフッドを描いた物語。
元々、短編(藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2収録)として書かれた作品を長編化したもの*1
短編は、女子高生だった2人の出会いを描いたものだが、長編はその直後から2人の晩年までを12の章に分けて描いている。
探偵と助手が様々な事件を解決するというミステリの形式をとった作品ではあるが、謎解きがあるわけではない(トランジは天才なので、現場を見たり事件の概要を聞いたりするだけで、大体真相が分かる)。
短編の感想を書いた時、以下のように記した

こう言ってしまうともしかしたら色々と語弊があるかもしれないが、読んだ時に感じたのは「これ新青春エンタじゃん」ってことだった。
新青春エンタとはむろん、初期の舞城王太郎西尾維新に冠せられたジャンル名である
人が次々と死に、探偵が出てきて謎を解決する、でもミステリってわけでもなく、そういう形式でしか描けない青春を描こうとしているあの雰囲気

長編は、彼女らの人生をさまざまな時期を書いていくので、狭義の青春に限らないが、大量死とある種の超能力を前提とした、何らかの諦念と独特の倫理観と希望が織りなす2人の人生模様を描こうとしている。
なお、ミステリを超えて最後はディストピアSFっぽくなっていくが、同上


ピエタが書いた記録というていをとっているからかどうかなのかは分からないが、突然回想にとんだりする。というか、回想になる際に行空けがないので、結構戸惑う箇所が多い(行空け自体は使われることがある)。が、それにより、ピエタが思いついた順に書き留めている感が出ているのかな、とも思わなくもない。


全12章で、その後に、元になった短編も掲載されている。
各章は時系列順に並んでいて(つまり1章は、高校生時代、2章と3章は大学生の頃……といいうふうに)、その点でいくと、元になった短編は本来一番最初に配置されるべきだが、そうはなっていない。そして、一応その配置順にも意味が生じるように書かれている。


なお、ピエタもトランジもあだ名であり、日本人である。本名をもじってつけられたと説明されているが、本名は読者に対しては明らかにされない(実は、ピエタが他の人から本名で呼ばれているシーンもあるのだが、伏せ字にされている)。

case1 メロンソーダ殺人事件

2人の高校時代
ファミレスで2人で勉強していると殺人事件が起きたという話
正確に言うと、勉強しているのはピエタだけ。トランジから指示された問題を解いて、その間、トランジは読書しているという感じ。
最後に、トイレで産み落とされていた赤ん坊をトランジが助ける。


トランジは、死を招き寄せる体質のため、これまで何度も転校を繰り返しており、自身のこの体質を疎んでいるところがある。しかし、事件を解決する才能があるため、密かに解決したり、あるいは逆に犯人をかばったり、はたまた、事件を未然に防いだりしてきた。
ピエタは、そんなトランジの体質や才能を知った上で、彼女との生活を楽しんでおり、また、トランジ自身も実際は探偵的なことをするのを好んでいるのだろうとみている。

case2 女子寮連続殺人事件・前篇

case3 女子寮連続殺人事件・後篇

ここだけ前後篇
ピエタはトランジに勉強を見てもらったこともあって、医学部に入学する。
(トランジは(大学名は明示されていないが)東大に合格している。ピエタはトランジと一緒に生きていくにあたって医学部進学するのがよいだろうと決心して猛勉強していた。また、それ以外に護身術も身につけている)
女子寮に住むことになるのだが、そこで森ちゃんという同じく医学生と友達になる一方で、女子寮の寮生が一人ずつ殺されていく。
森ちゃんもまた、トランジのような天才で、この事件の謎を1人で解き明かす


なお、ピエタはトランジとの間で起きた出来事を記録に残しており、それを読んだ他の寮生が、「小説なんて書いているの」と馬鹿にして、ピエタが殴り返すというくだりがあったりする。

case4 男子大学生集団変死事件

東大の男子学生が集団で変死する事件が起きて、森ちゃんがトランジのマンションへ訪れる。
また、幼い頃から周囲で事件が起き続けているトランジのことを怪しんでいる、佐藤という刑事も、この事件についてトランジの元へ相談に訪れる。
ところで、実はこの事件、ピエタとトランジで犯人の後始末(証拠隠滅)をしていたのである。
冒頭から、2人の言動には妙なところがある(トランジとは異なり身なりに気を遣っているピエタが、ダサい部屋着をダサく着ていたり)のだが、それがそういうわけだったということが分かる。
1話は未成年がファミレスのトイレで隠れて出産しているし、2話・3話はDVの話、そしてこの事件はサークルでのレイプが事の発端、と女性を巡る問題が度々描かれている。
ピエタとトランジは、事件を解決することを楽しんでいるが、例えば犯人が性被害を受けていてそれの復讐として事件を起こしていた場合などは、むしろ証拠隠滅して、事件を迷宮入りさせてしまうことも厭わない。

case5 海辺の寒村全滅事件

ピエタと森ちゃんは研修医となり、トランジは本格的に探偵として開業する。
依頼を受けて海辺の寒村に向かったピエタとトランジだったが、そこに待っていたのは森ちゃんだった。


実は、トランジの体質は人に伝染する。
トランジには姉がおり、彼女もまた同じ体質で、今は在宅勤務の仕事をして完全引きこもり状態の生活をしている。彼女はトランジからこの体質が伝染し、さらに、一定以上の天才でないと伝染しないのではと考えている。ピエタには伝染せず、森ちゃんに伝染したことで、トランジ姉のこの仮説は証明された
(なお、なぜかピエタはトランジの近くにいても死なないし人を殺さないのだが、この理由は誰にも分からないまま。トランジの姉はピエタと話す度に挨拶代わりに「なんで死なないんだろうね」と言う)


トランジは自分の体質のことを半ば諦めているし、ピエタはそんなトランジと一緒にいることをむしろ楽しんでいるが、産科医になり自身も子どもを産み育てることをを夢見ていた森ちゃんはこの体質が伝染したことに絶望する(そもそも森ちゃんにはトランジの体質のことは伝えていなかったのだが、森ちゃんは天才なので調べ上げていた)。
そして、トランジともども、ピエタの前から姿を消してしまうのだった。

case6 無差別大量死夢想事件

ピエタとトランジは、出会ってから死ぬまで友人同士でほぼ一緒に生活し続けていくのだが、20代半ばから30代半ばまでのおよそ10年間は全くの音信不通になっていた。
6話と7話はその頃のピエタの話である。
森ちゃんの夢をついで産婦人科医になったピエタは、自分が幼い頃から「全滅」を夢想する趣味を持っていたことを思い出す。
(教室に突然テロリストがやってきて系妄想の亜種。普通、その手の妄想は自分がうまく敵を倒すことが多いと思うが、ピエタの妄想ではピエタ含めて全員死ぬ)
また、ピエタのつとめる病院には、ミケランジェロピエタを描いた絵が飾ってある。
ピエタはもうピエタと呼ばれなくなっていたが、その絵を見る度に、自分がピエタと呼ばれていた頃のことを思い出す。

case7 夫惨殺未遂事件

30を過ぎたピエタは、友人の紹介で出会った男性と結婚する。
新婚旅行で、トランジ像を見て、かつての友人を示す名前以外に「トランジ」という語があったことを初めて知る。
全滅妄想がエスカレーションして、絶えず、周囲の人の死を幻視するようになっている。
章タイトルにある通り、夫を殺しそうになるが未遂に終わる。
森ちゃんが望んでいた人生を送ろうとしていたピエタだったが、最終的にそれに適応できていないことに気付く

case8 死を呼ぶババア探偵事件

7話のラストでトランジと再会したピエタは離婚し、トランジの探偵事務所を手伝うようになる。
女子高生とその母親が失せ物の依頼をしてきたが、トランジの体質により、その母親や叔父などが死んでいく。
トランジは女子高生などの間で「死を呼ぶババア探偵」として噂になっていた(ピエタは、「あれ、死を呼ぶ女探偵じゃなかった? え?」となっていたが)。

case9 疑似家族強盗殺人事件

ピエタの両親のところに、かつてのピエタの同級生が子どもをつれて来るようになっていたことを、電話で知る。
そして、その後、両親とその同級生が遺体で発見されるのだが……。

case10 傘寿記念殺人事件

トランジの体質は、森ちゃんだけでなく、さらに様々な人に伝染していって世界的に殺人事件が増えていく。
トランジの探偵事務所が入っているビルの大家さんが、傘寿記念(?)に元夫を殺した話を、2人は聞く。
そして2人はアメリカへ(構成としては、既にアメリカへ渡った2人が、その話を回想している)。

case11 高齢者間痴情のもつれ殺人事件

60代になったピエタとトランジはまだアメリカにいて、ピエタはトーマスという男性に恋をしていた。
しかし、実はこのトーマスは、ピエタとトランジのことを調査していて……。
なお、ピエタ恋多き女性で、高校生や大学生の頃は、トランジを隠れ蓑にして男のところに遊びに行ったり、あるいは男を寮に連れ込んだりしていた。40代以降も、常に男がいたらしいことがトランジの台詞からうかがえる。しかし、ピエタの彼氏ないし夫として登場するのは、短編の際の社会人彼氏、産科医時代の夫、そしてこのトーマスの3人のみである。
一方、トランジはそういう相手がいたことがない(仮にいたとしてもトランジの体質により死んでしまう)。刑事の佐藤は、トランジの部屋に入り込んでいたことがあるが関係があったかは不明だし、結婚してトランジからは離れる。

case12 世界母子会襲来事件

80代くらいになっている。
人類社会は崩壊し、小規模なコミュニティがそれぞれ自給自足しながら細々と暮しており、2人はそうしたコミュニティを渡り歩いている。
人々は互いに会う機会を最低限にしているし、些細なことで殺してしまうので、若者はもはやトランジの探偵というのが何なのかよく分かっていない
世界母子会、というのは、出生数が激減したこの世界で、改めて子どもを産み育てようといする会で、森ちゃんの思想的影響下にあり、ピエタとトランジを殺しにくる。

ピエタとトランジ

ピエタの高校に転校してきたトランジ
ピエタの社会人の彼氏が殺されるのだが、その彼氏が3股をかけていてそのうちの1人が犯人であることを瞬く間に解き明かしてしまうトランジ。
以来、ピエタの高校では次々と人が死んでいったが、ピエタはトランジを学校につなぎとめる。
この短編だけで完結している話だが、第1章で、ピエタは自分たちの出会いを綴ったノートだかを紛失してしまったということを述べており、そして、第12章で、トランジはピエタに、なくしたっていうから私の頭から出力しておいたといって、この話を渡すのである。
また、この短編の最後の台詞等々と第12章の最後の台詞等々が同じ、という仕掛け(?)もされている。

*1:単行本では『ピエタとトランジ〈完全版〉』だったが文庫化の際に『ピエタとトランジ』になった

イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(米川良夫・訳)

Qfwfq老人が、宇宙創成や恒星の誕生の頃、あるいは自分が恐龍だった時代や陸上生活を始めた頃の脊椎動物だった時代を語った物語を集めた連作短編集
「自分が恐龍だった」とか何やねんという話だが、実際Qfwfqが「わしは恐龍だった」云々と語っているのであり、Qfwfqは宇宙創成どころか宇宙の始まりの前から存在していて、宇宙が存在するようになるか賭け事をしていたり、ガス円盤の中で家族とともに生活していたりしたというのである。
そんな話が11篇集められているが、そのうち7篇は実はラブロマンスものであり、時空を超越した舞台設定をしつつも、繰り広げられる物語は人間くさい話だったりするが、その双方の相乗効果で、失われていくものへの哀惜のようなものが描かれていたりする。
とはいえ、かと思えば、円城塔ばりのメタフィクションも展開されたり思弁全開だったりする話もあるので油断ならない。
ちなみに、各話の冒頭に科学書からのエピグラフらしきものが置かれていて、それに対してQfwfq老人が、そうそうその頃にはな、みたいな感じで語り始めるという形式がとられている。
どの話もコミカルで面白いが、センチメンタルな感じというか「恐龍族」が頭一つ抜けて傑作だと思う。
その思弁や描写の点で「渦を巻く」や、お伽噺っぽさで「月の距離」も面白い。


なお、Qfwfq老人の物語は、『柔らかい月』にも収録されているほか、さらにそれ以外にも書かれており、本国ではそれらを収録順序を整理した上で改めてまとめた本が出ているらしい。
訳者あとがきによれば、文庫化に際して1編追加を検討していたが、権利者側の許可がおりなかったらしい。一方、本書と『柔らかい月』が日本では別の版元から出ている事情もあって、上述のいわば完全版を出すのが日本では出すのが難しくなっているということも、あわせて書かれていた。


10年以上前に一度読んでいたのだけど、数年前から「再読したいなあ」と思いつつ読めていなかった。
今、海外文学読むぞ期間を実施中なので、これを機に再読することにした。
フォークナーの次にカルヴィーノ読むの、なかなか振り幅が大きいが。
以前、読んだことあるカルヴィーノ作品は以下の通り。一番有名な『冬の夜ひとりの旅人が』を実は読んでいなかったり。
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』 - logical cypher scape2
イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』 - logical cypher scape2
『レ・コスミコミケ』『宿命の交わる城』
イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』 - logical cypher scape2

月の距離

地球と月の距離がまだ近かった頃、舟から脚立をかけては度々、月のミルクを採りに行っていたという話。
Qfwfqは、Vhd Vhd船長夫人に恋慕していたのだが、その夫人はQwfwfqの従弟に思いを寄せていたという三角関係もの。
その肝心の従弟はというと、月に焦がれていた。
月との距離が次第に離れ始めた頃、Qfwfqは、夫人と月で二人きりになる計画をたてるが、結局地球と離れてしまうことに焦り、最後は必死に地球へと戻ってくる。一方の従弟はついに離れ行く月と一緒になることを選び、夫人もあとを追う。
何より、脚立を立てて月に行って、重力の向きが反転したり、また月から地球に飛び上がって(飛び降りて)戻ってきたりとかいった描写の、ほのぼのした感じが面白い。

昼の誕生

星雲がガスから固まっていく頃の話、Qfwfqは星雲のガスの中で、祖母や両親、姉弟たちと暮していた。
次第に固体ができてきて、父親が「さわった」と言ったりする(そもそも、「さわる」とはどういうことなのかこれ以前にはよく分からなかった、みたいなことが書かれている)
そんな中、双子の弟と祖母のドーナツ盤がなくなり、Qfwfqが弟たちを探しに行ったり、
田舎(?)からきていた叔父・叔母が事態の急変に対して帰ることにしたのだが、なんか漂流してしまったり。
タイトルに「昼の誕生」とあるように、最終的に星雲から太陽が誕生するのだが、引っ込み思案の姉は地球にもぐりこんでしまう。その後、姉の行方は分からないままだったが、1912年にひょっこり再会した、みたいなことをしれっと述べていたりする。

宇宙にしるしを

太陽系が何億年かけて銀河系の中を公転するので、しるしをつけておこうとした話。
そもそも「しるし」とは一体何なのかという思弁が展開されるとともに、QfwfqとKgwgkとの間の、やりあいみたいなことが描かれている。
やりあいというのは、Kgwgkが、Qfwfqのつけたしるしを消したり、似て非なるしるしをつけたり、ということである。
上に、本書収録作品の半分以上がラブロマンスだと述べたが、その次に多いのが、Qfwfqの分身のようなライバルのような者とのゲームのような話である。

ただ一点に

宇宙がまだ一点に凝縮していた頃の話
しかし、まあ例によって、Qfwfq以外にも何人もの登場人物が出てくる。
マドンナ的女性が出てきたり、移民(一点しかないのに果たしてどこから移民してくるのか)が出てきたりする。
「空間があれば、スパゲッティを作ってあげるのに」

無色の時代

まだ、世界に色がなく、あたり一面が灰色だった時代(冒頭のエピグラフに従うならば、大気がなかった頃)。
Qfwfqは、アイルという女性(ルは小書き文字で書かれている)と親しくなっているが、2人は性格が違い、Qfwfqが新しいものや刺激的なものを求めていたのに対して、アイルは灰色の世界を愛していた。
隕石の衝突をきっかけとして、にわかにあらゆるものに色がついて見えるようになる(紅玉は紅かったのか、とQfwfqが驚くあたりはちょっとニヤッとしてしまう)。
Qfwfqは興奮してアイルにも見せようとするのだが、アイルは消えてしまっていた。
失われてから、灰色の世界の美しさに気付く

終わりのないゲーム

Pfwfpとのゲーム(QfwfqもPfwfpも子どものようである)
最初は、水素原子をビー玉のようにしてぶつけあう遊びをしており、
その後、星雲にのって追いかけっこするのだが、何故か無限ループのような状態になる

水に生きる叔父

両生類が上陸し始めていたような時代の話
Qfwfq一族の大叔父は、しかし未だにサカナのような生活をして、水辺から離れようとしなかった。
陸上進出して、様々な地域へと拡散したQfwfq一族は、時々大叔父のもとへと帰ってきて互いに旧交を温める(お正月の帰省みたいな感じなんだろうか)
古い生活と価値観に固執する大叔父をQfwfqはよく思っていないが、大叔父は一族の中での重鎮みたいな存在で、親戚たちも彼に相談をもちかけたりしている(が、それに対しても水中生活の価値観で答えるので、Qfwfqはやはりよく思っていないというか、恥ずかしく感じている。ところで、その例として出てくるのが、水面よりも水底の方が漁の先取権があるのは当然だろ、とかで面白い。帰省土産が虫だったり)
Qfwfqには、L11という恋人がいるのだが、彼女の一族はもう数世代も前から陸上進出している。そんな彼女に大叔父を紹介する時がくる。いまだにサカナをやっている者が親戚にいることを彼女からどう思われてしまうのが気が気でないのだが、L11はむしろ大叔父との会話を思いの外真剣に楽しんでいる。
ところが最後には、L11を大叔父に寝取られてしまうというまさかのオチ

いくら賭ける?

学部長と色々な賭けをしていたという話
宇宙が存在するようになるかどうかから、アーセナルvsレアル・マドリードの結果まで。
Qfwfqはとにかく色々なことをシミュレートしていて、まだ地球も人類もいない頃に「メソポタミアアッシリアに侵略されるか」という賭けをもちかけて、学部長を困惑させている。
Qfwfqは、そういう感じで突拍子もない賭けをしかけたりして、大勝ちしていくスタイルがで、それに対して学部長は保守的で、基本的にQfwfq逆張りをするだけなので、まあ普通に負けるのだが、後半では勝敗が逆転していく。

恐龍族

Qfwfqが恐龍だった頃の話。
しかし、恐龍の時代ではなく、恐龍が絶滅してしまった後、Qfwfqだけが山奥で絶滅を免れて生き延びた時代。山を下りてくると「新生物」たちと出くわして、一緒に暮すようになる。
新生物たちの間では、恐龍が古く恐ろしい存在として噺の中に出てくるが、しかしもはや誰も見たことがない。Qfwfqは正体がばれるのを恐れながらも、新生物たちの中に次第に馴染んでいく。
また彼は、新生物のフィオール・ディ・フェルチェと親しくなっていく。彼女は夢の中で恐龍を見るのだが、それがまた本当の恐龍とは違うので、Qfwfqは複雑な心情を抱く。
また、港町からフィオール・ディ・フェルチェの兄であるヅァーンが帰ってくる。当初、ヅァーンは、余所者であるQfwfqへ不審を抱くが、力比べをしたあとはむしろ信頼するようになる。
色々事件なり何なりが起きる度に、新生物たちの間で広まる恐龍の噺と態度は変わっていく。新生物たちが恐龍を持ち上げるようになると、Qfwfqは密かに恐龍はそんなよいものではなかった、新生物たちの方がよほど優れているのにと思うし、逆に、新生物たちが恐龍を冗談の種に使うようになると、自分だけが恐龍の優れたところを忘れないようにしなければと思う。
結局、恐龍にも新生物にも嫌気がさして1人になるが、別の土地からやってきた新生物の一群に、遠く恐龍の血をひいている混血のムスメがいることにQfwfqだけが気付く。
そのムスメの子が「ぼくは新生物だ」と言うのを聞いて、安心して去って行く。

空間の形

平行線を飛び続けるQfwfqウルスラとフェニモア中尉
Qfwfqとフェニモアは、ウルスラを巡って恋のライバルにある。
直線は文字へと変わり、メタフィクションになっていく。

光と年月

望遠鏡をのぞいていたら、1億光年先の惑星に《見タゾ》のプラカードが挙がっているのを発見する。
果たして計算してみると、2億年前に確かに見られるとまずい醜態をしていた日があったことに気付いて、さてどうやって反応するべきかと色々やきもきしたり、その情報が宇宙中に広がっていったりなんだりする話

渦を巻く

軟体動物だった頃の話。彼女に恋をする。
また、分泌物を出して貝殻を作るようになる。
短編だが3節に分かれており、そのうち第2節は、5億年後の世界(=現代)について描かれている。様々な場所に自分や彼女が遍在しているようなことが言われており、ここまでの物語の最後に相応しい。かなり長い1文が出てきたり、ポンポンとカメラ位置が変わっていったりといった点も面白い
第3節では視像(イメージ)についての思弁というか。視覚器官が発生したからイメージが生じたのではなくて、見られるに値するものが生まれたから視覚器官やイメージが生じたのだというようなことを論じていて、要するに、それは自分の作った貝殻であって、イカとか捕食動物が目を進化させたのはそれの付随なんだ、と

訳者あとがき

Qfwfqカルヴィーノは別人であるというていで語られるあとがき