藤野可織『ピエタとトランジ』

身近な人の死を引き寄せてしまう体質の名探偵トランジと、彼女の友人で何故かトランジと一緒にいても死なないピエタの友情ないしシスターフッドを描いた物語。
元々、短編(藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2収録)として書かれた作品を長編化したもの*1
短編は、女子高生だった2人の出会いを描いたものだが、長編はその直後から2人の晩年までを12の章に分けて描いている。
探偵と助手が様々な事件を解決するというミステリの形式をとった作品ではあるが、謎解きがあるわけではない(トランジは天才なので、現場を見たり事件の概要を聞いたりするだけで、大体真相が分かる)。
短編の感想を書いた時、以下のように記した

こう言ってしまうともしかしたら色々と語弊があるかもしれないが、読んだ時に感じたのは「これ新青春エンタじゃん」ってことだった。
新青春エンタとはむろん、初期の舞城王太郎西尾維新に冠せられたジャンル名である
人が次々と死に、探偵が出てきて謎を解決する、でもミステリってわけでもなく、そういう形式でしか描けない青春を描こうとしているあの雰囲気

長編は、彼女らの人生をさまざまな時期を書いていくので、狭義の青春に限らないが、大量死とある種の超能力を前提とした、何らかの諦念と独特の倫理観と希望が織りなす2人の人生模様を描こうとしている。
なお、ミステリを超えて最後はディストピアSFっぽくなっていくが、同上


ピエタが書いた記録というていをとっているからかどうかなのかは分からないが、突然回想にとんだりする。というか、回想になる際に行空けがないので、結構戸惑う箇所が多い(行空け自体は使われることがある)。が、それにより、ピエタが思いついた順に書き留めている感が出ているのかな、とも思わなくもない。


全12章で、その後に、元になった短編も掲載されている。
各章は時系列順に並んでいて(つまり1章は、高校生時代、2章と3章は大学生の頃……といいうふうに)、その点でいくと、元になった短編は本来一番最初に配置されるべきだが、そうはなっていない。そして、一応その配置順にも意味が生じるように書かれている。


なお、ピエタもトランジもあだ名であり、日本人である。本名をもじってつけられたと説明されているが、本名は読者に対しては明らかにされない(実は、ピエタが他の人から本名で呼ばれているシーンもあるのだが、伏せ字にされている)。

case1 メロンソーダ殺人事件

2人の高校時代
ファミレスで2人で勉強していると殺人事件が起きたという話
正確に言うと、勉強しているのはピエタだけ。トランジから指示された問題を解いて、その間、トランジは読書しているという感じ。
最後に、トイレで産み落とされていた赤ん坊をトランジが助ける。


トランジは、死を招き寄せる体質のため、これまで何度も転校を繰り返しており、自身のこの体質を疎んでいるところがある。しかし、事件を解決する才能があるため、密かに解決したり、あるいは逆に犯人をかばったり、はたまた、事件を未然に防いだりしてきた。
ピエタは、そんなトランジの体質や才能を知った上で、彼女との生活を楽しんでおり、また、トランジ自身も実際は探偵的なことをするのを好んでいるのだろうとみている。

case2 女子寮連続殺人事件・前篇

case3 女子寮連続殺人事件・後篇

ここだけ前後篇
ピエタはトランジに勉強を見てもらったこともあって、医学部に入学する。
(トランジは(大学名は明示されていないが)東大に合格している。ピエタはトランジと一緒に生きていくにあたって医学部進学するのがよいだろうと決心して猛勉強していた。また、それ以外に護身術も身につけている)
女子寮に住むことになるのだが、そこで森ちゃんという同じく医学生と友達になる一方で、女子寮の寮生が一人ずつ殺されていく。
森ちゃんもまた、トランジのような天才で、この事件の謎を1人で解き明かす


なお、ピエタはトランジとの間で起きた出来事を記録に残しており、それを読んだ他の寮生が、「小説なんて書いているの」と馬鹿にして、ピエタが殴り返すというくだりがあったりする。

case4 男子大学生集団変死事件

東大の男子学生が集団で変死する事件が起きて、森ちゃんがトランジのマンションへ訪れる。
また、幼い頃から周囲で事件が起き続けているトランジのことを怪しんでいる、佐藤という刑事も、この事件についてトランジの元へ相談に訪れる。
ところで、実はこの事件、ピエタとトランジで犯人の後始末(証拠隠滅)をしていたのである。
冒頭から、2人の言動には妙なところがある(トランジとは異なり身なりに気を遣っているピエタが、ダサい部屋着をダサく着ていたり)のだが、それがそういうわけだったということが分かる。
1話は未成年がファミレスのトイレで隠れて出産しているし、2話・3話はDVの話、そしてこの事件はサークルでのレイプが事の発端、と女性を巡る問題が度々描かれている。
ピエタとトランジは、事件を解決することを楽しんでいるが、例えば犯人が性被害を受けていてそれの復讐として事件を起こしていた場合などは、むしろ証拠隠滅して、事件を迷宮入りさせてしまうことも厭わない。

case5 海辺の寒村全滅事件

ピエタと森ちゃんは研修医となり、トランジは本格的に探偵として開業する。
依頼を受けて海辺の寒村に向かったピエタとトランジだったが、そこに待っていたのは森ちゃんだった。


実は、トランジの体質は人に伝染する。
トランジには姉がおり、彼女もまた同じ体質で、今は在宅勤務の仕事をして完全引きこもり状態の生活をしている。彼女はトランジからこの体質が伝染し、さらに、一定以上の天才でないと伝染しないのではと考えている。ピエタには伝染せず、森ちゃんに伝染したことで、トランジ姉のこの仮説は証明された
(なお、なぜかピエタはトランジの近くにいても死なないし人を殺さないのだが、この理由は誰にも分からないまま。トランジの姉はピエタと話す度に挨拶代わりに「なんで死なないんだろうね」と言う)


トランジは自分の体質のことを半ば諦めているし、ピエタはそんなトランジと一緒にいることをむしろ楽しんでいるが、産科医になり自身も子どもを産み育てることをを夢見ていた森ちゃんはこの体質が伝染したことに絶望する(そもそも森ちゃんにはトランジの体質のことは伝えていなかったのだが、森ちゃんは天才なので調べ上げていた)。
そして、トランジともども、ピエタの前から姿を消してしまうのだった。

case6 無差別大量死夢想事件

ピエタとトランジは、出会ってから死ぬまで友人同士でほぼ一緒に生活し続けていくのだが、20代半ばから30代半ばまでのおよそ10年間は全くの音信不通になっていた。
6話と7話はその頃のピエタの話である。
森ちゃんの夢をついで産婦人科医になったピエタは、自分が幼い頃から「全滅」を夢想する趣味を持っていたことを思い出す。
(教室に突然テロリストがやってきて系妄想の亜種。普通、その手の妄想は自分がうまく敵を倒すことが多いと思うが、ピエタの妄想ではピエタ含めて全員死ぬ)
また、ピエタのつとめる病院には、ミケランジェロピエタを描いた絵が飾ってある。
ピエタはもうピエタと呼ばれなくなっていたが、その絵を見る度に、自分がピエタと呼ばれていた頃のことを思い出す。

case7 夫惨殺未遂事件

30を過ぎたピエタは、友人の紹介で出会った男性と結婚する。
新婚旅行で、トランジ像を見て、かつての友人を示す名前以外に「トランジ」という語があったことを初めて知る。
全滅妄想がエスカレーションして、絶えず、周囲の人の死を幻視するようになっている。
章タイトルにある通り、夫を殺しそうになるが未遂に終わる。
森ちゃんが望んでいた人生を送ろうとしていたピエタだったが、最終的にそれに適応できていないことに気付く

case8 死を呼ぶババア探偵事件

7話のラストでトランジと再会したピエタは離婚し、トランジの探偵事務所を手伝うようになる。
女子高生とその母親が失せ物の依頼をしてきたが、トランジの体質により、その母親や叔父などが死んでいく。
トランジは女子高生などの間で「死を呼ぶババア探偵」として噂になっていた(ピエタは、「あれ、死を呼ぶ女探偵じゃなかった? え?」となっていたが)。

case9 疑似家族強盗殺人事件

ピエタの両親のところに、かつてのピエタの同級生が子どもをつれて来るようになっていたことを、電話で知る。
そして、その後、両親とその同級生が遺体で発見されるのだが……。

case10 傘寿記念殺人事件

トランジの体質は、森ちゃんだけでなく、さらに様々な人に伝染していって世界的に殺人事件が増えていく。
トランジの探偵事務所が入っているビルの大家さんが、傘寿記念(?)に元夫を殺した話を、2人は聞く。
そして2人はアメリカへ(構成としては、既にアメリカへ渡った2人が、その話を回想している)。

case11 高齢者間痴情のもつれ殺人事件

60代になったピエタとトランジはまだアメリカにいて、ピエタはトーマスという男性に恋をしていた。
しかし、実はこのトーマスは、ピエタとトランジのことを調査していて……。
なお、ピエタ恋多き女性で、高校生や大学生の頃は、トランジを隠れ蓑にして男のところに遊びに行ったり、あるいは男を寮に連れ込んだりしていた。40代以降も、常に男がいたらしいことがトランジの台詞からうかがえる。しかし、ピエタの彼氏ないし夫として登場するのは、短編の際の社会人彼氏、産科医時代の夫、そしてこのトーマスの3人のみである。
一方、トランジはそういう相手がいたことがない(仮にいたとしてもトランジの体質により死んでしまう)。刑事の佐藤は、トランジの部屋に入り込んでいたことがあるが関係があったかは不明だし、結婚してトランジからは離れる。

case12 世界母子会襲来事件

80代くらいになっている。
人類社会は崩壊し、小規模なコミュニティがそれぞれ自給自足しながら細々と暮しており、2人はそうしたコミュニティを渡り歩いている。
人々は互いに会う機会を最低限にしているし、些細なことで殺してしまうので、若者はもはやトランジの探偵というのが何なのかよく分かっていない
世界母子会、というのは、出生数が激減したこの世界で、改めて子どもを産み育てようといする会で、森ちゃんの思想的影響下にあり、ピエタとトランジを殺しにくる。

ピエタとトランジ

ピエタの高校に転校してきたトランジ
ピエタの社会人の彼氏が殺されるのだが、その彼氏が3股をかけていてそのうちの1人が犯人であることを瞬く間に解き明かしてしまうトランジ。
以来、ピエタの高校では次々と人が死んでいったが、ピエタはトランジを学校につなぎとめる。
この短編だけで完結している話だが、第1章で、ピエタは自分たちの出会いを綴ったノートだかを紛失してしまったということを述べており、そして、第12章で、トランジはピエタに、なくしたっていうから私の頭から出力しておいたといって、この話を渡すのである。
また、この短編の最後の台詞等々と第12章の最後の台詞等々が同じ、という仕掛け(?)もされている。

*1:単行本では『ピエタとトランジ〈完全版〉』だったが文庫化の際に『ピエタとトランジ』になった

イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(米川良夫・訳)

Qfwfq老人が、宇宙創成や恒星の誕生の頃、あるいは自分が恐龍だった時代や陸上生活を始めた頃の脊椎動物だった時代を語った物語を集めた連作短編集
「自分が恐龍だった」とか何やねんという話だが、実際Qfwfqが「わしは恐龍だった」云々と語っているのであり、Qfwfqは宇宙創成どころか宇宙の始まりの前から存在していて、宇宙が存在するようになるか賭け事をしていたり、ガス円盤の中で家族とともに生活していたりしたというのである。
そんな話が11篇集められているが、そのうち7篇は実はラブロマンスものであり、時空を超越した舞台設定をしつつも、繰り広げられる物語は人間くさい話だったりするが、その双方の相乗効果で、失われていくものへの哀惜のようなものが描かれていたりする。
とはいえ、かと思えば、円城塔ばりのメタフィクションも展開されたり思弁全開だったりする話もあるので油断ならない。
ちなみに、各話の冒頭に科学書からのエピグラフらしきものが置かれていて、それに対してQfwfq老人が、そうそうその頃にはな、みたいな感じで語り始めるという形式がとられている。
どの話もコミカルで面白いが、センチメンタルな感じというか「恐龍族」が頭一つ抜けて傑作だと思う。
その思弁や描写の点で「渦を巻く」や、お伽噺っぽさで「月の距離」も面白い。


なお、Qfwfq老人の物語は、『柔らかい月』にも収録されているほか、さらにそれ以外にも書かれており、本国ではそれらを収録順序を整理した上で改めてまとめた本が出ているらしい。
訳者あとがきによれば、文庫化に際して1編追加を検討していたが、権利者側の許可がおりなかったらしい。一方、本書と『柔らかい月』が日本では別の版元から出ている事情もあって、上述のいわば完全版を出すのが日本では出すのが難しくなっているということも、あわせて書かれていた。


10年以上前に一度読んでいたのだけど、数年前から「再読したいなあ」と思いつつ読めていなかった。
今、海外文学読むぞ期間を実施中なので、これを機に再読することにした。
フォークナーの次にカルヴィーノ読むの、なかなか振り幅が大きいが。
以前、読んだことあるカルヴィーノ作品は以下の通り。一番有名な『冬の夜ひとりの旅人が』を実は読んでいなかったり。
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』 - logical cypher scape2
イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』 - logical cypher scape2
『レ・コスミコミケ』『宿命の交わる城』
イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』 - logical cypher scape2

月の距離

地球と月の距離がまだ近かった頃、舟から脚立をかけては度々、月のミルクを採りに行っていたという話。
Qfwfqは、Vhd Vhd船長夫人に恋慕していたのだが、その夫人はQwfwfqの従弟に思いを寄せていたという三角関係もの。
その肝心の従弟はというと、月に焦がれていた。
月との距離が次第に離れ始めた頃、Qfwfqは、夫人と月で二人きりになる計画をたてるが、結局地球と離れてしまうことに焦り、最後は必死に地球へと戻ってくる。一方の従弟はついに離れ行く月と一緒になることを選び、夫人もあとを追う。
何より、脚立を立てて月に行って、重力の向きが反転したり、また月から地球に飛び上がって(飛び降りて)戻ってきたりとかいった描写の、ほのぼのした感じが面白い。

昼の誕生

星雲がガスから固まっていく頃の話、Qfwfqは星雲のガスの中で、祖母や両親、姉弟たちと暮していた。
次第に固体ができてきて、父親が「さわった」と言ったりする(そもそも、「さわる」とはどういうことなのかこれ以前にはよく分からなかった、みたいなことが書かれている)
そんな中、双子の弟と祖母のドーナツ盤がなくなり、Qfwfqが弟たちを探しに行ったり、
田舎(?)からきていた叔父・叔母が事態の急変に対して帰ることにしたのだが、なんか漂流してしまったり。
タイトルに「昼の誕生」とあるように、最終的に星雲から太陽が誕生するのだが、引っ込み思案の姉は地球にもぐりこんでしまう。その後、姉の行方は分からないままだったが、1912年にひょっこり再会した、みたいなことをしれっと述べていたりする。

宇宙にしるしを

太陽系が何億年かけて銀河系の中を公転するので、しるしをつけておこうとした話。
そもそも「しるし」とは一体何なのかという思弁が展開されるとともに、QfwfqとKgwgkとの間の、やりあいみたいなことが描かれている。
やりあいというのは、Kgwgkが、Qfwfqのつけたしるしを消したり、似て非なるしるしをつけたり、ということである。
上に、本書収録作品の半分以上がラブロマンスだと述べたが、その次に多いのが、Qfwfqの分身のようなライバルのような者とのゲームのような話である。

ただ一点に

宇宙がまだ一点に凝縮していた頃の話
しかし、まあ例によって、Qfwfq以外にも何人もの登場人物が出てくる。
マドンナ的女性が出てきたり、移民(一点しかないのに果たしてどこから移民してくるのか)が出てきたりする。
「空間があれば、スパゲッティを作ってあげるのに」

無色の時代

まだ、世界に色がなく、あたり一面が灰色だった時代(冒頭のエピグラフに従うならば、大気がなかった頃)。
Qfwfqは、アイルという女性(ルは小書き文字で書かれている)と親しくなっているが、2人は性格が違い、Qfwfqが新しいものや刺激的なものを求めていたのに対して、アイルは灰色の世界を愛していた。
隕石の衝突をきっかけとして、にわかにあらゆるものに色がついて見えるようになる(紅玉は紅かったのか、とQfwfqが驚くあたりはちょっとニヤッとしてしまう)。
Qfwfqは興奮してアイルにも見せようとするのだが、アイルは消えてしまっていた。
失われてから、灰色の世界の美しさに気付く

終わりのないゲーム

Pfwfpとのゲーム(QfwfqもPfwfpも子どものようである)
最初は、水素原子をビー玉のようにしてぶつけあう遊びをしており、
その後、星雲にのって追いかけっこするのだが、何故か無限ループのような状態になる

水に生きる叔父

両生類が上陸し始めていたような時代の話
Qfwfq一族の大叔父は、しかし未だにサカナのような生活をして、水辺から離れようとしなかった。
陸上進出して、様々な地域へと拡散したQfwfq一族は、時々大叔父のもとへと帰ってきて互いに旧交を温める(お正月の帰省みたいな感じなんだろうか)
古い生活と価値観に固執する大叔父をQfwfqはよく思っていないが、大叔父は一族の中での重鎮みたいな存在で、親戚たちも彼に相談をもちかけたりしている(が、それに対しても水中生活の価値観で答えるので、Qfwfqはやはりよく思っていないというか、恥ずかしく感じている。ところで、その例として出てくるのが、水面よりも水底の方が漁の先取権があるのは当然だろ、とかで面白い。帰省土産が虫だったり)
Qfwfqには、L11という恋人がいるのだが、彼女の一族はもう数世代も前から陸上進出している。そんな彼女に大叔父を紹介する時がくる。いまだにサカナをやっている者が親戚にいることを彼女からどう思われてしまうのが気が気でないのだが、L11はむしろ大叔父との会話を思いの外真剣に楽しんでいる。
ところが最後には、L11を大叔父に寝取られてしまうというまさかのオチ

いくら賭ける?

学部長と色々な賭けをしていたという話
宇宙が存在するようになるかどうかから、アーセナルvsレアル・マドリードの結果まで。
Qfwfqはとにかく色々なことをシミュレートしていて、まだ地球も人類もいない頃に「メソポタミアアッシリアに侵略されるか」という賭けをもちかけて、学部長を困惑させている。
Qfwfqは、そういう感じで突拍子もない賭けをしかけたりして、大勝ちしていくスタイルがで、それに対して学部長は保守的で、基本的にQfwfq逆張りをするだけなので、まあ普通に負けるのだが、後半では勝敗が逆転していく。

恐龍族

Qfwfqが恐龍だった頃の話。
しかし、恐龍の時代ではなく、恐龍が絶滅してしまった後、Qfwfqだけが山奥で絶滅を免れて生き延びた時代。山を下りてくると「新生物」たちと出くわして、一緒に暮すようになる。
新生物たちの間では、恐龍が古く恐ろしい存在として噺の中に出てくるが、しかしもはや誰も見たことがない。Qfwfqは正体がばれるのを恐れながらも、新生物たちの中に次第に馴染んでいく。
また彼は、新生物のフィオール・ディ・フェルチェと親しくなっていく。彼女は夢の中で恐龍を見るのだが、それがまた本当の恐龍とは違うので、Qfwfqは複雑な心情を抱く。
また、港町からフィオール・ディ・フェルチェの兄であるヅァーンが帰ってくる。当初、ヅァーンは、余所者であるQfwfqへ不審を抱くが、力比べをしたあとはむしろ信頼するようになる。
色々事件なり何なりが起きる度に、新生物たちの間で広まる恐龍の噺と態度は変わっていく。新生物たちが恐龍を持ち上げるようになると、Qfwfqは密かに恐龍はそんなよいものではなかった、新生物たちの方がよほど優れているのにと思うし、逆に、新生物たちが恐龍を冗談の種に使うようになると、自分だけが恐龍の優れたところを忘れないようにしなければと思う。
結局、恐龍にも新生物にも嫌気がさして1人になるが、別の土地からやってきた新生物の一群に、遠く恐龍の血をひいている混血のムスメがいることにQfwfqだけが気付く。
そのムスメの子が「ぼくは新生物だ」と言うのを聞いて、安心して去って行く。

空間の形

平行線を飛び続けるQfwfqウルスラとフェニモア中尉
Qfwfqとフェニモアは、ウルスラを巡って恋のライバルにある。
直線は文字へと変わり、メタフィクションになっていく。

光と年月

望遠鏡をのぞいていたら、1億光年先の惑星に《見タゾ》のプラカードが挙がっているのを発見する。
果たして計算してみると、2億年前に確かに見られるとまずい醜態をしていた日があったことに気付いて、さてどうやって反応するべきかと色々やきもきしたり、その情報が宇宙中に広がっていったりなんだりする話

渦を巻く

軟体動物だった頃の話。彼女に恋をする。
また、分泌物を出して貝殻を作るようになる。
短編だが3節に分かれており、そのうち第2節は、5億年後の世界(=現代)について描かれている。様々な場所に自分や彼女が遍在しているようなことが言われており、ここまでの物語の最後に相応しい。かなり長い1文が出てきたり、ポンポンとカメラ位置が変わっていったりといった点も面白い
第3節では視像(イメージ)についての思弁というか。視覚器官が発生したからイメージが生じたのではなくて、見られるに値するものが生まれたから視覚器官やイメージが生じたのだというようなことを論じていて、要するに、それは自分の作った貝殻であって、イカとか捕食動物が目を進化させたのはそれの付随なんだ、と

訳者あとがき

Qfwfqカルヴィーノは別人であるというていで語られるあとがき

ウィリアム・フォークナー『エミリーに薔薇を』(高橋正雄・訳)

フォークナーの短編集
ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2は面白かったものの、文体が文体なだけに、フォークナーを続けて読む気はなかったのだが、他のフォークナー作品をぱらぱらっと見てみたら、「『アブサロム』はフォークナーの中でも読みにくい部類であって、他の作品はそうでもないな?」ということに気付き、とはいえ長編2連続も重たかったので、短編集を読むことにした。
実際、ほとんどが登場人物の語りによって展開され、時系列も入り乱れる『アブサロム』に対して、本短編集に収録されている作品は、その点ではオーソドックスな(?)三人称小説である(一人称小説もあるが、「ぼく」という一人称が地の文に出てくるだけで、限りなく三人称に近い)。まあ短編だし。
全ての収録作品が、ヨクナパトーファ・サーガに位置づけられるものであり、その点も楽しい。ただし、単体でも読めないことはないが、登場人物や位置づけについては、関連作品未読だと分からなくて、都度訳者解説を確認しながら読んだ。
(もっというと、読後にググって出てきた論文等を読んで「そういうことだったのか」と思うところも多々あり、その点では、一読してすらすらわかる小説というわけではないが)
フォークナー作品を多く翻訳している訳者が、ヨクナパトーファ・サーガへの入門として選んだ短編集。長編作品を読まないと分からないところもあるが、しかし、読みやすくてとっつきやすいし、白人が入植し始めた頃から第二次大戦の頃までの様々な時期のエピソードをつまみ食い的に読んでいけるので、確かにサーガ入門としてよい気がする。
海外文学読むぞ期間

赤い葉

ネイティブ・アメリカン(本文ではインディアン表記なので、以下インディアンとする)と黒人の話
訳者解説で、ジェファソン*1がまだインディアンの土地だった頃の話だと知った
インディアンと黒人がどういう関係にあったか、そういえば知らないなと思った。
ここでは、インディアンも黒人奴隷を所有している。
インディアンの頭が亡くなったため、お付きの奴隷を殉死させようとしたら逃亡されて捜索した、という話だと思う。
インディアン側の発言として、基本働きたくない、黒人を働かせるために働かなくてはいけない、白人が来てから世の中変わってしまった、黒人は働くのが好きで死ぬのを嫌がるが何故だ、的なものがあったと思う。

正義

響きと怒り』『アブサロム、アブサロム!』の語り手であるクエンティン・コンプソンが、黒人居住地に住む大工のサム・ファーザーズという老人の昔話を聞くというもの。
サム・ファーザーズは、黒人からも白人からも黒人を意味するスラングで呼ばれているが、インディアンと黒人のハーフである。
サムが話す昔話は、さらにサムがハーマン・バスケットから聞いたもので、人から聞いた話をさらに他の人に語るのを聞いてる、という入れ子構造は、『アブサロム』でもうお馴染みではある。
当時の頭であるドゥーム(イッケモテュッペ)とサムの父親、それからバスケットが主な登場人物である。
なお、ドゥームは「赤い葉」にも出てくる。「赤い葉」で亡くなった頭のさらに父親がドゥームである。また、「赤い葉」には、スリー・バスケットという人も出てきた。なるほど、こうやって繋がっているのかと思った。
話の内容は、サム・ファーザースの出自の話。
ニューオーリンズに行っていたドゥームが黒人を10人連れて戻ってきたあたりから始まる。このことは、「赤い葉」でもちょっと言及があった。
ドゥームがこの黒人らを、サムの父親とバスケットに譲るというのだが、バスケットは要らないといい、一方サムの父親は、その中に1人だけいた黒人女性を欲しがる。しかし、その女性はやはりドゥームが連れてきた別の黒人と結婚していた。
ドゥームが、使われなくなった蒸気船を自分の屋敷まで運ぼうとする話が展開される一方で、このサムの父親のあれこれも同時に進んでいく。
サムの父親は色々画策するのだが、その女性を手に入れるのには失敗する。例えば、明らかに自分が有利な闘鶏勝負をしかけるのだが、それを知ったドゥームが黒人側に手を貸して勝負に負ける。
しかしその後、その女性から生まれてきた子どもは、肌の色が明らかに違った。
で、黒人の方がドゥームに対して正義を示せといって、ドゥームは、黒人小屋のまわりを、黒人は飛び越せるがサムの父親には飛び越せない柵で囲う。また、産まれてきた子どもに「ハッド・ツー・ファーザーズ(2人の父親を持つ)」と名付ける。
という話をしている最中に、クエンティンはおじいさんに呼ばれて家に帰ることになる。
クエンティンは、12才なので聞かされた話の意味がよく分からないが……。


最後の柵で囲うのとかが謎の寓話感があったり、ドゥームが蒸気船を何ヶ月もかけて黒人たちに運ばせて「屋敷が広くなった」と喜んでいるのよく分からん感があるし、サムの父親とバスケットは唐突に白人を殺したり、そもそもサムの父親はクズ感があり、小説としては面白くもあるわけだが、「赤い葉」とともに、フォークナーの描くインディアン像って何なんだろうな、と思ったりもする。
ところで、ググったら以下の論文があって、本作の解釈がなされていて、「おお、そういうことだったのか」となった。
子供/大人のための物語り-フォ-クナ-の“A Justice”について-

エミリーに薔薇を

独身の老女エミリーが亡くなり、エミリーの半生がごく短いページ数の中で振り返られる。
アブサロム、アブサロム!』のミス・ローザをある程度彷彿とさせる。
ジェファソンの名家の出だが、結婚できぬまま、父親が亡くなり家を相続する。
当時、市長だったサートリスが、父親が町に金を貸しているので彼女の税金を免除することにしたのだが、彼の子世代が町長や議員になってきたときにさすがに税金払えよということになって、彼女の家に行くのだがにべもなく追い返されるなどのエピソードが書かれている。
ジェファソンにやってきた北部人の男と親しくなり、結婚が噂されるのだが、ある日、この男は忽然と姿を消す。
(一時子どもたちに絵を教えていたりはするものの)ほとんど引きこもり状態で亡くなるまで過ごしたエミリー。
「赤い葉」では黒人と書かれていたが、本作では黒んぼだった(『アブサロム、アブサロム!』は語り手によって違っていた気がする)。
「われわれ」という一人称複数形で書かれている。彼女について噂したりするジェファソンの人たち、という感じなのだろう。
本書の紹介には「ミステリの古典」とも書かれており、まあ確かにミステリ要素もなくはないが、同じく「ゴシック小説」とも称されており、ちょっとグロテスクな結末が待っているあたりに「ゴシック小説」感があった。短編小説としてはすごくまとまっていて面白い。

あの夕陽

「正義」の語り手でもあったクエンティン・コンプソンが、9歳の頃の思い出について語っているもの(「正義」は12歳の頃の思い出だったが)。
クエンティンと、妹のキャディ、弟のジェイソン、そして黒人女性で洗濯婦をしているナンシーが主な登場人物。
元々、コンプソン家ではディルシーという黒人女性が家政婦として働いているが、彼女が病気となっている間、ナンシーが代わりに働きにきている。
ナンシーは、行方知れずになった夫のジーザスのことを怖れており、クエンティンの父親に家に送ってもらったり、コンプソン家の子どもたちを自分の家に連れてきたりしようとする。
この短編自体は、ただそれだけの話で、ただひたすらにナンシーがジーザスのことを怖れており、クエンティンの父親や回復したディルシーがそれを諫めようとする一方で、コンプソン家の子どもたちは何だかよく分かっておらず(上から9才、7才、5才である)、キャディがジェイソンをからかい、ジェイソンが強がるというやりとりが繰り返されている。
何かが起きるわけではないが、白人と黒人との間の関係が垣間見えてくる作品となっている。つまり、彼らは、同じ共同体の中で生きる者同士として、互いに親しいやりとりはしているが、しかし、無意識的に差別的な言動などは見られるのだ。
ところで、何も起こらないとは書いたが、訳者解説を見ると、ナンシーはのちにジーザスに殺害されてしまうらしい。
また、そもそもナンシーは、白人男性の子を妊娠している。売春だったようだが、男の方が金を払っていないことを叫んだら、逆にナンシーが逮捕されてしまい、獄中で自殺を図ったが死ねなかったというくだりから、この話は始まっている(また、黒人はコカインを使っていないと自殺なんてしないはずだから、ナンシーはコカインを使っていたのだという、差別的な論理が言われたりしている)。
もう一つところで、クエンティンが15年前の9歳の頃の出来事として語っているのだが、クエンティンは20歳で自殺したのではなかったか(『響きと怒り』のエピソードなので未読だが)。『アブサロム、アブサロム!』の訳注では、フォークナー作品はしばしば、あえて年齢の表記などが誤っていることがあるとあったので、それの一種なのかもしれない。あるいは、本書の訳者解説では、殺されたはずのナンシーが何故かまた出てくる作品もあるようなことが書かれていたので、そこらへんの時間軸がむちゃくちゃなのかもしれない。

ウォッシュ

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2でも描かれた、ウォッシュとサトペンの話
南北戦争が始まっても、ウォッシュが戦争に行かずにサトペン屋敷の世話(?)をしていたところから、サトペン殺しまで。
内容的には『アブサロム、アブサロム!』で書かれたものと同じで、セリフや文章なども同じものが出てきているが、『アブサロム、アブサロム!』がクエンティンによる語りで展開されて、語られる順序も必ずしも時系列順でないのに対して、こちらは、基本的にはウォッシュ視点に近い三人称で、時系列順に書かれている。
ウォッシュとサトペンはある意味では境遇が似ている。白人ではあるが貧しいために、豊かな白人のもとで働く黒人よりも生活が苦しく、またそうした黒人にも下に見られることがある(あった)。また、同じ年齢という共通点がある。
一方のサトペンはそこから成り上がったわけだが、ウォッシュは貧しいままであり、サトペンは子どもを作るのに慎重を期したのに対して、ウォッシュは既に孫がいる。
ウォッシュはサトペンのことを英雄視していたが、戦争後、サトペンがウォッシュの孫に粉をかけはじめたところから少しずつズレはじめる。
結局、サトペンがウォッシュの孫の出産よりも馬の出産のことを気にかけていたっぽいことと、女児が産まれたことでサトペンが冷淡になったことで、凶行に至る。
アブサロム、アブサロム!』では、ウォッシュがサトペンを殺す前に、現場から逃げ出した産婆の証言と、その後にサトペンの死体を最初に発見することになった少年の証言から語られているので、殺した瞬間は描かれていないが、かといって、こちらの作品も殺人の様子そのものを直接描いているかというとそんなことはない。『アブサロム』では時系列シャッフルされているので殺人シーン自体が巧妙に隠されている感じだが、こちらでは、単純に描写が間接的になされている感じ。
この短編集では、黒人は基本的に「おら」「ですだ」口調で喋る形で訳されているが、ウォッシュも同じく「ですだ」口調になっている。

女王ありき

こちらは、サートリス家の話。
老婦人ジェニー、その甥の孫の妻であるナシッサ、黒人召使いのエレノーラが主な登場人物である。
訳者解説によると『サートリス』は、ナシッサが妊娠したところで終わるらしいが、本作はその子が10歳になっている頃の話である。
サートリス家は男性が既に亡くなっており、家にはもはやジェニー、ナシッサとその子しかいない状況で、ジェニーとエレノーラは、ナシッサがサートリス家には相応しくない女性だと考えている(エレノーラは自分の息子に愚痴っている)わけで、サートリス家の終焉を描いた作品である。
タイトルでググっていたら、以下の論文を見つけた。(「正義」の奴と同じ人の)
もう1つの優れた短編小説-Faulkner の“There Was a Queen” について-
一読しただけでは全然読めていなかったところもあり、これを読んで「なるほど、そういうことだったか」となったのだけど、しかし、そういう理解曖昧な状態でも、読後感は悪くなくて、なんかしみじみさせられる。
ジェニー視点パートとエレノーラ視点パートが交互に展開される。
ある日、ナシッサが理由もいわずにメンフィスで外泊した日があって、エレノーラはそれをただ悪くいうのだが、ナシッサは帰ってきた後にジェニーに理由を話しており、事情があったことをジェニーと読者は知る(エレノーラは最後まで知らない)ようになっている。
その事情というのは、かつてナシッサ宛に送られたラブレターを取り戻しにいったという顛末
このジェニーという老婦人が、ローザやエミリーとはまた違ったタイプの、古風で毅然としたタイプの人として描かれている。

過去

こちらはマッキャスリン家の話
マッキャスリン家の人は、『アブサロム、アブサロム!』にもちらっと出てきたが、あまり印象に残っていない。
正直、どういう話だったのかいまいちよく分からないままに読んだが、以下のような話
マッキャスリン家の黒人奴隷が1人逃亡する。実は、別の家の黒人女性に逢いに行くために度々逃げ出している。で、それを捕まえにいく、マッキャスリン家の双子のおじさん
逃亡奴隷を捕まえに行くという点では「赤い葉」と似ている。そしてどちらも、その割には雰囲気が緩い。なんかわりと行動がゆっくりしているし、一緒に出かけたマッキャスリン家の子どもが先にその黒人を見かけてたりするし。
それと並行して、マッキャスリンの双子の片割れと、その逃げた先の家の独身女性との間の結婚話もすすんでいく。この2人の間に生まれたのが、次の話に出てくるアイクおじさん。
お互いに押しつけたがっているところがあって、最終的にポーカーで決着をつける

デルタの秋

アイザック・マッキャスリン(アイクおじさん)の話
ヒトラーの話題が出てくるので第二次大戦中だと思う。アイクは80歳くらい。
タイトルのデルタは、ミシシッピ・デルタのこと。
親戚と連れだって鹿狩りにいく話だが、かつてはジェファソンの近くでも狩りができたのが、次第に開発が進んで、今ではデルタを何百マイルも遡らないといけなくなった、と。
狩りに向かうのも馬車ではなく自動車である。
自動車を運転するロス・エドモンズという若者は、道中何か様子が変である。
キャンプを設営し、明日の朝も早いのでみな寝床につくが、アイクは自分が眠れないことを自覚していて自分の来し方を思ったりしている。
翌朝、他の者たちが自分を置いて狩りに発つのを聞いて寝たふりをしていると、ロスが封筒を置いていく。このあと来る者にこれを渡して欲しいという。
ロスが去った後現れたのは、赤ん坊を連れた1人の女性。
要するにロスは、彼女との手切れ金をアイクに任せたのである。
で、ここからがフォークナー節で、この女性、ロスとの復縁も金も求めているわけではない、なのに何故ここに来たのかとアイクが問ううちに、この女性が、ロスやアイクにとって遠縁にあたる女性であり、また、見た目はほとんど白人ではあるが黒人の血が入っている(黒人の血が入っていれば、見た目は白人でも扱いは黒人となる)ことに気付く。
アイクは、いつかアメリカから人種差別がなくなる日がくることを夢想しているようだが、今はまだその時ではないのだということを、この女性の来訪により改めて突きつけられることになる。
ロスがああなのは、アイクおじさんにも責任があるのだ、と女性は述べて去っていく。
作品の冒頭と最後で、牝鹿とこの女性がかけられている(「あいつは牝鹿を狩りに行ってんだよ」などと別の人物が言ったりしている)。


さて、これだけだと何が何だか分からない話で、マッキャスリン家の家系図とかが分かっていないといけない話だったようだ。
どうも「熊」の後日談のような位置づけらしいし。
マッキャスリン家は、男系のマッキャスリン家と女系のエドモンズ家に分かれており、アイクは前者、ロスは後者の血筋
アイクは、マッキャスリン家の土地の相続を放棄して、エドモンズ家に譲渡してしまっている。先の女性は、そのことを責めている。
「過去」に登場してきた、マッキャスリン家から逃亡した黒人だが、彼もマッキャスリンの血を引いているらしい。先の女性は、こちらの家系に属する。
家系図が欲しい!
また、本作では、「正義」のサム・ファーザーズへの言及もある。
上述した子供/大人のための物語り-フォ-クナ-の“A Justice”について-では、サム・ファーザーズの父親は、作中でサム自身が父親と呼んでいるクロー=フォードではなく、頭のドゥームの方であるという解釈がなされている(なお、この論文筆者の独自解釈ではなく、サムの父親が誰であるかについてはクロー=フォード説とドゥーム説の2つがそもそもあるらしい)。
で、なんと本作では、サムの父親はイッケモテュッペ(ドゥーム)であると書かれているのだ。
(先の論文でも、この記述などをもとにしてドゥームを父親とする解釈が書かれてきた旨触れられている。なお、同論文は、この記述は直接の論拠とせず、「正義」内の記述だけからドゥーム父親解釈を導いている)。
他にも、アイクがかつて一緒に狩りに出かけていた人の中にド・スペイン少佐の名前もあった。スペイン少佐は「ウォッシュ」に出てきて、サトペンを殺害したウォッシュに家から出てくるよう呼びかけている人である。


ところで、アイクおじさんの内面の声がカタカナ混じり文で書かれていたり、そこに出てくる地名に下線が引いてあったりした。
今の翻訳だったら、太字にしたり斜体にしたりしそう……。原文だとどうなっているんだろうな。

訳者解説

フォークナー全体の解説と収録作品についての解説がなされている。
作家人生を、模索と彷徨の第一期(1作目と2作目)、意欲的創造の第二期(『サートリス』から『アブサロム、アブサロム!』まで)、そして、それ以降の円熟期としている。
また、『響きと怒り』『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』をフォークナーの三大傑作とも称している。
円熟期を代表するのは『行け、モーゼ』で、この中にアイザック・マッキャスリンを主人公とする「昔の人々」「熊」「デルタの秋」が収録されている。

繁茂する南(中上健次

中上健次がフォークナーについて語った講演が2篇収録されている。
ここでは中上が、ヨクナパトーファ・サーガと『ラーマーヤナ』やラテンアメリカ文学を並べて、大陸の南の共通性みたいなことを語っている。
タイトルの「繁茂」は、フォークナーが度々書いているスイカズラのことを指している。
「南」の特徴として、時間、血、混交する交通を挙げていて、スイカズラが時間や血のメタファーになっているとしている。

フォークナー衝撃(中上健次

同じく、中上がフォークナーについて語った講演
フォークナーが何故どのように、ラテンアメリカやアジアの文学に影響をもたらしたのかについて。
「意識の流れ」技法をフォークナーはそのまま使うことはできなかった。アメリカ南部を描くにあたって、ヨーロッパ人のようにはできなかった、と。だから、フォークナーの書き方はラテンアメリカやアジアの作家にとっても使えるものだった、と。
歩くことや噂することを特徴として挙げている。

地理メモ

Wikipedia見ながら確認したことメモ
ヨクナパトーファ郡は、ラファイエット郡をモデルにしているとされる。
ところで、ラファイエット郡の郡都はオックスフォードだが、オックスフォードは『アブサロム、アブサロム!』にも出てくる。ヘンリー・サトペンとチャールズ・ボンが通っていたのはミシシッピ大学だが、それがオックスフォードにある*2
ちなみに、クエンティンが行ってるのはハーバード大*3
また、度々メンフィスが出てくることがあるが、こちらはミシシッピ州の北にあるテネシー州の州都。同じくニューオーリンズは、ミシシッピ州の西にあるルイジアナ州の州都。
ちなみに、ミシシッピ州の州都はジャクソンだが、少なくとも『アブサロム』と本書には言及がなかったような気がする(意識して読んでなかったので分からないが)。
あと、ラファイエット郡は、ミシシッピ・デルタの中には含まれていないようだ。

*1:ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡の郡都

*2:なお、このラファイエット郡オックスフォードの名前の由来はもちろんイギリスのオックスフォードである

*3:こっちはマサチューセッツ州ケンブリッジにある

2022年振り返り

ここ3年で一番本を読めた年かも。
記事数と読んだ本の冊数は別だが、参考に記事数を比較すると、
2022年は88記事(+この記事で89)
2021年は33記事、2020年は70記事、2019年は126記事だった。
2020年からこっち、本読んだりブログ書いたりが以前より減っているのだけど、回復してきた感じ。
なお、2019年の126は例年と比較しても多い方で、平均すると1年で100本弱の記事を書いている。
2021年が極端に少ないのは、『物語の外の虚構へ』を制作していたから、という事情もある。


今年は、特に後半のスパートもあって小説をたくさん読んだ気がする。
逆に自然科学系の本が減った。小説以外は人文・社会科学系中心で、歴史系や美術関係が増えた。
今年は実は洋書を何冊か読み始めたのだが、途中で止まってしまっている。
カルヴィッキの本にDthatが出てきたので、『言語哲学最重要論文集』に収録されていている「Dthat」を再読しようと思って、9月頃に図書館に行ったら、なんか久しぶりに色々借りてきてしまって、それをきっかけに、小説をガツガツ読み始めることになった。結局「Dthat」の再読はしていないんだけど……。
今年はそこから、英語読むのをやめて小説読むのに読書時間を振り直したことで、読んだ冊数が一気に増えた。

小説

今年読んだ小説から、特に面白かったものを挙げてみる
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
sakstyle.hatenadiary.jp
新刊としては、ピンスカー短編集と小川哲新作長編。特に、ピンスカ-はよかった。
『地図と拳』は山田風太郎賞受賞、日本SF大賞最終候補作、直木賞候補作と世間的にも今年話題の本だった。
そのほか、9月から12月にかけての「文学読むぞ期間(?)」からは、『高丘親王航海記』と戦後短篇アンソロジーの都市篇、そしてバルガル=リョサを挙げておく。
また、加えて建築文学アンソロジー藤野可織のデビュー作含む短編集も挙げておきたい。


今年は小説をたくさん読んだ。時系列順に羅列すると以下の通り。
今年もSFは読んだけれど、それ以上にSF以外をたくさん読んだ、特に9月以降
その経緯は既に書いた通り。文学読もうかという気持ち - logical cypher scape2
今年はTVアニメをめっきり見なくなっており、その反動で(?)小説を読んでいるような気もする。一定量のフィクションを摂取する必要があるのではないか。

2022-01-13 青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2
2022-01-19 古井由吉『杳子・妻隠』 - logical cypher scape2
2022-01-21 大森望編『ベストSF2021』 - logical cypher scape2
2022-02-09 高山羽根子『暗闇にレンズ』 - logical cypher scape2
2022-02-18 プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』(関口英子訳) - logical cypher scape2
2022-03-09 高山羽根子・酉島伝法・倉田タカシ『旅書簡集 ゆきあってしあさって』 - logical cypher scape2
2022-03-20 上田早夕里『獣たちの海』 - logical cypher scape2
2022-05-11 ジョナサン・ストラーン編『創られた心 AIロボットSF傑作選』 - logical cypher scape2
2022-06-11 冲方丁『マルドゥック・アノニマス7』 - logical cypher scape2
2022-07-04 春暮康一『法治の獣』 - logical cypher scape2
2022-07-11 サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』(市田泉・訳) - logical cypher scape2
2022-08-16 小川哲『地図と拳』 - logical cypher scape2
2022-08-29 磯崎憲一郎『鳥獣戯画/我が人生最悪の時』 - logical cypher scape2
2022-09-13 古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2
2022-09-17 リリー・ブルックス=ダルトン『世界の終わりの天文台』(佐田千織訳) - logical cypher scape2
2022-09-20 安岡章太郎『質屋の女房』 - logical cypher scape2
2022-09-22 『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
2022-09-28 藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2
2022-10-01 小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2
2022-10-11 春暮康一『オーラリメイカー』 - logical cypher scape2
2022-10-14 藤野可織『来世の記憶』 - logical cypher scape2
2022-10-20 『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
2022-10-21 庄野潤三『プールサイド小景・静物』 - logical cypher scape2
2022-10-26 『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2
2022-10-29 『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち 』 - logical cypher scape2
2022-10-29 『SFマガジン2022年2月号』 - logical cypher scape2
2022-11-03 伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」 - logical cypher scape2
2022-11-05 島尾敏雄『夢屑』 - logical cypher scape2
2022-11-05 『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』 - logical cypher scape2
2022-11-06 ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』(黒丸尚・訳) - logical cypher scape2
2022-11-25 島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』 - logical cypher scape2
2022-11-28 澁澤龍彦『高丘親王航海記』 - logical cypher scape2]
2022-11-28 島尾敏雄「離脱」色川武大「路上」古井由吉「白暗淵」(『群像2016年10月号』再読) - logical cypher scape2
2022-12-09 マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(旦敬介訳) - logical cypher scape2
2022-12-13 久永実木彦「わたしたちの怪獣」(『紙魚の手帖vol. 6 AUGUST 2022』) - logical cypher scape2
2022-12-23 ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2

美術

sakstyle.hatenadiary.jp
今年は、3年ぶりに美術館に行くことができたし、13年ぶりの川村記念美術館再訪も果たすことができた。
美術関係の本もやはり3年ぶりくらいに読んだし、『ユリイカ』もじっくり読むのは久しぶりだった気がする。
まあそんな中で何と言っても「カラーフィールド」展がよかった
それ以外の美術関係の記事は以下の通り。

2022-03-20 圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2
2022-06-21 『ユリイカ2022年6月号(特集=ゲルハルト・リヒター)』 - logical cypher scape2
2022-06-26 ゲルハルト・リヒター展 - logical cypher scape2
2022-06-28 Transformation越境から生まれるアート展ほか - logical cypher scape2
2022-09-10 クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」「ポスト・絵画的抽象」 - logical cypher scape2
2022-09-23 五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術――〈マヴォ〉とその時代』 - logical cypher scape2

歴史関係

ちくま新書から出ている○○史講義シリーズをつまみ食いしながら、少しずつ日本近代史を勉強しているようなここ数年。今年は、大正史を読んで「大正時代面白っ」となっていた。
ブログに特に感想などは書いていないが、シベリア出兵を描いた漫画『乾と巽』を読んだりもしている。
2022-06-24 筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2
2022-06-30 筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2
2022-09-24 大正史メモ? - logical cypher scape2

哲学・思想史

sakstyle.hatenadiary.jp
そういえば今年は、哲学の本をあまり読んでいなくて、むしろ哲学・思想史の本を読んでいた
もっとも、『現代思想』の大森特集とウィトゲンシュタイン特集は、必ずしも哲学史というわけでもないし哲学史として読んだわけでもないけど、今改めて今年を振り返るにあたって、便宜上このカテゴリ扱いすることにした。
ロシア思想史が読めてよかった。

2022-02-10 『現代思想2021年12月号(特集=大森荘蔵)』 - logical cypher scape2
2022-05-17 『現代思想2022年1月臨時増刊号 総特集=ウィトゲンシュタイン』 - logical cypher scape2
2022-09-10 山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2
2022-11-11 桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2
2022-11-20 ブルース・ククリック『アメリカ哲学史』(大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳) - logical cypher scape2

社会科学

社会科学というか、社会科学の哲学としてグァラを読んだ。これは去年の下旬から今年の2月くらいまでオンライン読書会して読んでたりもしたので、なかなかじっくり読んだ本でもあり、今年一番ブクマ集めた記事でもある。
あとは安全保障本を2冊ほど
2022-03-10 sakstyle.hatenadiary.jp
2022-03-10 倉田剛「社会存在論の「統一理論」について」「いかにして社会種の実在性は擁護されうるのか」 - logical cypher scape2
2022-10-07 小林義久『国連安保理とウクライナ侵攻』 - logical cypher scape2
2022-10-09 千々和泰明『戦後日本の安全保障』 - logical cypher scape2

恐竜美学

恐竜美学とはなんぞやというと、フィクション論の次に自分の研究テーマにしようかなと思っている話なのだが、一体何なのか自分でもまだよく分かってはいない。
科学哲学と描写の哲学の応用分野として、恐竜の復元画について考えるとか、
あるいは、環境美学・動物美学の応用分野として、恐竜の美について考えるとか、
そういったことを漠然としたイメージとして持っているのだけど、そのために勉強しなきゃいけない分野が膨大すぎて積んでる……。
今年、これ絡みで洋書を何冊か買っているのだけど、途中で読むのが止まっていたり、読まずに積んでいたりしている。今年は夏頃までは、英語読みつつ、日本語の本読みつつだったのだけど、上述したとおり、9月頃に英語の本を読むのを一切やめたら、読める本の冊数が一気に伸びた。
なので、このテーマについての読書は現在中断中。何年かかけてゆっくりやります。

恐竜文学についての論文
自分は今のところ、恐竜の視覚的イメージの方に興味があるので、恐竜文学作品にはあまり手を出す予定はないが、恐竜文化論という枠組みで考えてみたいところはある。

復元画について

動物美学について

恐竜文学・恐竜文化論として

科学的表象にについて
いわゆる科学的表象と古生物の復元画って若干距離があるような気もするのだけど、まあしかし抑えないわけにはいかないなあと思って。
この論文はSTSなので、自分の関心とはちょっと違うのだけど、ちょっと違うのは分かった上で読んだ。
今後、科学哲学の科学的表象論を読んでおきたいとは思っている。

復元画について

自然科学

自然科学系で読みたいと思っている本はまだ全然あるんだけど、しかし、なんとなく今年は一段落ついたなというか、自然科学系の読書はお休みな年であった(『Newton』と『日経サイエンス』はちょくちょく読んでいたが)。
そんな中で、土谷クオリア本が良かった
sakstyle.hatenadiary.jp
2022-01-19 紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線 』 - logical cypher scape2
2022-03-27 生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2
2022-04-03 成田憲保『地球は特別な惑星か』 - logical cypher scape2
2022-04-22 Origins, Worlds, and Life(未読) - logical cypher scape2
2022-11-16 『宇宙開発未来カレンダー 2022-2030's』 - logical cypher scape2


それでは皆様よいお年を
来年もよろしくお願いします。

John Kulvicki "Modeling the Meanings of Pictures"(2章まで)

カルヴィッキによる画像の意味についての本
言語哲学を応用し、言語的表現と比較しながら論じられる。
具体的には、カプランの「内容」と「キャラクター」の区別を画像にも適用するというもの。


第1章で、本書全体の概要を説明している。
その中で本書をミーニングスレッドとパートスレッドの大きく2つに分けている。
これは、いわゆる意味論と統語論とに対応する。
ミーニングスレッドは、2章と4、5、6章
パートスレッドは、3章と7、8章
また、
理論編が2章と3章、
応用編が4章以降
という別の分け方もできる。
3章まで読んでもらって、4章以降は興味あるトピックだけ読めばいいよ、的な感じらしい。


第3章まで読み終わったらブログ記事を起こそうと思っていたのだけれど、第3章読み始めたあたりで読むのが止まってしまって、現在数ヶ月にわたって読むのを中断している
いずれ再開したいと思いつつ、当面は別の読書している予定でいつ3章読み終わるか分からないので、年末の整理ということで、第2章分までで記事化することにした。


カルヴィッキについて過去に読んだもの
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape2
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape2


カプランについて過去に読んだもの
八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門中級編』 - logical cypher scape2
『言語哲学重要論文集』 - logical cypher scape2

1:Pictures, communication, and meaning
2:Character, content, and reference
3:Parts of pictures
4:Pictorial dthat
5:Iconography
6:Metaphor
7:Direct reference in pictures and maps
8:Distinguishing kinds by parts

1:Pictures, communication, and meaning

冒頭で述べたように、本書の構造としてミーニングスレッドとパートスレッドがあることが説明される
で、それぞれのスレッドについての概要

  • ミーニングスレッド

画像は記述のようなもの(ただし、確定記述とか不確定記述とかの区別はない。多くの言語でそもそもこの区別はなくて、画像も同様だ、と)


まず、文脈に独立して記述的内容を持つのか、という問題
ここで、カプランが指示詞や指標詞の分析に用いた、キャラクターと内容という、2種類の意味の議論が参照される
指標詞は、非コンスタントな「キャラクター」をもつ。これは、文脈のなかで「内容」へと肉付けされる
一方、多くの言語表現は、全ての文脈で同じ「内容」をマップする、コンスタントな「キャラクター」をもつ
近年の言語哲学では、指標詞以外にも、文脈に敏感な表現が研究されている。
画像もそのような文脈に敏感な表現。
解釈に開かれているが、何でもありというわけではなく、制限されている。
文脈に敏感ではない意味をもち、それが文脈に応じてより細かい何かに肉付けされる
カルヴィッキが画像についていう「骨だけ内容」というのが、文脈によって変わらない意味=画像的キャラクター
画像的キャラクターが、文脈の中で、画像的内容へと肉付けされる。
さらに、この画像的内容が、特定の個物を内容として持つことができるか、という問題
カプランは、記述が特定の個物を指示する方法としてdthatという用法を挙げている。
カルヴィッキは、画像もdthat的内容を持つことがあるとする。
さらに、dthat以外にも、画像が特定の個物を内容として持つ方法として、イコノグラフィックな内容とメタフォリックな内容を挙げている。
4、5、6章がそれぞれ、dthat、イコノグラフィ、メタファーに対応する

  • パートスレッド

画像の部分が、どうやって画像全体の意味をもたらすか
画像は、文と違って文法はもたないけれど、部分にばらしてそれがどのように意味に寄与しているか問えるという点で、構文論的である。
関連して、地図と画像の違いも論じられる。
地図は画像と異なり、(1)骨だけ内容を持たず(2)よりリッチな意味論的・統語論的構造がある


最後に、この本は描写の理論についての本ではないことが述べられている
(つまり、類似説とか経験説とか構造説とかメイクビリーブ説とかについて説明したり、どれかの立場にたつわけではない、と)

2:Character, content, and reference

まず、カプランの説明
キャラクターは、文脈から内容への関数
内容は、評価の状況から外延への関数
指標詞は、評価の状況にまたがって個体は同じ
確定記述は、評価の状況が異なると、異なる外延を運ぶ。確定記述の内容は、評価の状況から外延へのコンスタントな関数ではない。キャラクターは、内容へのコンスタントな関数


画像について説明するにあたって、3枚の椅子の写真をあげる。ただし、これ見た目は普通に椅子の写真なのだが、椅子の写真の写真だったり、張り子の椅子の写真だったりする
これら3枚の写真は、ある意味では同じなのだが、異なる内容を持つ。
画像の特徴には、画像が何を表しているのか関係する特徴とそうでない特徴があり、前者を構文論的特徴と呼ぶ。例えば、明暗のパターンは構文論的特徴
これら3枚の写真は、構文論的には区別できないが、意味論的には異なる。


骨だけ内容(bare bones content)は、台形の形をしていることは特定するが、斜めから見た四角なのか、正面から見た台形なのかは特定しない
画像には、文脈によって異なる内容と文脈によらず同じ内容がある
骨だけ内容は、文脈によらない意味論的な何か。画像的キャラクターpictorial characterである
画像は純粋な指標詞というわけではないが、同じようなもの
画像的内容は、骨だけ内容(画像的キャラクター)を、適切で認識可能に明確化したもの
明確化は、コミュニケーションの文脈に依存しないが、適切さ・認識可能であることには依存する。
画像的内容(pictorial content)は文脈に応じて変わる。言語における、文脈に敏感な表現と似ている。ただし、何でもありというわけではない。
画像的内容は、特定の個物やシーン(paricular individuals or scenes)を含まない。
画像が他の表象と異なるのは、特定の個物の表象だからではなく、いかに統語論的特徴が骨だけ内容を制限し、骨だけ内容が画像内容を制限しているかという点が異なっているから。
画像が、指示的に用いられることはある。その場合、個物は、画像の内容(contents of picuteres)になっていることはある。しかし、画像的内容(pictorial content)ではない。これについて詳しくは4章以降で扱う。
指示代名詞は、個物を提示する方法。つまり、ここや今から、このように見えるものとして個物を提示する。異なる文脈では異なる個物を切り取る、非一貫したキャラクターである
画像は、指示代名詞のように、個物ではなく特徴のパターンを選び出す


画像が満たす特徴をあるシーンが持っていることをもってのみ、画像は特定のシーンを指示する。これは記述と同じである
言語的記述には、確定記述と不確定記述があり、この二つの違いをどのように解するで言語哲学に論争がある(意味論的に違うのか、語用論的な違いなのか)
画像には、aやtheのような統語論的なマークはない。画像は記述的だとしても、確定記述でも不確定記述でもない


解釈者が、画像が指示するものがなにか知ることができるのかという心配
例えば、画像の特徴を完全に満たす実際のシーンはあまりないし、ニクソンを指示しているが、ニクソンを含むシーンは指示していないような絵をどのように解するかという問題もある
詳しくは3章になるが、画像の場合、言語と違って、解釈者はディテールを無視することをいとわない。
チャリティではなく、共有された基準に基づくことが多い

この本を読んだ経緯や感想など

obakeweb.hatenablog.com
上記の記事が、第5.2節において、「ところで、当の問題については、先日シノハラさんもTwitterで提起されていた。」といって、当時の僕のツイートを引用した上で、グッドマンやビアズリーの見解とともに、問題を整理してくれている。
この記事は、最後にこのようにしめくくられている。

私が問題にしたいミニマルな内容は結局Kulvicki (2006)の「骨ダケ内容(bare-bones contents)」に相当する水準かもしれない。しかし、当の水準に関するKulvickiの説明はどうもクリアでなく(そもそも元ネタであるHaugelandの説明がクリアでなく)、正確にどのような内容なのか分かりかねている。引き続き言語とのアナロジーを探ることは、骨ダケ内容の実質を明確化するためのヒントともなるだろう。おそらく、Kulvickiの新著もこれが目的のひとつとなっているのではないかと予想している。

ここで言われている「Kulvickiの新著」が本書である。
本書は、骨だけ内容を、カプランのキャラクターという概念で明確化しようとしていると言えるだろう。
その上で本書は、(普通は画像は個物を指示しないが)(ある場合において)どのように画像が個物を指示しうるのか、ということを概ね論じているのかな、という感じである。
ただ、この銭さんの記事第5節や僕のツイートでは、個物の指示ではなくて、画像は一般指示をするのか(するとしたらどのようにしてか)、ということを問題として取り上げていて、それに対する直接の回答は本書にはなさそう、という気がしている。
とはいえ、カルヴィッキは、画像は記述のようなものだとか、画像は指示的に用いられることはあっても基本的には個物を指示していないとか述べているので、そのあたりはヒントになりそうである。
また、これとは全然関係なく、画像と地図の違いの話は気になるなあと思った。

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳)

フォークナーのヨクナパトーファ・サーガを構成する長編作品の一つ。
ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡ジェファソンに突如現れて、大地主となったトマス・サトペンの盛衰を、関係者たちの回想の語りが描き出す。
原作は1936年刊行。
訳者解説によれば、フォークナー39歳の時の作品であり、長編小説としては9作目にあたる。
タイトルがやたらかっこいいが、これは旧約聖書からの引用らしい。アブサロムはダビデ王の息子の名前で、彼は父王に反旗を翻す。亡くなった息子に対してダビデ王が「アブサロム、アブサロム!」と叫んだとか何とか。
フォークナーの最高傑作としても名高い。
今回読んだ岩波文庫版では上下巻に分かれているが、上巻を読み終わった段階では、「決してつまらなくはないが、この癖のある文章にずっと付き合わされるのか、うむむ」みたいな感想だった。しかし、下巻を過ぎると、読むのが止まらなくなり「なるほど、これは確かに面白いぞ」となった。
トマス・サトペンという男が固執した「血」を巡って、メロドラマ的な悲劇が展開される物語で、確かに家族と土地を巡ったサーガであった。

読むに至った経緯

海外文学を読むぞ期間の一環として、いよいよフォークナーに手を出してみることにした。
そもそも自分にとっては、文学への入口として、阿部和重神町サーガと佐藤友哉鏡家サーガ*1があったわけで、ヨクナパトーファ・サーガもいつか読まなきゃいけないのではと思っていたが、読むの大変そうなのでずっと敬遠していたところがある。
しかし、今年は文学読むモチベーションが高まっているので、この機会を逃してはならないなと思って読んでみることにした。
ただ、一口にフォークナーといっても作品数が多くて、どれがどれだか分からなかったのだが、今回、海外文学読む期間を始めるにあたって、池澤夏樹の世界文学全集の収録作品一覧を眺めていたら、本作『アブサロム、アブサロム!』が入っていたので、ではこれから読んでみるか、と思った次第。
さて、作品が多いだけでなく、翻訳も何種類かある。
アブサロム、アブサロム!』については、大橋訳(1965)、篠田訳(1966)、高橋訳(1970)、藤平訳(2011)がある。新訳で読みたいなと思ったので岩波文庫の藤平訳で読むことにした。なお、池澤夏樹の世界文学全集はものによっては新訳・改訳を謳っているのだが、『アブサロム』については篠田訳を用いている。


岩波文庫版の表紙は、フォークナー自身が描いたジェファソンの地図で、これの日本語訳も収録されている。
他のものと比較していないが、岩波文庫版では、この地図のほか、登場人物紹介、家系図、各章のあらすじ、訳者解説、年表などがついていて解説が手厚い。ただし、巻頭にある登場人物紹介や各章のあらすじには、誰がいつ死ぬか書かれており、容赦ないネタバレを食らう。
もっとも、古典にいまさらネタバレなどないということかもしれないし、本作はそこはあまり重要ではないということかもしれない

語りの構造

物語内容自体は、サトペン一代記みたいな話なのだが、それがどのように語られるのかというのが独特で、フォークナー作品の読みにくさの一因でもあり、また、フォークナーが高く評価される由縁でもある。
聞き手・語り手となっているのは、クエンティン・コンプソンという18歳の青年で、彼は、トマス・サトペンの友人だったコンプソン将軍の孫である。
本作は、このクエンティンが、トマス・サトペンの義理の妹であるローザ・コールドフィールドや、あるいは自分の父親から、サトペンについての話を聞き、さらにクエンティン自身が、ルームメイトのシュリーブとサトペンについて話す、という構成になっている。
ローザが語るサトペン、クエンティンの父が語るサトペン、クエンティンがそれらを聞いて解釈するサトペンがそれぞれ異なっていて、自分が直接見聞きしたことだけでなく、伝聞や推量、思い込みなどが多く入り込んだ語りを読者は読んでいくことになる。
なお、既に述べた通り、岩波文庫版では巻頭に各章のあらすじがあるのだが、これは、それぞれの章が誰がどういう状況で語っているのかという説明になっている。そして、その説明は本文中ではほとんど書かれていないので、この説明は非常に助かる。


(特に上巻は)ほとんど地の文というものがなく、ひたすら彼らの語りによって物語は展開していく。
そんなに長々と喋るものかと思うほど長いセリフが続くが、一人称小説だと思えばそれはまあ不自然ではないとしても、なかなか読みにくい文が続く。
一つには、一文の長さが長い文が多い。ギネス・ブックに文学史上最も長い1文に認定された文があるとかないとかなのだが、あまりにも長いので、形容詞や節が一体どこにかかっていったのか、油断すると分からなくなってしまう。それどころか、読み直しても全然分からん文すらある(一番極端な奴は訳注で、難解で解釈が分かれるくらいのことが書いてあった気がする)。
また、語りが入れ子状になっている部分が多数ある。例えば「ここには○○があった(この○○というのは~)。」みたいな感じで、( )書きで説明を始める箇所がある。これ自体は普通の小説にもよくあるが、その( )だけで1ページ以上あるみたいなことが普通にある上に、その( )の中に会話文が入ってきたりする。あるいは、聞き手の側が、何かを思い出したり、思いついたりしたことが挿入されてきたりすることもある。例えば、クエンティンとシュリーブとの会話のさなかに、クエンティンがそういえば父親がこんなこと話してたなと思いだして、父親による語りがそのまま始まったりする。
また、一つ一つのことを説明するのにあたり、やたらと色々な形容をつけて話すので、出来事が進む速度が遅い。これだけのページ数読んだけど、起きた出来事ってこれだけか? ってなったりする。
あと、人称代名詞が誰を指しているのかもわかりにくい。この文の「彼は」の彼は一体誰を指すのか、と。まあ、これは辿れば分かるし、また、時々作者も「彼(クエンティン)は」と書いて補足してくれたりしている。

上巻

上巻は、1~5まで
1と5は、ローザからクエンティンへの語り、2~4は、ミスター・コンプソンからクエンティンへの語り
トマス・サトペンという男は、ある時突然、黒人たちとフランス人建築家を連れてジェファソンへと現れる。どこからともなく現れたかと思うと、インディアンの土地の権利をいつの間にか手に入れて「サトペン100マイル領地」として、そこに、黒人たちとともに一から屋敷を建てていく。
その後、サトペンは、ジェファソンで商店を営んでいたコールドフィールドと何らかの取引を行い、娘のエレンと結婚し、ヘンリーとジュディスという二児をもうける。
ローザはエレンの妹なのだが、ジュディスよりも年下で、年上の姪、年下の叔母という関係にある。
元々ローザは叔母に育てられていて、かなり世間知らず、偏屈な感じで育ち、サトペンへの憎しみをずっと抱き続けた人であり、彼女によるサトペン家についての語りは、結構一方的で省略されたところが多い。
その後、ミスター・コンプソンの語りの中では、ローザはこのことは知らないだろう、という旨のことが時々言われたりもしている。
サトペンは、黒人同士を殴り合わせる見世物をやっていて、まだ子どもだったヘンリーやジュディス、サトペンが黒人奴隷に生ませたクライティ(ジュディスの異母姉)もこれを見ている。エレンは子どもに見せるのは辞めてくれと頼むのだが、当のジュディスは全然気にしていない風というエピソードが、1の終わりで語られていて、ローザから見たサトペンやサトペンの血をひいた子どもたちの不気味さ、非道徳性を強調しているのかなという気がする。
ヘンリーは、ミシシッピ大学に入学して、チャールズ・ボンという男と友人になる。ヘンリーよりも10才年上で、大学生としては浮いている男なのだが、ヘンリーはすっかり惹かれて、家に連れてくる。エレンは、ヘンリーから送られてきた手紙を読んだ時点でチャールズのことを気に入ってしまい、ヘンリーもエレンも、チャールズ・ボンとジュディスを結婚させようとする。
しかし、クリスマスにサトペンとヘンリーとの間に起きた「何か」がきっかけで、この結婚話は暗礁に乗り上げる。ヘンリーはチャールズ・ボンに対して「保護観察」期間をもうける。この保護観察期間というのは、2人が南北戦争に行っていた期間でもある。
南北戦争にはトマス・サトペンも従軍しており、彼は当初サートリス*2の部下であったが、その後、連隊長になっている。
また、エレンとローザの父親は、南軍に反対し、自室に閉じこもるようになり、ハンストの末に餓死する。
南北戦争後、サトペン領地へ戻ってきたヘンリーは、チャールズ・ボンを射殺し、行方をくらます。
ジュディス、クライティとローザはチャールズを埋葬し、この3人は共同生活をするようになる。また、以前からサトペン領地に暮していた貧しい白人であるウォッシュが、度々手伝いをするようになる。
サトペンも戦争から帰ってくる。ローザと婚約するが、領地復興に精力を傾け、さらにローザを侮辱し婚約は解消される。
ジュディスとクライティは、チャールズの遺児を引き取って育てる。
ローザはクエンティンに対して、今はクライティしかいないはずのサトペン屋敷に数年前から何かが隠れていると言って、一緒に屋敷に行くように頼む。

下巻

上巻がつまらないわけではないが、下巻から面白くなっていく感じはある。
クエンティンが、ローザや父親から話を聞いている上巻の舞台は9月だが、下巻では1月になっていて、父親から送られてきた手紙をきっかけに、ハーバード大学生寮でクエンティンとルームメイトのシュリーブが、サトペンがいかにして「構想」を抱き、そしてその構想に挫折していったかを再構築していく。
冬の夜のケンブリッジで、非常に寒いのだが、カナダ人のシュリーブは何故か(風呂上がりだったかな)上半身裸で話をしている。
彼らは語り合う中で次第に2人で1人になるようになっていく。同じことを考えながら話しているので、どちらが話しているかはもはや問題ではなくなっていた、というように言われている。
さらに、2人は、あるいは4人は、今やサトペンの屋敷にいた、みたいな文が出てくる。ここで言われる4人というのは、クエンティン、シュリーブ、ヘンリー、チャールズで、クエンティンとシュリーブが、およそ50年前の出来事に完全に没入していっている様子が描かれており、読者もまたそこに引き込まれていくことになる。

サトペンの話

トマス・サトペンという男は、ジェファソンの人々にとっては余所者であり、その時点で既に得体の知れない人物なのだが、彼は何年もかけてジェファソンへと馴染んでいく。
しかし、一方で彼はその本心をごく限られた人物(具体的にはクエンティンの祖父)にしか明かしておらず、クエンティンの祖父にすらその全てを語っているわけではないだろう。
アブサロム、アブサロム!』は、多くの人の語りによって構成され、また、その語り手たちは、見知らぬ人物の内面についても勝手に推測しながら語っていくわけだが、そのような中でも、サトペンの内面・考え・心情はほとんど語られることがないため、読者にとっても、得体の知れない人物として物語の中心に居続ける。
ただ、語り手が変わる度に、その様相は変わっていき、少しずつ核心へ近付いていく構造になっている。
例えば、ローザはサトペンのことを悪魔的な人物として語っており、彼女の語りからはサトペンが極悪人のようにしか思われない(ところで、シュリーブもサトペンのことを「悪魔」と呼び続けるが、これはシュリーブがサトペンのことを悪魔的だと思っているというよりも、むしろローザのことを面白がっているように思われる)。
これが、クエンティンの父親による語りに変わると少し雰囲気が変わってくる。何らかの悪事を働いていたことは確かなようだが、それは、貧しい身の上から地主へと成り上がる上でやってきたことであって、「悪魔」的な印象ではなくなっている。
ただ、クエンティンの父親は、ローザよりも事情に詳しいとはいえ、サトペンについて肝心なことを分かっておらず、クエンティンの父親の語りの時点では、サトペンに対する得体の知れない人物だという印象はさほど変わらない。
下巻に入り、サトペンがクエンティンの祖父に語ったことが、クエンティンを通じて明かされる。これにより、サトペンの経歴が分かり、彼がジェファソンで何をしようとしていたのかがようやく分かる形になっている。
彼はもともと非常に貧しい白人家庭に生まれ、黒人奴隷の存在すら知らなかったが、ある時、とある屋敷に赴いた際、黒人奴隷の執事に追い払われる経験をして、白人間の貧富の差や白人黒人間の差について初めて思いを巡らせるようになる(なお、こうしたサトペンのあり方は「無垢」と称されている)。
ハイチにわたり、農園での奴隷反乱を鎮圧し、農園主の娘と結婚、一児をなすのだが、その娘に黒人の血が入っていることを知り、自分の「構想」にそぐわないと考えて、離婚する。
そうして彼は、自らの「構想」のためにジェファソンへとやってくる。
彼がジェファソンに来て早くから妻を探していたというのはローザが語っているところだが、何故コールドフィールド家だったのか、というのが謎とされてきた。しかし、要するに自分の財力でコントロールできるが、階級上昇する際にそこそこ通用するくらいの家ということで選ばれていたのだった。
ヘンリー、チャールズ、ジュディスの件でこの「構想」はまたも頓挫。
しかし、サトペンは諦めることをせず、とはいえ自分の年齢的に時間がないことに焦りながら、ローザと婚約しようとするがこれは失敗。続いて、ウォッシュの孫娘との間に子をなすが、生まれた子が女児だったため、罵る。これにキレたウォッシュが、サトペン、孫、ひ孫もろとも惨殺。ウォッシュは保安官に撃たれて死ぬ。
(ウォッシュは、サトペン領地への不法侵入者であったが、サトペンと酒を飲み交わす仲であり、サトペンのことを「英雄視」していた)
サトペンの最期についてはあまり同情の余地なし、というところではあるのだが、彼の「構想」というか野望は、ある種分かりやすく俗っぽいものでもあり、その点では得体の知れない人物ではなくなる。とはいえ、一方で、彼がこの「構想」を持つに至る感情の動きや、この「構想」を実現する際のある種の合理性みたいなものは、やはり常人離れしているところがある。そのあたりは結局何考えているのか分からない人物、というままではある。

チャールズ・ボンの話

アブサロム、アブサロム!』は、最終的には、チャールズ・ボンの悲劇として一応結実することになる。
パート8は、クエンティンとシュリーブが、チャールズとヘンリーの間に一体何があったのかの結論に達して終わる。
もっともこの結論は、クエンティンが父親から聞いた話に2人が推論を重ねた上で作られたものであって、事実であったかどうかは不明だが、一方で既に書いたとおり、2人はこの2人の出来事に完全に没入しており、読者は一つの事実として読まされることになる。
さて、チャールズであるが、彼は都会であるニューオーリンズで育っており、また、サトペンは離婚にあたり禍根を残さぬようにかなりの大金を残していたため、金に困らぬ生活は送っていた。しかし、チャールズの母はサトペンのことを憎んでおり、チャールズを復讐の徒として育てようとしていた。
チャールズはそんな母親の思惑には気付いており、彼女の憎しみに取り込まれることはなかったが、一方で、自分は一体何のために生きるのか、ということが自分でも分からずに生きていた。
彼はミシシッピ大学でヘンリーと出会うことになるわけだが、彼がミシシッピ大学に進学したのも、母親が雇っていた弁護士の差し金であった。
さて、何も知らないヘンリーは、すっかりチャールズを慕うようになり、妹のことも捧げてしまうが、しかし、あるクリスマスの日に「何か」が起きて、4年間の南北戦争従軍後、ヘンリーはチャールズを射殺する。
一体何故なのか。
アブサロム、アブサロム!』全体を通じて物語を動かしているのは、主にこの問いである。
これに対する答えは、重婚疑惑→近親相姦のおそれ→人種混淆のおそれと移り変わっていく。
まず、チャールズには実は妻子がいる。相手はオクトルーン(八分の一黒人)の女性である。黒人を愛人としてその間に子どももできる、というのはこの当時珍しいことではなく、それ自体は問題ないのだが、チャールズが彼女と結婚式を挙げていたらしい、というのをヘンリーが問題視した、というのが、まず最初に語られる説である。
次に、ヘンリーが態度を変えたクリスマスの夜に、実はサトペンがチャールズが自分の子である、つまり、チャールズがヘンリーとジュディスの実兄であることを告げたのではないか、ということが語られる。
しかし、下巻の後半、クエンティンとシュリーブは、あの「保護観察期間」に何があったかを語る。ヘンリーは、近親相姦も問題視しなかったというか、受け入れようと努めたのであろう、と。だが、南北戦争も終わりに近付いた頃、連隊長である父親と久しぶりに再会することになったヘンリーは、チャールズに黒人の血が入っていることを知らされる。
クエンティンとシュリーブは、それが理由だったのではないかと考えるに至る。
ところで、このチャールズという人物、上巻では、どちらかといえば軽薄そうな人物で、やはりまた何を考えているのかよく分からない感じで描かれる。
しかし、後半、チャールズ寄りで描かれることによって、かなりチャールズの内面へと肉薄していくことになる。
先述したとおり、彼は自分が何をしたいのか分かっていないため、その点での軽さは確かにあるが、彼の思いとしては、サトペンに自分を認識してほしいという一点に尽きるのである。
彼は実のところジュディスと結婚するつもりもなくて、ただ、サトペンが自分に反応してさえくれれば、姿を消そうと思っているのである。
しかし、サトペンはこの件について、流れに身を任せているというか、あまり積極的に動いているところがない。ニューオーリンズに一度行っているのだが、チャールズへの直接的な働きかけはないのだ。
純粋な白人の血だけからなる自分の「家系」を作ろうとする男と、その男のもとに生まれたが母方の祖先に黒人がいたがためにその男を父と呼べなかった息子との間に起きた悲劇、とまあそんな風にまとめてしまうこともできるだろう。
サトペンにはやはりなんともいえない酷薄さがあって同情できないのに対して、チャールズはその点、ジュディスに対する冷たさのようなものも理由があってのことで、最終的には、チャールズ可哀想だなあ、となる。

クエンティンと南部の話

ところで、単にチャールズ可哀想だなあだけで終わる話でもない。
チャールズとヘンリーの顛末を語り終えた後、さらに、9月にクエンティンがローザとともにサトペン屋敷で何を見たのかが語られる。
夜中に、馬車でサトペン屋敷に向かう中、クエンティンが疾駆する黒馬を幻視するあたりとかエモい(サトペンがジェファソンの町へ行くのに、度々馬を走らせているシーンが出てくる)。
実はクライティが数年前からヘンリーを屋敷に匿っていたというのだが分かるのだが、その後、クライティは屋敷に火を放ち亡くなる。
ところで、この屋敷にチャールズの孫で白痴のジムという男もいるのだけど、クエンティンは子どもの頃にジムと会っていたりする。
で、最後の最後に、シュリーブはクエンティンに「何故南部を憎んでいるの」と聞くと、クエンティンはベッドの中で震えながら「憎んでなんかいないさ」と答えるのである。
ところで、これは登場人物紹介や解説などを読んで知ったことだが、クエンティンは実はヨクナパトーファ・サーガの一作である『響きと怒り』の主人公でもあり、その中で自殺している。
このクエンティンとシュリーブの会話は1910年1月のことなのだが、1910年にケンブリッジで自殺しているらしい。そして、クエンティンは妹のことで悩んでいたらしい。
アブサロム、アブサロム!』では、クエンティンのこのような事情は何も語られていないが、彼はヘンリーに自らのことを半ば重ね見ていたはずなのである。
カナダ人であるシュリーブにとっては、合衆国南部の人種差別というのは実感のないことであり、50年前に起きたサトペン家の悲劇などは歴史上の出来事のようなものだが、そのシュリーブが指摘するように、クエンティンにとっては、その50年前の出来事を容易に回想できるような連続性が自分の生まれ育った土地にある。
そういうわけで、最後の「憎んでなんかいないさ」というクエンティンの台詞にかかっている重みというのはなかなかずっしりくるものがある。
なので、本作は、トマス・サトペンの野望の破局とチャールズ・ボンの悲劇が一体どういうものだったのかが解明されていくというプロットの面白さがあるわけだが、さらに、何故、その50年後の直接的には彼らとは関係のない青年が聞いたり、語ったりという構造の中でその物語が展開されるのか、ということに理由があって、その語りの重層性の凄みがある、という作品なのである。

他のキャラクターについて

ここでは、サトペン、チャールズ、クエンティンにおおよそ的を絞って書いたが、
ローザはローザでなかなか強烈なキャラクターであり、あの人一体なんだったんだとはなる。シュリーブなんかはおそらく、ローザがお気に入りのキャラクターなのだろうなあという気がする。
とはいえ、エレンやジュディスも、負けず劣らずヤバそうな人たちではあり、この記事の冒頭でサトペン一代記と書いたが、やはりファミリー・サーガなのだよなあとは思う。
クライティは記述が少ないのでどういう人なのか分かりにくいが。
ウォッシュもウォッシュで、単なるロクデナシみたいな人ではあるけど、サトペンとの関係は掘り下げるとそれはそれで複雑そうであったりする。

その他

タイトルが聖書に由来するのは上述した通りだが、他にも聖書やシェイクスピアギリシア神話に由来する言葉、言い回しがちょくちょく出てくる(というのが訳注を見ると分かる)

*1:文学じゃなくてミステリだけども

*2:同じくヨクナパトーファ・サーガの一作である『サートリス』の登場人物

久永実木彦「わたしたちの怪獣」(『紙魚の手帖vol. 6 AUGUST 2022』)

先日、日本SF大賞候補作が下記の通り発表された。

樋口恭介(編)『異常論文』(早川書房
荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』(小鳥遊書房)
小田雅久仁『残月記』(双葉社
小川哲『地図と拳』(集英社
久永実木彦「わたしたちの怪獣」(東京創元社紙魚の手帖 vol.6 AUGUST 2022」)

この中で「わたしたちの怪獣」は、SF大賞史上初、短編単独での候補作となった作品らしく、ちょっと話題になっていたので、読んでみた。
あと、東京創元社から『紙魚の手帖』なる雑誌が出てるの、知らなかった。
なお、本作が掲載されている号の特集は、翻訳ミステリとホラーで、特にSF特集だったわけではない。


主人公の「わたし」は高校生で、家族にも友人にも隠れて自動車の運転免許をこっそり取得する。
その日、家に帰ると妹のあゆむが父親を殺害し、東京には怪獣が上陸した。
「わたし」は、父親の遺体を怪獣の近くへと遺棄しにいくことにする。


怪獣まわりの描写や展開は、かなりシン・ゴジラ風である。千葉県(というか、作中では名前が違うがディズニーランド)から上陸し、西葛西を経由して東京都を北上していく。自衛隊は、荒川ついで隅田川をそれぞれ最終防衛ラインに設定するのだが、為す術もなく突破される。
このあたりの経過は、ニュース番組や自衛隊の報告書、首相会見、動画アプリでの配信番組の書き起こしといった形式で、作中に挿入されていく。
政府が怪獣と呼ばずに「巨大移動体」と呼称したり、怪獣の進行方向に皇居があったり、最終的に米軍の核兵器使用が検討されたりなど、色々とシン・ゴジラを連想させるシーンが多い。
とはいえ、本作のメインプロットは、そこにあるわけではない。
怪獣の都内侵攻を背景として、主人公の「わたし」のクライムロードムービー的な家族小説が展開される。
シン・ゴジラ的なのは、あえてそうしていて、そうすることで最小限の描写で読者にリアルな背景を想像させることに成功している。
一方で、シン・ゴジラは個人の物語を描かなかったが、こちらは「わたし」の一人称により、あくまでも個人の物語に寄り添っており、また、この「わたし」は部分的に信頼できない語り手であり、その点、小説だからこその怪獣作品になっている。


そういうわけで「わたし」関連のあらすじや設定だが
上述したとおり、運転免許を取得して家に帰ると父親が既に遺体となっており、妹のあゆむが殺していた。
事情は物語が進むに連れて次第に明かされていくのだが、端的に言ってしまうと、数年前に不祥事(SNS炎上)を起こした父親は、再就職に大変苦労した上で、その後、あゆむを虐待するようになっていた。母親は行方をくらまし、「わたし」もあゆむを気遣いつつも虐待を見て見ぬふりをしていた。
「わたし」にとって、あゆむが父親を殺してしまったのは意外ではなく、一方で、あゆむを連れて逃げ出すために運転免許を密かにとっていた。
だからこそ、「わたし」は父親の遺体を怪獣の近辺に捨てることで、証拠、というかあゆむの殺人自体をなかったことにしてしまうことを目論む。
「わたし」は、埼玉から(つまり怪獣とは逆方向から)1人カローラに乗って都内へ向かうのである。
車内でネット番組を聞きながら、警察の質問をかろうじてかわしながら、誰もいなくなったコンビニを彷徨いながら、夜明けに怪獣の姿を見つけながら、「わたし」は「わたしたちの怪獣」について語る。


先ほど、怪獣パートについてはシン・ゴジラを連想させると書いたが、当然、シン・ゴジラとは異なるところもある。
一つはその見た目である。まるで内臓を絡みつけたかのような見た目をしており、ネット上ではその見た目から「白腸(しろわた)」とあだ名される。さらには、触れたものを消滅させるシャボン玉のような球体を放つ。
ところで、こうした見た目や怪獣の上陸地、進路を「わたし」は、家族の思い出に結びつけていく。まだ、4人家族として幸福に過ごしていた頃、西葛西に住んでおり、かのテーマパークにも遊びに行っており、バルーンアート(内臓のような見た目は見ようによってはバルーンアートで作られたようにも見える)やシャボン玉も家族の思い出であり、怪獣は父親が不祥事を起こす前につとめていた勤務地を目指しているのだ、と。
つまり、父親が死んだ直後に現れたあの怪獣は、つまり父親に他ならない。あるいは、娘を虐待した父、その父を殺した妹、何よりそこに至る経緯を見て見ぬ振りし続けた自分……「わたしたち」の姿が怪獣として現れたのだ、と。
いよいよ怪獣を至近距離で目撃した「わたし」は、怪獣の眼が父親の眼と同じだと見て取る。


さて、凡百のSFであれば、まさに怪獣と父親を同一化させてしまったかもしれないが、本作はそうではない。
3年後のことがエピローグとして添えられている。「わたし」は、被災者支援の仕事をするようになっているが、もはやあの怪獣の眼が父親の眼だったようには思えない。
自分が免許をとって妹が父親を殺してしまった日に怪獣が現れたという偶然を、主人公は運命だと捉えて、怪獣と「わたしたち」を同一視したが、しかしやはり偶然であったに過ぎない。個人の事情を一方的に怪獣に投影していたわけだ。
だからこそ、怪獣の姿形や進路に自分たち家族の思い出を反映させていったくだりの彼女は
「信頼できない語り手」であり、また、だからこそ小説ならではの表現だったといえるだろう。そしてそれゆえに、怪獣という巨大な災害とある個人・ある家族との関係が見事に描かれたのだともいえる。
加えて、もう少し怪獣というジャンルからの話をすると、平成ゴジラ平成ガメラシリーズで見られた超能力少女の系譜のことも想起してしまう。
平成ゴジラ平成ガメラでは、ゴジラガメラと通じ合うことのできる超能力少女が登場していたが、しかし、彼女たちと怪獣たちとのつながりは、シリーズが続くにつれて一方的なものに変わっていったように記憶している(なにぶん随分昔に見たきりの話なので、このあたりは話半分で読んでもらえればと思う)。怪獣のことを理解したと思ったが、実際のところ、一方的な思い込みでしかなかったのかもしれないという点で、通じるものがあるように思った。
ところで、シン・ゴジラとの違いをもう一点挙げると、核兵器の使用が挙げられる。というか、シン・ゴジラは、核兵器を使わせないために巨災対が奮闘することが物語をドライブさせていたが、本作はそうではなく、むしろ物語を終わらせるためにあっさりと核兵器は使用されるに至る。ただ、このあっさりとした核兵器の使用は、しかし、2022年現在において決してご都合主義と言えるものではなく、ある種のリアリティを感じざるをえないわけで、そこにも「わたしたち」の怪獣性はあるのではないか。