James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)"

ジェームズ・ハロルド「虚構世界の価値(なぜ『指輪物語』を読むのか)」
https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=584
この論文は、以前高田さんの記事で読んで存在を知った。
at-akada.hatenablog.com
で、存在を知ってから読むまでにもわりと間が空いているのだけど、それはいつものこととして、読んでからこのブログ記事書くのにもわりと間が空いている。
なお、論文自体はPublished March 10, 2010



フィクション作品・物語ではなくて、フィクションの世界にも価値がある、という話
サブタイトルに『指輪物語』とある通り、『指輪物語』を主たる例としつつ、スタートレックとかホームズシリーズとかに関する話をしている。
まず、前提として、アメリカでは『指輪物語』は批評家からの評価が低い、というのがあるみたい。にも関わらず、熱心なファンがいるけど、じゃあどこに価値があるのか、みたいな問題の立て方をしている。
その上で、作品自体に注目する批評家と、作品の向こう側にある世界に注目するファンという筋になっていて、で、作品とは独立して世界の方にも鑑賞する価値があるんだという話。

1. Introduction
2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love
3. Valuing Fictional Works Instrumentally
4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love

まず、この論文で扱われているのがどのようなケースか、というのを明らかにしている
中心的なケースには3つの特徴がある
(1)複数の作品が1つの世界について語っている。例えば、『指輪物語』『ホビット』『シルマリル』、あるいはスタートレックは複数のテレビシリーズが同一の世界について、また、シャーロック・ホームズシリーズも同様。
作者が同じでスタイルが同様というだけでは世界を共有しているのに十分ではないし、また、必要でもない。
(2)作品がエピソディック(挿話的)
ホームズやスタートレック。それぞれの話の間で時間がとんだりする。
(3)常にではないが、多くの作品は、我々の世界と様々な意味合いで異なっている世界を描く。こういう作品は、SFやファンタジーに多い。


この3つの特徴は、鑑賞者の関心を育てやすいという点で重要。(1)は、複数の物語が同じ「場所」について語っている点で、(2)と(3)の重要度は下がるが、物語ではなく世界へと鑑賞者の注意が向く点で


とりわけ、この論文は「ファン」というものが、批評家とは異なるどのような評価をしているか、ということに注目しようとしている

3. Valuing Fictional Works Instrumentally

ファンは、作中の出来事よりも、作品の舞台になっている世界へと興味を向けている
その根拠として
(1)世界を想像させるようなものを得るのにお金と時間を使う。スターウォーズで、メインキャラクターだけでなくサブキャラクターのドールも売れた件
(2)フィクション世界のパズル解決に励む。細部の矛盾の整合性とか。作品が増えれば細かいところで矛盾が出てきたりするものだけど、そういうところに注目するのは、世界に関心を持っているから。
(3)ファンフィクションの創作

4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

最後の節では、ここでいう虚構世界とは一体どういうものなのかという点と、虚構世界に(作品とは区別された)どのような美的価値があるのかという点について論じている


虚構世界とはどういうものか、という説明のために、まずはウォルトンの作品世界とゲーム世界の区別を持ち出した上で、筆者は「ファン世界」なる概念を持ち出す。
この論文で検討されているケースは、複数の作品が一つの同じ世界を舞台にしているというものだが、
単純に、複数の作品の虚構的真理をあわせただけだと、作品間で矛盾が生じたりする。だから、何を想像すべきかをgovernするルールをもっと特定すること
ファンコミュティ(時に作家もコラボレートして)が、虚構世界として何を想像すべきかについて、明示的であれ非明示的であれ、相対的に安定した指示を創る。同意、基準、世界への関心の共有。
そうやって共有されているものを、ファン世界と呼ぶことにする。
カノンは改訂不可能だが、他のカノンと矛盾する場合、カノンのelementsは改訂できる。非カノン作品は改訂可能。カノンか非カノンかの基準は原理的に定めにくく、実践の問題。
ファン世界は、作品世界ともゲーム世界とも違って、相互のディスカッションと想像のコラボレーションで、ファンが集合的に想像している。


世界に美的価値があるとしても、それは作品が持っているものであって、それ以上ではないのではないか、といえばそうではないと筆者は主張する。
虚構世界が持つ美的価値が、作品のもつ美的価値から独立しているのには色々理由が考えられる。
(1)世界も作品も同じ性質を持っているが美的価値が異なる場合。例えば、『指輪物語』に出てくる叙事詩。作品にとっては、キャラクターの物語やテーマと直接関わっていなくて、混乱させるものだが、虚構世界にとっては、文化的・歴史的な複雑さを与えるもの
(2)作品の持っている性質を世界が持っていない。例えば、韻文で書かれた作品の詩的な性質を、対応する世界の方は持っていない。
(3)中心的なケースの場合によくあるのが、様々なメディアで展開されていて、多数の作品が1つの世界を記述している場合。作品は非常に多くの美的価値を持っているだろうけど、重要なのは一部で、ほとんどは重要さがはっきりしない。
(4)ファン世界は作品だけではなく、ファンコミュニティによっても作られる。作品にない想像の指定が暗黙的に作られたりしている。作品が持っていない美的価値を持つこともありうるだろう。またオープンエンドとなっている作品もある。文学作品にとって、オープンエンドはよいことも悪いこともあるが、虚構世界にとってはよい。
こうした理由から、虚構世界の美的価値はオリジナルとなる作品の美的価値に還元されない。
指輪物語』が文学的には価値があまりないとしても、虚構世界としては価値がある。

Rune Klevjer, "Virtuality and Depiction in Video Game Representation"


と、松永さんが紹介していたので読んでみた。
面白かった
ビデオゲームの中で用いられる映像のうち、ヴァーチャルなものとインタラクティブ描写を区別するというもの
この区別を、ウォルトンごっこ遊び理論の中に出てくるプロップの区別に基づいてやっている
この区別の話、他にもなんか使えそうな気がする。
あと、何故フッサールも援用しているのだけど、こっちはどういう風に使われているのかいまいちよく分からなかった

Depiction and Space
Reflexivity and the Image
Image Consciousness
Physical and Concrete Models
Virtualiity
Screen-Projected 3-D Graphics and Prosthetic Vision
Interactive Depiction


全体としては、ビデオゲームについての論文で具体例もビデオゲームなのだけど、冒頭で一番最初に出てくる例は、ビデオインスタレーション作品
画像と彫刻の両方の特徴をもつような不思議な知覚的効果がある作品、らしい。で、これがどうして生じるかを、ウォルトン使って明らかにしていく、と始まる(のだが(実際あとでもう一度この作品は出てくるが)この作品自体はあんまり重要ではなかった気がする)

Depiction and Space

(知覚的)メイクビリーブに用いられるプロップとして、作品世界を持つものとそうでないものという区別がある。
具体的には、絵画作品と人形の違い。
この違いを空間を持つかどうかの違い、と言い直している。虚構的な空間を作るものと、現実空間の中で操作するものという違い

Reflexivity and the Image

現実の世界の人形と、虚構の空間を作る絵画との違いを、筆者は自己表象してるかで区別する(reflexivity)
人形が赤ちゃんであるようなメイクビリーブでは、「人形それ自身が赤ちゃんである」という虚構が生成されている。
しかし、ヴィーナスを描いた絵画において、「その絵そのものや絵の部分が女性である」という虚構が生成されているわけではない。
絵画は、このreflexivityを欠いてる
ムンクの自画像を描いた絵の周りを歩きまわったとしても、「私がムンクの周りを歩き回った」という虚構は生成されない(人形なら生成される)
人形は、他のものとの関係が存在する空間の中にある物理的物体としてのそれ自身についての虚構的真理を生成する

Image Consciousness

ウォルトンの主眼は、人形と絵画を区別することではなく、むしろどちらも広い意味では同じもの(描写)とすることにあった
が、人形は、反射的reflexiveなプロップであり、画像とは区別しておいた方がよい
ということで、ここで画像を特徴付けるものとして出てくるのが、フッサールの「イメージ意識」という概念
画像における表面(「像」)と描かれている対象(「イメージ対象」)の区別についての議論らしい
ここでは、フッサールのこの議論が、ウォルハイムのseeing inの議論にもエコーしていると述べられている

Physical and Concrete Models

人形が、描写的表象ではないというのなら、どのようにして表象をしているのか?
これについて、筆者は、自己表象プロップ概念をモデル概念と結びつけることを提案する


モデルについては、フラスカの定義などが紹介される
元となるシステムのbehavioral abstractionだとか、システムや現象などの物理的・数学的・論理的表象であるとか
エーコは、おもちゃの馬は、機能的な表象だとしている(見た目が似ているからでも慣習からでもなく、その機能をとおして表象している)
モデルとは単に視覚的な表象なだけではなく、機能的
反射的なプロップというのは、モデルが知覚的な表象をしていること
例えば物理的なモデルを作ると、単にそれを見るだけでなくて行為も誘うし知覚的な想像の助けにもなる。バイクの模型だったら実際に座ってみるとか(機能的な表象をしている)、建築模型だったら影がどのように指すのかとか。
単に見るだけのものである画像とは違って、反射的な表象になっている(ただ、機能的な表象になっているのに気づかなければ、バイクの画像ないし描写になる)


ところで、物理的モデルは、その定義において、素材がプラスチックだったり金属だったりであることは求められていない
具体的であることと、反射的かつ論理的に今ここにあることが求められる。
ということは、アーノルド・シュワルツェネッガーの蝋人形が、物理的モデルで反射的な表象であるのと同様に、アーノルドのホログラムも同じことが言えるのではないか。
しかも、ウォルトンのプロップは物理的であることも求めてはいないから、ホログラムでもいける。
ホログラムは、モデルの視覚化ではなく、モデルそのもの

Virtuality

ホログラムではなく二次元だったらどうなるか?
ここで「ヴァーチャル」概念が出てくる。
ここでは、まずタヴィナーのヴァーチャル概念について
ターゲットの代理であり、ターゲットの機能的な側面の描写とも(筆者は、エコーの機能的表象と同じような定義になっていると指摘している)
タヴィナーは、リアルタイムなオブジェクト(レースゲームのレーシングカー)を、代理物でもあるような描写であり、モデルであるとしている
しかし、筆者は、代理物であることは、イメージ意識と相容れなくて、モデルとして扱われるならそれはもう描写ではないとする。
リアルタイムなヴァーチャルオブジェクトは、二階のモデル(数理的モデルの視覚的モデル)だという。
実体としては数理的だけど、オブジェクトとしてはtangibleだと
こういうリアルタイムなヴァーチャルオブジェクトの例として、Tennis for Twoなどをあげている
リアルタイムなグラフィックが、モデルとして扱われるために、いまここでプレイアブルなものとして経験されるためには、tangibleなインタフェースがカギ
コマンドベースなインタフェースと違って、実在感を高める


コンピュータゲームは、ピンボールゲームと似て、映し出された対象や環境を実在とすることで、画像的な経験であることを効果的にキャンセルすることができる

Screen-Projected 3-D Graphics and Prosthetic Vision

3D映像はどうなるのか
3Dは仮想的なカメラから撮られているていになっていることが多くて、その点で画像的であることをキャンセルできないのではないか、と。
ここで、ウォルトンの透明性の議論が出てくる
写真は、視覚的補綴の延長にあるので、画像であると同時に、対象を直接見てることにもなるのだ、というあれ
これに対しては反論がなされていて、ヴィデオカメラの映像はやはり描写の一種だよね、となっている
しかし、さらに筆者は、スカイプみたいなヴィデオ会話はどうなの、と。リアルタイムで、tangibleなコンタクトができると、画像性は弱まるのではないかと。
ビデオゲームと他の画像メディアの違いは、非描写的性質にある
シューティングゲームで撃っている時、仮想的なカメラで撮影されたフィルムを撃っているわけではなくて、リアルタイムな環境に向けて撃っている。仮想的なカメラを視覚的な補綴として使っているのだ、と。

Interactive Depiction

ヴァーチャル環境と似て非なるものとして、インタラクティブな描写というのがある
描かれた対象とインタラクトしているのではなく、画像そのものとインタラクトしている。
インタラクティブな描写は3種類ある
(1)描写的空間ナビゲーション(2)描写的ハイパーメディア(3)描写的インタフェース
(2)描写的ハイパーメディアは、「ポイント&クリックアドベンチャーゲーム
(3)描写的インタフェースの具体例としてAdvance Warを挙げている
そのゲームのスクリーン上のビジュアルは、モデルではなく、モデルの視覚化
これをチェスに喩えている。キングの駒を、間違って触って倒してしまったとしても、チェスというゲームにおいて、キングが動いたとか倒れたとかいうことにはならない。
キングの駒がD4にあるからキングがD4にある、わけではなくて、キングがD4にある、ということを、キングの駒で表しているだけ
Advance Warは、コンピュータなしでもプレイできないわけではない
でも、コンピュータで作られた具体モデルは、必然的にデジタルな現象


全てのゲームがどっちかというわけではなくて、実際には混ざっていて、そこにはコンフリクトがある

感想

人形のようなプロップと画像のようなプロップとの区別の整理が綺麗にまとまっているところが、個人的にはすごくツボ
もっと前にこれを知っていれば、何某か使えたのでは~と思ったりするし、今後使えるかもしれないし
反射的というのを、ウォルトンはわりと、メタフィクションっぽい作品を指すのに使うので、人形のことを反射的プロップとして整理するという観点が自分になかった
でもって、そこで作品世界の有無というのを、現実の空間かフィクショナルな空間か、というところでばっさり区別しているの、個人的には使い勝手がよくてよいなと思った。ウォルトンの作品世界概念はなんかわかりにくいので。
で、それをモデルと絡めているのが、この論文の面白いところだと思う。
ビデオゲームについて、表象とシミュレーションの両方の観点から捉える、というのは、松永伸司『ビデオゲームの美学』 - logical cypher scape2でも論じられていたテーマで、うーん、なるほどなあとは思っていたけれど、プロップ→具体モデル→ヴァーチャルとつながっていくこの論文は、個人的には納得と説得力あるように感じた
ウォルトンの透明性の議論の、こんな捻った使い方あるんだ、とか。
最後の、ヴァーチャルとインタラクティブな描写の区別の話も面白いなあと思った。
インタフェースとしての描写、というのも、それはそれで面白い概念だなあと思っていて、レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』 - logical cypher scape2に出てきたメタリアリズムとかの話ともかかわりそうだなあと思ったり思わなかったり。具体モデルであるヴァーチャル対象とは区別されるとして、何某か操作できるものだと描写ともまたなんか違うような気もしないでもない。けどまあ画像っちゃ画像なのかも。

陳楸帆『荒潮』

「80后(80年代生まれ)」の中国SF作家陳楸帆(スタンリー・チェン)の第一長編。
中国のとある島における、島民と出稼ぎ移民との対立を背景にしたサイバーパンク風作品。
陳の作品は、ケン・リュウ編『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』 - logical cypher scape2で短編が3本邦訳されており、いずれもサイバーパンク風の作風で面白かったので、これも楽しみにしていた。
あらすじとか既に出ていた書評などでもあったとおり設定は色々と面白いものがあるし、また、映像化したら映えそうみたいな見せ場も割とあり、面白いことは面白かったのだが、終盤、話のたたみ方がちょっとご都合的というかなところがあって、物足りなさがあった。まあ、何が何だかよく分からない終わり方するよりは百倍マシなわけだが。
あと、これは自分がうまく読み取れてないだけかもしれないんけど、SFネタとしてのメインアイディアがなんなのかよく分からなかった。具体的にいうと、荒潮計画と米米1の能力のあたりが。
バチガルピっぽいと言われればバチガルピっぽいところもあるかなと思うけど、バチガルピの方が面白いかな。

荒潮 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

荒潮 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

  • 作者:陳 楸帆
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 新書

シリコン島は、出稼ぎ移民(ゴミ人と呼ばれている)の単純労働による産業廃棄物処理を主要産業とした島で、羅・林・陳の御三家が事実上島を支配している。
そこに、アメリカのリサイクル企業テラグリーン社のスコット・ブランダルと、スコットの通訳として、シリコン島出身でアメリカの大学に通う陳開宗が訪れる。
スコットが、アメリカ企業の介入をよしとしない御三家との交渉をするなか、幼少期以来の帰郷となった開宗は、ゴミ人の少女である米米と出会う。
開宗、スコット、米米、羅家の家長である羅錦城、ゴミ人でありながら御三家と対等に交渉しうるだけの能力をもった李文の5人が、主要登場人物で、おおむね彼らの視点で描かれるシーンが交互に展開して、話が進んでいく。


羅家に追われていた米米が、死んだと思ったら、すごい電子的能力と新たな人格を手に入れて復活
台風の夜に、ゴミ人たちと島民の対立が……!


(ブログ記事を一気に書き上げられなかったために、書くの途中であきらめ……)

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2に引き続き第2巻
全8巻シリーズで、第2巻は「(古代2)世界哲学の成立と展開」
目次を見ればわかる通り、宗教の比率が高いが、そんな中執筆陣も(人により差はあるが)何故哲学史と銘打たれた本でこのトピックスを扱うのか、というのには意識的であると思う。
宗教をタイトルに冠した章でも、その中の「哲学的」な要素を説明しているように思う。もちろん、ここでいう「哲学的」が一体何かははっきりと定まっているものではない。
この、古代2という巻で取り上げられる時代は、洋の東西を問わず学問化が進んでいく様子が見られる。古典となるような書物の解釈というのが精緻になされるようになる。
また、ここで取り上げられる哲学は、どのように生きるか、ということもよくテーマになっているように思う。


第3章と第9章で取り上げられている三位一体についての論争は、哲学・形而上学な感じがして、なかなか読んで面白い。そしてそれは、キリスト教ギリシア哲学を取り込んでいく過程でもある
第5章の儒教が国家宗教となっていく過程で、これもまた面白い。第6章では、道教系の形而上学や、仏教と儒教の間に起きた神滅不滅論争がわりと哲学的。
第7章のゾロアスター教マニ教は、文章そのものが面白い(「一向に流行らなかった哲学なのだ」と言っていたりするあたり)。で、この2つの宗教の独特さみたいなものを感じられる。
個人的に、特に面白かったのはこのあたりかな、と。

世界哲学史2 (ちくま新書)

世界哲学史2 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 新書

第1章 哲学の世界化と制度・伝統 納富信留
第2章 ローマに入った哲学 近藤智彦
第3章 キリスト教の成立 戸田 聡
第4章 大乗仏教の成立 下田正弘
コラム1 アクサンドリア文献学 出村みや子
第5章 古典中国の成立 渡邉義浩
第6章 仏教と儒教の論争 中島隆博
第7章 ゾロアスター教マニ教 青木 健
第8章 プラトン主義の伝統 西村洋平
コラム2 ユリアヌスの「生きられた哲学」 中西恭子
第9章 東方教父の伝統 土橋茂樹
第10章 ラテン教父とアウグスティヌス 出村和彦
コラム3 ジョゼフ・ニーダムの見いだしたこと 塚原東吾

第1章 哲学の世界化と制度・伝統 納富信留

本書で取り扱われる古代という時代・哲学の特徴づけ
まず、最初の古代という時代の長さについての指摘があって、目から鱗が落ちるというか、普段なかなか意識できないけど言われてみればそうなんだよなーと
古代ギリシアにおいて哲学が行われていた時代から見ても、エジプトのクフ王はさらに2000年以上前の王。トロイ戦争やギルガメシュ王も、そこまではいかないまでも、はるか昔で、古代ギリシアの人々から見ても「古代」


哲学と宗教は対比されがちだが、哲学は神や超越を扱わないわけではない


プラトン的な「哲学」に対して、イソクラテス的な「哲学」(理論や普遍性ではなく、歴史の中での実践を目指す哲学)


学校という制度化
プラトンによるアカデメイア(前4世紀)
唐の時代に成立した書院(7世紀)


翻訳による越境

第2章 ローマに入った哲学 近藤智彦

ギリシアからローマへと入ってきた哲学
ローマの哲学というのは、哲学史の中では低い評価になりがちだが、最近は再評価が進んでいるという


前155年 アテナイからローマに派遣された施設の中に、アカデメイア派のカルデアデスら哲学者がいて、その中で、カルデアデスの舟板で知られる議論も。しかし、この時、懐疑主義的な議論に反道徳的なものを感じた者たちは哲学に警戒心を抱いた


その後、ローマにギリシアが根付くのに大きな役割を果たしたのは、小スキピオと彼のもとに集った「スキピオ・サークル」
そこには、ストア派のパナイティオスが長くとどまり、ローマに哲学を定着させていく
また、哲学が地中海世界に広がっていくとともに、プラトンアリストテレスがカノンとして確立していく


ルクレティウスが、エピクロスを翻訳
さらに、キケロラテン語により哲学的著作を次々に執筆。彼は、ラテン語で哲学の全分野をカバーすることを目指した
qualitasは、ギリシア語のポイオテースを訳したキケロの造語だとか。他にも、色々とギリシア語をラテン語に訳したらしい


ローマを代表する哲学者として、セネカエピクテトスマルクス・アウレリスの3人のストア派
哲学は「生きられる」べきもの
セネカは、ストア派エピクロス派を折衷しようとしつつも、エピクロス派の快楽主義は否定
エピクテトスは、「われわれ次第のもの」と「われわれ次第でないもの」とを分け、後者(財産や名声、健康など)を欲しても自由は得られず、真の自由のためには前者(意志)を正しく働かせることを説いた
ストア派は、正当な理由による自殺を認めていた、というのは有名らしい


ラテン語というと、かつてのヨーロッパで学問やるための不可欠な言語、という感じだが、しかしそれも最初からそうだったわけではなくて、ギリシア語から語彙を翻訳していった時期があるのだなあ、という素朴な感想
「意志」というキーワードは、あとでアウグスティヌスの章でまた出てくるなー、というの今ブログに書くために見直していて気付いた。

第3章 キリスト教の成立 戸田 聡

キリスト教成立期(新約聖書の編纂から教義論争)を「キリスト教ギリシア化」というキーワードでまとめながら、キリスト教と哲学の関係を見ていく。


キリスト自身は、アラム語やヘブル語を使っていたが、それらの言語は哲学を担えなかった
一方、新約聖書となる文書は、当初からギリシア語で書かれていた。この言語的ねじれの原因は不明とのこと
しかし、ギリシア語で書かれたことが即座に哲学的であることを意味するわけではない


2世紀頃にキリスト教の状況に変化をもたらしたも
一つは、グノーシス主義
もう一つは、護教家教父たち
グノーシス主義は、二元論的な立場で、また旧約聖書に対して否定的だったので、いわゆる正統派には受け入れられなかった
護教家教父たちは、周辺世界にキリスト教を擁護する者たちで、ギリシア文化に対しては肯定的な者も否定的な者もいたが、いずれもギリシア語で著作を書いた。そして、この流れから「キリスト教ギリシア化」=聖書の「学知化」がもたらされる
それが教義論争で、三位一体論の論争
父なる神と子なるキリストと精霊を共にあがめるという心性がまずあって、それを一体どうやって説明するか、と
4世紀にはアレイオス派論争が起き、それがニカイア公会議やらエフェソス公会議やらカルケドン公会議やらへと
ところで、この時期の神についての記述は、神は言葉で言い表せないので、「~ではない」という否定形によって記述されている、とあって否定神学かーと思った。


さて、キリスト教ギリシア化とは、こうした論争の末に、教義の硬直化へと帰結していった、と結ばれるのだが、
ではこれが、キリスト教における哲学だったのかというと、筆者は、これはあくまでも神学であって、哲学ではないという
そもそも聖書の中で「哲学」は否定的なニュアンスで使われているとか
一方、古代における哲学というのは、やはり生きられるものであったのであり、キリスト教は、「ギリシア人の哲学」に対する「蛮人の哲学」だったのではないか、と。

第4章 大乗仏教の成立 下田正弘

ちょっと独特な章
大乗仏教の成立について、一般的な見解ではなく独自説を述べている(らしい。まず一般的な説を知らないので、そのあたりの距離感はよく分からない)。
加えて、後半ではリクールやデリダを引用して、歴史研究の理論についてや、さらにそこか大乗経典の解釈もしている。


仏教は、自然状態とのその解放という視点から、解放以前の世界と以後の世界という捉え方をする。その2つの世界のなりたちと関係についての思想を体系化したのが大乗仏教
大乗は、解放以後の世界も言語化。救済という結果も言語化


大乗仏教の起源については、大衆部起源説と在家起源説とがあるが、いずれも、経典の外に教団があることを予想していることでは同じ
しかし、実際の歴史資料・考古学資料によれば、大乗経典が存在するようになってから、実際に教団の存在が確認されるまでに500年の空白がある。
筆者は、寺院の形状、法顕・玄奘・義浄によるインド見聞録などから、大乗が独立した教団だったわけではなく、大乗と小乗の僧侶・僧院は同一で、大乗仏教は経典としてのみあった、とする。
もともと経典は口伝で伝えられてきたが、紀元前後に書写技術の発展により書写経典が出現する
もともと、経典の聖性と正統性は、口伝する伝承者の聖性と正統性が担っていたが、書写経典の出現により、旧来の正統性・伝統への批判や問い直しが起きる。経典の書写による保存は、再解釈へとつながり、新たな経典が創成される。
そうしたテクスト内部の動きとして生じたのが、大乗仏教だ、と。


後半は、言説には現実世界に実在物(指示対象)が対応していると考えられがちだけど、必ずしもそんなことないんだという話から、リクールの歴史理論の話になり、さらにそこから、大乗経典の中で書かれている仏教の「起源」についての解釈へと移り、なんかデリダとか用いながら論じられている。

コラム1 アクサンドリア文献学 出村みや子

ホメロス叙事詩の標準版を確定
ユダヤキリスト教による聖書文献学が発展

第5章 古典中国の成立 渡邉義浩

ここでいう古典中国というのは、「漢」民族・「漢」字というように、中華にとっての古典である漢帝国のことであり、また、儒教に基づく国家として成立していった時期を指す。
また、中国の歴史区分として、古典中国成立以前の「原中国」、「古典中国」、古典中国を再編した宋から清の「近世中国」という区分がなされている


秦は法家思想、漢もその初期には黄老思想が、国家の支配原理
孔子の教えそのものは、天子の支配を正当化しない
董仲舒が修めた春秋公羊学において、権力へと接近してく
また、孔子が記したとされる経書=古文と、新たに作られた経典である緯書=今文という2種類の経典が成立する。
緯書は、公羊学派が作成した偽書で、神秘性が高いもの。
本章では、新の王莽、後漢光武帝、そして三国時代へと展開していく。
大まかな流れとして、まずは古文学が国制において優勢であった。
王莽は古文に基づき国制を整え、古典的国制が成立することになるが、その革命の正当化に古文と今文の両方が使われた。
そして、光武帝においてはむしろ、緯書に基づく神秘思想が正統思想となる。さらに、後漢の章帝に時に開かれた白虎観会議で今文学の正統が確認され、「儒教の国教化」が完成する。
一方、在野の学となった古文学は、漢が滅びたあと、漢の次の国家もまた儒教の天の保護下にあることを示す理論を作る。


実際の国の制度の根拠として
王朝が変わる際の正統性の理論面を支えるものとして/超越的・神秘的な面を支えるものとして
社会規範として
といったいくつかの点から、儒教国家が成立していく


そもそも孔子の教えは国家の正当化をしない、というの、言われてみれば、という感じで、そこから儒教が「国教」となっていく過程で、神秘思想をもつようになるのが面白いいなと思った。
儒教って宗教って言われることもあるけど、あれって道徳ではあるけど宗教か? というの以前からちょっと謎だったのだが、超越性・神秘性という側面ももっていたのかと。
王莽や袁術が、自らの即位が正統であることの根拠として、儒教における予言を用いているらしい。
また、王朝交代の理論においては、五行説を取り込んでいるみたい。

第6章 仏教と儒教の論争 中島隆博

第5章では、後漢における儒教国家の成立が論じられたが、その頃、仏教が渡来してくる。
中国では、道教の信仰をベースに、魂の不死や輪廻へと関心が向けられた


後漢が滅んだあと「玄学」という哲学運動が生じる。玄とは奥深いもの・神秘的なもので、『荘子』『老子』『易』をテキストとする
「清談」にふける思想で、儒教国家への批判として道教へと向かった
魏から西晋の時代に盛行
王弼による「無」の形而上学など


西晋以後、中国が南北に分かれ、華北では漢民族以外の民族による統治が行われるようになると、仏教がその正統性を保証するものとして使われるようになる
仏図澄、その弟子である道安、道安が招へいした鳩摩羅什
鳩摩羅什の翻訳によって、大乗経典が中国へ


江南では、道安の弟子である慧遠
僧侶が皇帝を礼敬すべきかという「礼敬論争」
これは、17~18世紀、キリスト教が入ってきたときの典礼論争とも同型の論争
また、「神不滅」にまつわる議論も提起する
ここでいう「神」は、人間の知性や神秘的なはたらきのことで、魂や心のこと
「形」(身体)が滅びても「神」は不滅である、と慧遠は論じた
斉から梁の時代にかけて「神滅不滅論争」


第7章 ゾロアスター教マニ教 青木 健

この章、のっけから「(ゾロアスター教の)信者は極めてノンシャロン」「イラン人たるもの、愉しく現世をおくれればそれで良いとい妙に健康優良児的な発想」「単にそれが、後代の世界哲学史から見て「一向に流行らなかった」というだけのこと」などと書かれており、なかなか楽しく読ませてくれる。
ゾロアスター教マニ教、高校で世界史を習っていれば当然名前は知っているものの、いまいちどういうものかはよく分からないところでもあったりして、よい入門となった


先に「流行らなかった」と書いたが、筆者は流行らなかったとはどういうことかを3つ挙げている
(1)ゾロアスター教はイラン人以外には受容されなかった。マニ教は一時期流行ったが、その後、さらに流行った哲学(キリスト教イスラーム)に一掃された
(2)これらで用いられた中世イラン語が記述言語として成熟せず、学術にもちいられる言語とならなかった。
(3)これらの「哲学」が神話劇的な色合いが強く、洗練されたものとみなされなかった。


では、その流行らなかった哲学に対して世界哲学史を一章割く理由は何か、ということについては、筆者はこう述べている
地中海方面からやってきた一神教の超越的一者の思想に対して、ペルシア側が二元論を持って抵抗したという哲学的独自性があるから。


本章では、ゾロアスター教マニ教の歴史を三つの時期に分ける
まず、紀元前17世紀~紀元前12世紀頃、ザラスシュトラの詩に端を発するゾロアスター教の発生期
次に、3世紀頃、マーニー・ハイイェーによるマニ今日の成立期
最後に、6世紀頃、ゾロアスター教の成立期。思想的に完成するのはこの時期で、書物化されるのはさらに遅れて9世紀頃。


ザラスシュトラの思想は、一神教的二元論
善の精霊と悪の精霊がいて一見善悪二元論だが、それを束ねる神がいる


自然に仕上がっていったゾロアスター教と違い、マニ教は、マーニー1人の手によって作られた
実は、マーニー本人は自らの教えを「真のキリスト教」と捉えていた
マーニーによると、『旧約聖書』の神と『新約聖書』の神とは別の神で、前者は暗黒世界からのメッセージ、後者は光の世界からのメッセージだとか
マーニーは、この思想を神話劇として仕立てた。


ザラスシュトラ一神教的含みがあったのに対して、6~9世紀のゾロアスター教は、二元論の方向に舵を切っている。
筆者は、この当時のゾロアスター教について、同じ二元論的なマニ教と比較して、マニ教の容赦なさに対して、おおらかで楽天的な世界観と述べている。

第8章 プラトン主義の伝統 西村洋平

プラトン主義、という言葉はいくつかの意味をもつが、ここでは、学園アカデメイアがなくなったあと、プラトンのテクストを権威とする哲学のこと
このプラトン主義については、プロティノスを境にして、中期プラトン主義と新プラトン主義に分けられる。ただし、これは後世の歴史家による区別であり、当時の実際の哲学者たちがそう考えていたわけではない*1。このプラトン主義の伝統は600~700年にわたる。
異教の哲学ということになり、弾圧されたりもしていたらしい(当時、女性哲学者ヒュパティアが殺害されるということが起きたり)


素材と形相
イデアと感覚経験
宇宙の生成と流出論


テキストについて、書かれた順ではなくて、読んでいくべき順で整理
階層的な教程→徳の階梯

コラム2 ユリアヌスの「生きられた哲学」 中西恭子

ローマ皇帝ユリアヌス
キリスト教以外の神を学ぶ

第9章 東方教父の伝統 土橋茂樹

東ローマ帝国で活躍しギリシア・ヘレニズム文化に精通した「東方教父」


一たる神・超越的な神が、いかにして多であり物質的な世界を創造したのか、という問題
物質的な世界を創造するためには、神も物質的な領域で働かないといけないのではないか、と
ここにプラトンデミウルゴスとかをもってくる議論がある


まず前段階として、1世紀頃のユダヤ教徒フィロンによる「ロゴス説」
神の像をロゴスとみなす
ここでいうロゴスというのは、プラトンの「範型」でありつつ、イデアを表す神の思考や力を含意し、デミウルゴスとも重なりつつ、神の創造の補助者


パウロでは、神の像は、イエスと同一視
ユスティヌスの「ロゴス・キリスト論」
ロゴスを別の神とみなして、多神論ではないかという論難を受ける
神のロゴスを神の思考と捉えていたフィロンと異なり、別の実在・神格をもつイエスと同一視する東方神父は、父なる神と子なるイエスが、二神なのか一神なのかが問題になる
オリゲネスが、ヒュポスタシス(個別的実在)なる概念をもちだし、ヒュポスタシスにおいては二つだが、別の意味では一つということの証明が目指される
それが、第3章にも出てきたアレイオス論争へ
色々な派に分かれるが、特にカッパドキア教父、その中でもバシレイオスとグレゴリオスの兄弟が最後にとりあげられる
個体・実体ではなく、力や働きに神の本質を見いだすべきという考えのバシレイオス
兄の考えを引き継ぎ、その働きの原因として、神の自由意志をおくグレゴリオ
グレゴリオスはさらに、キリストの「受肉」の意義についても論じる
プラトンにおいて、人間本性の完成は「神に似ること」、この理念が「キリストへ倣うこと」へと定位される


第3章で触れられていた三位一体論について、また違う切り口で、より深く解説している。
第9章のプラトン主義からの流れも汲んでいる
ここではあまり詳しく触れなかったが、実在とか本質とかの概念をもってきて、数的に3つだけど本質的には1つみたいなことを何とかして言えないかと色々考えていて、話題そのものにはそこまで興味もてないが、論の道具立てとか組み立てとかは面白い。形而上学

第10章 ラテン教父とアウグスティヌス 出村和彦

西方と東方の交流と翻訳
北アフリカ
「外に向かうな、あなた自身の内に戻れ」と説くアウグスティヌス
もともと、マニ教徒だったこともある。グノーシス主義マニ教的な善悪二元論との対立
悪は、人間の自由意志に由来
アウグスティヌスは、さらに「意志の弱さ」を考察
外なるものに進んでいってしまう人間の弱さ
自由意志に対する神の恩恵の優位を説く


意志の弱さって、行為の哲学のあたりで時々見かけるテーマなんだけど、アウグスティヌスもやってる由緒あるテーマだったんだなーと知った

コラム3 ジョゼフ・ニーダムの見いだしたこと 塚原東吾

科学史のヨーロッパ中心主義的見方を覆したのがニーダム
中国に近代科学が生まれなかったのは何故か、という疑問を「ニーダム・クエスチョン」と呼ぶ


次は
sakstyle.hatenadiary.jp

*1:中期プラトン主義に対して初期は何か、といえば、アカデメイア派ということになるのだと思う

Elisa Caldarola "Pictorial Representation and Abstract Pictures"

分析美学から考える抽象絵画、というような感じの博論
分析美学が抽象絵画をどのように扱っているのか、というのは前から気になっていて、以前Michael Newall ”Abstraction” - logical cypher scape2を読んだ
これは博論で全部読むには長すぎるので、3章だけさらっと読んだ。あと4章のさわり。

Introduction
1 Analytical Theories of Pictorial Representation: A Historical Introduction
2 Resemblance and Pictorial Representation
3 Four Available Accounts of Abstract Pictures: A Critical Examination
4 Abstract Pictures and Pictorial Representation: A Proposal Conclusions

www.academia.edu

Introduction

描写の哲学では、描写とは何かについて色々な説・立場があるけど、筆者は、ハイマンの類似に基づく理論を指示しているっぽい
2章読んでないけど、2章のタイトルに類似とあるので、おそらくそこでハイマンについて説明してるのかな、という感じ
イントロダクションで、描写の哲学は、ロペスの"Understanding Pictures"の影響は大きいよ、と。描写を、芸術としての絵画だけでなく、コミュニケーションの道具としての絵についても広げた。
ただ、抽象絵画は無視されてきたんじゃないか、と。


本論では、画像的表象Pictorial RepresentationをPRと略しているので、ここでもPRとする

3 Four Available Accounts of Abstract Pictures: A Critical Examination

ここで抽象画=non-figurative artのこと
figurative art=描かれているものについてで、その絵が記述される
抽象画=表面のマークや色によって、その絵が記述される
この章では、4つの説明を取り上げる
分析系からウォルハイムとウォルトン、非分析系からグリーンバーグとWiesing
分析系は、抽象絵画について論じている人が少ないから。

1.Richard Wollheim and the emergence/recession criterion
2. Clement Greenberg: abstract pictures and the figure/ground dynamics
3. Kendall Walton: imagination and self-reference in abstract pictures
4. Lambert Wiesing and the epistemological difference of abstract pictures

ウォルハイム

ウォルハイムは、PRを、奥行きdepthの経験があるかどうかで判断する
奥行きの経験というのは、何かが何かの前や後ろにあるように見えること
抽象画にも奥行きの経験があり、だから、抽象画はPRである、と。


具象画と抽象画の違いは、表象か非表象かという違いではない。
奥行きの経験を引き起こすのかどうか、という基準the emergence/recession criterion
抽象画の中には、奥行きの経験を引き起こすものとそうでないものがある。
例えば、ホフマンの「ポンペイ」は奥行きの経験を引き起こすけれど、ニューマンの「英雄にして崇高なる人」は引き起こさない、というように。
ところで、この基準は、ハイマンによって問題があることが指摘されている。
明らかにPRであるのに、この基準を満たさないものがあるから。
例えば、棒人間とか影絵とか。
この基準は、PRであるかどうかの判定には使えない。

グリーンバーグ

グリーンバーグによれば、広い意味でのモダニストの絵というのは、sculptural and illusionisticな効果に専念する絵に対して、表面の平面性を強調する絵全てのこと(ミケランジェロに対するヴェネチア派、フラゴナールに対するダビッド、サロンの画家に対する印象派など)。狭い意味では、20世紀のアヴァンギャルドな絵に見られる傾向


モダニストの絵によって引き起こされるillusionもある
それをグリーンバーグは、strict optical third dimensionと呼ぶ。これは、目を通してのみ入っていける空間で、自分自身が入っていけるように想像できる空間ではない。
これは一体何かということで、筆者は、Gaigerによる解釈と自分の解釈を比較している。
Gaigerによる解釈だと、グリーンバーグとウォルハイムは似ていることになる
図-地figure-ground関係が、絵であることの必要条件で、奥行きの表象と関わるとしているから。
しかし、筆者は、ウォルハイムの二面性と、グリーンバーグの図地関係を区別する
ウォルハイムの二面性は、figureとbackgroundの関係で、ここでいうbackgroundは描かれたシーンの背景
グリーンバーグのfigureは描かれた内容で、groundは絵のマテリアル


で、グリーンバーグがキュビストの絵について言ったことやモンドリアンについて言ったことなどを解釈していく
例えば、キュビストの絵は二次元的であるとか、後期モダニストの絵が奥行きの経験を引き起こすとは考えていないとか

ウォルトン

PRとは何かを、奥行きの経験ではなく、プロップになっているかどうかという点で説明している。
しかし、それは本当にPRの説明になっているのか。ロペスやバッドが、描写の説明になっていないと批判している。
また、ウォルトンは、具象画と抽象画の違いについて、キャンパスの外にあるものについての想像か、作品それ自身の部分についての想像かと区別している。前者は妥当だが、後者は一体何なのか。そして、この説明によってPictorial Representationだということが言えるのか

Wiesing

現象学的伝統からの抽象画論
絵の特徴を、描いている内容の純粋な視覚性とする。主題から、視覚以外の質を取り除いているということ
しかし、抽象画にこのことは当てはまりにくい。抽象画は、視覚的な性質を表象しているわけではないから。むしろ、自身を表象している
では、何故抽象画は絵だと言えるのかというと、絵を可能とするインフラストラクチャーが残っているから
ここでいうインフラは、描写内容を展示し構成すするもの
起源論的な理由で、抽象画は絵だと言える。
抽象画は、描かれたものとしての対象をもたずSinnのみを持つ。よって、寄生的な現象
ポイント
(1)Wiesingは、奥行きの表象をPRにとって必要だとしていない
(2)Wiesingとウォルトンは、抽象画を絵自身についての絵としている

4 Abstract Pictures and Pictorial Representation: A Proposal Conclusions

1. Content, Embodiment, and PR
2. PR: the case for abstract pictures
3. Decoration, painting, and PR
4. A (very limited) vindication of Ernst Gombrich on abstract painting
5. Abstract painting, self-reference, and painterly tradition

第4章はまだ、第1節くらいまでしか読んでいない
抽象画と抽象的なパターンを区別して、前者は何かを表象しているが、後者は何も表象していない、という
抽象画をPRと考える理由として、ダントーの『ありふれたものの変容』を引っ張ってきている
芸術の定義として、content条件とembodiment条件というのが出てくる
抽象画も芸術なので、ダントーの条件が使えるのでは、というふうに話が進んでいくっぽい
抽象画はcontentを持ち、特定の方法でembodyされている、と。

『日経サイエンス2020年4月号』

特集:時間結晶

www.nikkei-science.com

ひとりでに時を刻む物質  F. ウィルチェック

www.nikkei-science.com

時間結晶とはなんぞや、ということを、時間結晶というアイデアを提唱したウィルチェックが解説している記事
時間結晶とは何かの前に、結晶とは何かという話だが、さらにその前に、対称性とその破れについて
対称性とは、何か変化させても変わらないということで、例として、図形の回転が挙げられる。
円は、回転させても形が変わらない=対称性がある。
正方形は、90度回転させれば形は変わらない=対称性はあるんだけど、円よりも対称性が低い。
時間対称性というのは、同じ状態を繰り返す物理系のことだが、それだけなら色々ある。物質の新しい状態の発見につながるかがポイントで、そこで結晶とは何かという話になる。
結晶には、対称性の低下、相転移、硬さという3つの特徴がある。
対称性の自発的破れが起きている。
ところで、相対性理論によれば、空間と時間は等価。空間的な対称性の自発的破れがあるのなら、時間的な対称性の自発的破れもあるのでは、というのがウィルチェックのアイデア
なお、それを「時間結晶」と名付けたのはウィルチェックの妻
時間結晶=時間並進対称性の自発的破れ(ウィルチェック2012)
ネーターの定理により、時間並進対称性はエネルギー保存と等価
ところで、普通、空間対称性の自発的破れは、エネルギーがより安定になる状態になろうとすることによって説明されるが、時間の場合、エネルギーで説明できないという問題がある。
2017年に、イッテルビウムやダイヤモンドでフロケ時間結晶というのが実際に発見された
時間結晶は、高精度な時計となる
今後の研究としては、時間液体や時間ガラスというものの可能性

時間結晶を巡る論争  古田彩 協力:渡辺悠樹

www.nikkei-science.com

ウィルチェックの考えた時間結晶は、平衡系のもの
つまり、何の外力もなしに一定の時間的パターンをひとりでに刻む状態
しかし、そんなものほんとにあるのか
2015年、渡辺悠樹が、それは不可能であるという数学的な証明を行う。
その後は、非平衡的な時間結晶の存在を検証する方向に研究が進む。
非平衡系なので、外部から力を加えると振動するというもの。なので、それ自体は取り立てて不思議ではない。
ただ、力の強さを変えても、振動の周期が変わらない=硬さがある、と時間結晶といえる。これは、自発的破れが起きているから。
非平衡系の時間結晶をフロケ時間結晶ともいう
連続的並進対称性から離散的並進対称性に変わることを対称性の破れ、というけれど、対称性の破れは、高い対称性から低い対称性へ移ることなので、高い離散的対称性から低い離散的対称性への移行でも、対称性の破れという
時間的な対称性の破れをどう定義するのか、というのが、証明にあたって問題となった点らしい
時間と空間は等価だから、というのが、時間結晶というアイデアのきっかけだけど、実際にはやはりちょっと時間と空間は違う、みたいな話でもあるらしい

特集:チバニアン

www.nikkei-science.com

77万年前の地球を探る  出村政彬 協力:岡田誠/菅沼悠介/羽田裕貴

www.nikkei-science.com
おおむねチバニアンについての解説記事なので、ここで要約紹介しないけれど
全然自分が知らなかった話として、この地層からは有孔虫の化石がでてて、そこから当時の気候変動についての研究がされているらしい
地磁気以外でも、注目の地層だよ、という話

地磁気はなぜ逆転するのか  中島林彦 協力:陰山聡

www.nikkei-science.com
地磁気逆転は、シミュレーションでも同じ現象が起きるが、メカニズムはいまだ不明
シミュレーションでは、スパコンの能力不足で、内核の粘性が再現できていないため。
シミュレーション研究以外のアプローチもいくつかあるけれど、その中で、木星との比較なんかもあるとか(今、ジュノーが木星の磁場観測している)
あと、地球の磁場についてのは、地磁気逆転以外にも謎があって、地磁気は42億年前にはもうあったという証拠があるが、一方で、内核の誕生は古くとも10億年前という謎。

復活するか? ファージ療法  C. シュミット

www.nikkei-science.com
さわりしか読んでないんだけど、かつて、バクテリアファージを使った治療法があったらしい
1930年代頃以降、西側諸国では用いられなくなってしまったが、抗生物質による耐性菌の問題がある最近、再び使えないだろうかという一部で研究されているらしい

火災竜巻  J. M. フォートホーファー

www.nikkei-science.com
パラパラっと読んだ

完全自律型兵器  N. シャーキー

www.nikkei-science.com
自律兵器の特徴は、判断の速さで、これは防衛システムにとってはメリット
しかし、もちろん問題点は、コンピュータはエラーをおかす点にある
エラーが生じる理由があるが、敵対システムからのジャミング、スプーフィングやデコイなどの攻撃もその要因の一つ
例えば、最近の深層学習系の画像認識システムだと、ちょっとしたノイズを混ぜただけ、全然違う画像と誤認識してしまうエラーがよく知られている
それから、アルゴリズム同士が戦いだしたとき、何が起きるか我々は全然わかっていない、というのも問題だと指摘する
Amazonで、自動で値付けするシステム同士が互いに反応しあって、異様に高い値段をつけてしまった例などがある。古本の値付けならまだいいが、もし軍事システムでこれが起きたらどうなるのか問題。

Rafe McGregor "The Problem of Cinematic Imagination"

カリーとスクルートンの、映画鑑賞における想像の考え方を比較している
ロペスとウォルトンも出てくるが
特別面白い話をしているわけではないのだが、まあ整理としては読みやすい
というか、英語が読みやすい英語だった気がする
https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=629

  • 1. The scope for imagination

カリーのシミュレーション仮説
想像と信念を対比させて、想像はオフラインというアレ
ロペスによるそれへの反論(想像よりも知覚的経験から説明すべきでしょ、という話らしい)


スクルートン
想像とファンタジーを対比
想像は、芸術の鑑賞に関わり、それを通して現実について間接的に理解する手段。様式、慣習、記述や描写の手法を通して、想像は現実を把握する。
一方、ファンタジーは、性や暴力など道徳的に禁止されたものへの欲求を、リアライズしたもので、現実の代行・代理。写真やろう人形など、現実に似せているけれど、それは代理品なので、現実からはむしろ離れる。
スクルートンによれば、映画は想像じゃなくてファンタジー

  • 2. Imagination as make-believe

カリー(およびウォルトン)の想像:メイクビリーブによって定義
メイクビリーブと視覚化(visualisation)を区別
なお、カリーは、ファンタジーとフィクションは同じところもあるし違うところもあるとしていて、どちらもメイクビリーブしている(かつ視覚化は必要ではない)ところは同じだけど、ファンタジーは個人間でアクセスできない、フィクションはできる、という区別。(なお、ここでのファンタジーは白昼夢を指しているらしいので、スクルートンとはそもそも対象がかなり違うと思われる)
プロンプター・プロップの説明
ウォルトンによる、描写をリッチでビビッドな知覚的メイクビリーブとして説明する奴の紹介
カリーも似たようなことを言っているらしい

  • 3. The creative imagination

ロペスのカリー批判(想像なしの映画的経験を持つ)を反論
このあと、カリー、スクルートン、ウォルトンの議論を並べて、映画とそれ以外(舞台や小説)とを比較する
要するに、舞台や小説と違って、映画は細部まで決まっているから、その分、鑑賞者が考えなきゃいけないところは少ないよね、という話
小説だと、髪の色は茶色としか書いてなかったとしても、映画だと、それがどんな茶色でどれくらいの長さなのか見たらわかる
舞台と映画とではそこが違うよね、というのはスクルートンの主張なのだが
筆者は、それをウォルトンのオブジェクトとヴィヴィッドの議論に接続している。
ウォルトンは、俳優を直接見ている分だけ、映画より舞台の方がヴィヴィッドだ、と言っているのだけど、筆者は、それに同意はしてない。
より細かいところまでメイクビリーブできることとヴィヴィッドであることを結びつけて、映画だってヴィヴィッドなのでは、という議論をしている


カリーは、想像を「心的イメージを作ること」と「虚構的命題に対してメイクビリーブの態度をとること」の二つにわけているが
一方、Leslie Stevensonは、想像概念を12に分類しており、その中に、このカリーの二つの分類に対応するものがある。
でもって、この後者の方を、Stevensonはさらに2つのサブカテゴリーに分けている
「フィクションを創造する能力」と「すでにフィクションとして創られたフィクションについて考える能力」
で、普通前者は、作り手に帰せられるものだけど、筆者は、鑑賞者にも求められる能力だ、としている
でで、映画というのは、前者にとってプアなプロップであり、後者にとっては効果的なプロップなんだ、と。
スクルートンとカリーの映画と想像についての主張はそれぞれ正しいんだけど、スクルートンは想像を前者の意味で、カリーは後者の意味で捉えていた、という話。
映画は、小説や舞台と比べてより細かいところまでメイクビリーブできる(プロップによってどのようなものか定められている)のであり、それはつまり、鑑賞者が想像できる余地が少ないということでもある。

感想

映画は、小説や演劇に比べて見る人が想像を働かせる余地が少ない(その分、リアルなのだ)、という話、それはそうかもしれないが、それでいいのかという気もしないでもない
まあ、だから映画の方がよい・悪いという話をしているわけではないから、いいんかな(スクルートンはそういう話してそう、知らんけど)
ただ、そのあたりを、想像の分類をささっと引いてきてパパっと整理しているのは、よいかも
あと、ウォルトンのvividの説明は、確かにウォルトンは映画より舞台の方がvividってわりとあっさり言い切っている感があり、映画だってvividだろと言いたくなる気持ちはわかる