『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』

夢や幻想をテーマに、1949年の日影丈吉「かむなぎうた」から、1996年室井光広「どしょまくれ」まで11篇を集めたアンソロジー
このシリーズは、まず全10巻で刊行されたが、編集委員の中ではこれでは分量が足りないと考えており、第1期10巻が全て重版できたことにより、第2期8巻の刊行が可能になったと巻頭言に書かれている。また、1人1作というルールのもと作品は選ばれているが、第1期と第2期については作家の重複がある、と。
タイトルを見れば分かる通り、巻数は第1期から第2期まで通しになっているので、途中から第2期になっているのが分かりにくい。


夢や幻想をテーマとしているが、幻想文学かというとちょっと違う作品が集められている気がする。
面白かったのは、日影「かむなぎうた」矢川「「ワ゛ッケル氏とその犬」色川「蒼」村上「ハワイアン・ラプソディ」村田「百のトイレ」室井「どしょまくれ」あたりか。
日影と色川の作品は、東京生まれの少年が(かたや母の死、かたや疎開で)田舎で暮らすことになってしまった際の話。村田と川上はともに家族(と性)がテーマ。

日影丈吉「かむなぎうた」

日影はミステリ作家で、本作は『宝石』の新人賞に投稿して掲載されたデビュー作。
本作も一方でミステリ要素がある作品なので、他方でそれ自体が夢か何かだったのではないかというようなオチになっている。
主人公は、幼い頃に母と離別し父の生まれ故郷へと引っ越してきた。養蚕をしている家で、蚕室の奥に母親の形見の品があるため、幼少期はその部屋に引っ込んで泣き暮らしているような少年だった。
小学生になり多少は外で遊ぶようになっていたが、その中で親しくなったのが源四郎で、同じく母を亡くしているなどの共通点があったが、イタズラ好きで活発な源四郎は、主人公としては対照的な少年であった。
で、ある時、隣の村から「巫女(いちこ)」の老婆がやってくる。イタコをするわけだが、主人公は密かに恐怖を抱くようになる。彼の亡き母の口寄せもされて、夢に見たりする。
その後、この老婆が橋から足を滑らせて川に落ちて死んでしまう。警察は事故死だと判定するのだが、風邪に伏せっていた主人公は、これが源四郎の犯行に違いないと考えて推理を働かせる。
トリックに使われた(と主人公が考えている)ガジェットが、鉄製の竹蜻蛉というなかなかかっこいい代物だったりするのだが、そもそも源三郎犯人説自体が、主人公の思い込みのようなものであったりする。その背景として、主人公がうっすらと憧れの念を抱いていた少女を巡る罪悪感がある。
源四郎は、通りがかりの女の子の頭上におしっこをひっかけるというイタズラをよくしているのだが、ある日、主人公にそのイタズラのための合図をするように伝える。しかして、道の向こうからは主人公が憧れている少女がやってくる。主人公は、なんと合図を送ってしまうのである。しかし、源四郎は何もしなかった……という挿話があり、また、老婆と少女が一緒にいるところを主人公が目撃したこともあり、そうしたことがない交ぜになっていたということがうかがえる。
「巫女殺人事件」というミステリの体裁をとりながら、主人公の少年の内面の諸々をテーマに扱っており、それが例えば、蚕室で密かに読む草紙本とか空高く飛ぶ竹蜻蛉の情景とか老婆が醸し出す雰囲気とか、そういったものと組み合わさって、完成度の高い短編になっている。
(1949年)

矢川澄子「ワ゛ッケル氏とその犬」

作者は澁澤龍彦の妻(のち離婚)。Wikipediaを読むと、澁澤龍彦ひでーなーというエピソードがポロポロ書いてある。絵本・児童文学の翻訳が多い。あ、『ぞうのババール』訳した人なのか!
入れ子上の構造をしており、「私」が話すスコッペ氏の話の中に出てくるのが「ワ゛ッケル氏とその犬」というお話なのだが、ワ゛ッケル氏もまた作家で、つまり、物語る者についての物語を物語る者が語るのを物語る者が語るという構造になっている。
ワ゛ッケル氏は、財産も才能も何もかもなくしてしまい、家にも住んでいられなくなったので、飼い犬をどこかに捨てにいかなければならず、何もない麦畠を歩きつづけ、立ち止まったときに犬が光りはじめる。周りの麦は子どもたちに代わり、犬は天へと上がっていく
(1955年)

谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」

谷崎の日々の記録を綴ったような作品だが、後半は夢か現か分からなくなってくるというもの
熱海から度々上京している際のことを書いており、妻らの希望でストリップ・ショーを見に行ったり、1人でスリラー映画を見に行ったり、あるいは高血圧を気にしながら中華料理や京料理を食べに行ったりしたことを書いている。
半分おきて半分寝ているような状態で、鱧の肉、ストリップ女優の裸、あるいは映画で見た風呂場で殺された男が夢に出てくる
で、過酸化マンガン水だが、これは、便に食べたものの色がついてトイレが真っ赤になってしまったのを過酸化マンガン水のようだと喩えたところからついていて、そこから、中国の呂太后が戚夫人の手足を断ち眼をとって厠の中に入れたというエピソードを思い出していく。
(1955年)

星新一「ピーターパンの島」

星新一は、小学生の頃によく読んでいた時期があって、本作も読んだことあると思うのだがさすがに覚えていなかった。
合理的であることが重視されるようになった社会で、妖精や魔法を信じるような子どもたちは隔離されて別の教育を受ける。
その隔離策の極致として、フック船長の海賊船に乗って離島へ赴くというものがあるのだが、その先に星新一的なブラックなオチが待っている。
(1961年)

色川武大「蒼」

主人公のもとに、不思議な女性たちが訪れる。舞のようなものをする(リズムにあわせて足を踏みならす)女たち。それを率いる女が口にしたのは、彼が少年時代に疎開していたところの地名。疎開先でお世話になった家の誰かだろうかと名前を出すのだが、当てはまりそうな人がいない。彼女は、あなたに焼かれた者です、と名乗る。
主人公は疎開していた頃のことを思い出す。
集団疎開していった先で、東京から来た自分たちと地元民の間にはどうしても溝があり、そんな中で彼らは彼らなりの遊び場を探していく。
地元の名家の墓がある土地が、あまり人目につかないこともあって、彼らはそこで遊ぶようになるが、空襲でなくなってしまう。
その後、東京の空襲の火を目撃したあと、彼らは火遊びをするようになる。

ある夜とうとう、東京の煙と火を、眼にすることができた。(中略)大きな火煙に包まれているのは他ならぬぼくら自身だった。その点ではぼくらは小栗川の人間ではなくなっていた。焼かれる人間だった。焼かれるであろうが、しかし焼こうともしている筈の人間だった。樹や草や湿った土や、墓石や女たちや和尚のように、じっと坐ってうすぼんやりとしているなんてとてもできなかった。

ある夜、全員が集まってそれに火をつけた。ブルルルル、ブルルルル、ぼくらは両手を拡げ、爆音を口にしながら藁の山から山へと飛び回った。闇の中に焔の塊りが次々と現れ、うす明るくなったあたりに、煙がただよいだした。(中略)そうしてそのとき、地を這い逃げる無数の生き物のうごめきが伝わり、騒ぎ狂う鳥どものさまざまな叫びをきいたのだった。

冒頭に訪れた謎の女たちは、この時に焼かれた鳥たちなのだろうという話なのだけど、この、焼き焼かれという関係のゾクッとする感じがすごい。
ところで、この筆者の別名義は、麻雀小説の阿佐田哲也
Wikipedia見る感じ、本人は疎開とかしていないっぽい(1943年に勤労動員とある)。終戦後5年ほどアウトロー生活をしている。本名での作家活動は1961年から
(1965年)

吉行淳之介「蠅」

4ページほどの非常に短い作品
女子高生が、他校の男の子と一緒に学校から帰るようになる、という初めてのお付き合いみたいな話なのだが、ある日、その男の子の背中に蠅がびっしりと止まっているのを見て、避けるようになる。
(1971年)

中井英夫「鏡に棲む男」

これはなんだ、統合失調症かなんかの人の話なのか
自分以外の人間は全て人形なのだと思い込み、さらに、ピーマンは奴らが開発した人工野菜なので絶対に食べない
さらに、鏡の中の自分が、自分を真似た別の存在なのではないかと思っている。ある時、自動車の迎えがきて、それに乗ると運転手が鏡の中の自分。周囲は次第に霧に包まれていき、鏡の中の自分に乗っ取られる……? 
というような話なのだが、とにかく、ピーマンなんて食べられるかということについてことあるごとに述べていて、全体的にはシリアスな調子なのに、こいつは単にピーマンを食べたくないという己の偏食を正当化するために変な妄想を捏ねているだけで、そういうコメディなのか、と思えてきてしまって、なんかダメだった。
(1975年)

村上龍「ハワイアン・ラプソディ」

村上龍は、遙か昔に『希望の国エクソダス』が読んだことがあるはずだが、内容はあまり覚えていない。あとは、評論などを通してあらすじを知って、なんとなく知った気になっている感じでしかたなかった。
しかし、『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2村上春樹を読んだ時も思ったが、なんだかんだで人気のある作家というのはやはり面白いのだなというのを、この村上龍作品でも感じた。
タイトル通りハワイが舞台なのだが、主人公が、老いたスーパーマンに出会う話
スーパーマンは老いて飛べなくなっているのだが、地球に飽きてクリプトン星に帰りたくなってきたために、再び飛ぶためにトレーニングを行っている。
主人公とその友人らは、彼のために協力して、トレーニングを手伝ったり、パラセーリングしてみたらどうだと誘ったりする。
主人公たちは、特段彼がスーパーマンであることを疑っておらず、実際どうも彼は普通の人とは違う能力があるっぽいことは示されているが、度々失敗して怪我で入院したりもする。
(1979年)

村田喜代子「百のトイレ」

独身で教師をやっている主人公のところに、従姉が2才の娘を連れて遊びにくる。
この子は、道端で下着を脱いでおしっこをするという癖があって、従姉は困り果てていた、という話。
この従姉と主人公は子どもの頃から仲が良くて、従姉に子どもが生まれてからも親しい付き合いが続いているようで、作中、3人でお昼寝をするシーンもある。
主人公は、そのお昼寝中にたくさんのトイレを掃除する夢を見る。
昼寝後、主人公は2人を散歩へと連れて行く。散歩した先で、大量の便器が廃棄されているところに出くわし、女の子はそこでおしっこをして、主人公は解放感に満たされ、トイレたちが飛び立っていく様子を幻視する。
この話、最後のシーンはいちおう幻想シーンだとはいえ、何故「夢と幻想の世界」というテーマで収録されることになったのか若干戸惑うが、作品としては確かに印象深いものがある。
しかし、自分はいとこは一人しかおらず、その一人とも大きくなってからは会っておらず、近況もあまりよく知らないので、この主人公のような親しい関係のいとこというのが微妙に想像がつかないのだが、独身者と子持ちとの認識のギャップみたいなものは自分にとってもリアルに把握された。
あるいは、2才の子のいうことを聞かない感じや、子どもにあの場所に連れて行ってあげたいなという感じなども。
(1989年)

川上弘美「消える」

団地に住むそれぞれの家族が持つ謎の風習について。
上の兄が消えてしまうが、私の家族では曾祖母の頃から度々消えることがあった、と。この「消える」、文字通り姿形が見えなくなってしまうのだが、いる気配はあって、触れたり声が聞こえることもある、というような謎の現象なのだけど、普通に受け入れている。
そのほか、婚約するのに相手の家に釣書するめを持って行ったり、団地において一家族は5人までという暗黙のルールがあったり、管狐を飼っている家族がいたり、ねこまという謎の生き物がでてきたり、あるいは、謎の声を発する壺ゴシキとかも出てくる。
家族にしか通じない風習が、家族ごとにあったりするよねというよくある話を、かなり極端に奇怪なものへと仕立て上げた物語という感じで、それにしても、てんこ盛りだなという感じで、その盛り過ぎな感じに若干ひいてしまったところはある。


村田・川上ともに、家族のことを非現実的な光景とともに描く作品だが、加えて、性の問題も関わっている。
村田作品の場合、主人公が見たトレイの夢が従姉によって欲求不満や結婚願望の表れではと解釈されるシーンがあったり、娘の癖自体が快感によるものなのではと推測されたりしている。
川上作品の場合、そもそも物語全般が、お見合いから結婚に至る話で、他の家族から主人公の家族に嫁入りがあるのだがそれがうまくいかないという話であり、一方で、主人公は上の兄に対して膝枕やキスを望んでいることが度々書かれている。
川村湊は解説で、女性作家ならではだなあみたいなコメントを書いているのだが、ここらへんどう解釈すればいいのか、分からんといえば分からん。作品の中に書いてある通りだなといえば書いてある通りなのだが。


ところで、こうした村田や川上が、さらに藤野可織に至るみたいな系譜があるのかなーと思ったり思わなかったり。


そういえば、村上龍の「ハワイアン・ラプソディ」とこれの初出が『野性時代』で、いや、『野性時代』は読んだことないんだけど、「へえ、こんなのも掲載してたのかー」と軽い驚きがあった。
(1996年)

室井光広「どしょまくれ」

主人公が友人夫婦とひなびた温泉旅館に泊まる話。
もともとこの3人は、デンマーク語の翻訳の仕事をやっている。
つげ義春作品に出てくる土地が、主人公の出身地だと思い込んでいた。そこで遠縁の女性が旅館をやっているので、旅行しにいこうという話になるどしょまくれ、というのはその地方の方言で、その旅館の名前。
ずいぶん寂れていて、もともと3軒くらいしかなかった旅館が2軒つぶれ、残った1軒も休館したのを改修したのが「どしょまくれ」。
で、この「どしょまくれ」という方言が、主人公とその地域では少しニュアンスが違っていて、その話をしているうちに、デンマーク語に似ていない? みたいな話になっていく。
直接的には、夢も幻想も出てこない作品なのだが、彼らが旅行した地方が、そもそもつげ義春作品から端を発しており、この方言自体もかなり謎めいていて、実在する場所なのかどうかもよく分からず、全体が幻想めいて感じられる作品だった。

伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」

『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』所収の短編
このアンソロジー自体、読みたいなと思っているのだが、他に読みたい本が結構たまっていて、色々比較しているうちに優先順位を少し下げてしまった一方、本作だけ、web上で期間限定で読めるうちに読んでいたのでメモ


タイトルにあるとおり、ジャンヌ・ダルクについての話。
ただし、実在のジャンヌではなくシミュレーションのジャンヌである。
量子コンピュータが発達した未来、歴史学の手法として、歴史上の人物のシミュレーションを行うというものがあった。ただし、正義主義といわれる立場によるもので、立派とされる人物を何度も繰り返しシミュレーションすることで、倫理的に問題あるバージョンを発見し、こいつには問題があるぞ、と告発するために行われていた。
フランスでの国家主義の台頭に対して、そのシンボルとして用いられがちなジャンヌ・ダルクについて、実は敬虔な信者ではなかったバージョンのジャンヌを見つけ出して、そのイメージを貶めるためにシミュレーションが行われる。
ところが、その際、従来のシミュレーションと違ったのは、繰り返す度に記憶を引き継ぐという設定がされたことであった。
シミュレーション内のジャンヌは、火あぶりにあった後、火刑される当日の朝へ戻されるというループを経験させられることになる。
前述の設定は、様々な書籍からの引用という形で断片的に語られ、本作の大半の部分はこのジャンヌのループを描いている。
このループ自体を神の試練だと受け止めたジャンヌは、ループによって蓄積された記憶を用いて、火あぶりを免れ、イギリス王を倒すまでに至り、静かな余生を過ごすが、死ぬとまた火刑の日へと戻される。
まだ神の意志を達成できていないかと思い詰めたジャンヌは、その後、ループする度にフランスの版図を広げ続け、ついには世界統一をなしとげるのだが、それでもなおループしてしまう。
このシミュレーションを実施している側は、適当な時間シミュレーションを走らせたあと、自分たちの意図に沿う結果だけを抽出しようとしているので、ジャンヌが何を達成しようとも、ループ自体は止まらないのである。
このジャンヌのシミュレーションを行っていた正義主義グループの中に、実は、匿名で右派的な言論を行っていた者が紛れ込んでいて、そちらはそちらで、意に沿うようなジャンヌイメージを導き出そうとしていた。
最終的には、この右派側から紛れ込んでいた者のデータが流出するという形で、このジャンヌシミュレーションが衆目にさらされてしまい、終わりを迎える。


伴名練っぽい話だなあという感じだった。

『Newton2022年12月号』

マイクロバイオーム─人体に住む微生物

腸内細菌の話
特定の菌より多様性が大事
肥満とF/B比
なんちゃら科という細菌とうんちゃら科という細菌の比率が、健康体の人と肥満体の人とでは違う。肥満体の人は偏りがある。
アトピーと皮膚常在菌の関係
これもアトピー患者は、ある菌が少なくて、その菌を移植する治療法があるとか
脳腸相関ないし脳腸微生物相関
最近言われている、脳と腸との関係。日常的なところでは、緊張するとお腹痛くなるとか。
うつ病などの精神疾患の患者とそうでない人とで、腸内微生物叢が違うという結果もある。因果関係がどうなっているかはまだ不明
糞便移植治療というのがなされ始めたりもしている。潰瘍性大腸炎とかで。
あと、ヒトは、微生物に機能を「外注」させて進化したのではないかとか。
大体知っている話だったけれど、やっぱり糞便移植は衝撃的だよなー……

あっと驚く 世界の最新建築

いや本当に、すごい形の建築物がたくさんあるものだ……
トップにあるのは、ドバイの未来博物館、さらにドバイフレーム、中国の中国 シェラトン湖州温泉リゾートが続く。
その他にも、中国や中東諸国の建築が並び、今やその辺の地域のばかりなのかーと思っていると、ちゃんと(?)欧米諸国の建築も載っている。
アメリカのいくつか載っていたが、見た目のインパクトがあるのはニューヨークのベッセルか。
スイスのスウォッチ社本社ビルが、世界最大の木造建築だったかな。
あと、どの国のだったか忘れたけれどヨーロッパの奴で、周辺の林と建物の中がシームレスにつながっているかのように見える奴も、わりと印象的だった。
それから日本からは、埼玉・所沢にある、隈研吾設計の角川武蔵野ミュージアムというのが掲載されていた。

『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち 』

西崎憲の編集によるムック本シリーズ「kaze no tanbun」
「特別ではない一日」「移動図書館の子供たち」「夕暮れの草の冠」の全3巻なのだが、収録されている作家のメンツを見比べて、3巻中2巻目という中途半端さながら「移動図書館の子供たち」を手に取ってみた。
手にとった理由をもう少し遡ると、藤野可織の作品の初出とかを見ていると、同じく西崎憲の『たべるのがおそい』だったり、未収録作品が『kaze no tanbun』に載っていたりするのに気付いたからというのがある。西崎憲のこれらのムックは以前から少し気になっていたけれど、それがわりと決定打となった。
さて、作家が編集をつとめる文芸誌ないし短編小説アンソロジーかと思っていたのだが、正確には、短編小説ではなく〈短文〉アンソロジーとのことであった。
〈短文〉とは何かということについては、本はどこから作るのか――kaze no tanbun 製作記2|kaze no tanbun|noteを参照のこと。
エッセイ的な文章もあるが、広い意味で短編小説ということでいいかと思う。詩もあるが。


面白かったのは、伴名錬「墓師」、西崎憲「胡椒の舟」、藤野可織「人から聞いた白の話3つ」、水原涼「小罎」、乘金顕斗「ケンちゃん」、木下古栗「扶養」、柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」、松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」

古谷田奈月「羽音」

学生時代に音楽を通じて知り合ったB

宮内悠介「最後の役」

考え事をしているときに麻雀の役をつぶやいてしまう癖

我妻俊樹「ダダダ」

かつて住んでいたダダダに再訪したアナとファナ
本になった、かつての同級生のカンカン

斎藤真理子「あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず」

伴名練「墓師たち」

椅子の形をした墓の話、墓を飼っている人たちの話、目を塞いで墓を作る話、生まれる前に作られる墓の話

木下古栗「扶養」

ケーキ屋で居合わせた女優に「英気を養ってくれませんか」といわれる

大前粟生「呪い21選──特大荷物スペースつき座席」

新幹線のひと

水原涼「小罎」

父親の仕事で住むことになった村にある湿地には、かつての戦争で亡くなった兵士が
おそらく、ベトナムが舞台?

星野智幸「おぼえ屋ふねす続々々々々」

全て記憶することができる、「ふねす」という名前の子供たちに本を覚えさせる
この記憶の話って、円城塔の「良い夜で待っている」っぽいなと思ったけど、さらにその元ネタがボルヘスの「記憶の人、フネス」だった。
あと、ここまで読んできて初めて、「あ、これ、「移動図書館の子供たち」テーマで書かれている作品だ」と思った。思い返してみると、「ダダダ」もそうだったかもしれない。

柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」

冒頭、「島尾ミホ加計呂麻島での少女時代を回想して」という文から始まるのだが、最近、島尾敏夫のWikipediaを読んでいたので、なんかタイムリーだった。
なお、島尾ミホの話ではなくて、島に住んでいた「僕」の少年時代の話で、毎月3冊ずつ、学研の中学生向けの文学シリーズが届いていた話

勝山海百合「チョコラテ・ベルガ」

彫鈕の師匠のもとに住み込みで暮らす黄紅

乘金顕斗「ケンちゃん」

若手俳優須永健のパトカー乗り回し事件と
小中学校が一緒だったケンちゃんが小学生の頃に、移動図書館あじさい号を勝手に走らせた、と思い出すサトルの話

斎藤真理子「はんかちをもたずにでんしゃにのる」

藤野可織「人から聞いた白の話3つ」

白いシャツ、白い本、白い木々
真っ白なシャツを特製の洗剤で洗っていた木村さん
田舎の図書館は本が真っ白

西崎憲「胡椒の舟」

東都で暮らす私と恋人は、デートで本の話をする
そして、世界では風鳴がなくなっているという。風鳴がなくなり、世界は静かに、いやあらゆるものの音が聞こえるようになった。
東都というが、さらにローカルな地名は(月島とか)は東京のままで、しかし、この東京とは少し違う世界。
風鳴というのは、地球が自転する時の音で、外にいると声では話ができないほどの音

松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」

ゼーガースという、ユダヤ人作家で、ナチスの時代に家族で亡命をした人の話をしながら、自分だったら果たして亡命できるだろうかと考え、亡命の夢を見るようになる

円城塔「固体状態」

「水は氷ると体積の増える珍しい物質である。/すなわち、氷は水に浮かぶことだろう」
「金色は色ではない」
「大陸は移動する」

『SFマガジン2022年2月号』

先日、ハヤカワSFコンテストと創元SF短編賞 - logical cypher scape2という記事で「坂永雄一や酉島伝法など、年刊SF傑作選などを通じてわりと読んでいてもう少し読みたいなあと思っている作家もいる。」と書いたのだが、そういえば、最近のSFマガジンに坂永雄一の短編が載っていたはず、と思い出して読んだ。
坂永というと、伴名練とともに京大SF研出身で、面白いけど寡作の作家という感じだが、そろそろ短編集とか出てもいいのではないか。
あと、最近だと「無脊椎動物の想像力と創造性について」の評判がよいが未読


坂永作品(Wikipedia調べ)と、そのうち自分の既読作品は以下の通り。
「さえずりの宇宙」未読
「ジャングルの物語、その他の物語」大森望編『NOVA+ 屍者たちの帝国』 - logical cypher scape2
無人の船で発見された手記」大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』 - logical cypher scape2
「大熊座」大森望・日下三蔵編『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2
無脊椎動物の想像力と創造性について」未読
「移動遊園地の幽霊たち」未読

坂永雄一「〈不死なるレーニン〉の肖像を描いた女」

ソ連を舞台にした歴史改変SF
ロシア革命前、1913年のペテルブルクで芸術家たちが集う夜のカフェから物語は始まる。
近くで自動車事故が起き、カフェで芸術談義をしていた4人グループのうち一人の女性画家アナスタシア・エレアザロワが行方不明となる。
彼女の左目は、我々の知らないソ連を見る。
1915年に彼女が描いた絵には、未来のソ連が描かれていた。
テルミンがその天才を発揮し、ソ連無人偵察機などを開発、イランの共産化に成功
第3インターナショナル記念塔が実現し、南米アメリカ大陸に透明都市が造られ、全人民の意識は「世界共産党」というAIと接続、ガガーリンとライカは初の火星着陸を成し遂げる……。
ペテルブルクのカフェで彼女と語らっていた画家のフョードルは、1920年カスピ海上の巡洋艦で、1939年かつてのアルゼンチンにある都市275329で、不意に出現する彼女と再会し、そして彼女はまた不意に去っていく。
1948年のレニングラードテルミン博士は、音楽家アヴラーモフによる「サイレン交響楽」と人民の合唱を通じて、レーニンを復活させる。
1958年、〈不死なるレーニン〉は火星に到達
3491年、かつてペテルブルクがあった場所、人類はいなくなった地球にも彼女が現れる。1500年前に〈不死なるレーニン〉はダイソン球を完成させ、全人類は意識のアップロードをはたしていた。彼女だけは機械化した肉体を持ち続け、そして物語は1913年のペテルブルクへと舞い戻る。


途中で、アレクサンドル・ボグダーノフの署名が入った、彼女のカルテが引用される。
ところで、ボグダーノフってどういう人だっけとWikipedia見たら以下の記述を見つけてびっくりした。

1908年に、火星を舞台としたユートピア小説『赤い星』を出版。
(中略)
『赤い星』は、キム・スタンリー・ロビンソンのネビュラ賞受賞作『レッド・マーズ』の発想源の一つであった。登場人物のアルカディは姓をボグダノフといい、設定上のボグダーノフの子孫ということになっている
アレクサンドル・ボグダーノフ - Wikipedia

キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下 - logical cypher scape2


参考文献として、ロシア・アヴァンギャルド関係の本が並んでいる。また、ザミャーチンの『われら』があるが、これは、作中に出てきた透明の都市の元ネタらしい。


ところで、坂永雄一の好きなロシア・アヴァンギャルドの画家はフィローノフらしい
知らない画家だったが、ググってみると、なんかよさそうだった。

天沢時生「ショッピング・エクスプロージョン」

これもあわせて読んだ。。SFマガジン初掲載らしい。
そういえば、以前も大森望・日下三蔵編『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2で坂永、天沢を読んでいるな
近未来のLAで、貪鬼(パンサー)に憧れる少年ハービーが、マーケットでヤバいブツを見つけたことで、伝説的存在であるキャノンボールことセロニアスと出会い、共に「お宝」を目指すことになる話
ストーリーや登場人物の性格などはすごく真っ直ぐで、読後感もさっぱりしているが、この作品の特徴はその世界観と文体にある。
安売りの殿堂「サンチョ・パンサ」は、自然増殖する〈自生品〉により世界の救世主となったが、社長の死後、その権限委譲がなされなかったことにより店舗を暴走的に自動拡張しはじめ、世界の各所が呑み込まれていった。世界中の資源がサンチョ・パンサの拡張に使われ、貧困が拡大する一方、不用意に店内に踏み込むと、鋼鉄店員に万引き犯として認識されて攻撃される。貪鬼(パンサー)は、果敢にサンチョ・パンサ店内へと入り込み、商品をせしめてくる者たちである。
さて、この「サンチョ・パンサ」社長であるコモミ・ワタナベは、死の間際にこう言い残した、「探せ。当店のすべてをそこに置いてきた」と。「サンチョ・パンサ」の店内のどこかに「ひとつなぎの秘宝」が隠されているのだ。
サンチョ・パンサとはもちろん、ディスカウント・ショップ「ドン・キホーテ」のことで、「サ」のマークをつけたペンギンのマスコットもいる。上述したワンピースネタ以外にも、様々な作品からの引用を織り交ぜつつ、ルビを大量に織り交ぜたサイバーパンク文体で語られる。
ルビネタで好きなの「風流(ドープ)」
ハービーは、トランスフォーマーのフィギュアを手に入れたら、その中に謎のチップがあって、それを売ろうと思ったら、思った以上にとんでもないブツだったらしく、セロニアスが買い手に現われる。
売り渡す前に自分でも確認してみようと首筋にあるスロットに接続してみたところ、なんとそれは、サンチョ・パンサ店内の詳細なマップで、社長IDの場所を示していた。がしかし、サンチョ・パンサはリアルタイムで拡張を続けており、そのマップも巨大化していく。ハービーの電脳はあっという間に容量オーバーでショートする。
セロニアスが応急処置を施し、一命を取り留めるが、スロットが溶けてしまい、少年とマップが事実上一体化してしまう。生ける宝の地図と化したハービーとセロニアスは、即席でバディ関係となり、サンチョ・パンサ店内への突入を試みることになる。



あと、読んでないけど、連載に空の園丁があり、いや以前から始まったのは知っていたけれど、改めて見て、ちょっとテンション上がった。早く本になったの読みたいなー

『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』

「家族」や「都市」などテーマ別で編まれた同アンソロジーだが、10巻は実験的な表現方法で書かれた作品を集めたものとなる。
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
に引き続き、読んだ。
なお、このシリーズは最終的には全18巻となるのだが、元々は全10巻シリーズとして刊行されたもので、刊行当時、この巻は最終巻であった。
全体的に短い作品が多くて、この中では唯一既読であった「馬」が一番長い分量で、若干なんだかなーという気持ちがないわけでもなかったのだが、改めて読んでみても「馬」は面白い作品であった。
それ以外では、筒井「遠い座敷」、渋澤「ダイダロス」が面白かった。次いで、笙野「虚空人魚」吉田「お供え」も面白かった。
後半から、ホラーなりSFなりファンタジーなりの要素が入った作品が増えて、前半の作品より後半の作品の方が好みではあった。

「ゆうべの雲」内田百間

家に帰ってきたら、客とその奥さんが来ていたという話

「アルプスの少女」石川淳

タイトルにあるアルプスの少女は、あのアルプスの少女のことで、後日談を書いている
立って歩けるようになったクララが、ある日、ハイジの約束を反故にして都会へと出かけるのだが、そのタイミングで、戦争が勃発する。
戦争が終わり、兵士となっていたペーターと再会し、アルムの山へと戻る。
ハイジやおじいさんが、妖精か幽霊かのように書かれている(クララが山を下りる前後に、消滅している)

「澄江堂河童談義」稲垣足穂

稲垣足穂って飛行機の人というイメージがあったのだが、これは、おしりの話
澄江堂は芥川龍之介の号で、この話も、最初の部分と最後の部分に芥川が出てくる。筆者が、芥川のもとを訪ねる話で、芥川に作品を読んでもらっていて嬉しかったとか、あるいは芥川以外にも当時の様々な作家の名前やエピソードが出てくるのだが、しかし、大半はおしりの話をしているのである。
おしりというのは、人体の中でもっとも魅力的な部位であるという話から、なんで「菊」とか「釜」とかいうのかという話をしたり、褌の話(過去には褌ではなく違うものを穿いていたとか、西洋人の下着の話とか)をしていたりする。


「馬」小島信夫

小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2で読んだばかりであるが。
やはり文章のディテールが面白いなと思うし、展開の唐突さというか、主人公はこう思うんだけどそうならない、みたいな展開に奇妙さと面白さがあると思う。
ところで、結局のところ、この五郎という馬は一体何なのかというのと、影法師は一体何者なのかという問題がある。
影法師を目撃した主人公は、これが大工の棟梁だと思い、妻が棟梁と浮気していると疑うのだけど、妻からあれは病院を抜け出したあなただと言われ、後に、やっぱり自分だったのかなと思うようになる。
また、馬の五郎が言葉を喋っているのを聞いた主人公は、実はあの馬は人間で、やはり妻との関係を疑うわけだけれど、後にやはり、あの声は自分の声だったのではないかと思うようになる。
この馬に対する妻の献身的な様子や、あるいは夜中に馬の物音で主人公の目が覚めてしまうあたりは、馬が子どもの比喩になっているようにも読めたのだが、直後に、まるで乳飲み子に話しかけているようだ、とそのものズバリのことを書かれてしまっていて、なんというか逆に採用しにくい解釈なとも思ってしまった。
最終的に、妻から妙な愛の告白をされて、一応めでたしめでたしとなる。
主人公の何らかを象徴化したものとしての、影法師や馬なのだろうと一応それっぽいことは言えるわけだが、小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2に掲載されていた江藤淳の解説では、小島作品のシンボリズムについて「小銃」を例に挙げて象徴にしては具体的、というようなことが書かれていた気がする。
この馬も、読んでいると当たり前が「こいつ、馬だなあ」と思うわけで、主人公と妻のちょいとねじくれた愛の話でもあるけれど、「気付いたら馬と一緒に暮すことになった件」とでもいうべき奇譚として素直に(?)読むこともできる。

「棒」安部公房

デパートの屋上で子どもを遊ばせていた男が、手すりに身を預けてぼんやりしていたら、バランスを崩して落下してしまう。
そして、落下しながら棒に変化してしまう。
その棒を、学生らしき男2人と教授らしき男の3人組が拾い上げて、この棒について話しはじめる。最初、棒の物理的な特徴について話をしているようで、それが生前(?)の人間性についての話にもなっていて、どういう罰を下しましょうかという話へと変わっていく。

「一家団欒」藤枝静男

バスの終点から湖畔にある墓地へ、そして墓の中へ
主人公は既に亡くなっていて、死んだ家族のもとへ来たという話
生前、家族に対して抱いていた負い目を告白して、許される。そのあと、ヒンオドリの祭りへ行く。
主人公は50代で亡くなったようだが、兄は30代、姉・妹・弟は10代や乳児の頃に亡くなっているので、みな亡くなった年齢の姿で出てくる。(ここで出てくる兄弟姉妹の名前は、実際の藤枝の兄弟姉妹と同じ名前っぽいが、主人公の名前は「章」)

「箪笥」半村良

方言による語りで綴られる、一種の怪談。
能登地方のとある家で、夜、子どもが布団で寝ずに箪笥の上に座るようになる。それを目撃した父親は、なんであんなことさせてるんだと母親に怒鳴るが、母親や他の家族もそのままにさせている。そして、次第に他の子も箪笥の上に座るようになり、果ては母や祖父母もそうなる。夜、箪笥の上に座っている以外は変わったところはないのだが、怖くなった父親は、北前船の水夫となって家から逃げ出してしまう。
最後、語り手が聞き手に対して、なんで箪笥の上に座るのかは座ってみないことは分からないし、座ったら分かるから、座ってみたらどうか、ということを勧めてきて終わる。
幽霊が出てくるわけでもないし、危害を及ぼすようなこともないので、怖い話というわけでもないのだけど、夜中になると自分以外の家族がみんな箪笥の上に座っているというのは、確かにすごく不気味であり、それに対する説明もなされないので、怪談的ではある。
地の文が全て方言で書かれているのが、いかにも現地の言い伝えの聞き書き風になっていて、雰囲気を与えている。

「遠い座敷」筒井康隆

これまた怪談風の話だが、やはり特別怖い出来事が起きるわけではなくて、なんかちょっと不気味だという話である。
山の麓に住んでいる子が、頂に住んでる子と遊んでいたら、夕飯を食べていけとその子の親から言われてその子の家族と夕飯をともにする。
なんか、その地方に伝わる歌を歌うのだが、頂と麓では歌詞とかが少し違っていて、恥ずかしい思いをする
帰る段になって、夜の山道は嫌だなと思っていたら、座敷を下へ下へ行けばよいと言われる。
この家は、座敷が階段状に連なっていて、一方、麓の子の家も同じように階段状に並んでいる座敷があって、その子は、もしかして繋がっているんじゃないかなーと思っていたら、確かにそうだったと。
で、座敷は薄暗いながらも電灯がついているので、山道を歩くよりよいと思って下りていくのだけど、それぞれの座敷の板の間には、人形だったり掛け軸だったりがあってなかなか不気味で、どんどん怖くなってきて、最初は丁寧に襖を開けたり閉めたりしてたけど、最後の方は開けっ放しで走って下りていって、無事家に帰り着いた、と。
こちらは「箪笥」と違って地の文は標準語だが、台詞はものすごくきつい方言というか、日本語としては読解不可能な文(架空の方言ではないかと思われる)になっている。前半に出てきた歌も、意味がとれない。
頂と麓の家が繋がっているあたりも含めて、和風異世界情緒が漂っている。
不気味さはホラー・怪談っぽいけれど、設定や筋立てはファンタジーっぽさがある。

ダイダロス澁澤龍彦

タイトルはギリシア神話だが、内容は鎌倉時代の話。
由比ヶ浜で、大船が朽ちているというシーンから物語は始まる。
源実朝の命で、南宋出身の職人である陳和卿が、渡宋のために建造した船だが、あまりにも大きすぎて海に浮かべることができなかったという。
その船の近くには、実朝を迎えるための塔のような館があって、そこには天平美人をあしらった豪華な繍帳がかけられている。
で、ここから奇妙なのは、繍帳に縫われている女性が実際の人間のようにものを考えたり喋ったりしていて、来ることのない実朝のことをずっと待っている。
そこに、一羽の鸚鵡がやってきて、実朝はもう死んだし来ないよということを告げる。
次に、陳和卿が隠れ住んでいるところに、その鸚鵡がやってきて、なんであの船を作ることにしたのか尋ねる。なお、この鸚鵡も南宋出身で、その後、俊乗房重源のもとにいたというが、陳和卿も元々は重源のもとで大仏殿の再建をしていた。で、2人で(1人と1羽で)、重源についての人物評を話したりもしている。
最後に、陳和卿が蟹になって、朽ち始めた繍帳の元に訪れる。繍帳の女はその蟹を実朝だと勘違いし、陳和卿も実朝だと名乗るのだが、最後の最後には自分が誰なのか分からなくなって単なる蟹になる。

連続テレビ小説ドラえもん高橋源一郎

いやー、タイトルと作者とでひどそうな奴だなと予想がつくけど、読んでみると実際ひどい奴だった。
ここでいう「ひどい」は、別に貶しているわけではないが、かといって(褒め言葉)っていう奴でもない。
1見開きで収まるような短い話がいくつも書かれている。

「虚空人魚」笙野頼子

生物SFっぽい作品
虚空湖に生息し、群体を形成する単細胞生物「光アメーバ」は、時折、雨にのって地上へと飛来してくる。その際、虚空効果や虚空現象という独特の現象を生じさせる。
この光アメーバの生態と虚空現象についての科学的解説という体裁で書かれている。
ただ、そもそもこの光アメーバ細胞が含まれている雨と普通の雨とは区別がつかず、虚空現象も何らか別の説明がつけられるか、あるいは、誰にも観察されずに終わったりしているとあり、じゃあこの解説がそもそも誰の視点から書かれているのか、というか、何故このような解説が可能になったのかということは明らかにされないまま書かれている。
群体は、流線型をとり、しかし進化上の偶然のたまものとして顔のような窪みができているとされ、「虚空人魚」というタイトルは、その光アメーバ群体の形状からとられているのだと思われる。
群体となるものとは別に、孤立する奴がいて、すぐ死んでしまうのだけど、これが雨にのって地上にやってきている。で、一部には、テレパシーやテレキネシス能力を持っている細胞がいて、それが地上にいる生き物や人間、あるいは無機物に対しても影響を及ぼすことがあって、それが虚空現象。
しかし、具体的には色々な形態をとることがあって、例えば発狂した王様が都を燃やすこともあれば、遷都するという場合もある。最後に、とある山村で起きた虚空現象に触れられているのだけど、村人たちは早々に逃げ出して誰もいなくなった村のとある家の流し台にて、生命の奇蹟が起きた。

「お供え」吉田知子

夫を10年以上に亡くし、庭仕事などをしながら一人暮らしをしている主人公
ある時から家の敷地のカドに、花が置かれるようになる。まるで事故現場に供えられる花のようだが、そこで暮らし始めてから事故が起きたことはない。
毎朝片付けてもまた何度となく供えられるので、不気味さと怒りを覚えるようになるが、なかなか他の人には理解されない。
基本的に、日常的・現実的な描写が続くが、いつの間にか主人公が神のように奉られている(隣の空き地で祭礼が行われたり、お賽銭が庭に投げ入れられたりするようになる)

解説 清水良典

テーマではなく手法で編んだ巻だけれど、結果的に「家」にまつわる作品が多かった、と。
それは、戦後に家父長としての「父」が失墜したことと無縁ではないだろうという観点からまずいくつかの作品を解説している。例えば、明らかに家父長として振る舞っていた夏目漱石と世代の近い内田百閒と、もはやそのようなアイデンティティを持てない世代の小島信夫の作品が、しかし同じテーマで繋がっているのだ、とか。
また、半村良筒井康隆といったSFをベースとした作家や、笙野頼子のようなSFを取り入れた作品など、SFは「表現の冒険」をしていたジャンルだったのではとも述べている。
最後に、埴谷雄高が、戦後文学の主題や思想が後発作家に受け継がれることを「精神のリレー」と呼んだことを踏まえつつ、戦後文学の精神のリレーは、主題ではなく、表現の冒険の試みにこそあったのではないかとして、藤枝の「一家団欒」が、笙野頼子「二百回忌」や川上弘美「蛇を踏む」へつながったのではないかと述べている。

『日経サイエンス2022年11月号』

民間月探査は宇宙ビジネスを開くか  R. ボイル

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2022年末から2023年にかけて、民間の月着陸機が相次いで行く予定になっている。
これは、NASAの商業月面輸送サービス(CLPS)に選定された企業によるものである。
元は、グーグルルナXプライズに参加したチームで、NASAがCLPSを始めるにあたって、そういえばXプライズは今どうしているんだ、ということで声がかかったらしい
そもそも、月輸送に需要があるのかという話で、これは地球低軌道なんかと比べると全然あやふやではあるようだが、とりあえずのところ、科学探査関係の需要が結構あるみたい。
従来のNASAの枠組みだと、ディスカバリーミッションに採択されないといけなくて、お金も時間もかかったし、専用の宇宙機開発する必要あったけれど、小規模なミッションなら、CLPSで月に行く着陸機に観測機器を積んでもらえれば、安いし、時間もかけずにできる、と。
上述リンク先の記事の冒頭に「25歳のジョン・ウォーカー・ムースブラッガーは,自社のクリーンルームの前に座り,自分が生まれるよりも前に作られた機器が月着陸機に取り付けられるのを見守っていた。」という一節があるが、この「自分が生まれるよりも前に作られた機器」というのは1995年に作られた観測機器で、結局、月に行く目途が立たずに棚の上で埃をかぶっていたものらしい。
そういう過去に日の目を見なかった月探査ミッションが、今後次々と行けるようになるかもという期待があるらしい。
宇宙開発、特に月探査は政治的影響を受けやすい(国威発揚に使われたり、政権交代があると計画が丸ごと変わってしまったり)ので、そのあたりの影響がうけにくくなるという利点もある。
一方、いくら小規模ミッションをたくさん飛ばせるようになっても、大型ミッションに代えることはできないものもあり、逆にディスカバリーミッションがやりにくくなったら困るという懸念もあるにはあるらしい。

日本の「HAKUTO-R」月へ  中島林彦

www.nikkei-science.com

HAKUTO-RとSLIMはサイズが同じくらい。
HAKUTO-Rは、月に直接着陸するのではなく周回してから月に着陸する。重力使って減速することで燃料の削減を図っているが、これにより、普通は3日でいけるところ3ヶ月かかる

ADVANCES 水面から高跳び

翼竜が、どのように空を飛べるようになったのか。
地面や水面からジャンプしてという説があって、今回、水かきと思われる組織が発見されて、(泳げたわけではないので)この説の証拠の一つとなりそうだ、と。