『Newton2022年12月号』

マイクロバイオーム─人体に住む微生物

腸内細菌の話
特定の菌より多様性が大事
肥満とF/B比
なんちゃら科という細菌とうんちゃら科という細菌の比率が、健康体の人と肥満体の人とでは違う。肥満体の人は偏りがある。
アトピーと皮膚常在菌の関係
これもアトピー患者は、ある菌が少なくて、その菌を移植する治療法があるとか
脳腸相関ないし脳腸微生物相関
最近言われている、脳と腸との関係。日常的なところでは、緊張するとお腹痛くなるとか。
うつ病などの精神疾患の患者とそうでない人とで、腸内微生物叢が違うという結果もある。因果関係がどうなっているかはまだ不明
糞便移植治療というのがなされ始めたりもしている。潰瘍性大腸炎とかで。
あと、ヒトは、微生物に機能を「外注」させて進化したのではないかとか。
大体知っている話だったけれど、やっぱり糞便移植は衝撃的だよなー……

あっと驚く 世界の最新建築

いや本当に、すごい形の建築物がたくさんあるものだ……
トップにあるのは、ドバイの未来博物館、さらにドバイフレーム、中国の中国 シェラトン湖州温泉リゾートが続く。
その他にも、中国や中東諸国の建築が並び、今やその辺の地域のばかりなのかーと思っていると、ちゃんと(?)欧米諸国の建築も載っている。
アメリカのいくつか載っていたが、見た目のインパクトがあるのはニューヨークのベッセルか。
スイスのスウォッチ社本社ビルが、世界最大の木造建築だったかな。
あと、どの国のだったか忘れたけれどヨーロッパの奴で、周辺の林と建物の中がシームレスにつながっているかのように見える奴も、わりと印象的だった。
それから日本からは、埼玉・所沢にある、隈研吾設計の角川武蔵野ミュージアムというのが掲載されていた。

『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち 』

西崎憲の編集によるムック本シリーズ「kaze no tanbun」
「特別ではない一日」「移動図書館の子供たち」「夕暮れの草の冠」の全3巻なのだが、収録されている作家のメンツを見比べて、3巻中2巻目という中途半端さながら「移動図書館の子供たち」を手に取ってみた。
手にとった理由をもう少し遡ると、藤野可織の作品の初出とかを見ていると、同じく西崎憲の『たべるのがおそい』だったり、未収録作品が『kaze no tanbun』に載っていたりするのに気付いたからというのがある。西崎憲のこれらのムックは以前から少し気になっていたけれど、それがわりと決定打となった。
さて、作家が編集をつとめる文芸誌ないし短編小説アンソロジーかと思っていたのだが、正確には、短編小説ではなく〈短文〉アンソロジーとのことであった。
〈短文〉とは何かということについては、本はどこから作るのか――kaze no tanbun 製作記2|kaze no tanbun|noteを参照のこと。
エッセイ的な文章もあるが、広い意味で短編小説ということでいいかと思う。詩もあるが。


面白かったのは、伴名錬「墓師」、西崎憲「胡椒の舟」、藤野可織「人から聞いた白の話3つ」、水原涼「小罎」、乘金顕斗「ケンちゃん」、木下古栗「扶養」、柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」、松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」

古谷田奈月「羽音」

学生時代に音楽を通じて知り合ったB

宮内悠介「最後の役」

考え事をしているときに麻雀の役をつぶやいてしまう癖

我妻俊樹「ダダダ」

かつて住んでいたダダダに再訪したアナとファナ
本になった、かつての同級生のカンカン

斎藤真理子「あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず」

伴名練「墓師たち」

椅子の形をした墓の話、墓を飼っている人たちの話、目を塞いで墓を作る話、生まれる前に作られる墓の話

木下古栗「扶養」

ケーキ屋で居合わせた女優に「英気を養ってくれませんか」といわれる

大前粟生「呪い21選──特大荷物スペースつき座席」

新幹線のひと

水原涼「小罎」

父親の仕事で住むことになった村にある湿地には、かつての戦争で亡くなった兵士が
おそらく、ベトナムが舞台?

星野智幸「おぼえ屋ふねす続々々々々」

全て記憶することができる、「ふねす」という名前の子供たちに本を覚えさせる
この記憶の話って、円城塔の「良い夜で待っている」っぽいなと思ったけど、さらにその元ネタがボルヘスの「記憶の人、フネス」だった。
あと、ここまで読んできて初めて、「あ、これ、「移動図書館の子供たち」テーマで書かれている作品だ」と思った。思い返してみると、「ダダダ」もそうだったかもしれない。

柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」

冒頭、「島尾ミホ加計呂麻島での少女時代を回想して」という文から始まるのだが、最近、島尾敏夫のWikipediaを読んでいたので、なんかタイムリーだった。
なお、島尾ミホの話ではなくて、島に住んでいた「僕」の少年時代の話で、毎月3冊ずつ、学研の中学生向けの文学シリーズが届いていた話

勝山海百合「チョコラテ・ベルガ」

彫鈕の師匠のもとに住み込みで暮らす黄紅

乘金顕斗「ケンちゃん」

若手俳優須永健のパトカー乗り回し事件と
小中学校が一緒だったケンちゃんが小学生の頃に、移動図書館あじさい号を勝手に走らせた、と思い出すサトルの話

斎藤真理子「はんかちをもたずにでんしゃにのる」

藤野可織「人から聞いた白の話3つ」

白いシャツ、白い本、白い木々
真っ白なシャツを特製の洗剤で洗っていた木村さん
田舎の図書館は本が真っ白

西崎憲「胡椒の舟」

東都で暮らす私と恋人は、デートで本の話をする
そして、世界では風鳴がなくなっているという。風鳴がなくなり、世界は静かに、いやあらゆるものの音が聞こえるようになった。
東都というが、さらにローカルな地名は(月島とか)は東京のままで、しかし、この東京とは少し違う世界。
風鳴というのは、地球が自転する時の音で、外にいると声では話ができないほどの音

松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」

ゼーガースという、ユダヤ人作家で、ナチスの時代に家族で亡命をした人の話をしながら、自分だったら果たして亡命できるだろうかと考え、亡命の夢を見るようになる

円城塔「固体状態」

「水は氷ると体積の増える珍しい物質である。/すなわち、氷は水に浮かぶことだろう」
「金色は色ではない」
「大陸は移動する」

『SFマガジン2022年2月号』

先日、ハヤカワSFコンテストと創元SF短編賞 - logical cypher scape2という記事で「坂永雄一や酉島伝法など、年刊SF傑作選などを通じてわりと読んでいてもう少し読みたいなあと思っている作家もいる。」と書いたのだが、そういえば、最近のSFマガジンに坂永雄一の短編が載っていたはず、と思い出して読んだ。
坂永というと、伴名練とともに京大SF研出身で、面白いけど寡作の作家という感じだが、そろそろ短編集とか出てもいいのではないか。
あと、最近だと「無脊椎動物の想像力と創造性について」の評判がよいが未読


坂永作品(Wikipedia調べ)と、そのうち自分の既読作品は以下の通り。
「さえずりの宇宙」未読
「ジャングルの物語、その他の物語」大森望編『NOVA+ 屍者たちの帝国』 - logical cypher scape2
無人の船で発見された手記」大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』 - logical cypher scape2
「大熊座」大森望・日下三蔵編『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2
無脊椎動物の想像力と創造性について」未読
「移動遊園地の幽霊たち」未読

坂永雄一「〈不死なるレーニン〉の肖像を描いた女」

ソ連を舞台にした歴史改変SF
ロシア革命前、1913年のペテルブルクで芸術家たちが集う夜のカフェから物語は始まる。
近くで自動車事故が起き、カフェで芸術談義をしていた4人グループのうち一人の女性画家アナスタシア・エレアザロワが行方不明となる。
彼女の左目は、我々の知らないソ連を見る。
1915年に彼女が描いた絵には、未来のソ連が描かれていた。
テルミンがその天才を発揮し、ソ連無人偵察機などを開発、イランの共産化に成功
第3インターナショナル記念塔が実現し、南米アメリカ大陸に透明都市が造られ、全人民の意識は「世界共産党」というAIと接続、ガガーリンとライカは初の火星着陸を成し遂げる……。
ペテルブルクのカフェで彼女と語らっていた画家のフョードルは、1920年カスピ海上の巡洋艦で、1939年かつてのアルゼンチンにある都市275329で、不意に出現する彼女と再会し、そして彼女はまた不意に去っていく。
1948年のレニングラードテルミン博士は、音楽家アヴラーモフによる「サイレン交響楽」と人民の合唱を通じて、レーニンを復活させる。
1958年、〈不死なるレーニン〉は火星に到達
3491年、かつてペテルブルクがあった場所、人類はいなくなった地球にも彼女が現れる。1500年前に〈不死なるレーニン〉はダイソン球を完成させ、全人類は意識のアップロードをはたしていた。彼女だけは機械化した肉体を持ち続け、そして物語は1913年のペテルブルクへと舞い戻る。


途中で、アレクサンドル・ボグダーノフの署名が入った、彼女のカルテが引用される。
ところで、ボグダーノフってどういう人だっけとWikipedia見たら以下の記述を見つけてびっくりした。

1908年に、火星を舞台としたユートピア小説『赤い星』を出版。
(中略)
『赤い星』は、キム・スタンリー・ロビンソンのネビュラ賞受賞作『レッド・マーズ』の発想源の一つであった。登場人物のアルカディは姓をボグダノフといい、設定上のボグダーノフの子孫ということになっている
アレクサンドル・ボグダーノフ - Wikipedia

キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下 - logical cypher scape2


参考文献として、ロシア・アヴァンギャルド関係の本が並んでいる。また、ザミャーチンの『われら』があるが、これは、作中に出てきた透明の都市の元ネタらしい。


ところで、坂永雄一の好きなロシア・アヴァンギャルドの画家はフィローノフらしい
知らない画家だったが、ググってみると、なんかよさそうだった。

天沢時生「ショッピング・エクスプロージョン」

これもあわせて読んだ。。SFマガジン初掲載らしい。
そういえば、以前も大森望・日下三蔵編『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2で坂永、天沢を読んでいるな
近未来のLAで、貪鬼(パンサー)に憧れる少年ハービーが、マーケットでヤバいブツを見つけたことで、伝説的存在であるキャノンボールことセロニアスと出会い、共に「お宝」を目指すことになる話
ストーリーや登場人物の性格などはすごく真っ直ぐで、読後感もさっぱりしているが、この作品の特徴はその世界観と文体にある。
安売りの殿堂「サンチョ・パンサ」は、自然増殖する〈自生品〉により世界の救世主となったが、社長の死後、その権限委譲がなされなかったことにより店舗を暴走的に自動拡張しはじめ、世界の各所が呑み込まれていった。世界中の資源がサンチョ・パンサの拡張に使われ、貧困が拡大する一方、不用意に店内に踏み込むと、鋼鉄店員に万引き犯として認識されて攻撃される。貪鬼(パンサー)は、果敢にサンチョ・パンサ店内へと入り込み、商品をせしめてくる者たちである。
さて、この「サンチョ・パンサ」社長であるコモミ・ワタナベは、死の間際にこう言い残した、「探せ。当店のすべてをそこに置いてきた」と。「サンチョ・パンサ」の店内のどこかに「ひとつなぎの秘宝」が隠されているのだ。
サンチョ・パンサとはもちろん、ディスカウント・ショップ「ドン・キホーテ」のことで、「サ」のマークをつけたペンギンのマスコットもいる。上述したワンピースネタ以外にも、様々な作品からの引用を織り交ぜつつ、ルビを大量に織り交ぜたサイバーパンク文体で語られる。
ルビネタで好きなの「風流(ドープ)」
ハービーは、トランスフォーマーのフィギュアを手に入れたら、その中に謎のチップがあって、それを売ろうと思ったら、思った以上にとんでもないブツだったらしく、セロニアスが買い手に現われる。
売り渡す前に自分でも確認してみようと首筋にあるスロットに接続してみたところ、なんとそれは、サンチョ・パンサ店内の詳細なマップで、社長IDの場所を示していた。がしかし、サンチョ・パンサはリアルタイムで拡張を続けており、そのマップも巨大化していく。ハービーの電脳はあっという間に容量オーバーでショートする。
セロニアスが応急処置を施し、一命を取り留めるが、スロットが溶けてしまい、少年とマップが事実上一体化してしまう。生ける宝の地図と化したハービーとセロニアスは、即席でバディ関係となり、サンチョ・パンサ店内への突入を試みることになる。



あと、読んでないけど、連載に空の園丁があり、いや以前から始まったのは知っていたけれど、改めて見て、ちょっとテンション上がった。早く本になったの読みたいなー

『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』

「家族」や「都市」などテーマ別で編まれた同アンソロジーだが、10巻は実験的な表現方法で書かれた作品を集めたものとなる。
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
に引き続き、読んだ。
なお、このシリーズは最終的には全18巻となるのだが、元々は全10巻シリーズとして刊行されたもので、刊行当時、この巻は最終巻であった。
全体的に短い作品が多くて、この中では唯一既読であった「馬」が一番長い分量で、若干なんだかなーという気持ちがないわけでもなかったのだが、改めて読んでみても「馬」は面白い作品であった。
それ以外では、筒井「遠い座敷」、渋澤「ダイダロス」が面白かった。次いで、笙野「虚空人魚」吉田「お供え」も面白かった。
後半から、ホラーなりSFなりファンタジーなりの要素が入った作品が増えて、前半の作品より後半の作品の方が好みではあった。

「ゆうべの雲」内田百間

家に帰ってきたら、客とその奥さんが来ていたという話

「アルプスの少女」石川淳

タイトルにあるアルプスの少女は、あのアルプスの少女のことで、後日談を書いている
立って歩けるようになったクララが、ある日、ハイジの約束を反故にして都会へと出かけるのだが、そのタイミングで、戦争が勃発する。
戦争が終わり、兵士となっていたペーターと再会し、アルムの山へと戻る。
ハイジやおじいさんが、妖精か幽霊かのように書かれている(クララが山を下りる前後に、消滅している)

「澄江堂河童談義」稲垣足穂

稲垣足穂って飛行機の人というイメージがあったのだが、これは、おしりの話
澄江堂は芥川龍之介の号で、この話も、最初の部分と最後の部分に芥川が出てくる。筆者が、芥川のもとを訪ねる話で、芥川に作品を読んでもらっていて嬉しかったとか、あるいは芥川以外にも当時の様々な作家の名前やエピソードが出てくるのだが、しかし、大半はおしりの話をしているのである。
おしりというのは、人体の中でもっとも魅力的な部位であるという話から、なんで「菊」とか「釜」とかいうのかという話をしたり、褌の話(過去には褌ではなく違うものを穿いていたとか、西洋人の下着の話とか)をしていたりする。


「馬」小島信夫

小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2で読んだばかりであるが。
やはり文章のディテールが面白いなと思うし、展開の唐突さというか、主人公はこう思うんだけどそうならない、みたいな展開に奇妙さと面白さがあると思う。
ところで、結局のところ、この五郎という馬は一体何なのかというのと、影法師は一体何者なのかという問題がある。
影法師を目撃した主人公は、これが大工の棟梁だと思い、妻が棟梁と浮気していると疑うのだけど、妻からあれは病院を抜け出したあなただと言われ、後に、やっぱり自分だったのかなと思うようになる。
また、馬の五郎が言葉を喋っているのを聞いた主人公は、実はあの馬は人間で、やはり妻との関係を疑うわけだけれど、後にやはり、あの声は自分の声だったのではないかと思うようになる。
この馬に対する妻の献身的な様子や、あるいは夜中に馬の物音で主人公の目が覚めてしまうあたりは、馬が子どもの比喩になっているようにも読めたのだが、直後に、まるで乳飲み子に話しかけているようだ、とそのものズバリのことを書かれてしまっていて、なんというか逆に採用しにくい解釈なとも思ってしまった。
最終的に、妻から妙な愛の告白をされて、一応めでたしめでたしとなる。
主人公の何らかを象徴化したものとしての、影法師や馬なのだろうと一応それっぽいことは言えるわけだが、小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2に掲載されていた江藤淳の解説では、小島作品のシンボリズムについて「小銃」を例に挙げて象徴にしては具体的、というようなことが書かれていた気がする。
この馬も、読んでいると当たり前が「こいつ、馬だなあ」と思うわけで、主人公と妻のちょいとねじくれた愛の話でもあるけれど、「気付いたら馬と一緒に暮すことになった件」とでもいうべき奇譚として素直に(?)読むこともできる。

「棒」安部公房

デパートの屋上で子どもを遊ばせていた男が、手すりに身を預けてぼんやりしていたら、バランスを崩して落下してしまう。
そして、落下しながら棒に変化してしまう。
その棒を、学生らしき男2人と教授らしき男の3人組が拾い上げて、この棒について話しはじめる。最初、棒の物理的な特徴について話をしているようで、それが生前(?)の人間性についての話にもなっていて、どういう罰を下しましょうかという話へと変わっていく。

「一家団欒」藤枝静男

バスの終点から湖畔にある墓地へ、そして墓の中へ
主人公は既に亡くなっていて、死んだ家族のもとへ来たという話
生前、家族に対して抱いていた負い目を告白して、許される。そのあと、ヒンオドリの祭りへ行く。
主人公は50代で亡くなったようだが、兄は30代、姉・妹・弟は10代や乳児の頃に亡くなっているので、みな亡くなった年齢の姿で出てくる。(ここで出てくる兄弟姉妹の名前は、実際の藤枝の兄弟姉妹と同じ名前っぽいが、主人公の名前は「章」)

「箪笥」半村良

方言による語りで綴られる、一種の怪談。
能登地方のとある家で、夜、子どもが布団で寝ずに箪笥の上に座るようになる。それを目撃した父親は、なんであんなことさせてるんだと母親に怒鳴るが、母親や他の家族もそのままにさせている。そして、次第に他の子も箪笥の上に座るようになり、果ては母や祖父母もそうなる。夜、箪笥の上に座っている以外は変わったところはないのだが、怖くなった父親は、北前船の水夫となって家から逃げ出してしまう。
最後、語り手が聞き手に対して、なんで箪笥の上に座るのかは座ってみないことは分からないし、座ったら分かるから、座ってみたらどうか、ということを勧めてきて終わる。
幽霊が出てくるわけでもないし、危害を及ぼすようなこともないので、怖い話というわけでもないのだけど、夜中になると自分以外の家族がみんな箪笥の上に座っているというのは、確かにすごく不気味であり、それに対する説明もなされないので、怪談的ではある。
地の文が全て方言で書かれているのが、いかにも現地の言い伝えの聞き書き風になっていて、雰囲気を与えている。

「遠い座敷」筒井康隆

これまた怪談風の話だが、やはり特別怖い出来事が起きるわけではなくて、なんかちょっと不気味だという話である。
山の麓に住んでいる子が、頂に住んでる子と遊んでいたら、夕飯を食べていけとその子の親から言われてその子の家族と夕飯をともにする。
なんか、その地方に伝わる歌を歌うのだが、頂と麓では歌詞とかが少し違っていて、恥ずかしい思いをする
帰る段になって、夜の山道は嫌だなと思っていたら、座敷を下へ下へ行けばよいと言われる。
この家は、座敷が階段状に連なっていて、一方、麓の子の家も同じように階段状に並んでいる座敷があって、その子は、もしかして繋がっているんじゃないかなーと思っていたら、確かにそうだったと。
で、座敷は薄暗いながらも電灯がついているので、山道を歩くよりよいと思って下りていくのだけど、それぞれの座敷の板の間には、人形だったり掛け軸だったりがあってなかなか不気味で、どんどん怖くなってきて、最初は丁寧に襖を開けたり閉めたりしてたけど、最後の方は開けっ放しで走って下りていって、無事家に帰り着いた、と。
こちらは「箪笥」と違って地の文は標準語だが、台詞はものすごくきつい方言というか、日本語としては読解不可能な文(架空の方言ではないかと思われる)になっている。前半に出てきた歌も、意味がとれない。
頂と麓の家が繋がっているあたりも含めて、和風異世界情緒が漂っている。
不気味さはホラー・怪談っぽいけれど、設定や筋立てはファンタジーっぽさがある。

ダイダロス澁澤龍彦

タイトルはギリシア神話だが、内容は鎌倉時代の話。
由比ヶ浜で、大船が朽ちているというシーンから物語は始まる。
源実朝の命で、南宋出身の職人である陳和卿が、渡宋のために建造した船だが、あまりにも大きすぎて海に浮かべることができなかったという。
その船の近くには、実朝を迎えるための塔のような館があって、そこには天平美人をあしらった豪華な繍帳がかけられている。
で、ここから奇妙なのは、繍帳に縫われている女性が実際の人間のようにものを考えたり喋ったりしていて、来ることのない実朝のことをずっと待っている。
そこに、一羽の鸚鵡がやってきて、実朝はもう死んだし来ないよということを告げる。
次に、陳和卿が隠れ住んでいるところに、その鸚鵡がやってきて、なんであの船を作ることにしたのか尋ねる。なお、この鸚鵡も南宋出身で、その後、俊乗房重源のもとにいたというが、陳和卿も元々は重源のもとで大仏殿の再建をしていた。で、2人で(1人と1羽で)、重源についての人物評を話したりもしている。
最後に、陳和卿が蟹になって、朽ち始めた繍帳の元に訪れる。繍帳の女はその蟹を実朝だと勘違いし、陳和卿も実朝だと名乗るのだが、最後の最後には自分が誰なのか分からなくなって単なる蟹になる。

連続テレビ小説ドラえもん高橋源一郎

いやー、タイトルと作者とでひどそうな奴だなと予想がつくけど、読んでみると実際ひどい奴だった。
ここでいう「ひどい」は、別に貶しているわけではないが、かといって(褒め言葉)っていう奴でもない。
1見開きで収まるような短い話がいくつも書かれている。

「虚空人魚」笙野頼子

生物SFっぽい作品
虚空湖に生息し、群体を形成する単細胞生物「光アメーバ」は、時折、雨にのって地上へと飛来してくる。その際、虚空効果や虚空現象という独特の現象を生じさせる。
この光アメーバの生態と虚空現象についての科学的解説という体裁で書かれている。
ただ、そもそもこの光アメーバ細胞が含まれている雨と普通の雨とは区別がつかず、虚空現象も何らか別の説明がつけられるか、あるいは、誰にも観察されずに終わったりしているとあり、じゃあこの解説がそもそも誰の視点から書かれているのか、というか、何故このような解説が可能になったのかということは明らかにされないまま書かれている。
群体は、流線型をとり、しかし進化上の偶然のたまものとして顔のような窪みができているとされ、「虚空人魚」というタイトルは、その光アメーバ群体の形状からとられているのだと思われる。
群体となるものとは別に、孤立する奴がいて、すぐ死んでしまうのだけど、これが雨にのって地上にやってきている。で、一部には、テレパシーやテレキネシス能力を持っている細胞がいて、それが地上にいる生き物や人間、あるいは無機物に対しても影響を及ぼすことがあって、それが虚空現象。
しかし、具体的には色々な形態をとることがあって、例えば発狂した王様が都を燃やすこともあれば、遷都するという場合もある。最後に、とある山村で起きた虚空現象に触れられているのだけど、村人たちは早々に逃げ出して誰もいなくなった村のとある家の流し台にて、生命の奇蹟が起きた。

「お供え」吉田知子

夫を10年以上に亡くし、庭仕事などをしながら一人暮らしをしている主人公
ある時から家の敷地のカドに、花が置かれるようになる。まるで事故現場に供えられる花のようだが、そこで暮らし始めてから事故が起きたことはない。
毎朝片付けてもまた何度となく供えられるので、不気味さと怒りを覚えるようになるが、なかなか他の人には理解されない。
基本的に、日常的・現実的な描写が続くが、いつの間にか主人公が神のように奉られている(隣の空き地で祭礼が行われたり、お賽銭が庭に投げ入れられたりするようになる)

解説 清水良典

テーマではなく手法で編んだ巻だけれど、結果的に「家」にまつわる作品が多かった、と。
それは、戦後に家父長としての「父」が失墜したことと無縁ではないだろうという観点からまずいくつかの作品を解説している。例えば、明らかに家父長として振る舞っていた夏目漱石と世代の近い内田百閒と、もはやそのようなアイデンティティを持てない世代の小島信夫の作品が、しかし同じテーマで繋がっているのだ、とか。
また、半村良筒井康隆といったSFをベースとした作家や、笙野頼子のようなSFを取り入れた作品など、SFは「表現の冒険」をしていたジャンルだったのではとも述べている。
最後に、埴谷雄高が、戦後文学の主題や思想が後発作家に受け継がれることを「精神のリレー」と呼んだことを踏まえつつ、戦後文学の精神のリレーは、主題ではなく、表現の冒険の試みにこそあったのではないかとして、藤枝の「一家団欒」が、笙野頼子「二百回忌」や川上弘美「蛇を踏む」へつながったのではないかと述べている。

『日経サイエンス2022年11月号』

民間月探査は宇宙ビジネスを開くか  R. ボイル

www.nikkei-science.com

2022年末から2023年にかけて、民間の月着陸機が相次いで行く予定になっている。
これは、NASAの商業月面輸送サービス(CLPS)に選定された企業によるものである。
元は、グーグルルナXプライズに参加したチームで、NASAがCLPSを始めるにあたって、そういえばXプライズは今どうしているんだ、ということで声がかかったらしい
そもそも、月輸送に需要があるのかという話で、これは地球低軌道なんかと比べると全然あやふやではあるようだが、とりあえずのところ、科学探査関係の需要が結構あるみたい。
従来のNASAの枠組みだと、ディスカバリーミッションに採択されないといけなくて、お金も時間もかかったし、専用の宇宙機開発する必要あったけれど、小規模なミッションなら、CLPSで月に行く着陸機に観測機器を積んでもらえれば、安いし、時間もかけずにできる、と。
上述リンク先の記事の冒頭に「25歳のジョン・ウォーカー・ムースブラッガーは,自社のクリーンルームの前に座り,自分が生まれるよりも前に作られた機器が月着陸機に取り付けられるのを見守っていた。」という一節があるが、この「自分が生まれるよりも前に作られた機器」というのは1995年に作られた観測機器で、結局、月に行く目途が立たずに棚の上で埃をかぶっていたものらしい。
そういう過去に日の目を見なかった月探査ミッションが、今後次々と行けるようになるかもという期待があるらしい。
宇宙開発、特に月探査は政治的影響を受けやすい(国威発揚に使われたり、政権交代があると計画が丸ごと変わってしまったり)ので、そのあたりの影響がうけにくくなるという利点もある。
一方、いくら小規模ミッションをたくさん飛ばせるようになっても、大型ミッションに代えることはできないものもあり、逆にディスカバリーミッションがやりにくくなったら困るという懸念もあるにはあるらしい。

日本の「HAKUTO-R」月へ  中島林彦

www.nikkei-science.com

HAKUTO-RとSLIMはサイズが同じくらい。
HAKUTO-Rは、月に直接着陸するのではなく周回してから月に着陸する。重力使って減速することで燃料の削減を図っているが、これにより、普通は3日でいけるところ3ヶ月かかる

ADVANCES 水面から高跳び

翼竜が、どのように空を飛べるようになったのか。
地面や水面からジャンプしてという説があって、今回、水かきと思われる組織が発見されて、(泳げたわけではないので)この説の証拠の一つとなりそうだ、と。

庄野潤三『プールサイド小景・静物』

第三の新人の一人である庄野潤三により、1950年から1960年にかけて書かれた、デビュー作や芥川賞受賞作を含めた初期の作品7篇を集めた作品集。
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2で読んだ「蟹」が面白かったのと、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2で読んだ「プールサイド小景」も悪くなかったはずと思い、これらの再読も含めて読んでみることにした。
初出は「イタリア風」の『文學界』を除くと、全て『群像』である。
当時の『群像』は第三の新人の作品をよく掲載していたらしい。庄野の「静物」は、『群像』編集長から長編を打診されて書いた作品ということのようだ。
ところで「静物」は、村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』という本の中で取り上げているらしいのだが、その本で取り上げられている6作のうち4作を既に読んでいることに気がついた。機会があれば読んでみるか。

舞踏

デビュー作
20代半ばくらいの若い夫婦の話だが、夫が職場にいる19才の少女と不倫する。
妻と別れるつもりはないけれど、恋に落ちてしまったから仕方ないじゃないかと内心で言い訳しつづける夫と、その不倫に気付いているけれど夫が隠し事をして苦しんでいるのを見ているのが苦しいんだと思っている妻。なお、3才の娘がいる。
正直どちらについても「何言ってんだこいつ」感は否めないところではあるのだが……。
妻が飲めないウイスキーをがぶ飲みして、すわ自殺を図ったのかと夫がビビり散らかす
最後、今日は巴里祭だからとご馳走を用意して、家の中で2人で踊るシーンで終わる。

プールサイド小景

芥川賞受賞作
高校の女子水泳部員が泳いでいるプールの脇で、小学生の男の子が泳いでおり、その様子を父親がプールサイドから見ている。母親が迎えにきて家族揃って帰っていく。水泳部のコーチをしている先生は、その様子を見ながら、夕食前にプールで子どもを一泳ぎさせる、これが生活というものだな、と感心しているのだが、実はこの父親、会社の金を着服しクビになったのである!
無職になって無気力になっている夫を、妻が見かねて、子どもとプールに行かせたのである。
バアの女に入れあげた末の着服であった。
妻も妻で、しかしなんとなくのんびりしていて、夫から話を聞いている内に、実は夫が仕事がつらかったのだと聞いて、どことなく同情したりしている。
ところで、いよいよずっと家にいるわけにも行かなくなってくるので「出勤」することになり、妻は家で帰りを待っている

プールは、ひっそり静まり返っている。
コースロープを全部取り外した水面の真中に、たった一人、男の頭が浮かんでいる。

というラストシーンから漂うどことない不穏さ(このシーン自体は、コーチがプール掃除をしているところなのだが)が印象的な終わり方ではある。

相客

弟から聞いた話として、以前、深夜の食堂で、お新香が食べられないのだが云々という話をしている客がいて、今でも時々気になることがある云々といったあとに、食べ物の好き嫌いというわけではないが、似たような話で思いだした話がある、と本題が始まる。
といって一体どこが本題なのかよく分からない話でもあるのだが。
長兄、2番目の兄、私、弟という兄弟で、全員戦争へ行っているのだが、2番目の兄(以下、単に兄)だけは復員後も結婚せず、独身のままでいる。その兄は、俘虜収容所の所長をやっていたことがあって、ある日、戦争犯罪者として連行されることになる。
その際、私が同行することになるのだが、兄以外にもやはり連行されることになった男がいて、警察、兄、私、その男性とが電車に同乗する。で、私は母が作った弁当と酒を持たされていたので、それを皆に薦める。すると、その男が飯を食べ始めてしまうので、いや、お酒もどうぞと薦めると、戦争中から、酒と飯を一緒に食べる癖がついちゃってるんですよ、と言われる、と。
思い出したきっかけは、この男性の酒と一緒にご飯を食べるというくだりだが、思い出されている話のメインは、やはり兄の話であり、思いがけなく連行されることになってしまって慌てる家族の話ではないかとは思う。

五人の男

5人の男について紹介(?)していく話
1人目
隣の家に下宿している、祈る男
2人目
たまたまバスで会話が聞こえてきた、愛媛という字が読めなかった男
3人目
父の知人のD氏。アメリカでギャングをのしたという武勇伝を持つ大柄な人だったが、戦後に再会したら、喘息により痩せていて、植皮手術を受けるという
4人目
やはり父の知人のN氏。自転車通勤中に蛾が眼に飛び込んで失明しそうになる。そのために仕事を休んでいた期間中に息子が川で溺れて死にかける
5人目
ガラガラ蛇に自分の手を咬ませて実験をした男。これは雑誌で見かけた話

イタリア風

アメリカ滞在中の矢口夫妻が、アンジェリーニ氏というイタリア系アメリカ人の家を訪れる話
主人公の矢口とアンジェリーニ氏は、氏が日本滞在中に新幹線で偶然乗り合わせたことをきっかけに知り合い、その後、東京でももう一度会う。という、2度きり会っただけの関係なのだが、アメリカに滞在することを知らせると、じゃあ是非家に遊びに来てくれということになってという話なのだが、ホテルに迎えに来てくれたアンジェリーニ氏が何故か不機嫌そうで、一体どうしたことだろうかと矢口が気に病みながらも、車に乗ってというところから始まる。
まあ不機嫌だった理由は他愛もないもので、アンジェリーニ氏が最初別のホテルに間違って行ってしまったためであった。一方、車中の会話の中で、日本に来たときに新婚で共に旅行中だった妻と、今は別居していて近く離婚することになりそうだということが分かる。
さて、アンジェリーニ氏の家に着くと、氏の両親と妹が迎えてくれるのだが、この4人家族は4人それぞれてんでバラバラな人物なのである。
アンジェリーニ氏はもともと教育学を専攻しており、その後、高校教師になり、日本にも教師として来日していたが、その後、再び研究へと戻ったような人物である。どのような経緯で妻と別居するに至ったかは不明だが、日本滞在時はそういう様子は全然なかった。
母親は、矢口夫妻をもてなすためにたくさん料理を作ってくれ、自分の夫の行動をたえず恥じて窘めている。で、父親は何をしているかというと、語学勉強マニアで、今は日本語勉強中のため、覚え立ての例文をのべつまくなしに言い続け、矢口の妻にずっと日本語の意味を聞き続けている。反対に妹の方は、物静かというか、心ここにあらずという感じで、家族の会話を黙って聞いて時々笑ったりうなずいたりしている。というのも、ボーイフレンドとの約束があって、彼からの電話を待っていたから。

『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2で読んだばかりなので、あらすじ・感想等は省略

静物

父親、細君、女の子(小5)、男の子(小1)、小さな男の子(3歳)の5人家族の日常を断章形式で描いた作品。「蟹」に出てくるのと同じ家族である(「蟹」では女の子は小6、男の子は小2になっている)
あらすじはなんとwikipediaにまとまっていたので、それに代えてしまいたい。
静物 (小説) - Wikipedia
このWikipediaを見れば分かるとおり、非常に他愛もない日常生活のワンシーンが18片切り取られて並べられているのである。
本作と「蟹」は、地の文が非常に切り詰められていて、場合によってはカギ括弧の台詞文だけで続くシーンも多い。「「  」/と父親は云った。/「    」/と男の子は云った。」という、普通の文章教室とかだと直されてしまうのではないかと思えるような文章が続くシーンがあったりもする。
「舞踏」から「イタリア風」までとはまた異なる文体で、このどえらくシンプルな文体と断章形式があって、ただ日常風景が淡々と進むだけの作品なのだけれど、確かにこれは何かすごいものを読まされているのかも、と思わされる。
出版社の紹介文では「家庭の風景を陰影ある描写で綴った日本文学史上屈指の名作『静物』」とあり、Wikipediaでは「それらの話の奥に過去の出来事から生じる不安が見えてくる」とあるが、過去に何かがあったことを示唆しているのは第7節だろう。
女の子が幼い頃に映画を見に行ったら結構残酷なシーンがあって、その度に女の子は絵本で顔を隠していたというエピソードであるが、その頃家庭で起きたある問題についても、女の子は見ずに済ませたのだろうというようなことが書かれている。何が起きたのかは明示はされていない。
第7節に出てくる映画の主人公は死ぬらしいのだが、他に第3節の死んだのに蘇ったスージーちゃんのエピソードなど、女の子と死の関係を匂わすものがある。
また、14節で、眠り続けている妻を起こしに行こうと思ったら起きなかったという、10年くらい前、女の子がまだ小さかった頃のエピソードがあるのだが、「舞踏」にあった、ウイスキーを飲み過ぎて昏睡していた妻のエピソードに似ていて(しかし、「静物」では詳細が一切省かれている)、女の子が小さかった頃に何かあったのではないかと思わせる。
断章形式の本作において、物語性は非常に薄いが、釣り堀で釣った金魚が最初の節と最後の節、ならびに第4節などに登場してきて、本作を貫く縦糸となっている。
ところで、男の子が何かいうと、小さな男の子がそれを復唱するくだりが何度か出てくるのだが、かわいらしい。
父親は、子どもたちに対して淡泊でも無関心でもなく、そこそこ一緒に遊んでやっていたりもするが、必ずしも積極的ではなく(休みの日は基本的には寝ている。たまに遊びにいくとして近所の釣り堀)、何かズレているような感じもする(女の子が小さい頃に一緒に見に行った映画は論外としても、男の子たちに話している猪の話とかも子ども向けの話かというと首をかしげる)あたりが、しかし何か妙にリアルな感じもする
「舞踏」や「プールサイド小景」の父親よりは、父親をやっているような気もする(が、この父親の若い頃が「舞踏」なのかもしれないという感じもする)のだが、優れてよい父親かといえばそんなことはないだろう。
ところで、小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2の「微笑」や「鬼」に出てくる父親は、外形的にはわりと積極的に子育てに関わっている父親であったが、内面では子どもと関わることを疎んでいる感じがあって、それはそれで男親っぽい内面であるよなと思われるのだけど、「静物」の父親は内面描写が薄いので、そのあたりのことがよく分からない。
平凡な父親であるようでいて、何かズレているような感じもする、意外ととらえがたい人物として造られている気がする。

『戦後短篇小説再発見 6  変貌する都市』

織田作之助「神経」(1946)から村上春樹レキシントンの幽霊」(1996)まで、都市をテーマに12篇を収録したアンソロジー
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2に引き続き、読んでみた。
同シリーズは全18巻だが、さすがに全部読む気はないので、気になった巻だけ読んでいっているところ*1
村上春樹を除くと、名前は聞いたことあっても馴染みのない作家が並ぶラインナップだったが、都市というテーマに惹かれて読むことにした。
島尾敏雄「摩天楼」、森茉莉「気違いマリア」、村上春樹レキシントンの幽霊」が特に面白かった。次点としては織田作之助「神経」、福永武彦「飛ぶ男」、清岡卓行「パリと大連」

織田作之助「神経」

戦後すぐの大阪は千日前の話。
千日前というのは、大阪の劇場や演芸場などが集まっている街
正月3ヶ日は外の様子を見たくないから家にいて、その代わり、ラジオを聞いていたら、宝塚のレビュの実況番組があって、それで10年前に亡くなったとある少女のことを思い出すとこから始まる(ところで、ちょっと宝塚disってたりする。宝塚に限らず声の芸術全般について、変な型があるな、これが好きな人はこの型が好きなんだろうな、そういえば小説も型があるな、となっていくので必ずしも宝塚だけdisってるわけではないが)
レビュが好きで1人で大阪に出てきて着の身着のまま劇場に通っていた少女が殺されたことがあって、そのことをつらつら思い出している。
語り手(織田自身だろう)がよく行っていた喫茶店や飴屋(タバコも売っている)に、その少女も客だったらしく、死後、そこの店主から「あの子、よく見かけたよ」みたいな話を聞く。
話の後半は終戦後、焼け跡になってしまった千日前の話で、行きつけだった本屋や喫茶店が、しかし何とかまた店をやり直そうとしているのを見かけて、それを「起ち上がる大阪」というタイトルで雑誌に書いたという話。しかし、語り手の中には、そんなタイトルの文章を、もともと実話美談とかは嫌いのはずなのに書いてしまったことになんとなく負い目のようなものもありつつ、そこの主人からはそれぞれ感謝される、と
1930年代から40年代にかけて、娯楽の街として栄えていたところが、文字通り灰燼に帰してしまったことへの、作者の複雑な思いが反映されているような作品
我々はズルチンを恐れない神経になってしまったのか、自分は少女のために建てられた地蔵にはまだ参れていない
初出:1946年4月『文明』

島尾敏雄「摩天楼」

語り手の夢の中に出てくる街の話(正確に言うと、起きている時でもまぶたをとじると見えてくる、というような言い方をされているので、夢というか想像の中の街なのかもしれないが)。ちなみに、NANGASAKUという名前がつけられている
幻想的な街なのだが、そこに、摩天楼ないしバベルの塔ができて、語り手はそれを登っていく。各階にはあらゆる「雑踏」ができていて、あるいは抽象的な化け物などもいたりするのだが、最後に女をさらう魔物に出くわす。飛行(ひぎょう)の術を手に入れていたが、それもうまく発動できない。
翌日、朝方のNANGASUKUの広場にて、摩天楼にいた者たちが普通の出で立ちで暮しているのを見る。
夢の中の街、というシュールレアリスム的な設定と、改行少なめでやや難しめの語彙の文章の雰囲気がとてもよかった。
島尾敏雄ほとんど知らなかったのだが、最近、第三の新人*2あたりのwikipediaAmazonを見ていて『死の棘』のあらすじだけちらっと眺めていた記憶があったが、その際は、あまり好みではなさそうとスルーしていた。
解説によると、島尾作品には、『死の棘』など妻との関係を書いた作品の系列、戦争体験(特攻隊)を書いた作品の系列、そして本作のような夢を書いた作品の系列の3系列があるらしい。
初出:1947年8月『文藝星座』

梅崎春生「麺麭の話」

戦後、まだ配給が続いていた時期の貧困を描いた話
電車に乗って知人の家へ向かいつつ、回想が混じる構成
主人公は犬を飼っているのだが、知人が主人公の家を訪れた際に帰り間際に「面白い犬だな、ゆずっておくれよ」と言っていて、主人公はその話を受けるために知人の家へ向かっている。
さらにその背景として、小学生の息子が隠れて麺麭(パン)を食べていたのを目撃してしまったというのがある。
単に、息子に食べさせたくて犬を売ることにしたというだけでなく、息子への憤りみたいなのも混ざっている(犬をかわいがっているのは息子なので)。
電車は大混雑していて、老婆の背負った荷物が当たったことに対して憤り、密かな反撃をする。
さて、問題の知人であるが、主人公が役所勤めで入札関係の仕事をしているので、本来ならどうもその件で不正を持ちかけようとしていたらしい。ところが、主人公が、犬を買ってほしいと言い出したので、何を言ってるんだこいつは、と思われている。
それで知人から「犬をゆずってくれとは言ったが、金を払って買うとは言っていないよ」と断られてしまって、借金を頼んで断られたような気持ちにさせられる。
帰りの駅では、数人の盲人たちが列をなして「人間列車」となってホームを歩いていた。
という、終始どんよりするような話であった。
「神経」「摩天楼」もまた、終戦後の焼け跡におけるどんより感を描いた作品ではあるが、「麺麭の話」は、まさに食うや食わずの生活をしている者が主人公になって、その生活を写実的に描いているので、一番どんよりしている。
どこが都市かというと列車のシーンなのかなあと思う。日曜日なのに満員でぎすぎすした雰囲気とか
初出:1947年12月『別冊文藝春秋

林芙美子「下町」

タイトルは「下町」とかいて「ダウン・タウン」とルビが振ってある。
りよの夫はシベリアに抑留されたまま何年も復員してこない。彼女は、息子を連れて上京し、茶の行商をしていた。行商の際にたまたま出会った鶴石という男性と、少しずつ親しくなっていく。彼もシベリア抑留を経験しており、戻ってきたら妻は別の男と一緒になっていたという。
息子にも親切にしてくれて、次第に男女の仲としても惹かれていき夜をともにすることもなるのだが、その後、鶴石は事故で亡くなってしまう
世間は次第に戦争の雰囲気が過ぎ去っていくのに、夫が帰ってこないことで自分だけまだ戦争が続いているような気がするところから、鶴石と知り合ってそれが少し払拭された、という話なのかな
不倫といえば不倫の話ではあるのだが、結ばれた直後に男が死ぬせいか(といってしまうと言い方悪いが)後味はそこまで悪くないというか、女もいったん拒んでいるし、男も誠実さも見せるし、そのあたり、倫理的な悪さを感じさせないような工夫(?)がなされていた気がする。
どのあたりが都市なのかというと、田舎の静岡から行商のために上京してきたという点や、行商で回っていた住宅街の様子や、3人での上野からの浅草見物のくだりとかかなあと思う。浅草に行ったことないというので連れて行ってもらったけど、期待外れだったというところから、そのまま雨宿りしてなし崩し的に泊まりになるくだり。
初出:1949年4月『別冊小説新潮

福永武彦「飛ぶ男」

入院先から抜け出した男の話
病院の8階からエレベータで下りるシーン(単にエレベータに乗るだけなのだがやけに冗長な語りがなされる。落ちる鳥だの隕石だの)から、男の入院中の様子と病院から抜け出していく様子とが交互に展開される。
入院中は、完全に寝たきりで、右向きになったり左向きになったりするのが唯一の気晴らしみたいな状態。
男の独白部分が、漢字カタカナ混じり文になっている。
神の創造において、6日目に人じゃなくて天使が作られたがあまりにも神に近く、部分的には神を凌駕した存在になってしまったので、創造それ自体が全てやり直しになって作られたのが人なのだ、みたいな話が途中展開されている。
病院で窓を見ていると、急にすべてのものが浮き上がる。壁が崩壊し、ベッドや自動車や家が空中に浮かび、終わりの日の様相を呈する。
一方、病院を抜け出した方の男は、ビル街を通り抜け、街外れの橋から病院を見る。病院から男が身を投げ出して空へ飛び立つ? みたいなシーンで終わる。
福永武彦というと、池澤夏樹の父親で池澤春菜の祖父という認識しかなかったが、略歴見て別名でSFとか書いているということを知った。
初出:1959年9月『群像』

森茉莉「気違いマリア」

以前、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2で読んだことがあった。
かなり笑いながら読んだ。
父親(鴎外)と母親の気違いが遺伝したとか、永井荷風からも遺伝したとか。
鴎外が風呂に入らないきれい好きだというところから始まる。風呂に入るのは他人の垢をつけることだから入らない、と。で、そういう性格をマリアも受け継いでいるのだ、と。
マリアは、自分が暮らしているアパートの共同の流しで夜中に食器を洗うのだが、他の住人があちらこちらに痰を飛ばしているから、ちょっと床やら壁やらに手や食器が触れるたびに絶叫しながら食器を洗っている。
終始そんな感じ
痰飛ばし族とか、世田谷族とかいう呼び名をつけている。また、マリアは銭湯で風呂に入っているのだが、世間の女というのは大半は女ではなく「女類」だ、とかそんなことも言っている。
なお、「マリアは~」という三人称で書かれているものの、これはほぼ一人称みたいなものだろうが、「マリアは婆で」と、やたらと婆を連呼していたりもする。
人前で痰を飛ばすというのは、まあまあ昭和期の後半くらいまではあったようだが、今ではもう見られない風景なので、なかなか迫力があるし、当時の都市生活者の風景を垣間見せてくれる作品かなと思った。
また、マリアは、自分はエリート主義ではないといい、同じ痰飛ばし族でも、浅草の人はいいのだみたいなことを言っていたりする。パリや浅草に住んでいた時はすぐに馴染むことができたけど、世田谷は無理ということを延々書いている作品でもある。
もともと市外だということも言っていて、マリアが東京を線引きしているのもうかがえる。
初出:1967年12月『群像』

阿部昭鵠沼西海岸」

自分がかつて住んでいた海岸地区への愛憎を吐露しながら、回想している。
子どもの頃、友達と遊んでいても同居していた兄の泣き声が聞こえてくるのが嫌だった、と
(阿部には知的障害の兄がいたらしい。この作品の中では、知的障害とは明言されていなくて、戦争帰りで心を病んだようにも読めた)
その兄が行方不明になり、母親とともに夜の海岸を探す。後日、遺体が発見されたと警察から連絡があり、それを確認しにいく。
その頃親しくしていた少女がいたのだけど、彼女は引っ越してしまう。兄が亡くなったあと、手紙を出してみると、返事が戻ってくるが、もう当時の彼女ではないことを思い知らされる手紙だった

初出:1969年7月『群像』

三木卓「転居」

引っ越すにあたり、近くの薬局やらなにやらから箱をかき集めてくる。
で、荷造りを始めようとしたら、もう使わなくなった物品がどんどん溢れ出てきて部屋があふれかえってしまう。もう何のために買ったのかもよくわからないものもたくさん出てくるが、自分の過去にかかわっていたもので、忘れ去っても残るものなのだ、と
初出:1978年10月『文芸』

日野啓三「天窓のあるガレージ」

主人公が、高校生くらいになって家のガレージを自分の部屋にしていく
断章形式で書かれている
父親への反抗
ニューウェーブロック
キリスト教系の学校に通っており、キリスト教には興味がなかったが、聖霊という概念がよく分からず気にかかる
そして、宇宙人・宇宙船の話がたびたび出てくる。ガレージを宇宙船にしようとしている少年。天窓からの光。
初出:1982年12月『海燕

清岡卓行「パリと大連」

パリを訪れて、凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧称・エトワール広場)を歩きながら、生まれ育った大連の広場と比較する話
大連は、当地をロシアが支配していた時期にパリをモデルとした都市計画のもと開発がすすめられ、それを後に日本が引き継いで造られた都市
大連の大広場は、エトワール広場をモデルとしているのだが、門は立っていない。また、エトワール広場には12条の道がつながっているのに対し、大広場は10条などの違いがある。
類似を探そうとしたのだが、実際には違いが多いなあと思いつつ歩いていると、広場の周縁を歩く時の感覚を突然思い出して、類似点を見つけだす。
また、大広場の構造についてのちょっとした謎が解決したりする。
最後に、エトワール広場に植えてあった樹が、槐だったことが分かるところで終わる
初出:1989年1月『群像』

後藤明生「しんとく問答」

八尾市にある俊徳丸鏡塚へ訪れた際のことと、俊徳丸伝説について筆者が調べたことが書き連ねられている。
俊徳丸は、折口信夫が『身毒丸』という小説にしており、これの読みは「しんとくまる」で、タイトルの「しんとく」はそこから。
正直、どこらへんが都市なのか、もっと言ってしまうと、これは小説なのかエッセイなのかすら分からない作品で*3、終わり方もよく分からない終わり方をする
(塚の上にポールが立っているのだけど、このポールが何か市のあちこちの部署に聞いてもたらい回しされるだけで結局よく分からないという終わり方)
なお、鏡塚へは「写ルンです」を持っていって撮影しており、度々「写ルンです」が連呼されていて、その点になかなか時代を感じさせる。
初出:1995年3月『群像』

村上春樹レキシントンの幽霊

国語の教科書に掲載されていることで有名な本作。
自分もやはり教科書で読んだ記憶があるが、当時はあまり印象に残らず、内容については忘れていた。
今回、こうやって読んでみると、やはり村上春樹は面白いと思わずにはいられなかった。
村上春樹作品は、だいぶ昔にいくつかの作品は読んでいて、その時も決して面白くなくはなかったが。
この作品は、作家である「私」が実際に起きた経験を話すという体で書かれているので、その意味では私小説の系列にあると言えなくもないとはいえ、しかし、その文体やはっきりとした物語性などは、明らかに隔絶しているというか、少なくともこの短篇集のこの流れで読むと、全然雰囲気が違うと感じられる。
「私」が、レキシントンに住んでいるケイシーという建築家から、留守番をしてくれと頼まれて何日か1人で泊まることになるのだが、その最初の晩に幽霊たちがパーティをしている音を聞いたという話。
で、その後、ケイシーから、母親が亡くなった時、自分の父親は何週間も眠り続けた、そして、その父親が亡くなった時には、自分もまた同じように長く眠ったという話を聞かされる。
眠りの世界と死後の世界というのが重ねられていて、そういう異界に触れてしまった物語として仕上がっている。
また、50代男性のケイシーは30代男性のジェレミーレキシントンの家で一緒に暮しているが、ジェレミーは自身の母の具合が悪くなってからは実家に帰ってしまい、様子も変わってしまったという。そして、ケイシーは自分のために眠ってくれる人はいないのだと悲しげに語る。このあたりから、同性愛者なんだろうなあということも分かる。
ところで、レキシントンの家で留守番する際の持ち物の一つに「ポータブル・コンピューター」(コンピューターにいちいち傍点が振られていた)があった。
ノートパソコンのことかなと思うのだが、96年当時の普及状況がよく分からないし、実際のところどういうものを指していたのがちょっと気になる。
「しんとく問答」の写ルンですとともに、当時はそう思われていなかっただろうけど、古びれてしまって時代を感じさせることになってしまった名詞という感じがする。
初出:1996年10月『群像』

*1:というか、とりあえず読もうと思っているのは4冊だけだが。そのうちの2冊目

*2:島尾は基本的に第二次戦後派とされるが、第三の新人とされることもある、くらいの位置づけの人らしい

*3:もっともそれを言い出すと、私小説自体が小説なのかエッセイなのかよく分からなくなってしまうが