夢や幻想をテーマに、1949年の日影丈吉「かむなぎうた」から、1996年室井光広「どしょまくれ」まで11篇を集めたアンソロジー。
このシリーズは、まず全10巻で刊行されたが、編集委員の中ではこれでは分量が足りないと考えており、第1期10巻が全て重版できたことにより、第2期8巻の刊行が可能になったと巻頭言に書かれている。また、1人1作というルールのもと作品は選ばれているが、第1期と第2期については作家の重複がある、と。
タイトルを見れば分かる通り、巻数は第1期から第2期まで通しになっているので、途中から第2期になっているのが分かりにくい。
夢や幻想をテーマとしているが、幻想文学かというとちょっと違う作品が集められている気がする。
面白かったのは、日影「かむなぎうた」矢川「「ワ゛ッケル氏とその犬」色川「蒼」村上「ハワイアン・ラプソディ」村田「百のトイレ」室井「どしょまくれ」あたりか。
日影と色川の作品は、東京生まれの少年が(かたや母の死、かたや疎開で)田舎で暮らすことになってしまった際の話。村田と川上はともに家族(と性)がテーマ。
ここまで読んだ奴
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2
日影丈吉「かむなぎうた」
日影はミステリ作家で、本作は『宝石』の新人賞に投稿して掲載されたデビュー作。
本作も一方でミステリ要素がある作品なので、他方でそれ自体が夢か何かだったのではないかというようなオチになっている。
主人公は、幼い頃に母と離別し父の生まれ故郷へと引っ越してきた。養蚕をしている家で、蚕室の奥に母親の形見の品があるため、幼少期はその部屋に引っ込んで泣き暮らしているような少年だった。
小学生になり多少は外で遊ぶようになっていたが、その中で親しくなったのが源四郎で、同じく母を亡くしているなどの共通点があったが、イタズラ好きで活発な源四郎は、主人公としては対照的な少年であった。
で、ある時、隣の村から「巫女(いちこ)」の老婆がやってくる。イタコをするわけだが、主人公は密かに恐怖を抱くようになる。彼の亡き母の口寄せもされて、夢に見たりする。
その後、この老婆が橋から足を滑らせて川に落ちて死んでしまう。警察は事故死だと判定するのだが、風邪に伏せっていた主人公は、これが源四郎の犯行に違いないと考えて推理を働かせる。
トリックに使われた(と主人公が考えている)ガジェットが、鉄製の竹蜻蛉というなかなかかっこいい代物だったりするのだが、そもそも源三郎犯人説自体が、主人公の思い込みのようなものであったりする。その背景として、主人公がうっすらと憧れの念を抱いていた少女を巡る罪悪感がある。
源四郎は、通りがかりの女の子の頭上におしっこをひっかけるというイタズラをよくしているのだが、ある日、主人公にそのイタズラのための合図をするように伝える。しかして、道の向こうからは主人公が憧れている少女がやってくる。主人公は、なんと合図を送ってしまうのである。しかし、源四郎は何もしなかった……という挿話があり、また、老婆と少女が一緒にいるところを主人公が目撃したこともあり、そうしたことがない交ぜになっていたということがうかがえる。
「巫女殺人事件」というミステリの体裁をとりながら、主人公の少年の内面の諸々をテーマに扱っており、それが例えば、蚕室で密かに読む草紙本とか空高く飛ぶ竹蜻蛉の情景とか老婆が醸し出す雰囲気とか、そういったものと組み合わさって、完成度の高い短編になっている。
(1949年)
矢川澄子「ワ゛ッケル氏とその犬」
作者は澁澤龍彦の妻(のち離婚)。Wikipediaを読むと、澁澤龍彦ひでーなーというエピソードがポロポロ書いてある。絵本・児童文学の翻訳が多い。あ、『ぞうのババール』訳した人なのか!
入れ子上の構造をしており、「私」が話すスコッペ氏の話の中に出てくるのが「ワ゛ッケル氏とその犬」というお話なのだが、ワ゛ッケル氏もまた作家で、つまり、物語る者についての物語を物語る者が語るのを物語る者が語るという構造になっている。
ワ゛ッケル氏は、財産も才能も何もかもなくしてしまい、家にも住んでいられなくなったので、飼い犬をどこかに捨てにいかなければならず、何もない麦畠を歩きつづけ、立ち止まったときに犬が光りはじめる。周りの麦は子どもたちに代わり、犬は天へと上がっていく
(1955年)
谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」
谷崎の日々の記録を綴ったような作品だが、後半は夢か現か分からなくなってくるというもの
熱海から度々上京している際のことを書いており、妻らの希望でストリップ・ショーを見に行ったり、1人でスリラー映画を見に行ったり、あるいは高血圧を気にしながら中華料理や京料理を食べに行ったりしたことを書いている。
半分おきて半分寝ているような状態で、鱧の肉、ストリップ女優の裸、あるいは映画で見た風呂場で殺された男が夢に出てくる
で、過酸化マンガン水だが、これは、便に食べたものの色がついてトイレが真っ赤になってしまったのを過酸化マンガン水のようだと喩えたところからついていて、そこから、中国の呂太后が戚夫人の手足を断ち眼をとって厠の中に入れたというエピソードを思い出していく。
(1955年)
星新一「ピーターパンの島」
星新一は、小学生の頃によく読んでいた時期があって、本作も読んだことあると思うのだがさすがに覚えていなかった。
合理的であることが重視されるようになった社会で、妖精や魔法を信じるような子どもたちは隔離されて別の教育を受ける。
その隔離策の極致として、フック船長の海賊船に乗って離島へ赴くというものがあるのだが、その先に星新一的なブラックなオチが待っている。
(1961年)
色川武大「蒼」
主人公のもとに、不思議な女性たちが訪れる。舞のようなものをする(リズムにあわせて足を踏みならす)女たち。それを率いる女が口にしたのは、彼が少年時代に疎開していたところの地名。疎開先でお世話になった家の誰かだろうかと名前を出すのだが、当てはまりそうな人がいない。彼女は、あなたに焼かれた者です、と名乗る。
主人公は疎開していた頃のことを思い出す。
集団疎開していった先で、東京から来た自分たちと地元民の間にはどうしても溝があり、そんな中で彼らは彼らなりの遊び場を探していく。
地元の名家の墓がある土地が、あまり人目につかないこともあって、彼らはそこで遊ぶようになるが、空襲でなくなってしまう。
その後、東京の空襲の火を目撃したあと、彼らは火遊びをするようになる。
ある夜とうとう、東京の煙と火を、眼にすることができた。(中略)大きな火煙に包まれているのは他ならぬぼくら自身だった。その点ではぼくらは小栗川の人間ではなくなっていた。焼かれる人間だった。焼かれるであろうが、しかし焼こうともしている筈の人間だった。樹や草や湿った土や、墓石や女たちや和尚のように、じっと坐ってうすぼんやりとしているなんてとてもできなかった。
ある夜、全員が集まってそれに火をつけた。ブルルルル、ブルルルル、ぼくらは両手を拡げ、爆音を口にしながら藁の山から山へと飛び回った。闇の中に焔の塊りが次々と現れ、うす明るくなったあたりに、煙がただよいだした。(中略)そうしてそのとき、地を這い逃げる無数の生き物のうごめきが伝わり、騒ぎ狂う鳥どものさまざまな叫びをきいたのだった。
冒頭に訪れた謎の女たちは、この時に焼かれた鳥たちなのだろうという話なのだけど、この、焼き焼かれという関係のゾクッとする感じがすごい。
ところで、この筆者の別名義は、麻雀小説の阿佐田哲也
Wikipedia見る感じ、本人は疎開とかしていないっぽい(1943年に勤労動員とある)。終戦後5年ほどアウトロー生活をしている。本名での作家活動は1961年から
(1965年)
吉行淳之介「蠅」
4ページほどの非常に短い作品
女子高生が、他校の男の子と一緒に学校から帰るようになる、という初めてのお付き合いみたいな話なのだが、ある日、その男の子の背中に蠅がびっしりと止まっているのを見て、避けるようになる。
(1971年)
中井英夫「鏡に棲む男」
これはなんだ、統合失調症かなんかの人の話なのか
自分以外の人間は全て人形なのだと思い込み、さらに、ピーマンは奴らが開発した人工野菜なので絶対に食べない
さらに、鏡の中の自分が、自分を真似た別の存在なのではないかと思っている。ある時、自動車の迎えがきて、それに乗ると運転手が鏡の中の自分。周囲は次第に霧に包まれていき、鏡の中の自分に乗っ取られる……?
というような話なのだが、とにかく、ピーマンなんて食べられるかということについてことあるごとに述べていて、全体的にはシリアスな調子なのに、こいつは単にピーマンを食べたくないという己の偏食を正当化するために変な妄想を捏ねているだけで、そういうコメディなのか、と思えてきてしまって、なんかダメだった。
(1975年)
村上龍「ハワイアン・ラプソディ」
村上龍は、遙か昔に『希望の国のエクソダス』が読んだことがあるはずだが、内容はあまり覚えていない。あとは、評論などを通してあらすじを知って、なんとなく知った気になっている感じでしかたなかった。
しかし、『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2で村上春樹を読んだ時も思ったが、なんだかんだで人気のある作家というのはやはり面白いのだなというのを、この村上龍作品でも感じた。
タイトル通りハワイが舞台なのだが、主人公が、老いたスーパーマンに出会う話
スーパーマンは老いて飛べなくなっているのだが、地球に飽きてクリプトン星に帰りたくなってきたために、再び飛ぶためにトレーニングを行っている。
主人公とその友人らは、彼のために協力して、トレーニングを手伝ったり、パラセーリングしてみたらどうだと誘ったりする。
主人公たちは、特段彼がスーパーマンであることを疑っておらず、実際どうも彼は普通の人とは違う能力があるっぽいことは示されているが、度々失敗して怪我で入院したりもする。
(1979年)
村田喜代子「百のトイレ」
独身で教師をやっている主人公のところに、従姉が2才の娘を連れて遊びにくる。
この子は、道端で下着を脱いでおしっこをするという癖があって、従姉は困り果てていた、という話。
この従姉と主人公は子どもの頃から仲が良くて、従姉に子どもが生まれてからも親しい付き合いが続いているようで、作中、3人でお昼寝をするシーンもある。
主人公は、そのお昼寝中にたくさんのトイレを掃除する夢を見る。
昼寝後、主人公は2人を散歩へと連れて行く。散歩した先で、大量の便器が廃棄されているところに出くわし、女の子はそこでおしっこをして、主人公は解放感に満たされ、トイレたちが飛び立っていく様子を幻視する。
この話、最後のシーンはいちおう幻想シーンだとはいえ、何故「夢と幻想の世界」というテーマで収録されることになったのか若干戸惑うが、作品としては確かに印象深いものがある。
しかし、自分はいとこは一人しかおらず、その一人とも大きくなってからは会っておらず、近況もあまりよく知らないので、この主人公のような親しい関係のいとこというのが微妙に想像がつかないのだが、独身者と子持ちとの認識のギャップみたいなものは自分にとってもリアルに把握された。
あるいは、2才の子のいうことを聞かない感じや、子どもにあの場所に連れて行ってあげたいなという感じなども。
(1989年)
川上弘美「消える」
団地に住むそれぞれの家族が持つ謎の風習について。
上の兄が消えてしまうが、私の家族では曾祖母の頃から度々消えることがあった、と。この「消える」、文字通り姿形が見えなくなってしまうのだが、いる気配はあって、触れたり声が聞こえることもある、というような謎の現象なのだけど、普通に受け入れている。
そのほか、婚約するのに相手の家に釣書とするめを持って行ったり、団地において一家族は5人までという暗黙のルールがあったり、管狐を飼っている家族がいたり、ねこまという謎の生き物がでてきたり、あるいは、謎の声を発する壺ゴシキとかも出てくる。
家族にしか通じない風習が、家族ごとにあったりするよねというよくある話を、かなり極端に奇怪なものへと仕立て上げた物語という感じで、それにしても、てんこ盛りだなという感じで、その盛り過ぎな感じに若干ひいてしまったところはある。
村田・川上ともに、家族のことを非現実的な光景とともに描く作品だが、加えて、性の問題も関わっている。
村田作品の場合、主人公が見たトレイの夢が従姉によって欲求不満や結婚願望の表れではと解釈されるシーンがあったり、娘の癖自体が快感によるものなのではと推測されたりしている。
川上作品の場合、そもそも物語全般が、お見合いから結婚に至る話で、他の家族から主人公の家族に嫁入りがあるのだがそれがうまくいかないという話であり、一方で、主人公は上の兄に対して膝枕やキスを望んでいることが度々書かれている。
川村湊は解説で、女性作家ならではだなあみたいなコメントを書いているのだが、ここらへんどう解釈すればいいのか、分からんといえば分からん。作品の中に書いてある通りだなといえば書いてある通りなのだが。
ところで、こうした村田や川上が、さらに藤野可織に至るみたいな系譜があるのかなーと思ったり思わなかったり。
そういえば、村上龍の「ハワイアン・ラプソディ」とこれの初出が『野性時代』で、いや、『野性時代』は読んだことないんだけど、「へえ、こんなのも掲載してたのかー」と軽い驚きがあった。
(1996年)
室井光広「どしょまくれ」
主人公が友人夫婦とひなびた温泉旅館に泊まる話。
もともとこの3人は、デンマーク語の翻訳の仕事をやっている。
つげ義春作品に出てくる土地が、主人公の出身地だと思い込んでいた。そこで遠縁の女性が旅館をやっているので、旅行しにいこうという話になるどしょまくれ、というのはその地方の方言で、その旅館の名前。
ずいぶん寂れていて、もともと3軒くらいしかなかった旅館が2軒つぶれ、残った1軒も休館したのを改修したのが「どしょまくれ」。
で、この「どしょまくれ」という方言が、主人公とその地域では少しニュアンスが違っていて、その話をしているうちに、デンマーク語に似ていない? みたいな話になっていく。
直接的には、夢も幻想も出てこない作品なのだが、彼らが旅行した地方が、そもそもつげ義春作品から端を発しており、この方言自体もかなり謎めいていて、実在する場所なのかどうかもよく分からず、全体が幻想めいて感じられる作品だった。