ミハイル・A・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫・訳)

ソ連時代のモスクワを舞台に、悪魔たちが大暴れする話
今現在、個人的に海外文学読むぞ期間を実施中で、この期間に入ってから度々「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」に言及しているけれども、その収録作品の中でも人気の高い作品らしいので、手を取った。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」については、下記の2つのブログをかなり参照させてもらっている。
『巨匠とマルガリータ』ブルガーコフ - ボヘミアの海岸線
1-05『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ/水野忠夫訳 - ウラジーミルの微笑
なお、集英社から刊行された訳が、「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」において全面改訳され、それが岩波文庫に収録されたものを読んだ。
巨匠とマルガリータ』というタイトルの作品だが、上述記事にある通り、「巨匠」も「マルガリータ」もなかなか登場しない。
本作は全32章で構成されていて、1~18章が第一部(岩波文庫版ではこれがそのまま上巻となっている)、19~32章が第二部(同じく下巻)という構成になっているのだが、「巨匠」が登場するのは第13章、マルガリータが登場するのは第二部第19章からとなっている。
上述記事を読んでいたので、かなり後からの登場になることは知っていたのだけど、巨匠が登場する第13章のタイトルがその名も「主人公の登場」だったのにはちょっと笑ってしまった。


冒頭に「悪魔が大暴れ」と書いたが、
第一部では、ヴォランド率いる悪魔の一行が、突如モスクワへと訪れたところから始まり、モスクワ作家協会議長であるベルリオーズの死を皮切りに、登場人物たちが次から次へと破滅させられていく。
彼らがモスクワに訪れた理由は、第二部によって明かされるが、悪魔の舞踏会を開催するためだった。しかし、舞踏会を開催するのには女主人が必要で、それはマルガリータという名前の女の中から選ばれる。
かくして、マルガリータは、ヴォランド一味に協力することになるのだが、これは悪魔から課せられた試練のようなもので、マルガリータは愛する巨匠と再会するべく、この試練を乗り越えていく。
第一部ではあれだけ人々を翻弄したヴォランド一味だが、巨匠とマルガリータに対しては、救済をもたらしてくれる。
第一部のあれやこれやは、スターリン政権下での不条理を下敷きにしているのかなとも思うけど、悪魔なので魔法的なことを使ってくる。


ヴォランドは、「黒魔術の教授」や「外国人特別顧問」を名乗り、悪魔たちのリーダー格。
コロヴィエフは、チェックのジャケットに騎手の帽子をかぶり、荒っぽいことをする悪魔
アザゼッロは、赤毛で山高帽をかぶり、どちらかといえば下手にでた話し方をする
ベゲモートは、二本足で歩く黒猫
ヘルラは、全裸または半裸で出てくる魔女。登場回数は少ない。


第一部(上巻)

1 見知らぬ人とは口をきくべからず

作家協会の議長ベルリオーズと新進気鋭の詩人イワンが、黒魔術を専門とする外国人特別顧問ヴォランド教授と出会う
この時点では名前も出てきていないし台詞もほとんどないが、コロヴィエフとアザゼッロも登場している。

2 ポンティウス・ピラトゥス

ヴォランドが物語るピラトゥス総督の話
エス(作中ではヨシュア)が、総督の前に引っ立てられて死刑判決を受けるまで

3 第七の証明

ヴォランドの予言通り、ベルリオーズが電車に跳ねられて首切り死体となる。

4 追跡

イワンが、ヴォランドを追いかけ始めるが、全く追いつけない。
赤毛の男と二本足で歩く猫が加わるが、3人(?)とも見失う。
イワンは、人の家に忍び込んで蝋燭と聖人画を盗み、川へと飛び降りる。

5 グリボエードフでの事件

作家協会がある建物、通称グリボエードフは、レストランと作家協会の事務局がある。
ベルリオーズの訃報が伝わる。
そこに、ズボン下1枚でびしょ濡れのイワンがやってきて、教授を捕まえろと大暴れする。

6 予言どおりの精神分裂症

イワンは精神病院送りになる。

7 呪われたアパート

ベルリオーズの同居人で、ヴァリエテ劇場の支配人であるリボジェーエフのもとにも、ヴォランド一行が現れる。
朝起きると突然部屋の中にいたヴォランドが、リボジェーエフの記憶にない劇場での公演契約について言い始める。
言いくるめられたリボジェーエフは、気付くとヤルタにいた。

8 教授と詩人の対決

イワンは、精神病院の教授に、自分の身に起こった出来事について話す

9 コロヴィエフの奸策

ベルリオーズの住むアパートの居住者組合議長であるボソイのもとに、悪魔コロヴィエフがやってくる。
コロヴィエフから受け取ったお金が、途中で外貨にすり替わって、コロヴィエフからの通報をうけた警察に踏み込まれ、ボソイは逮捕される。

10 ヤルタからの知らせ

ヴァリエテ劇場の経理部長リムスキイと総務部長ヴァレヌーハのもとに、リボジェーエフがヤルタにいるという電報が入ってくる
いつの間にやら変な教授の公演を決めているし、電話したばかりでヤルタなどに行けているはずもないので、一体どういうことかと悩む2人だが、本当のヤルタではなくて、ヤルタという店にいて悪ふざけをしているのではないかと思案する。
その後、ヴァレヌーハは、コロヴィエフとベゲモートにボコられる

11 イワンの分裂

ヴォランドを告発するための手紙を書いているうちに、ベルリオーズの死を気にしなくなったイワン

12 黒魔術とその種明かし

ヴァリエテ劇場で、ヴォランド一行がモスクワ市民の前で黒魔術ショーを行う。
元々、「黒魔術とその種明かし」をするという予定だったようで、司会者はそのように紹介したのだが、ヴォランドらはそれを一蹴して、高額紙幣を客席に降らせたり、女性客にパリから取り寄せたというドレスやハイヒール、アクセサリー、香水を配ったりする。

13 主人公の登場

イワンが入院している精神病院の病室に、別の病室から窓をつたって他の患者がやってくる。
彼は「巨匠」を名乗り、自分の書いた小説とマルガリータと過ごした日々を語る。

14 雄鶏に栄光あれ!

深夜の劇場、1人残っていたリムスキイ。
ヴァレヌーハが戻ってくる。
ヘルラが襲ってきて、からがら逃げ出す

15 ニカノール・ボソイの夢

逮捕されたボソイは、その後、イワンと同じ精神病院に送られる。
そこで見た夢は、外貨取引で捕まった者たちが客としてきている舞台。司会者から、一人一人舞台にあげられ、外貨取引を認めるように促される。

16 処刑

ゴルゴダの丘でのヨシュアの処刑

17 落ち着かない一日
18 不運な訪問者たち

第二部(下巻)

19 マルガリータ

マルガリータは、科学者の夫をもち、誰もがうらやむ邸宅に住み、何不自由ない暮らしをしていたが、ある日、巨匠と出会い恋に落ちてしまう。
が、巨匠が彼女の元を去ってから、失意の日々を過ごしていた。
ある日、何かが起こりそうな予感がして街を歩いていたら、ベルリオーズの葬列に出くわす。
そして、アザゼッロが声をかけてくる。
巨匠の原稿の内容とマルガリータが密かに思っていたことを全て言い当てられ、マルガリータはアザゼッロの誘いに乗る。

20 アザゼッロのクリーム

アザゼッロは、21時半きっかりに裸になってこのクリームを全身に塗り、その後にかかってくる電話の指示に従えという。
そのクリームを指示通りに塗ると、肌がみるみるときれいになっていき、マルガリータは魔女となった。
小間使いのナターシャを置いて、家を出る

21 空を飛ぶ

ほうきに乗ってモスクワの空を飛ぶ。誰にも姿が見えなくなっている。
作家たちが多く住むアパートを見つけ、巨匠を侮辱した批評家が住んでいることに気付くと、部屋を破壊して回る。

22 蠟燭の明りのもとで
23 悪魔の大舞踏会

ヴォランドを主人と呼び、舞踏会の客を出迎えることになるマルガリータ
客たちはみな墓から蘇った者たち

24 巨匠の救出

ヴォランドからの試練をやり遂げたマルガリータ
ヴォランド一行の打ち上げパーティもなんとか卒なくこなす。
そして、ついにヴォランドの力により、巨匠との再会を果たす。

25 イスカリオテのユダを総督はいかに救おうとしたか

25章と26章は作中作。巨匠の書いている小説の内容で、第2章の続き
ヨシュアの処刑から一夜明けて、一睡もできなかった総督が、秘密護衛隊長に指示をくだす。
処刑された者の埋葬と、イスカリオテのユダを守ること。

26 埋葬
27 五〇号室の最後

警察による捜査

ベゲモートと警察の銃撃戦
50号室の炎上

28 コロヴィエフとベゲモートの最後の冒険

外貨専門店での食い逃げと放火
グリボエードフで、2人に気付いた支配人の海賊

29 巨匠とマルガリータの運命は定められる

モスクワの市街を眺めるヴォランドとアザゼッロのもとに、マタイが現れる。
「あの人」も巨匠の小説を読み、巨匠とマルガリータに安らぎが訪れることを望んでいるとヴォランドに伝える。
ヴォランドは、自分のことを忌み嫌うマタイに対し、悪がなければお前のような善もないのだぞと言い放つ

30 出発の時

かつて巨匠が暮していた地下室に戻ってきた2人は、落ち着きを取り戻し、巨匠は本当に悪魔と出会ったのかと思うようになっていた
そこにアザゼッロが訪れる。
巨匠とマルガリータは、アザゼッロがワインに盛った毒で殺された後復活する。
巨匠は、イワンの病室に訪れ別れを告げる。
その後、イワンは隣の病室の患者(つまり巨匠)が亡くなったことを知らされる。

31 雀が丘にて

アザゼッロに連れられて、空飛ぶ馬に乗った巨匠とマルガリータは、ヴォランド一行と合流する。
ヴォランド一行は、馬を進めるうちに、真の姿を見せていく

32 許しと永遠の隠れ家

ヴォランドは、巨匠を、苦しみに苛まされ続けるピラトゥスと対面させる。
巨匠はピラトゥスに対して「お前は自由だ」と伝える
ヴォランドたちは去り、巨匠とマルガリータは、永遠の隠れ家へとたどり着く

エピローグ

ヴォランドたちが去ったモスクワの話。
生き残った人たちがどうなったかについての色々
イワンは退院し結婚もしたが、何年経っても、満月の夜になると苦しみに悩まされつづけていた。

解説

ブルガーコフの生涯と再評価などについて
ブルガーコフは、1891年生まれ1940年没。本格的に文筆活動を始めたのは1920年代から。
キエフ生まれで、白衛軍の軍医として働いていた。その後、『白衛軍』という長編第一作を書いている。
「モスクワ三部作」とも言われる中編小説3編を書いた後、『白衛軍』を自ら戯曲化した「トゥルビン家の日々」が成功を収める。戯曲家として評価を集め、自身も舞台へとのめりこんでいくが、この作品が白衛軍賛美ととられて、小説などが発禁となる。
その後も、モスクワ劇場で働き続けるも、晩年は密かに長編小説『巨匠とマルガリータ』などを書きためていた。
スタリーン亡き後の雪解けの時代になって、再評価する声がでるようになり、未亡人が未発表原稿を保存していたこともあり、『巨匠とマルガリータ』も出版の日の目を見ることになる。しかし、最初ソ連で出版された際には検閲がかかったため、未亡人は後にフランスで検閲の入っていない版を発行している。また、その後、文献研究が進んで、新たな版も発行されている。
翻訳は、70年代の版をもとにしつつ、近年の文献研究も踏まえたものであると言い添えられている。
訳者は、ブルガーコフが政治との対立を越えて、政治とは自立した小説世界を作り上げようとしてそれに成功した作家と評価している。

ブルガーコフの作品との出会い

訳者は、早稲田大在学時代に、米川訳による中編を読んだ。
また、やはり大学時代の師であった野崎韶夫は、「トゥルビン家の日々」を実際にその目で観劇しており、ブルガーコフについて熱く語っていたという。
訳者である水野は、ブルガーコフの中編小説などを翻訳している。
巨匠とマルガリータ』は、「悪魔とマルガリータ」というタイトルで1969年に、水野の友人でもある安井侑子により翻訳されていたが、1977年に水野訳が刊行され、1990年、2008年(「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」)にそれぞれ改訳されている。

木原善彦『実験する小説たち』

アメリカ文学研究者で翻訳者である筆者が、主に20世紀後半以降に書かれた実験小説を色々紹介してくれる本。
今、海外文学読むぞ期間を個人的に展開中だけれど、それのガイドになればなあと思って。それ以前から気になっていた本ではあるけれど。
どういう手法を使っているのかという解説だけど、あらすじも紹介されていて、物語の面でも普通に面白そうな作品が多い印象。
また、各章末に、その章で取り上げた作品と手法などで似ている作品のブックガイドもついている。
ナボコフ『青白い炎』パヴィチ『ハザール事典』ベイカー『中二階』ダニエレブスキー『紙葉の家』ミッチェル『クラウド・アトラス』フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が面白そうだな、と思った。


第1章 実験小説とは

『トリストラム・シャンディ』などを例に出しながら、実験小説とは何かについての説明と、本書で取り扱う実験小説の範囲などについて書かれている。
『トリストラム・シャンディ』って名前は知ってるけど、18世紀にこんな作品が既にあったのか、ということに驚く。
ところで、もともと「実験小説」という言葉は、ゾラが自分の自然主義の方法論を示すのに使い始めた言葉だったらしいんだけど、もちろん今現在「実験小説」と呼ぶ場合、この意味で使われることはまずない。

第2章 現代文学の起点:ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』(1922)

自由間接話法の話が主なのだけど、今の視点で見ると、もはや普通に見かける技法になっていて、それほど前衛感はないなと思ってしまった。

第3章 詩+註釈=小説:ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(1962)

タイトルにあるとおり、詩があって、それに対する注釈という形で構成されている作品
注釈を読んでいくと、詩人の身に起きた出来事についての物語が立ち上がってくるというもの
また、作中の注釈者について、信頼できない語り手として論じていて、章末ブックガイドでは、信頼できない語り手の出てくる作品などを紹介している。

第4章 どの順番に読むか?:フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(1963)

作者から二通りの読み方があると最初に宣言されている本
一つは順番通りに読み進めて途中の章で終わる読み方
もう一つは、指示通りに読み進める読み方
本作は、大きく3つに分けられており、第一部はパリを舞台にした話、第二部はアルゼンチンを舞台にした話、第三部は雑多な章の集まりとなっている。
1つ目の読み方だと、第一部と第二部がそのまま順序通りということになる。
2つ目の読み方だと、上述の物語の合間合間に第三部の章が差し挟まれることになる。
2つ目の読み方は、ある意味で「ディレクターズ・カット版」なのだ、とのこと。
ブックガイドでは、他に、どの順番で読んでも構わない小説が紹介されている。

第5章 文字の迷宮:ウォルター・アビッシュ『アルファベット式のアフリカ』(1974)

日本語未訳作品。『残像に口紅を』的な奴。
残像に口紅を』は、だんだん使える単語が減っていくが、こちらは、最初の章はaで始まる単語だけ、次の章はaとbで始める単語だけ、と増えていき、26番目の章で全ての単語が使えるようになり、また折り返し減っていくというものらしい。
“another xx”で「新たなxx」と訳すんだなー
このように、特定の語を使わない作文法をリポグラムとして、有名な作品としてジョルジュ・ペレック『煙滅』も

休憩1 タイトルが(内容も)面白い小説

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』とか『高慢と偏見とゾンビ』とか

第6章 ト書きのない戯曲:ウィリアム・ギャディス『JR』(1975)

これも未訳作品
ギャディスは、デビュー作がジェイムズ・ジョイスを継ぐ傑作と評されるが、難解すぎるせいで、2作目『JR』が出るのはその20年後だった。3作目はその10年後、4作目はその9年後に出ている
章や節の区切りが一切なく、セリフは「 」でくくられず、――(ダッシュ記号)で示されるだけで、誰が言ったセリフなのかが書かれていないという状態で延々続くらしい。
あらすじも書かれているが、結構混みあっていて、富裕な一族の相続をめぐる話と芸術家たちの話と、JRというイニシャルの少年がネットを使って投資していく話とが進んでいくらしい。

第7章 2人称の小説:イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(1979)

カルヴィーノは以前いくつか読んだことはあった*1が、これは未読。二人称小説として有名なのは知っていたが、それ以上どういう感じの作品なのかも知らないままだった。
次から次へと、作中作が出てくる話のようだ。

第8章 事典からあふれる幻想:ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(1984)

この作品は、以前どこかで書評か何か読んでから気になっている。
ハザール族の君主がかつて、イスラム教、キリスト教ユダヤ教それぞれの代表者を呼んで論争させた「ハザール論争」、それにすいての死霊を集めたのが「ハザール事典」で、さらに付属文書なるものがついている。
これらの個々の項目を、魔術的リアリズムで書かれた短編として読んでいくこともできるし、これらは辞書になっていて、各項目が参照しあっているのでそれを辿ってハイパーテキスト的に読むこともできる、と。
特に、巻末の付属文書は、ハイパーテキスト的な読み方について2つの大きな辿り方があることを示している、と。
また、男性版と女性版があるが、この2つのは相違は10数行ほど、ただし、この付属文書が示す殺人事件と関係しているとのこt
章末ブックガイドは、架空の〇〇を巡る作品ということで『鼻行類』『完全な真空』『アメリカ大陸のナチ文学』『本の中に生きる』(未訳)が紹介されている。

第9章 実験小説に見えない実験小説:ハリー・マシューズ『シガレット』(1987)

フランスの実験小説集団「ウリポ」に所属する作家の一人であるマシューズの作品
なお、ウリポには、レーモン・クノーマルセル・デュシャンジョルジュ・ペレックイタロ・カルヴィーノもメンバーとなっている。また、ウリポは死者も現役メンバーとされるらしい。
この作品は、登場人物2人ごとに章わけされており(「アランとエリザベス」「アランとオーウェン」「モードとエリザベス」……というように)、また、2つの時間を往復するような構成になっているらしい。
しかし、それだけでは実験小説とは言えないだろう。実際、普通に読んで面白い作品らしくて、章タイトルのように「実験小説に見えない」らしい。
では何が実験小説なのかというと、作品を作るにあたって、何らかの数学的アルゴリズムを用いたらしい。
しかし、このマシューズという作家、方法論的にはなんか色々やってる作家らしいのだが、その方法論を公開していないばかりか、作家本人の言によれば、書いた先から忘れていっているらしい。だから、実際にはどんな方法が使われたかは不明、という。

休憩2 小説ではないけれど、興味深い試みをしている本や作家

ルイジ・セラフィーニ『コデックス・セラフィニアヌス』など
これは、未知の世界についてその世界の言語で書かれた百科事典だとか。未訳
あと、色々切り貼りした作品とか、バイオテクノロジー詩とか

第10章 脚注の付いた超スローモーション小説:ニコルソン・ベイカー『中二階』(1988)

サラリーマンが、昼休みに昼食を取ってからオフィスに戻るためにエスカレーターにのっている間の10秒間の思考について書かれた200ページほどの作品。
時間的にはものすごく短い間のことを、すごく引き延ばして(?)書いている
『青白い炎』同様、脚注小説
プルーストの『失われた時を求めて』とも少し絡めている

第11章 逆語り小説:マーティン・エイミス『時の矢』(1991)

時間を引き延ばしてスローモーションになっている『中二階』に対して、時間を逆転させているのが本作
ただ、これはうまくいっているのかどうかよく分からないらしい。しかし、筆者はそういう作品が好きだ、ということで紹介している。
章末ブックガイドは、時間の流れに関連した作品として筒井康隆虚人たち』、ヴォネガットスローターハウス5』、ベイカー『フェルマータ』が紹介されている

第12章 独り言の群れ:エヴァン・ダーラ『失われたスクラップブック』(1995)

作者は、ポスド・ギャディスとも称される覆面作家
ピリオドを用いずに、内的独白の一人称の語りが続き、なおかつ、その語り手が切れまなく別の語り手へと交代し、様々な挿話が語られる、という作品らしい
章末ブックガイドでは、独白からなる小説、ポスド・ギャディス、ポスト・ピンチョンという枠
ダーラと作風が近い作家としてデヴィッド・フォスター・ウォレス『ヴィトゲンシュタインの箒』という作品が紹介されている。ところで、14章にでてくるマークソンの代表作は『ウィトゲンシュタインの愛人』
実験小説とウィトゲンシュタインは何かひき合うものがあるのか?

第13章 幽霊屋敷の探検記?:マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(2000)

冒頭で『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』と比較されている。
『紙葉の家』はゴシック・ホラーだが、その見せ方に独自性がある、と
ある謎めいたフィルムとそれについての記録、そしてそれに対する注釈と、さらにそれに対する編集という4層構造
さらに、屋敷の迷路が入り組むのにあわせて、版組も複雑になっていくというタイポグラフィーの仕掛けがなされている作品で、さらにメタフィクション的な仕掛けもあるとか
また、ペーパー版ではhouseという単語が青く印刷されているが、ハードカバー版ではminotaurという単語が赤く因されていて、さらにもっと別の版もあるとかないとか。
章末ブックガイドは、タイポグラフィーで遊ぶ作品

第14章 これは小説か?:デイヴィッド・マークソン『これは小説ではない』(2001)

自己言及的な内容や、他のテキストからの引用からなる作品
引用したテキスト同士を組み合わせて、疑似会話のように見立てていたりなどしている。
筆者はこれを東浩紀の「データベース」概念と絡めて論じている。

休憩3 個性際立つ実験小説

未訳の作品で、他の章のブックガイドで紹介しきれなかった本をあげている

第15章 サンドイッチ構造:デイヴィッド・ミッチェルクラウド・アトラス』(2004)

6つのストーリーからなっているのだが、第1章から第6章まですすんだあと折り返して、第7章が第5章の続き、第8章が第4章のつづき、という構成をしているらしい。
また、入れ子構造になっていて、第1章のテキストは第2章の中にでてきて、第2章は第3章の中に出てきて、というふうにもなっているらしい。
映画化もされている、とのこと。
舞台も、19世紀の南太平洋、1970年代のベルギー、1930年代のアメリカ、現代のイギリス、近未来の韓国とバラバラで、弱肉強食がテーマになっている、と。
未来を舞台にした章では、単語や文体も異なっているとか
独創的な構成とリーダビリティが共存した作品とも評している
カナダの批評家ダクラス・クープランドが、「いくもの時代や場所をめぐりつつ現在を照射するような作品」を超越文学と読んでいるらしく、章末ブック開度は、超越小説が紹介されている

第16章 ビジュアル・ライティング:ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005)

これ、映画化されている作品だというのは知っていたけれど、原作小説が、実験的な作品だというのは知らなかった。
赤の書き込みがなされていたり、1行だけ印刷されているページや、活字が重なり合って読めない部分があったりとか、そういうことがされている=ビジュアル・ライティング
また、作品自体は、主人公オスカーの語り、オスカーの祖父の手紙、オスカーの祖母の手紙という3つの語りが交互に進行する形。オスカーの父親は911で亡くなっていて、その父親が残した鍵が何の鍵かをオスカーが探す物語

第17章 疑似小説執筆プログラム:円城塔『これはペンです』(2011)

「叔父は文字だ。文字通り」から始まる作品
あらすじを紹介しつつ、筆者(木原)の解釈が論じられている

第18章 どちらから読むか?:アリ・スミス『両方になる』

15世紀の画家の魂が現代に読みがえってある少女を見守るというパートと、その少女の成長物語の2つのパートからなる
のだが、すっぱんされている部数の半分が、前半が画家の話、後半が少女の話になっていて、もう半分は逆に、前半が少女の話、後半が画家の話になっている、という次第
なお同じ本だけど2つのバージョンがあるものとして『ハザール事典』の男性版と女性版があるが、あれは表紙や奥付で区別されているのに対して、こちらは、表紙やISBNで区別されておらず、実際に読んでみるまでどっちか分からないという仕掛け
また、タイポグラフィーによる仕掛けもなされている。

『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』

東京宝塚劇場での宝塚星組公演を見てきた。
原作が並木陽『斜陽の国のルスダン』といい、何を隠そう、学生時代の先輩が書いた小説なのだ。
知り合いの書いた作品が宝塚で舞台化される、という得がたい経験をしてきたわけで、開幕の際の影ナレで原作者の名前が読み上げられた時には、何とも言えない感慨があった。
原作はむろん読んでいたが、とはいえ、もうそれも相当前の話で、今回観劇に行く前に予習・復習もしていなかったので、正直、話自体は結構忘れている状態で見に行った形となった。
見ている間に「そういえば、こんな展開だったなー」と思い出しつつ、舞台ならではの点を楽しみながら見ていた。
ちなみに、ブログ内を検索しても出てこなかったのでこのブログに書いたことなかったみたいだが、自分は宝塚については、銀英伝を見たことがあり、人生2度目の宝塚観劇である。
宝塚大劇場・東京宝塚劇場 公演案内> 星組公演 『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』『JAGUAR BEAT-ジャガービート-』

『斜陽の国のルスダン』と並木さんについて

原作である『斜陽の国のルスダン』は、並木陽さんが、2016年に文章系同人誌即売会であるテキレボにあわせて刊行した作品。その後、文学フリマなどで頒布していたが、2017年に、NHK-FMの藤井プロデューサーが通販でこの本を購入したことがきっかけで、同局のラジオドラマ「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化された。
まあそれだけでもなかなかすごい話なのだけど、その後、並木さんは、この藤井プロデューサーとのタッグで、オリジナルドラマの脚本を次々と書き下ろしていった(参考:並木陽さんの原作・脚本・脚色作品の一覧 - 特集【演出家・脚本家別一覧】)。
で、この「青春アドベンチャー」では、宝塚OGを始めとしたミュージカル俳優が声優をやっている*1。ラジオドラマ化された際には、主人公のルスダンを宝塚OGである花總まりが演じたわけだが、それ以外の作品にも宝塚OGがたびたび出演していた。
おそらく、そこからの縁で今回の演出である生田大和氏が、本作を知り、宝塚での舞台化につながったようである。
また、宝塚での舞台化をきっかけに、星海社より商業版が刊行されている。



さて、並木さんは、自分にとって大学の文芸サークルでの先輩にあたる。
このサークルは、主に小説を書き、年に2回会誌を発行するという活動をしていた。
僕は何故かこのサークルで主に批評を書くようになっていくのだが、自分ももともとは小説を書くつもりでこのサークルに入ったし、小説を書く会員のほうがもちろん多かった。
並木さんは、当時から歴史(主にヨーロッパ)ジャンルで小説を書いていて、サークル内での人気も高かった。
この『斜陽の国のルスダン』については、僕自身は2016年の文学フリマで入手していたようなのだが、多分、僕が参加した最後の文学フリマでもあったと思う。
第22回文学フリマ感想その2 - logical cypher scape2
僕が文学フリマなど同人活動が遠ざかっていった一方で、並木さんはこの後、文学フリマをはじめとして、地方開催のものも含め、多くの文章系同人誌即売会に参加するようになり、瞬く間に人気を獲得していった。
その過程の中で、上述した「青春アドベンチャー」採用もある。
かなり希有なルートではあるし、まさか小説ではなくラジオドラマの脚本を手がけていくことになるとは思いもよらなかったけれど、同人活動からこうやって世に出ていくこともあるんだなあと思いながら、その活躍を眺めていた。
ところで、妻はミュージカルが好きということもあって、以前から並木陽作品が舞台化されないだろうかという希望をたびたび口にしていた。
NHKでラジオドラマ化されたのだから、いずれは舞台化されることだってありえなくはないんじゃないかと語る妻に対して、しかし僕は、ラジオドラマと舞台*2じゃ規模感も違うし、さすにが同人小説のままでは無理でしょ、と思っていたのが正直なところだった。
ところがである。


2022年4月に、宝塚での舞台化決定の知らせが入ったのである。

衣装、音楽、舞台装置等を中心にした感想

衣装については、ジョージアの民族衣装をもとにしたという話は、リリースか何かで見かけていたのだが、そのジョージアの民族衣装がどういうものなのかということはあまり調べずに見に来ていたので、こんな衣装なのかと結構驚かされた。
服飾文化に疎いので何とも言えないが、エキゾチックというか、ヨーロッパとアジアのテイストが両方入っているように感じられた(女性衣装の振袖っぽいところとかにアジア要素を感じた)。
また、ジョージア軍の衣装は、どことなく「帝国軍」風であり、13世紀にこんな服あったのかと思いつつも、敵対するモンゴルやホラズムとの対比という点も含めて、見栄えが良くかっこよかった。
ミュージカルという点で言うと、都・トリビシでたつ市場のシーンでの群舞が、とても楽しくてよかった。ミュージカルというとやっぱりこういうのが見たいよなあ、という感じ。
上述のジョージア軍の衣装とも関連するが、ジョージア軍のダンスは、細かい足さばきが多くて、ちょっとコサックっぽいなという気もした。衣装とあわせて、ロシアからジョージアの影響があるのかなあと感じたところ。
ただ、この細かい足さばきというのは、ジョージアンダンス由来の動きらしく、ググってみると「ロシアのコサックダンスと勘違いされてしまうのがジョージアンダンス関係者の悩みなのだそうです。」*3なる記述を見つけたりもしたので、ここらへんの影響関係はよく分からず。
結婚式のシーンは、パーカッション主体の曲がかっこよかったという印象
また、ダンスなどの演出でいうと、銀橋を派手に使うのが多かった。兵隊が銀橋の上をだーっと駆けていくとか。今回、関係者枠でチケットをいただけて、なかなか前の方の席だったこともあり、ここらへんは非常に迫力があった。
それから、舞台装置のこと。
ステージ上のターンテーブルが回転する中、役者がその回転とは逆方向に歩くというのは、他の舞台でも見たことがあったが、それに上下動も加わった上で、役者が歩いてるのを見たときは「すげぇ」となった。
また、寝室全体がせりに乗っていたのもすごかったし、花道にもせりがあって驚いた(ところで、この記事を書く際にググったら、花道のせりは歌舞伎にもあって「スッポン」と呼ばれているらしく、むしろかなり昔からある装置のようなので、無知による驚きであった……)
小説ではなかなか表現が難しい視聴覚的な要素をめいっぱい楽しませてくれる舞台化で、原作者本人の感動はいかほどか、と思わせてくれた。
ところで、原作タイトルは『斜陽の国のルスダン』とあり、ルスダン女王が主役であるのに対して、宝塚版ではタイトルが『ディミトリ』に変更されている。
内容うろ覚えだった自分が何を言うかという話だが、観劇に行く前日まで「ディミトリって主人公か?」と宣っていた。しかし、いざ実際に見てみると、ディミトリが完全に主人公になっており、ジャラルッディーンがディミトリの最期を見届けるシーンでは、思わず涙ぐんでしまった。
また、帰ってきてから原作をぱらぱらっと見直していたら、セリフが結構そのまま採用されていることに気付いた。物語内容は長篇小説のボリュームがあるんだけど、それをかなりコンパクトに組み立てているから、わりとそのまま1時間なりの舞台作品に仕立て直すことができるんだなと思う。
並木さんはもともと小説を書いている人ではあるが、ラジオドラマの脚本やったりマンガの原作をやったりと、今ではメディアの別なく活動しており、小説かどうかよりは、物語を書くことに力点があるんだろうなと思うし、その意味で言うと、ある尺の中に物語をおさめることができるのが強みなのだろうと思う。
あともう一つ、並木さんの強みをあげると、題材チョイスの上手さがあると思う。
この『ディミトリ』という作品の魅力、物語の面もさることながら、やはり衣装やダンスという点でジョージアという土地を出してきたところにあるので。
青春アドベンチャー」で書いているラジオドラマも、高校世界史レベルの歴史教養だと微妙によく分からんというあたりを突いてくる。

同時上演『JAGUAR BEAT-ジャガービート-』

宝塚の舞台は、物語劇とレビューの二本立てになっていることが多いと思う。
今回、『ディミトリ』と同時上演であったレビューが、この『ジャガービート』
自分は宝塚観劇2回目で、ほとんどレビューというものが何なのか分からない状態で見ていたので、ただただ「うわ、すげ」となっていたが、後になって、ヅカオタの中でも賛否両論となっている作品だと知った。
世界観がなかなかカオスで、ハイテンションノンストップで進んでいくので、僕は途中から楽しくなってきて、面白く見れたのだが、同行者の中には「ずっとギラギラしていて疲れた」という感想を漏らす人もいて、またやはり後になって知ったのだが、ヅカオタの中でも同様の感想を持つ人がいるようだった。
逆に、同行者の中で、アイドルやら何やらのライブを多少なりとも行っているような面子は、「よくわからんところもあったが、わからんなりに分かった」という感じであり、自分もそういう印象。
しかし、正直なところを言うならば、見ていて何度も「ダサ」とも思った。
というか、歌やダンスについて技術的な卓越があるのは分かるし、見ていて楽しくなるところもあるし、つまり、よさやすごさは伝わってくるのだが、しかし一方で、否応なしにダサさも感じる。「すごい」んだけど「ダサい」、「ダサい」んだけど「すごい」という感想をいったりきたりしながら見ていた。
ある種の異文化交流感はあって、「なるほど、この文化ではこれが楽しまれているんだな」という感じでの理解は得られるのだけど、自分の価値尺度で留保なく「よい」って言えるかというとちょっと……というのはあった。
音楽的な教養を求められる感じはあって、かなり多様なジャンルの音楽要素が使われているなとは思ったが、しかし、それらが結局のところ、昭和歌謡曲的な曲に集約されてしまうと感じた。
あと、多様なジャンルの音楽の要素が使われているとは述べたが、そうは言っても、クラシック、ジャズ、ロックであって、ヒップホップ、ハウス、テクノとかは入っていなかった。まあそりゃお前の好みの問題だろと言われればそれもそうなのだが、しかし、ある種のカオスさみたいなのを売りにしているようでも、ロック止まりなのかーという気持ちは抱かざるをえない。
そのロックにしても、メタルに振り切った曲は悪くなかったかなと思うんだけど、出てくるエレキのフレーズとかでよかったなと思うのがあんまりなかった印象で、一方で、サックスかなんかだと「それ好き」ってなるフレーズがあったりしたので、クラシックやジャズまでは自家薬籠中のものになっているのだけど、ロック以降はそうでもないのかなと思ってしまった。
ところで、では宝塚のレビュー鑑賞は、クラシックやジャズ鑑賞のようなものなのかといえばおそらくそうではなくて、そういった要素を盛りこみつつタカラジェンヌが浪々と歌い上げる歌謡曲に仕立てて大衆芸能にしてしまっている*4のであり、まあアイドルライブの鑑賞に近いのかもしれないなあとは思う(推しがいると非常に楽しいだろうな、これは、というのは見ていて思った)。
つまり、これはもはやそういうものなのであって、それを外部から見て「ダサい」と言ってしまうのもいかがなものかとは思うけど、しかし外部から見るとそう見えてしまうんだよな、という感想。

*1:なお、坂本真綾が出演した時もあり、並木さんの脚本で坂本真綾が、と(特別に坂本真綾ファンというわけでもないが)わが家が騒然となったこともある

*2:なお、ここで僕と妻の間で言っている舞台化は宝塚とか東宝ミュージカルとかを前提にしている

*3:ダンサーそして私たちは踊った | おどりびより|社交ダンス情報メディア]

*4:いや、ジャズも大衆芸能だが

『日経サイエンス2023年2月号』『Newton2023年2月号』

日経サイエンス2023年2月号

SCOPE 不要なシナプスを”食べて”整理

グリア細胞シナプスを食べることによって、記憶定着に一役買っているという話
また、精神病理との関係も

ADVANCES 軟組織が化石になるには

軟組織がどうやって化石になるのかはまだ謎が多く、同じ内臓組織でも、化石に残るものと残らないものがあるが、何がそれを分けているのか分かっていない。
pHの違いではないかと言われていたのだが、実際にpHを計測しながら腐敗過程を調べた研究で、これは関係なさそうということが示され、リン酸の量の違いではないかと言われ始めているとかなんとか

撮像の舞台裏  C. モスコウィッツ

ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡特集の中の記事の一つ
パラパラ眺めた中で目にとまったのが、JWSTの画像処理している人の「これはリアルだよ」というコメント
JWSTは赤外線望遠鏡なので、JWSTから得られた画像は、人間が直接その天体を見た場合の見え方とは異なる。異なるけれども、画像処理の仕方は、普通のカメラマンがやってる処理と同じなんだから、という話っぽい

小惑星リュウグウから火星のフォボス

はやぶさ2プロジェクトマネージャの津田雄一とMMXプロジェクトマネージャの川勝康弘の対談・インタビュー
触ることで(実際に着陸してみて)初めて分かることがあるという話とか
サンプルが手に入るっていうのはやっぱ色々と重要だという話とか(リュウグウのサンプルの60%はそのまま保存するらしい。今後の調査技術の発達を見越して)。

にくづきにくら  柞刈湯葉

タイトルからはどんな話がよく分からないが、月面を舞台にしたSFスリラー
そもそも月面基地作ったとして金になるのかよという問題に対して、低重力を利用した人工臓器培養を挙げている。が、作中でもそれが軌道にのっているわけではなく、なんとかそれを月面開発・産業の端緒に据えようとしている頃の話。
そこに1人のテロリストが乗り込んでくる。
たまたまその時に宿直にあたっていた科学者とテロリストとの間で、トロッコ問題みたいな問答が繰り広げられる

データを駆使したクリミアの天使 ナイチンゲール  RJ アンドリューズ

ナイチンゲールが、戦地の衛生状況改善のために、インフォグラフィックスを駆使したという話
実状、要因、改善案を短いページのパンフレットにまとめて、わかりやすいグラフによってそれらを語らせる彼女の方法論を、筆者は「データ・ストーリーテリング」だと述べている。

Newton2023年2月号

ゼロからわかる分子生物学

次世代シーケンサーのあたりだけ読んだ

隠れた「異次元」を探しだせ

高次元がミクロスケールに畳み込まれている云々の話
90年代の研究だけど全然知らなかったものとして、高次元ってプランク長じゃなくてもっとマクロなスケールにあるのではないかという説
重力が距離の二乗に比例する、というのが、空間が3次元であることの証拠らしいんだけど、重力の強さの計測って難しくて数センチとか数ミリとかの幅だとよく分かっていなかったらしい。そういうスケールで、二乗則が破れていた場合、そこにより高次の次元があることになるらしい。残念ながら、今のところ、二乗則の破れは発見できていない、と

世界の高速鉄道

文字通り、世界の高速鉄道の写真
日本の新幹線から、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどのヨーロッパから、中国、ラオスウズベキスタン、モロッコなどのアジア・アフリカまで
イタリアの車両かっこよくてさすがイタリアだなと思ったり、アジア・アフリカの奴は、どの国から技術提供受けたかとかがその国の背景を物語ったりしていて面白い

バイアスの心理学

色々な認知バイアスについて紹介している
確証バイアスとかその他色々、大体まあ聞いたことのある項目ではあった。
ネット上で「脳は否定形を理解できない」というよく分からん題目で紹介されることのある「皮肉過程理論」ないし「シロクマ実験」について
これ、「シロクマについて考えない」ように指示された後、「シロクマについて考える」ように指示されると、単に「シロクマについて考える」ように指示されるよりも、よりシロクマについて考える頻度が増える、という実験だったらしい。
あと、「シロクマについて考えない」ように指示されている間も、シロクマについて考えたかどうか計測してて、この場合も、全く考えないのは無理で、時々シロクマについて考えていた、という結果になっている。
また、「シロクマについて考えそうになったら、赤いなんとかについて考えてください」(なんとかはもっと具体的に書いてあったが忘れた)という指示をすると、シロクマについて考える頻度がぐんと減るとかで。
まあ、この実験から一体どういう理論ないし教訓(?)を引き出せるのか、というのは正直よく分からんな、という印象。まあ、そういう実験があったんだな、と。
上で、大体聞いたことあるって書いたけど、勉強した内容について勉強を完了させてしまうと逆に忘れやすくなる、みたいなのがあって、経験的になんか分かるけど、心理学的にもそういうこと言われているのは知らなかった。
それから、正常性バイアスは、非常に有名な奴で、特に目新しいことは書いてなかったが、自分これに当てはまる気がして怖いなあと常々思ってる。

生殖医療の未来

生殖医療関連で色々あったが、iPS細胞から配偶子を作ることができるという話とか色々。
iPS細胞から配偶子が作れると、同性愛者やあるいは独身者でも自分の遺伝子で子どもが作れるようになったり、不妊治療というものが不要になるかもしれなかったり。
あと、一般の人たちに、どこまでだったら許容できるか、ということをアンケート調査している研究があって、一般の人たちの倫理的直観がきれいに割れている結果になっていて興味深い。また、高齢カップルが使うのは許容できるかとか、同性カップルが使うなら許容できるかとか、色々なアンケートがあって、国によってそれも色々違うとか(概ねその国の結婚制度とかと対応しているっぽい)。

暗号通貨の技術と課題

ブロックチェーン、トラストレストラスト、ビザンチン将軍問題、プルーフオブワークとプルーフオブステークについて
ビザンチン将軍問題は、なんか別のところで以前読んだような気もするけど忘れてた。
プルーフオブワークとプルーフオブステークは、全然知らなかった。プルーフオブワークは普通の暗号通貨の仕組みだけど、マイニングで電気消費量食い過ぎ問題があり、それを解決するのがプルーフオブステーク方式。でもこっちは、保有し続けることにインセンティブが生じるので、格差が拡大する・流動性が低下するという問題がある、と。


広告に『暇と退屈の心理学』(Newton新書)という本があった
Newtonこういうタイトル付けすることあるのか
というか、そもそもThe Psychology of Boredom(サブタイトルが)という本の翻訳なのか。まあ、とはいえそこに「暇と」をつけるのは明らかに意識しているだろうけど。

津原泰水『ブラバン』(再読)

作者が2022年10月2日に亡くなったのを受けて、再読した。
受けて、というにはちょっと時間が経ちすぎた感じもするが。
追悼というのもなんか変な感じである。
再読したのは亡くなったことがきっかけだが、読んでいる最終は、この作者が最近亡くなったのだということは全く意識せずに、一気呵成に読んでいた。
やはり面白かったが、詳しい感想はすでに初読時に書いており、今回特に改めて書くことはないかも。
やはり、辻さんはいいなあ。
あと、エリートサラリーマン来生との再会シーン、なんか途轍もないよな
沖縄出身の少女、普天間純のエピソードの中で、子供の頃に海洋博があった旨の話があった。『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」を読んだばかりなので、目についた。

sakstyle.hatenadiary.jp

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』

海外文学読むぞ期間実施中。いよいよ「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」へ突入
とりあえず短編アンソロジーから読む。
この「短編コレクション」は1と2があり、1は南北アメリカ、アジア、アフリカの作家、2はヨーロッパの作家から作品が採られている。
1の方が、名前を知ってる作家が多く、より気になったので1をチョイス。2は今のところスルーの方向で。
面白かったのは、コルタサル「南部高速道路」張愛玲「色、戒」金達寿「朴達の裁判」トニ・モリスン「レシタティフ――叙唱」マクラウド「冬の犬」
面白いというのとはちょっと違うのだが、カナファーニー「ラムレの証言」目取真俊「面影と連れて」も特筆すべき作品。

南部高速道路 フリオ・コルタサル 木村榮一

日曜日、パリに向かう高速道路で渋滞が起きる、というよくある事態から物語は始まるが、渋滞がいつまでもいつまでも解消されない、という奇妙な状況へと突入していく。
夏に起きた渋滞が冬になってもまだ解消されないくらい。
たまたま、近くで停まった者同士でグループが形成され、互いに気遣ったり、あるいは他のグループと食料や水の交渉を行うようになっていく。
亡くなってしまう人がでてきたり、その一方で、(長期の渋滞の中で親しくなって)妊娠が分かる人もいる。
しかし、登場人物たちの名前は書かれておらず、車種(ドーフィヌとかシムカとか)または職業名(技師とか農夫とか)で表記されている。
そして、ついに渋滞が解消された時、車列はばらばらに進んでいき、生活をともにしてきた者たちのグループは瞬く間に霧消していくのだった。
なお、コルタサルはアルゼンチンの作家だが、1914年ブリュッセル生まれ、1918年にアルゼンチンへ帰国し、以降ブエノスアイレスで育つが、1951年にパリへ留学し、そのままパリに居住し、1984年にパリで亡くなっている。ブエノスアイレス時代から小説を書いているが、それでも主な作品はパリ時代に書いているようだ。この作品も1964年に書かれたもの。
コルタサルは、ラテンアメリカの作家として紹介されていて、本書でもラテンアメリカ枠(?)だと思うのだが、読んでみたら、作品の舞台はパリだったので最初ちょっと驚いた。

波との生活 オクタビオ・パス 野谷文昭

海で出会った波と同棲することになった男の話
汽車の水タンクに入れて連れていく
部屋に海のものを色々置いてあげたんだけど、魚に嫉妬したり
しかし、冬になるにつれて関係が悪くなる。最後、氷の像に
オクタビオ・パスはメキシコの作家(1914~1998)。小説家ではなく詩人らしい。

白痴が先 バーナード・マラマッド 柴田元幸

自分の死期を悟った男が、白痴の息子を叔父のいるカリフォルニア行きの電車に乗せようと、金策に走る一夜を描く
なんか、男の方は死神のような奴につきまとわれている
老いたラビのところに赴くシーンもあったりして、ユダヤ人の話なんだなということが分かる。
バーナード・マラマッドは、ユダヤ系のアメリカ合衆国の作家(1914~1986)

タルパ フアン・ルルフォ 杉山晃

病苦にさいなまれる男を、妻と弟が、タルパの聖女のもとへと連れていくも、タルパで亡くなってしまう話。
この弟視点で、タルパから帰ってきたところから始まって回想形式で進む。
この妻と弟は関係を持っていて、タルパ行き自体は夫自身が望んだことではあったが、2人は半ば無理矢理タルパへと連れていき、その途上で死んでしまうだろうことを予期していた。
しかし、実際に死んでしまうと、妻の方は後悔に苛まれて、弟との関係もなくなる。
フアン・ルルフォは、メキシコの作家・小説家(1917~1986)
小説は、短編集『燃える平原』と長編『ペドロ・パラモ』の2冊のみ。その後のインタビューでは「何を書いても『ペドロ・パラモ』になってしまう」と言っていたとか。

色、戒 張愛玲 垂水千恵訳

第二次大戦中、日本占領下の上海が舞台
佳芝(チアチー)という女子大生が、名前と身分を騙って、易(イー)という男に近付く。
易に色仕掛けで接近し、佳芝の仲間が暗殺するという計画を立てていたが、最後の最後に佳芝が易を助ける。
易は日本側のスパイ。
佳芝はもともと大学で演劇をしていたが、その演劇仲間が易への色仕掛け計画を発案し、そこに本職の特務ものっかった。
のちに『ラスト・コーション』というタイトルで映画化された作品らしいが、物語の冒頭と結末、易夫人が他のご婦人たちと雀卓を囲んで宝石や美食について自慢話をしあうシーンだったり、そこからなんとか抜け出した2人が(暗殺実行予定地点の)小さな宝石店に訪れ2人で宝石を見ているシーンだったり、確かに映像的なシーンが多く、とてもエンターテインメント感が強い。
それでいて、池澤夏樹のコメントにある通り、短編としてまとめていることで、ある意味ではかなりあっさりとした終わりというか、ばっさりと色々切られているので、余韻がある。
(実際にあった事件をもとにしているらしい)
張愛玲は、1920年に上海で生まれた中国の作家。香港や上海で作家活動をしていたが、1955年にアメリカへ移住、1995年にLAで死去。曽祖父が李鴻章

肉の家 ユースフ・イドリース 奴田原睦明訳

後家と3人の娘がいる家。後家といっても35才と若く、娘は20才から16才と年頃なのだが、器量がよいわけでもなく、父親もいない娘たちに結婚相手は現れない。
彼女らが唯一関わりのある男性は、全盲クルアーン読みだけである。後家はこの男と再婚することになるのだが、ある時から、娘たちがその男が盲であることを利用して関係を持つようになる。
宗教的タブー(妻以外との姦淫)を犯していることに気付きつつも、結婚指輪をしているから自分は妻以外とはしていないのだ、と男の方は思うようにしている。
ユースフ・イドリースは、エジプトの作家(1927~1991)。反王政・反英闘争をしていた。

小さな黒い箱 P・K・ディック 浅倉久志

タイトルの「小さな黒い箱」は、マーサという宗教家と感覚を共有する共感ボックスのこと。
当局の宗教弾圧とそれから逃れようとする信者についての物語で、ディックはこの短編をもとに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を書いたとのこと。
テレパスが出てきたり、当局がマーサのことを宇宙人ではないかと疑っていたりというあたりにSF要素がある。マーサ教への対応について、米ソが協力していたりする。
ストーリー自体はシンプルでわかりやすい。
ディックはアメリカ合衆国の作家(1928~1982)

呪い卵 チヌア・アチェベ 管啓次郎

天然痘によって活気の失われた市場
主人公は、許嫁と会った夜の帰りに卵を割ってしまう
チヌア・アチェベは、1930年生まれのナイジェリアの小説家

朴達の裁判 金達寿

池澤夏樹が、これは短めの長篇小説と評していて、おそらく、本書収録作品の中でページ数が最も長いと思われる作品。
物語の舞台は、朝鮮戦争直後の韓国(南朝鮮)で、朴達という男が釈放されて出所してくるところから始まる。
さて、池澤夏樹が冒頭で、左翼の文学は硬いものが多いけどこれはコミカル、みたいな内容のことをコメントしているのだけど、朴達が一体どういう経歴の男なのかというのを語り出すあたりから、一気に面白くなっていく。
これ、語り手の存在が前面に出てきている語りで、そのあたりも含めてコミカルな感じが出てくる。
で、朴達というのは学のない小作農なのだが、軽犯罪で捕まった時に、拘置所政治犯・思想犯でごった返しになっており、彼らに色々なことを学ぶようになる(そもそもの文字の読み書きから始まって、歴史や共産主義についてなどまで)。朴達は、以降、出所と逮捕を頻繁に繰り返すようになる。政治犯たちに習ったことを街角で叫べばすぐに逮捕されるし、また、朴達は拷問をうけてもこたえない体質で、いくらムチでぶたれても痛がる様子がなく、「へへっ、えらいすんません、もうやりません」と「転向」してまた出てくるのである。
官憲側からも、政治犯側からも、こいつ一体なんなんだと思われながらも、彼は彼で色々な考えを持って行動するようになる(政治犯からすれば、刑務所の中で抵抗するのが彼らの闘争のあり方だろうが、朴達は自分みたいなのは外で色々やるのがいいだろうと考えている)。
朴達のところは、第二次大戦が終わって日本が引き揚げていった後、一時的に人民委員会というのができて、すぐに米軍占領下になり、朝鮮戦争の際にはまた一時的に北に占領され、米軍の参戦とともにまた米軍占領下になったというところで、朴達は、たびたび、アメリカのみなさんは帰ってくださいみたいな内容のビラを貼ったりしている。
物語としては、再び出所してきた朴達が、インフレにあえぐ労働者たちとストを決行するというのが中心になる。なお、この町の人はほとんどが米軍基地で働いているので、その米軍基地で働く労働者による組合を結成し、組合を認めさせるためにストに入る。
朴達の存在にムキーっとなっている検察と、彼からの追求と拷問を飄々といなす朴達。朴達に協力する彼の妻。そして、町の人々が朴達の裁判へと傍聴へいき静寂を保ったままプレッシャーをかけるクライマックスシーンへとつながっていく。
どちらかといえば北寄りなのでそこに引っかかりを覚える人もいるかもしれないが、南北統一を素朴に望む庶民的な思いが主たるところだし、「えへへっ」と笑いながら飄々と「転向」し、覚えた文字を書くのが楽しくてたまらず下手くそな手書きで何枚もビラを書く朴達の姿は、上からの思想によるものというより、下からの庶民的な生活に根付いているもので、そのユーモラスな描かれ方や、語り口とあわせて、どこか民話っぽい雰囲気すらある。
金達寿は、1920年南朝鮮に生まれ、1930年に日本へ渡ってきた在日朝鮮人作家(1997年没)である。
なお、日本語で書かれた作品である。

夜の海の旅 ジョン・バース 志村正雄訳

冒頭の池澤夏樹コメントで、本作は「僕」や「僕ら」の正体が明かされないが、すぐに分かるのでここでも明かさないことにしよう、ということを書いている。
実際、読むとすぐに正体が分かる。池澤は伏せているが、このブログはネタバレ配慮をあまりしていないので書いてしまうと、精子の擬人化なのである。
で、自分たちは一体何で泳いでいるのだろうというのを、色々考えたり考えなかったりしている話
ジョン・バースは、1930年生まれのアメリカ合衆国の作家。

ジョーカー最大の勝利 ドナルド・バーセルミ 志村正雄訳

バットマンのパロディ
正直、バットマンが分からないので、この作品の面白さがどこにあるかよく分からず。
ドナルド・バーセルミアメリカ合衆国の作家(1931~1989)

レシタティフ――叙唱 トニ・モリスン 篠森ゆりこ訳

子どもの頃の一時期を児童施設の同室で過ごした2人の女性が、人生の中で何度か再会をするという話。
語り手(「わたし」)であるトワイラは母親が夜の仕事をしているか何かで、もうひとりのロバータは母親が病気のためそれぞれ施設に預けられている。施設の他の子はみな孤児なので、2人は施設の中でちょっと浮いている。また、年上の子たちの柄が悪くて、施設で働いている唖の職員をいじめたりしている。ロバータは先に施設を出ていくことになり、2人は分かれることになる。
トワイラがハイウェイのレストランで働いていた頃、客として現れたロバータと再会する。そのときのロバータは、これからジミヘンと会ってくるのだと言ってトワイラとの再会をあまり喜んでいない。
その後、また10年後くらいに再会したりするのだが、トワイラが貧しい生活を続けているのに対して、ロバータ上昇婚を成し遂げたりしているのだが、人種政策をめぐって2人の立場は分かれていく。
トワイラとロバータは人種が違うとは書かれているが、どちらが白人でどちらが黒人かは明示されていない。そしてもう1人、施設で働いていた唖の職員についても、トワイラとロバータの記憶は食い違っていく。彼女をいじめていたのは誰だったのか、そして彼女の人種は何だったのか……。
トニ・モリスンは、1931年生まれのアメリカ合衆国の小説家。1993年、アメリカの黒人作家としては初のノーベル賞受賞。

サン・フランシスコYMCA讃歌 リチャード・ブローティガン 藤本和子

詩を好む男が、自分の家の水道周りの配管を詩に置き換えた、というショートショート
風呂をシェイクスピアの詩にしたりしていく。が、実際に使ってみたら(?)勝手が悪くて、元に戻そうとしたら、詩たちから反発された、という話
リチャード・ブローティガンは、アメリカ合衆国の詩人・小説家(1935~1984)。池澤夏樹は、ブローディガンは小説もたくさん書いているけど、やはり詩人だったのだと思うと述べている。

ラムレの証言 ガッサーン・カナファーニー 岡真理訳

イスラエルのラムレに暮らすパレスチナ人の話。
いや、「ラムレに暮らすパレスチナ人の話」と書いてしまったが、これはラムレでのパレスチナ人の「暮らし」を描いた作品ではなく、あくまでもある瞬間を切り取った作品だ。
池澤夏樹が、短編小説の時間について触れている文章の中でも述べているが、本作は、描かれている作品世界の時間が本書収録作品の中で最も短い作品だろう。描かれているのは、長くても数時間程度の出来事だ。
突然イスラエル兵がやってきて、住民が集められ、小突き回される。そのさなか、理不尽に幼い子とその母親が殺される。残された男は2人を埋葬し、そして事に及ぶ。
自爆テロ」の背景が、少年の視点から静かな筆致で紡がれている。
語り手の少年は少年で、ともに広場で立たされながらも自分の身を案じている母親に対して、自分は大丈夫だとなんとかして伝えようとして、そんなさなかに、親しくしている床屋の男の身に起きた一部始終を目撃することになる。
ページ数的にはとても短いが、ずっしりとした読後感が残る。
ガッサ-ン・カナファーニーは、1936年にパレスチナで生まれ、1948年、イスラエル建国により難民となった。パレスチナ人民解放戦線のスポークスパースンとして、作家、ジャーナリストとして活動したが、1972年に爆殺された。

冬の犬 アリステア・マクラウド 中野恵津子訳

子どもたちが、クリスマスを前に雪が降ったことに歓喜して、早朝4時から起き出して外で遊び始める。隣の家の犬がいつの間にか抜け出してきて、子どもたちと一緒に遊んでいる。
遠く離れた実家で入院の話があって、カナダ中に散らばった家族たちがさてどうするかと気を揉んでいる(もしもの時には駆けつけなければならないが、季節的に移動が大変)さなか、無邪気に遊ぶ子どもたちと犬の姿を眺める父親は、自分の子ども時代を思い出す。
で、この回想が本編
牧畜犬として買った犬だったが、とんだ役立たずで、しかしソリをひかせると抜群だったその犬。主人公は、ある冬の日、自分のソリをその犬にひかせて海へと遊びに行く。流氷が着岸していて、流氷の上を進んでいく。途中、死んだアザラシを見つけ、あまりにもきれいに氷漬けになっているのを見て、主人公はそれをソリにくくりつけて持って帰ろうとする。
しかし、帰路において天候が悪化、何度か流氷の上から海に落ちたりしながら、犬とともに賢明に帰ろうとする。
流氷の上から海に落ちてぐしょ濡れになった状態で吹雪に突入して、よくもまあ生きて帰ることができたな、という話なんだけど、少年の半ば焦りつつ半ば冷静なところが書かれていて、手に汗握りつつ、冬の自然の厳しさを感じながら読むことができる。
どうにか帰り着くと、親から怒られるのが嫌だなと思って、裏口からこっそり帰って何事もなかったかのように振る舞ったりするあたりも、ある意味ほほえましい。
ただこの犬、単に役立たずなばかりか家畜に噛みついたりしてむしろ有害なので、結局、殺処理されてしまう。この犬に命を救われながら、命を救ってやれなかったことへの後悔が綴られている。
アリステア・マクラウドは1936年生まれのカナダの作家。無名の作家だったが、1999年に発表した長篇がヒットし、これまでに発表された短篇が再刊されたらしい。
この長篇、カナダの島を舞台にしたファミリー・サーガものらしいので、ちょっと気になる。

ささやかだけれど、役にたつこと レイモンド・カーヴァー 村上春樹

8才の息子の誕生日のためにケーキを予約する母親。そのパン屋は無愛想で母親は苦手に感じている。そして誕生日の日の朝、登校中に息子は轢き逃げにあい、緊急入院。医者は問題ないと請け負うが、息子はなかなか目覚めない。
子を案じ続ける夫婦の心情が胸にくる。
レイモンド・カーヴァーは、アメリカの詩人・小説家(1938~1988)

ダンシング・ガールズ マーガレット・アトウッド 岸本佐知子

主人公は、カナダから留学してきて都市デザインを学んでいる女子大生で、安い下宿暮らしをしている。
大家さんの声が筒抜けの下宿で、隣の部屋には、大家さん曰くアラブ系だという男が住んでいるが、非常に静かなので当初は全然気づかないほどだった。
その部屋にはもともとトルコ人の女子大生が住んでいて、主人公と親しくしていたが、さすがに安普請すぎて出ていった。この下宿にはほかに中国人留学生も住んでいる。
とまあ、留学生が多く住む下宿なのだが、主人公は大家さんから留学生だと思われていない(カナダ人なので)。
ある時、その物静かな男が友人や踊り子を部屋に招いてパーティをして、大変やかましいために大家さんから追い出されてしまう。
しかし、主人公はそんな彼に対して、友人がいたことに少し安心しながら、多国籍な人々の暮らす緑豊かな都市を夢想する。
マーガレット・アトウッドは1939年生まれのカナダの作家。『侍女の物語』が有名。
ところで、カナダ文学ってこれまで全く意識したことがなかったが、南北アメリカ、アジア、アフリカから作品を集めたアンソロジーでカナダ文学が2作品入っているのは、なんかすごいな。

母 高行健 飯塚容訳

40過ぎの主人公が、学生時代に亡くなった母親について追悼するというか回想するというかという作品
母に対して「あなた」という二人称で語りかけるような文章になっていて、自分は確かに作家として有名にはなったけれど、亡くなった時に間に合わなかったし、墓の登記はなくすし、母のことを思い出すことも少ないし、ひどい親不孝な息子ですと延々懺悔している。
母親の若い頃(より正確に言うと結婚してすぐで主人公を身籠っていた頃)の写真で旗袍(チャイナドレス)を着た姿で写っているものを、文革時代に色々な本や原稿と一緒に焼いてしまった(旗袍も打破すべき旧習の一つとされていた)ことを、特に悔やんでいるのだと思う。
文学的には、自分を指す人称代名詞が「ぼく」になったり「彼」になったりはたまた「おまえ」になったりと変わる、というのがポイントなのだと思う。
高行健は1940年生まれの中国の作家。
以前、高行健『霊山』 - logical cypher scape2を読んだことがある。

猫の首を刎ねる ガーダ・アル=サンマーン 岡真理訳

レバノン出身で今はパリで生活している主人公が、故国の伝統的な価値観と西欧の自由主義的な価値観の間で揺れる話だが。
主人公は同じくレバノン出身でパリ育ちの女性と付き合っており、プロポーズしようかと思っているところ、家に、パリでは珍しく自分の本名を知っている謎の婦人がやってくる。母を訪ねてきたのかと思ったら、自分に対して、花嫁を紹介しはじめる。
ここで、この仲人をしようとしている婦人が語る釣書のようなものがすごくて、とにかく徹底して夫に隷従する妻だということを述べている。
タイトルの「猫の首を刎ねる」だが、結婚の際に、新郎が猫の首を刎ねて新婦は夫に付き従うことを誓うみたいな風習があるらしい。
レバノンでは、男に生まれたというだけで優遇され、主人公もパリに移住してくるまではそうであって、この婦人の登場に、そのことを思い出し始める。
一方の恋人というのは、男女は対等であるということを常々言っている。主人公は、恋人のそういうところに魅力を感じると同時に、戸惑いも覚えている。
かつて、彼女からバンジージャンプに誘われながら、怖くて結局跳ぶことができなかったというのと、プロポーズをしようと思っているけれど結局まだできない、というのが重ね合わされている。
最後にこの婦人らが実は伯母の幽霊だったということが分かる。
ガーダ・アル=サンマーンは、1942年にシリアで生まれた小説家、ジャーナリスト

面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) 目取真俊

ある女性が、自分の一生を「あなた」に語るという体裁の作品で、うちなーぐちで書かれている。
池澤夏樹のコメントにもある通り、客観的に見れば悲惨な人生だったとしか言いようがないのだが、その語り自体に悲壮さはあまりない。
彼女は那覇の生まれだが、発達に遅れがあったために両親は彼女のことを北部に住む祖母のもとに押しつける。彼女は神女をしていた祖母のもとで育てられ、自身も霊感があって、幼い頃から亡くなった人の魂の話を聞いたりしていた。小学校にあがるとすぐにいじめられるようになり、以降、学校には行かなくなる。祖母が亡くなったあとはスナック勤めをするようになり、そこで1人の男性と出会う。
この男性と過ごした3ヶ月間が彼女の人生の中の短い幸福な時(むろん、祖母と暮らしていた頃もそうだっただろうが)なのだが、この男性は姿を消してしまう。さらに最終的に彼女は、集団にレイプされ殺されてしまう。つまり、この語り自体が、既に魂となっている者の話だったというのが最後に分かるつくりになっている(ネタバレ)。
この男性は一体何だったのかというと、どうもひめゆりの塔事件 - Wikipediaの犯人だったということらしい。ただ、Wikipediaによるとこの事件の犯人は現行犯逮捕されているが、この作品の中では、逮捕されていないっぽい。).
目取真俊は、1960年沖縄生まれの小説家。1997年に芥川賞

山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』

山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2に引き続き、今度は戦前昭和篇
もともと日本思想史とか全然だったので、大正篇も知らないことが多くて勉強になったところではあるが、とはいえ、大正篇は、自分の従来持っていた日本史・世界史・哲学等の知識でもなんとなく概観は知っているものも多かった。
これに対して、戦前昭和の思想は、そもそも知らなかったようなものも多くて、より圧倒された感じがある。また、多様性というか、例えば右翼思想や軍国思想ないしそれら寄りの思想の中での幅というのは、あまり今まで意識したことがなかったので、面白かった。
国家改造を巡っては、右翼と左翼が入り乱れている感じもあるし。
また、左翼系でいうと、「社会科学」や「天皇制」がマルクス主義に由来する用語だというのに、どこかで聞いたような気もするのだけど、「なるほど、そうだったか」と改めて勉強になった。
また、大正から昭和初期にかけては、政友会と民政党の二大政党時代があるわけだが、それが崩壊してから戦後までの期間の政党に何があるのか、というのを(大政翼賛会を除いて)全く知らなかった。本書も思想史であって政治史ではないので、当時の政党史については書かれていないが、無産政党が少しずつ議席を獲得し始め、最終的に社会大衆党ができる、というのが分かった。


ちくま新書の昭和史関係では、以前に以下も読んでいる。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2
筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志
コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀
第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之
コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之
第3講 講座派と労農派 黒川伊織
コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦
第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭
第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋
第6講 転向 近藤俊太郎
コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司
第7講 農本主義の時代 藤原辰史
コラム5 生活綴方運動  須永哲思
第8講 昭和の日本主義 福間良明
コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明
第9講 国体明徴論 昆野伸幸
コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也
第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀
第11講 自由主義 松井慎一郎
コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩
第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋
コラム9 一国一党論 渡部亮
第13講 国家総動員論 森靖夫
コラム10 女性動員論 堀川祐里
第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史
第15講 京都学派の哲学 藤田正勝
コラム11 日本浪曼派 岩本真一

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志

1920年代、国家から社会へという傾向「社会の発見」
政治が国家だけでなく、労働組合や協同組合など中間集団へと還元されていき、20世紀初頭の英米で「多元的国家論」が登場
日本では、中島重がこれを受容
国家もまた「団体」
第一次大戦前後のイギリスで登場した「ギルド社会主義
労働組合を通じた資本主義の克服を説くが、国家の調整機能を重視する点でサンディカリズムとも異なる
中島のほか、室伏高信、土田杏村、長谷川如是閑らが紹介
ただし、イギリスでは1923年頃より衰退し、日本でもその議論は姿を消し、マルクス主義復権することになる
この頃、「社会科学」という言葉が使われるようになるが、マルクス主義とほぼ同義

コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀

第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之

1924年に論壇デビューした理論家・福本和夫
ドイツの知を背景に持っていたことと、その「分離=結合」論により、知識人から人気となる
コミンテルンの「27年テーゼ」により、福本イズムは否定されるが、本講では、このテーゼの受容の背景に、福本イズム隆盛期にロシアの知を権威とする構造があったからだと指摘する
1928年の衆議院議員選挙で、共産党は合法無産政党である労働農民党から党員を立候補させて、公然化させる。共産党員は落選するも、無産政党議席獲得に成功。
しかし、このことが治安当局により警戒され、一斉検挙が行われ、共産党の運動は断絶する。
福本は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で名前が出てくるし、そうでなくても、ちらちら名前を見かけることはあるがよく知らなかったので、概要が知れてよかった。

コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之

1921年『種蒔く人』創刊から1934年ころまでの運動
1928年「日本無産者芸術連盟(ナップ)」結成。ナップの機関誌には「蟹工船」などが掲載。
共産党が弾圧により見えない存在となる一方、合法組織ナップが共産党のスピーカー役を果たす

第3講 講座派と労農派 黒川伊織

1920年代半ば~1930年代半ばのマルクス主義社会科学のグループで
『日本資本主義発達史講座』に拠ったグループが「講座派」
雑誌『労農』に拠ったグループが「労農派」
前者は戦前・戦後の共産党
後者は戦前の無産政党左派・戦後の社会党の理論的根拠をそれぞれ担った
もともと、両派ともに、福本主義にも社会民衆党社会民主主義にも与さなかった山川均の影響下
日本の資本主義が一体どの段階にあるのか、ということで理論的に対立
明治維新ブルジョワ革命であり、重工業の発展などを重視し日本は資本主義国となったと捉えるのが、猪俣ら労農派
一方、明治維新は不十分な革命であり、地主と小作農の関係を重く見て、日本はいまだ封建国家であると捉えるのが、野呂ら講座派
コミンテルンも、27年テーゼで日本は中進国(ブルジョワ革命とプロレタリア革命の両方が必要)と位置づけ、さらに32年テーゼでは日本の権力体系が「絶対主義的天皇制」「地主的土地所有」「独占資本主義」からなるとした。
ここで「天皇制」という言葉が出てきたが、この用語は共産党が生み出した術語だった。
実はここまで共産党天皇制を特に敵対視していなかったが、コミンテルンが、ここで天皇制を持ち出したのは、日本のソ連侵攻を警戒したため。また、日本国内の共産党員も、治安維持法により(つまり、天皇中心の国体を守ることを理由に)検挙されるので、次第に天皇制への敵意を持つようになっていた、と。
一方、労農派は、天皇制の日本的独自性を否定した(既に日本は立憲主義国家に移行しているという認識)。
1930年代後半にかけて、論争の当事者はみな検挙される(労農派は非共産党系だが、治安維持法の拡大解釈によって検挙された)
講座派と労農派の理論的対立が、現実社会に影響を与えるのは戦後になってから。


講座派と労農派、あるいは日本資本主義論争という言葉自体は知っていたが、詳しくは知らなかったので勉強になった。

コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦

柳田民俗学が成立しはじめた頃、地方でも郷土研究が盛んになりつつあった。
柳田民俗学があって、それが地方で展開されたようにも見えるが、地方側から見ると、柳田のこと「も」受容していただけで柳田一辺倒ではなかったという指摘

第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭

経済自由主義において、国際的な経済活動を担保するものは金本位制だった。
日本も日清戦争金本位制へ移行するが、第一次世界大戦の際、世界各国で一時的に金本位制が停止される。多くの国は1920年代半ばまでに金本位制に復帰した。
1920年代の日本は、事後的に見れば成長率が高い方であったが、当時は国内的に不況の認識が強く、また1923年の関東大震災、続く1927年の昭和金融恐慌により、金本位制への復帰が遅れる
為替安定のため、金本位制への復帰(金解禁)が求められ、1929年に発足した立憲民政党の浜口内閣(および井上蔵相)は金解禁を公約とし、金解禁のために緊縮財政を進める。
金解禁については、元の平価で解禁するか、切り下げて解禁するかで議論があったが、いずれの立場でも、産業合理化・財界の整理の認識は共有されていた。企業統制、企業の組織化、科学的管理法、規格の統一などがすすめられていく。
しかし、満州事変勃発およびイギリスの金本位制離脱により、日本も再度金本位制を離脱するのではという見通しが高まり、実際、1931年、政友会の犬養内閣と高橋是清蔵相により金輸出停止。その後、高橋財政により景気回復するが、農村は不景気が続き、国家改造運動の機運が高まる。
満州事変以降、軍部が「国防国家」を唱え、経済政策への介入をするようになる。陸軍がパンフレットを発表すると賛否両論が起きたが、無産政党社会大衆党はこれに強く賛成した
1935年、内閣調査局設置、1937年には資源局と統合し企画院へと改組。軍事費を中心とした財政拡大により景気は過熱し、経済統制が必要となる。企画院に集った革新官僚が、経済新体制を主張するようになる。
経済自由主義に基づいた浜口内閣の政策が、結果的に経済統制への道を開いた、とまとめられている。

第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋

国家社会主義」自体は明治に初出があり、日露戦争頃に政党も作られるがこれは弾圧され潰えている
ここで論じられているのは、1910年代末、高畠素之による国家社会主義である。
高畠は、マルクス資本論』を日本で初めて全訳した社会主義者
社会進化論に立脚し、国家の社会統制機能を重視。マルクス主義の、国家は階級廃絶後に死滅するという考え方を批判した。また、Massの訳語としての大衆概念に着目。消費者という側面から大衆による社会変革を目指した。一方、労働組合運動など無産階級の団結に懐疑的で、関東大震災の際の自警団活動に「愛国心」を見た高畠は、大衆は国家による統制を望んでいるという考えを深めた。
高畠は1928年に亡くなるが、国家社会主義は、1920年代後半から1930年代初頭にかけて、特に満州事変以降、盛り上がる。
一つには、無産政党議席獲得のため、国家社会主義を標榜し始めたこと
もう一つは、北、大川、満川の国家改造運動との接近で、大川らの思惑により、国家社会主義政党が成立する
国家社会主義は、左派からはファシズムと批判された。
そして実際、高畠やその弟子である石川は、自分たちに近い思想としてイタリア・ファシズムやナチズムを論じてもいた(ただし、高畠も石川も、ファシズムやナチズムは後進の思想ないし過渡期の思想であり、いずれ国家社会主義にいたると考えていた)
一方、1930年代、国家社会主義内部で「日本主義」への移行が起こり、国家社会主義という思想自体は勢いを失っていった、と。

第6講 転向 近藤俊太郎

治安維持法の1928年の改正で結社に加入していなくても処罰が可能になり、検挙者が急増
ただし、検挙数と起訴数の間に大きな隔たりがあって、それは処罰よりも拘束が重視されたことにある(最高刑は死刑だったが、治安維持法違反による死刑判決も出ていない)
長期間の拘留が思想犯を消耗させた
共産党幹部の転向において、平田勲という検事が大きな役割を果たしていた
大量転向への転機となったのは、佐野学・鍋山貞親の転向
天皇制廃止を誤謬とし、コミンテルンの指示から離れつつ、日本、朝鮮、台湾、満州、中国を含んだ巨大な社会主義国家を目指す
佐野の転向の背景に仏教からの影響がある
1936年、思想犯保護観察法が成立し、転向の基準として、単にマルクス主義思想や運動を放棄するだけでなく、日本精神を理解することという条件が加わった
本講は、しめくくりとして、この日本精神の理解というのは、何も思想犯に限った話ではないとして、転向を日本社会全体に向けた教化政策の一部と位置づける。

コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司

技術論としてはマルクス主義由来のそれがあるが、ここでは、同時並行的に日本主義的な科学思想があったことを指摘している。
それは科学する主体の側に日本精神を置くというもの。
転向とのかかわりも言及されている

第7講 農本主義の時代 藤原辰史

農本主義:農業や農村の価値を重視し、都市や工業を批判する思想
丸山真男が「日本ファシズムの特質の一つ」として批判した
1930年代の日本で影響力を持った。
横井時敬
農本主義という言葉を作った。この人は1927(昭和2)年に亡くなっている。
室伏高信
→当時人気の思想家で農村回帰論を訴える。農学に通じていた横井と違って、抽象的に「土」の価値を訴えるだけだが、転向したマルクス主義者たちに影響を与えた可能性。
橘孝三郎
→1930年代に最も政治的に影響を与えた農本主義者。井上日召と結びつく。資本主義を乗り越えるという点でマルクス主義と問題意識を共有しつつ、機械を重視するマルクス主義を近代を乗り越えられていないと批判。天皇崇拝による精神論とも併存。
権藤成卿
アジア主義の系譜。「社稷」概念を論じ、資本主義・産業社会を批判。五・一五や二・二六の青年将校たちの思想的背景ともなった
農業経済学会
→1925年創設。満州移民に関わった官僚や研究者が所属。また、柳田国男も発起人の一人で民俗学的な研究とも関わった

コラム5 生活綴方運動  須永哲思

昭和初期から隆盛し、明治期の作文教育を批判した「随意選題」論や、『赤い鳥』との影響関係の中で形成された運動
当時の「国語」は「読み方」「書き方」「綴り方」の三領域であったが、「綴り方」には国定教科書が存在しなかったがことが背景にある

第8講 昭和の日本主義 福間良明

クーデターなどの行動ではなく、あくまで言論活動をしていた日本主義者について
美濃部達吉などの東京帝国大学教授(特に法学部)への言論上の攻撃を行った。
護憲的で、国家改造運動や統制経済、新体制運動とも相いれなかった
最終的には、日中戦争の長期化を批判して、検挙されるようになる
帝大教授を攻撃していて一見反学歴エリートのように見えるが、実際には彼らも正学歴エリート

コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明

皇国史観を唱えた歴史学者平泉澄について
現在でも、卓越した中世史家としての評価は高いが、皇国史観を唱えて以降は、専門外のことを論ずるようになった

第9講 国体明徴論 昆野伸幸

大正時代の天皇機関説論争は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で触れられた通りだが、美濃部説は通説となっていった。美濃部説は、政党政治の理論的根拠を提供するものだったから
しかし、国家改造主義者は美濃部説を攻撃し続け、1934年頃から議会での機関説攻撃が活発化
国体明徴運動が始まる
国体とは何かという政府声明が出たり、それに基づき、文部省が大学の授業を統制したりした他、当時、行われていた楠木正成の顕彰事業とも関連して、様々な領域に国体論が浸透した
例えば、生長の会などの新宗教など
1937年、文部省から『国体の本義』刊行
天皇機関説を否定し、天皇主体説をとり、天皇親政を憲法の根本原則とし、法は国体の表現だとした
『国体の本義』はまた一方で、政府が国体明徴運動を鎮めようとする目論見であった。国体とは何かを論じるのが盛り上がるというのは、現状の秩序を維持したい側には必ずしも面白いものではないから。
で、『国体の本義』は、色々な立場から批判されることになる

コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也

第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀

北一輝の弟とか石原莞爾とかの話

第11講 自由主義 松井慎一郎

自由主義者河合栄治郎の思想について
個人の理想は「人格の完成」にあると謳う哲学から、「社会は個人の人格の完成のためにそれを阻害するものを除くべきである」という社会思想まで、体系的な思想を作りあげようとした。
本講では、戦前において、河合のほか、石橋湛山清沢洌など反戦的な自由主義者はいたが、何故戦争を止められなかったのか、という問いを立てている。
河合の自由主義哲学には、理想主義哲学が背景にあるが、それはさらに新渡戸稲造や内田鑑三のキリスト教思想からの影響を受けている。さらに筆者は、石橋など他の自由主義者にも、札幌農学校クラークの教え子からの影響があることを指摘している。
また、河合は自らを「第三期の自由主義」と位置づける。第一期は自由放任主義、第二期は社会改良主義で、第三期は社会主義である。ただし、革命ではなく議会を通じた漸進的な体制変化を考える社会主義であり、現実的には社会改良主義の立場に近い。
河合は、第一次大戦後の欧州を訪れその焼け跡を見ており、次の戦争がより悲惨な結果になるだろうと考え、国際連盟がより実際的な効力を発揮するような改良案を提案していた。
ただ、自由主義は、民族の独立も主張しており、これは独立戦争は肯定している。
自由主義の中にはナショナリズムがあり、河合や石橋らは、太平洋戦争勃発後、こうした戦争に対して肯定的な見解も書くようになっている。
筆者は、しかし、河合の自由主義については、体系化を希求するあまりに、似た立場の論者との共闘などを拒んだところを問題視しており、悪い意味でアカデミズム的で大衆に影響を与えなかったことが、戦争を止められなかった理由だろうと論じている。

コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩

毛沢東がどういう人となりをしているのか、戦前日本や、本国中国ですらよく知られていなかったのだが、そんな中、どのように紹介されていたか。

第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋

世界的に「反ファシズム人民戦線」運動があったが、それに対して日本ではどのような動きがあったか。
世界的には、コミンテルンの方針転換(社会民主主義勢力との共闘)と、フランスの作家たち(ロマン・ロランら)の動きの2つがあった。
これらは、海外にいた共産党員(野坂参三)や京都で発刊された『世界文化』や『土曜日』などの雑誌・新聞により、日本国内にも伝えられる。
世界的には、反ファシズム人民戦線は、共産党が中心になって組織されたが、当時の日本では既に共産党が壊滅しており、代わりに、反ファシズムを掲げる社会主義者自由主義者が広く集った。
しかし、当時の代表的な無産政党である社会大衆党は、反ファッショを謳いつつも人民戦線には批判的で、未組織大衆へアプローチして選挙で票を得た。また、社大党は戦時体制へ参画していく
人民戦線論者は検挙され、日本の人民戦線運動は成り立たなくなる
人民戦線運動が続いたのは中国で、中国では日本人捕虜の再教育に野坂参三ら日本の共産主義者が加わった。

コラム9 一国一党論 渡部亮

ナチスの成功に影響され、一党体制による強力な指導力の確立を目指す論が一国一党論
議会制を定める憲法に反しないよう、独裁ではなくあくまでも党による政治を目指す。
左右両翼から展開され、1940年には東方会や社会大衆党は自主的に解党した。
結果として、大政翼賛会ができるが、しかしこれは、また別の右翼から、翼賛会は事実上の「幕府」であって天皇親政を定めた憲法に反すると批判され、形骸化する。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2にもあった)

第13講 国家総動員論 森靖夫

従来、「国家総動員」というと戦前の軍国主義的な政策と捉えられてきたが、近年、そうではない観点から捉え直されており、本講はそれについて紹介している。
国家総動員という考え方は、第一次世界大戦から世界各国に広まり、アメリカやイギリスといった民主国でも取り入れられていたし、日本の国家総動員英米を参考にしていた、と。
民間でも兵器の生産をすることができるようにするというもの。平時には産業振興や資源調査を行い、むしろ軍事費を抑制するもので、また、強制的に行うものではなく国民の自発的な行動により成功するものであって、むしろ民主政と親和性のあるものと考えられた。
産業や資源を内閣総理大臣のもと一元的にコントロールする政策なので、軍に対してはシビリアンコントロールとして働く面をもっており、政党政治時代に進められた総動員政策に対して、軍はむしろ反発する側でもあった。

コラム10 女性動員論 堀川祐里

貧困により働く必要のある女性は既に働いていたので、戦時中は、そうではない女性の動員が必要となった。そうした女性のうち未婚女性を対象としたのが女性挺身隊。

第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史

もともとは、明治から民間の右翼の間にあった「アジア主義」だが、長らく国策にはなっていなかった。
まずは、満州国において国策となり、日中戦争以降、日本でも国策化していく。
満州の「五族協和」論、日中戦争期の「東亜新秩序」、アジア・太平洋戦争期の「大東亜共栄圏」論へと変化していく。
また、実は、左翼側にもアジア主義があり、本講はむしろ左翼側がいかにこのアジア主義にのっかっていったのかを見ていく。

第15講 京都学派の哲学 藤田正勝

京都学派は、批判的に言及されることが多いが、現代からみての可能性を論じてみようという趣旨
内部での相互交流・相互批判が盛んであったことを特徴としてあげている。
例えば、西田と田辺は師弟関係にあるが、田辺側から西田を批判する論文を書いて、西田もそれに応答するというような関係にあった、と。
また、三木清や戸坂潤がマルクス主義に関心をもっていたことから、西田も現実世界・社会への関心を示し、また、下村寅太郎ライプニッツ研究や数理哲学にも影響を受けていた、と。


京都学派については、本講と同じ著者が筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2にも書いてた。

コラム11 日本浪曼派 岩本真一

橋川文三曰く、日本浪曼派=保田與重郎なので、このコラムは主に保田の思想を取り上げている。
保田の思想=近代否定の思想。
ファシズムもまた近代否定の思想であり、日本浪曼派がファシズムと接近したのはその意味で当然であった、と。
保田の近代否定がはっきり現れている「ヱルテルは何故死んだか」の再刊に見られるように、この思想は戦後にも続いていると指摘して終わっている。