『戦後短篇小説再発見 6  変貌する都市』

織田作之助「神経」(1946)から村上春樹レキシントンの幽霊」(1996)まで、都市をテーマに12篇を収録したアンソロジー
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2に引き続き、読んでみた。
同シリーズは全18巻だが、さすがに全部読む気はないので、気になった巻だけ読んでいっているところ*1
村上春樹を除くと、名前は聞いたことあっても馴染みのない作家が並ぶラインナップだったが、都市というテーマに惹かれて読むことにした。
島尾敏雄「摩天楼」、森茉莉「気違いマリア」、村上春樹レキシントンの幽霊」が特に面白かった。次点としては織田作之助「神経」、福永武彦「飛ぶ男」、清岡卓行「パリと大連」

織田作之助「神経」

戦後すぐの大阪は千日前の話。
千日前というのは、大阪の劇場や演芸場などが集まっている街
正月3ヶ日は外の様子を見たくないから家にいて、その代わり、ラジオを聞いていたら、宝塚のレビュの実況番組があって、それで10年前に亡くなったとある少女のことを思い出すとこから始まる(ところで、ちょっと宝塚disってたりする。宝塚に限らず声の芸術全般について、変な型があるな、これが好きな人はこの型が好きなんだろうな、そういえば小説も型があるな、となっていくので必ずしも宝塚だけdisってるわけではないが)
レビュが好きで1人で大阪に出てきて着の身着のまま劇場に通っていた少女が殺されたことがあって、そのことをつらつら思い出している。
語り手(織田自身だろう)がよく行っていた喫茶店や飴屋(タバコも売っている)に、その少女も客だったらしく、死後、そこの店主から「あの子、よく見かけたよ」みたいな話を聞く。
話の後半は終戦後、焼け跡になってしまった千日前の話で、行きつけだった本屋や喫茶店が、しかし何とかまた店をやり直そうとしているのを見かけて、それを「起ち上がる大阪」というタイトルで雑誌に書いたという話。しかし、語り手の中には、そんなタイトルの文章を、もともと実話美談とかは嫌いのはずなのに書いてしまったことになんとなく負い目のようなものもありつつ、そこの主人からはそれぞれ感謝される、と
1930年代から40年代にかけて、娯楽の街として栄えていたところが、文字通り灰燼に帰してしまったことへの、作者の複雑な思いが反映されているような作品
我々はズルチンを恐れない神経になってしまったのか、自分は少女のために建てられた地蔵にはまだ参れていない
初出:1946年4月『文明』

島尾敏雄「摩天楼」

語り手の夢の中に出てくる街の話(正確に言うと、起きている時でもまぶたをとじると見えてくる、というような言い方をされているので、夢というか想像の中の街なのかもしれないが)。ちなみに、NANGASAKUという名前がつけられている
幻想的な街なのだが、そこに、摩天楼ないしバベルの塔ができて、語り手はそれを登っていく。各階にはあらゆる「雑踏」ができていて、あるいは抽象的な化け物などもいたりするのだが、最後に女をさらう魔物に出くわす。飛行(ひぎょう)の術を手に入れていたが、それもうまく発動できない。
翌日、朝方のNANGASUKUの広場にて、摩天楼にいた者たちが普通の出で立ちで暮しているのを見る。
夢の中の街、というシュールレアリスム的な設定と、改行少なめでやや難しめの語彙の文章の雰囲気がとてもよかった。
島尾敏雄ほとんど知らなかったのだが、最近、第三の新人*2あたりのwikipediaAmazonを見ていて『死の棘』のあらすじだけちらっと眺めていた記憶があったが、その際は、あまり好みではなさそうとスルーしていた。
解説によると、島尾作品には、『死の棘』など妻との関係を書いた作品の系列、戦争体験(特攻隊)を書いた作品の系列、そして本作のような夢を書いた作品の系列の3系列があるらしい。
初出:1947年8月『文藝星座』

梅崎春生「麺麭の話」

戦後、まだ配給が続いていた時期の貧困を描いた話
電車に乗って知人の家へ向かいつつ、回想が混じる構成
主人公は犬を飼っているのだが、知人が主人公の家を訪れた際に帰り間際に「面白い犬だな、ゆずっておくれよ」と言っていて、主人公はその話を受けるために知人の家へ向かっている。
さらにその背景として、小学生の息子が隠れて麺麭(パン)を食べていたのを目撃してしまったというのがある。
単に、息子に食べさせたくて犬を売ることにしたというだけでなく、息子への憤りみたいなのも混ざっている(犬をかわいがっているのは息子なので)。
電車は大混雑していて、老婆の背負った荷物が当たったことに対して憤り、密かな反撃をする。
さて、問題の知人であるが、主人公が役所勤めで入札関係の仕事をしているので、本来ならどうもその件で不正を持ちかけようとしていたらしい。ところが、主人公が、犬を買ってほしいと言い出したので、何を言ってるんだこいつは、と思われている。
それで知人から「犬をゆずってくれとは言ったが、金を払って買うとは言っていないよ」と断られてしまって、借金を頼んで断られたような気持ちにさせられる。
帰りの駅では、数人の盲人たちが列をなして「人間列車」となってホームを歩いていた。
という、終始どんよりするような話であった。
「神経」「摩天楼」もまた、終戦後の焼け跡におけるどんより感を描いた作品ではあるが、「麺麭の話」は、まさに食うや食わずの生活をしている者が主人公になって、その生活を写実的に描いているので、一番どんよりしている。
どこが都市かというと列車のシーンなのかなあと思う。日曜日なのに満員でぎすぎすした雰囲気とか
初出:1947年12月『別冊文藝春秋

林芙美子「下町」

タイトルは「下町」とかいて「ダウン・タウン」とルビが振ってある。
りよの夫はシベリアに抑留されたまま何年も復員してこない。彼女は、息子を連れて上京し、茶の行商をしていた。行商の際にたまたま出会った鶴石という男性と、少しずつ親しくなっていく。彼もシベリア抑留を経験しており、戻ってきたら妻は別の男と一緒になっていたという。
息子にも親切にしてくれて、次第に男女の仲としても惹かれていき夜をともにすることもなるのだが、その後、鶴石は事故で亡くなってしまう
世間は次第に戦争の雰囲気が過ぎ去っていくのに、夫が帰ってこないことで自分だけまだ戦争が続いているような気がするところから、鶴石と知り合ってそれが少し払拭された、という話なのかな
不倫といえば不倫の話ではあるのだが、結ばれた直後に男が死ぬせいか(といってしまうと言い方悪いが)後味はそこまで悪くないというか、女もいったん拒んでいるし、男も誠実さも見せるし、そのあたり、倫理的な悪さを感じさせないような工夫(?)がなされていた気がする。
どのあたりが都市なのかというと、田舎の静岡から行商のために上京してきたという点や、行商で回っていた住宅街の様子や、3人での上野からの浅草見物のくだりとかかなあと思う。浅草に行ったことないというので連れて行ってもらったけど、期待外れだったというところから、そのまま雨宿りしてなし崩し的に泊まりになるくだり。
初出:1949年4月『別冊小説新潮

福永武彦「飛ぶ男」

入院先から抜け出した男の話
病院の8階からエレベータで下りるシーン(単にエレベータに乗るだけなのだがやけに冗長な語りがなされる。落ちる鳥だの隕石だの)から、男の入院中の様子と病院から抜け出していく様子とが交互に展開される。
入院中は、完全に寝たきりで、右向きになったり左向きになったりするのが唯一の気晴らしみたいな状態。
男の独白部分が、漢字カタカナ混じり文になっている。
神の創造において、6日目に人じゃなくて天使が作られたがあまりにも神に近く、部分的には神を凌駕した存在になってしまったので、創造それ自体が全てやり直しになって作られたのが人なのだ、みたいな話が途中展開されている。
病院で窓を見ていると、急にすべてのものが浮き上がる。壁が崩壊し、ベッドや自動車や家が空中に浮かび、終わりの日の様相を呈する。
一方、病院を抜け出した方の男は、ビル街を通り抜け、街外れの橋から病院を見る。病院から男が身を投げ出して空へ飛び立つ? みたいなシーンで終わる。
福永武彦というと、池澤夏樹の父親で池澤春菜の祖父という認識しかなかったが、略歴見て別名でSFとか書いているということを知った。
初出:1959年9月『群像』

森茉莉「気違いマリア」

以前、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2で読んだことがあった。
かなり笑いながら読んだ。
父親(鴎外)と母親の気違いが遺伝したとか、永井荷風からも遺伝したとか。
鴎外が風呂に入らないきれい好きだというところから始まる。風呂に入るのは他人の垢をつけることだから入らない、と。で、そういう性格をマリアも受け継いでいるのだ、と。
マリアは、自分が暮らしているアパートの共同の流しで夜中に食器を洗うのだが、他の住人があちらこちらに痰を飛ばしているから、ちょっと床やら壁やらに手や食器が触れるたびに絶叫しながら食器を洗っている。
終始そんな感じ
痰飛ばし族とか、世田谷族とかいう呼び名をつけている。また、マリアは銭湯で風呂に入っているのだが、世間の女というのは大半は女ではなく「女類」だ、とかそんなことも言っている。
なお、「マリアは~」という三人称で書かれているものの、これはほぼ一人称みたいなものだろうが、「マリアは婆で」と、やたらと婆を連呼していたりもする。
人前で痰を飛ばすというのは、まあまあ昭和期の後半くらいまではあったようだが、今ではもう見られない風景なので、なかなか迫力があるし、当時の都市生活者の風景を垣間見せてくれる作品かなと思った。
また、マリアは、自分はエリート主義ではないといい、同じ痰飛ばし族でも、浅草の人はいいのだみたいなことを言っていたりする。パリや浅草に住んでいた時はすぐに馴染むことができたけど、世田谷は無理ということを延々書いている作品でもある。
もともと市外だということも言っていて、マリアが東京を線引きしているのもうかがえる。
初出:1967年12月『群像』

阿部昭鵠沼西海岸」

自分がかつて住んでいた海岸地区への愛憎を吐露しながら、回想している。
子どもの頃、友達と遊んでいても同居していた兄の泣き声が聞こえてくるのが嫌だった、と
(阿部には知的障害の兄がいたらしい。この作品の中では、知的障害とは明言されていなくて、戦争帰りで心を病んだようにも読めた)
その兄が行方不明になり、母親とともに夜の海岸を探す。後日、遺体が発見されたと警察から連絡があり、それを確認しにいく。
その頃親しくしていた少女がいたのだけど、彼女は引っ越してしまう。兄が亡くなったあと、手紙を出してみると、返事が戻ってくるが、もう当時の彼女ではないことを思い知らされる手紙だった

初出:1969年7月『群像』

三木卓「転居」

引っ越すにあたり、近くの薬局やらなにやらから箱をかき集めてくる。
で、荷造りを始めようとしたら、もう使わなくなった物品がどんどん溢れ出てきて部屋があふれかえってしまう。もう何のために買ったのかもよくわからないものもたくさん出てくるが、自分の過去にかかわっていたもので、忘れ去っても残るものなのだ、と
初出:1978年10月『文芸』

日野啓三「天窓のあるガレージ」

主人公が、高校生くらいになって家のガレージを自分の部屋にしていく
断章形式で書かれている
父親への反抗
ニューウェーブロック
キリスト教系の学校に通っており、キリスト教には興味がなかったが、聖霊という概念がよく分からず気にかかる
そして、宇宙人・宇宙船の話がたびたび出てくる。ガレージを宇宙船にしようとしている少年。天窓からの光。
初出:1982年12月『海燕

清岡卓行「パリと大連」

パリを訪れて、凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧称・エトワール広場)を歩きながら、生まれ育った大連の広場と比較する話
大連は、当地をロシアが支配していた時期にパリをモデルとした都市計画のもと開発がすすめられ、それを後に日本が引き継いで造られた都市
大連の大広場は、エトワール広場をモデルとしているのだが、門は立っていない。また、エトワール広場には12条の道がつながっているのに対し、大広場は10条などの違いがある。
類似を探そうとしたのだが、実際には違いが多いなあと思いつつ歩いていると、広場の周縁を歩く時の感覚を突然思い出して、類似点を見つけだす。
また、大広場の構造についてのちょっとした謎が解決したりする。
最後に、エトワール広場に植えてあった樹が、槐だったことが分かるところで終わる
初出:1989年1月『群像』

後藤明生「しんとく問答」

八尾市にある俊徳丸鏡塚へ訪れた際のことと、俊徳丸伝説について筆者が調べたことが書き連ねられている。
俊徳丸は、折口信夫が『身毒丸』という小説にしており、これの読みは「しんとくまる」で、タイトルの「しんとく」はそこから。
正直、どこらへんが都市なのか、もっと言ってしまうと、これは小説なのかエッセイなのかすら分からない作品で*3、終わり方もよく分からない終わり方をする
(塚の上にポールが立っているのだけど、このポールが何か市のあちこちの部署に聞いてもたらい回しされるだけで結局よく分からないという終わり方)
なお、鏡塚へは「写ルンです」を持っていって撮影しており、度々「写ルンです」が連呼されていて、その点になかなか時代を感じさせる。
初出:1995年3月『群像』

村上春樹レキシントンの幽霊

国語の教科書に掲載されていることで有名な本作。
自分もやはり教科書で読んだ記憶があるが、当時はあまり印象に残らず、内容については忘れていた。
今回、こうやって読んでみると、やはり村上春樹は面白いと思わずにはいられなかった。
村上春樹作品は、だいぶ昔にいくつかの作品は読んでいて、その時も決して面白くなくはなかったが。
この作品は、作家である「私」が実際に起きた経験を話すという体で書かれているので、その意味では私小説の系列にあると言えなくもないとはいえ、しかし、その文体やはっきりとした物語性などは、明らかに隔絶しているというか、少なくともこの短篇集のこの流れで読むと、全然雰囲気が違うと感じられる。
「私」が、レキシントンに住んでいるケイシーという建築家から、留守番をしてくれと頼まれて何日か1人で泊まることになるのだが、その最初の晩に幽霊たちがパーティをしている音を聞いたという話。
で、その後、ケイシーから、母親が亡くなった時、自分の父親は何週間も眠り続けた、そして、その父親が亡くなった時には、自分もまた同じように長く眠ったという話を聞かされる。
眠りの世界と死後の世界というのが重ねられていて、そういう異界に触れてしまった物語として仕上がっている。
また、50代男性のケイシーは30代男性のジェレミーレキシントンの家で一緒に暮しているが、ジェレミーは自身の母の具合が悪くなってからは実家に帰ってしまい、様子も変わってしまったという。そして、ケイシーは自分のために眠ってくれる人はいないのだと悲しげに語る。このあたりから、同性愛者なんだろうなあということも分かる。
ところで、レキシントンの家で留守番する際の持ち物の一つに「ポータブル・コンピューター」(コンピューターにいちいち傍点が振られていた)があった。
ノートパソコンのことかなと思うのだが、96年当時の普及状況がよく分からないし、実際のところどういうものを指していたのがちょっと気になる。
「しんとく問答」の写ルンですとともに、当時はそう思われていなかっただろうけど、古びれてしまって時代を感じさせることになってしまった名詞という感じがする。
初出:1996年10月『群像』

*1:というか、とりあえず読もうと思っているのは4冊だけだが。そのうちの2冊目

*2:島尾は基本的に第二次戦後派とされるが、第三の新人とされることもある、くらいの位置づけの人らしい

*3:もっともそれを言い出すと、私小説自体が小説なのかエッセイなのかよく分からなくなってしまうが