エティエンヌ・スーリオ「映画的世界とその特徴」

美学者スーリオによる、映画が作り出す「映画的世界」について
『映画理論集成』に収録されているものを読んだ。スーリオの著作『映画的世界』(1953)の第一章にあたるもの、ということらしい。
エクリヲvol.11 - logical cypher scape2を読んだ際に、「映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか」の中で、スーリオの「フィルミック・リアリティ」というのにちらりと触れられており*1気になったので手に取った。
また、スーリオは、ディエジェティックという概念を使い始めた人でもあり(Diegetic Soundについて - 9bit参照)、この論文の中でも、まさしくディエジェティック・サウンドにあたることが書かれている。

というか、もっと早く読んでおくべきだったな、これと思った

映画理論集成  古典理論から記号学の成立へ

映画理論集成 古典理論から記号学の成立へ

  • 発売日: 1982/05/01
  • メディア: 単行本


映画的世界の諸特徴についていろいろと挙げている
下記の項目分けはシノハラによるもので、スーリオがこのように分類しているわけではない。


(1)「われわれが一番よく眺められるよう親切に手筈されている」
世界がよく見える席が用意されているし、その中で起きる出来事とかも感動させるように組み立ててられている、と。


そもそも、この論では映画的世界も現実であると述べている(それゆえ、「映画的世界」と「非映画的世界」という分け方をしている)わけだが、一番最初にその作り物性とでもいうべき点を挙げているのは面白い。
スーリオ自身は「作り物」という言葉は使っていないが、「席が用意されている」というような表現は、西村清和っぽい


(2)「この世界のリズムは日常的世界のリズムではない」
速いとか遅いとかという話ではなく、意味のある出来事が濃密に詰まっている、ということ


(3)映画的世界を通した時間的・空間的な精神運動
要するにカメラの移動とか回想シーンとかのこと
カメラが移動すると見ている自分が移動しているように感じられるけれど、それは物語上(ディエジェティック)の出来事ではなくて、映画的世界と自分との共同行為なのだ、と。


(4)映画的世界は、視覚と聴覚のみでわれわれに働きかける
(4.1)視覚的なものは全て物語上の(ディエジェティック)内容を形成する
ただし、例外としてワイプをあげている。スクリーンと同じレベルに位置しているものとしている。句読点のような効果をもつといっているのがちょっと面白い
(4.2)聴覚的なものは2つに大別される
物音とセリフ→物語上の内容に割り当てられる(この説明の中で、画面内の音と画面外の音の区別にも触れているが、どちらも物語上の内容と結びつけられるとしている)
楽音→気分や感情などを表現する仕方でのみ映画的世界と結びつく
例外的な芸術的効果として、機関車の音が次第に音楽になるとか、フルートのメロディが次第に物語世界内の羊飼いの笛の音になるというような場合もあることが挙げられている。これについて「このような効果は(中略)音が分離して存在することに支えられているのだが、一瞬故意にこの分離にそむくのである」と説明されている。
(4.3)映画的世界は、いつも音楽を含んでいるという点が、非映画的世界と大きく異なる


(5)映画的世界の住人は内面や意識があまりない
小説と比較して、内面の心理などを直接知ることができない
また、芝居の世界と比較して、ことばよりも行動が強調される


(6)映画的世界の気象は、目的づけられている


(7)映画的世界では自然の一般法則が歪曲されている


(8)「観客は、夢を見ている最中にその夢を信じているのと同じ仕方で、映画的世界を信じている」


注釈の書き方でちょっと面白い、というか、この書き方いいなと思ったのは、例えば「非映画的」とか「物語上の」につけられた注に、その言葉の用例が3つほど付されていること。

感想

「このような効果は(中略)音が分離して存在することに支えられているのだが、一瞬故意にこの分離にそむくのである」とあったが
『フィクションは重なり合う』で自分が書いた「分離された虚構世界」と「物語世界」とが重なり合うという話と、かなりパラレルなのでは?! と思えた
まあ、自分が「分離」という言葉を使ったのと、このスーリオがいってる「分離」はまた別物ではあるのだけど(というか、スーリオはここで「分離」という言葉自体に特に重きを置いていないと思うが)
スーリオは、聴覚的な要素は、ディエジェティックなものとノンディエジェティックなものがあって、しかし、そうした区別があるゆえに、その区別にそむくようなことがあると芸術的効果があるよ、と言っており、一方で、視覚的な要素は全部ディエジェティックなものとしている。
自分の論を、この観点から整理すると、視覚的な要素でもノンディエジェティックなものがある件、ということになる。もちろんそれは、スーリオが言うようなワイプではなくて。ワイプはスクリーンと同じレベルと言っており、スクリーンは映画的世界「入口」だけれど、映画的世界そのものではない。
一方、自分が「分離された虚構世界」という時、それは映画的世界に属するけど物語上の内容にも属さないようなもののことを言っている
5年前にこれ読んでたらなあ……
ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの話は、近しい話のような気がするなあと思って、何となく気にしてはいたのだ、全然手が回っていないのである。

*1:正確にいうと、その論文で取り上げられていたのは、スーリオに影響を受けたウィンターズの議論であるが

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』

ちくま新書でスタートした世界哲学史シリーズ
全8巻刊行予定のうちの第1巻で「(古代1)知恵から愛知へ」
自分も「哲学」といえば、プラトンに起源をもつ知的伝統という理解をしているので、哲学=西洋哲学という感覚が強く、どうしても西洋以外の哲学のことを思想と呼びたくなるわけだが、実際本書の第1章でもそのような風潮が明治以来あるという指摘がなされている。
一方、西洋以外の地域での類似の営みを、インド哲学なり中国哲学なりアフリカ哲学なり呼ぶ呼び方も広まりつつある。
というわけで「世界哲学史」なのだ、ということになる。
世界哲学というのが何なのかというのはとりあえずおいておいて、しかし、読んでみると、高校の頃の倫理を思い出す。実際、「倫理」という科目は哲学史の側面が結構あるわけだが、哲学という名前ではなかったからなのか、西洋哲学以外の思想にも十分ページを割いていたという印象がある。
とはいえ、メソポタミアとエジプトから始まる、というのは高校倫理でもなかったはずで、もちろんメソポタミアもエジプトも高校の世界史の方で習ってはいるけれど、哲学史という観点では見たことないので面白かった。


世界哲学史という観点でも、普通に全然知らない話だったという意味でも*1、第10章のギリシアとインドの交流が特に面白かった。
それ以外だと、4章の中国(荘子における「物化」)、5章のインド(アートマンの存在証明)、6章の初期ギリシア哲学(哲学の特徴とは何か)、9章のヘレニズム(ストア派エピクロス派の存在論や知覚論)が面白かった。



世界哲学史1 (ちくま新書)

世界哲学史1 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 新書

序章 世界哲学史に向けて 納富信留
第1章 哲学の誕生をめぐって 納富信留
第2章 古代西アジアにおける世界と魂 柴田大輔
コラム1 人新世の哲学 篠原雅武
第3章 旧約聖書ユダヤ教における世界と魂 高井啓介
第4章 中国の諸子百家における世界と魂 中島隆博 
第5章 古代インドにおける世界と魂 赤松明彦
第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ 松浦和也
コラム2 黒いアテナ論争 納富信留
第7章 ソクラテスギリシア文化 栗原裕次
第8章 プラトンアリストテレス 稲村一隆
コラム3 ギリシア科学 斎藤憲
第9章 ヘレニズムの哲学 萩原理
第10章 ギリシアとインドの出会いと交流 金澤修

第2章 古代西アジアにおける世界と魂 柴田大輔

メソポタミアとエジプトについて
哲学というか、世界観とか神や死後についてどう考えていたかとか
エジプトには、バーとカーという有名な奴があるけど、バーはプシュケーと訳されたらしい

第3章 旧約聖書ユダヤ教における世界と魂 高井啓介

第2章でもチラリと触れられていた、バビロニアからユダヤへの影響関係
ユダヤ教における「魂(ネフェシュ)」
ヘブライ語のネフェシュは、ギリシア語でプシュケー、ラテン語でアニマ、ドイツ語でゼーレ、英語でソウルと訳されている
ただ、魂とか(あるいはこれらの訳語でもそうかもしれない)、肉体から離れて自立しても存在できるものとイメージされるけど、ネフェシュは肉体と結びついていて、肉体が死ぬとネフェシュも死ぬ

第4章 中国の諸子百家における世界と魂 中島隆博

荘子荀子について、あと最後に仁について
荘子荀子の世界観について対比している
荘子における「物化」
胡蝶の夢。荘周なのか蝶なのかという奴だが、荘周と蝶は別というのがポイント。荘周である時は自分は荘周だと思って蝶だとは思っていないし、蝶である時は蝶であって荘周であるとは思っていない。それぞれの世界があってそれ自体は完全。ただ、それが変容することがある。物化。
荀子は、その世界観の変容を歴史的に捉える。
つまり、制度は変わりうるということ。著作の中で夷狄についての言及が多いが、それも制度を相対化するため。制度が変わると人も変わりうる。他の儒家からすると、荀子のそういうところが危険思想。

第5章 古代インドにおける世界と魂 赤松明彦

19世紀のドイツの学者、パウル・ドイッセンによるインド哲学の歴史の整理に従い、インド哲学について紹介したのち、インド哲学における世界と魂ということでアートマンについて
ドイッセンは、インド哲学ヴェーダ期とヴェーダ以降に大きく分け、その境界を前500年頃に置く。筆者によれば、これは現在でも有効な分け方
ヴェーダ期をさらに『リグ・ヴェーダ』の中に哲学的な思考が生まれてくる「インド哲学の第一期」、ウパニシャッド哲学の「インド哲学の第二期」にわける
そして、ヴェーダ以降、前500年以降に貨幣経済が発達しバラモン階級の力が相対的に弱くなる時期を「インド哲学の第三期」とする。叙事詩マハーバーラタ』や六派哲学。ただし、筆者は、六派哲学を第三期としてまとめてしまうのは、現在では無理のある扱いとしている。


アートマンは、日本では「我」と訳すのが一般的だが、欧米では「魂(ソウル、ゼーレなど)」と訳すのが一般的らしい
実際に「魂」の側面と「自己」の側面とがある、と。
例えば、知覚できないアートマンについて、自己同一性の基体としてその存在証明を行う議論等があるらしい。

第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ 松浦和也

ソクラテス以前の哲学者について
哲学者とそれ以外とを分けるものは何なのか
アリストテレスは『形而上学』で「原理」をキーワードに初期の哲学者を整理しているが、ここではそれ以外の基準を探す
抽象的議論を行うことが哲学の特徴では? →そう考えると、パルメニデスは哲学の祖と言えそう
しかし、初期の哲学者と言われる人たちの中には、パルメニデスほど抽象的な議論をしていない者たちもいる


形而上学』では、哲学と違った形で究極の原理を探求した人たちとして、ヘシオドスなども挙げられている
「詩から哲学へ」とまとめられることもあるけれど、それは怪しい
(1)叙述の形式の変化ではない(パルメニデスらも詩の形式を使っている)
(2)哲学は、詩の内容を明快に表現し直したもの、ではない
(3)哲学は、神や精霊などに言及しなくなったもの、ではない


哲学者とされる者たちの他の共通点
数学や天文学の業績が少なくない
数学を学ぶためにエジプトに赴いていた初期ギリシア哲学者も多い
しかし、メソポタミアやエジプトの数学には「証明」がなかった


古代ギリシアでは、疑ってはならないものというのがなく、多様な主張が可能だった
ホメロスやヘシオドスは共通の文化的基盤だったが、疑ってはならない聖典ではなかった


「権威が不在の中、数学的思考を足掛かりとしつつ、基盤となるような土台を模索する活動」が哲学なのではないか、と。

第7章 ソクラテスギリシア文化 栗原裕次

公的世界における弁論と、私的世界における教育とに分かれていたギリシア世界で、セミパブリックな空間で哲学を行ったソクラテス


人は誰しも幸福でありたい。幸福になるために、自己のあり方を正しく知りたい。それを探求する過程で、善とは何かという真の知恵を探求する
自己の探求と知恵の普遍性とを往復するのが哲学

第8章 プラトンアリストテレス 稲村一隆

アリストテレスと学問
(先行研究を調べるとかやったのがアリストテレス

コラム3 ギリシア科学 斎藤憲

ギリシア科学(自然学)
パルメニデスを踏まえた上で自然現象を説明する試み
別の系譜としてのアレクサンドリア科学
エウクレイデスの『原論』など数学的な諸々
しかし、数学を使って自然全体を説明しようということはなかった
近代科学は、数学を第一原理として認めたことで成立(筆者はこれを「アテナイアレクサンドリアの融合」と形容する)

第9章 ヘレニズムの哲学 萩原理

ヘレニズムの哲学は、ストア派エピクロス派・懐疑派
ここではストア派エピクロス派についてが中心、懐疑派は最後のページで少し


ストア派
物体主義の存在論
自立的に存在するものを物体と捉えるので、神も魂も物体
人は、目の前にあるものから表象を受け取り、それに基づき判断する。目の前の杉の木から「コレハ杉だ」という表象を受け取り「杉みたいだな」と感じて「杉だ」と判断する。目の前の財布から「コレヲ盗メ」という表象を受け取り、判断して実際に盗んだり盗まなかったりする。
決定論の立場をとる。
決定論に対する、悪事を犯してもそれが決定されていたことならその人に責任はないのでは、という批判に対して、責任を負うことまであらかじめ決定されている、とこたえる
アパテイア


エピクロス
宇宙全体の中に世界が無数にある、と考える。身体や魂や世界は原始群でできている
人の意志はあらかじめ決定されているわけではない。
物体から剥がれ落ち飛んでくる影像(エイドローン)が目を通過することで、その物体が目に見える
アタラクシア

第10章 ギリシアとインドの出会いと交流 金澤修

ギリシアとインドの交流について
アレクサンドロス大王の一行の中には、懐疑派のピュロンもいた
そこでまず、仏教やジャイナ教といったインド思想と懐疑主義との間に影響関係はあったかを考察する
しかし、類似した部分はあるが、影響関係があったというのは難しいという結論


アショーカ王碑文」
インド、ネパール、アフガニスタンパキスタンの各地で見つかっており、様々な言語に翻訳されている
アフガニスタンではギリシア語碑文が発見されている
アショーカ王の仏教の教えを刻んだ碑文だが、このギリシア語訳には、その直訳ではなくて、翻訳者によって解釈されて書かれている部分がある。
仏教の殺生禁止に関わるところを、やはり輪廻思想を有しそれ故に肉食を禁じるピュタゴラス派の語彙を用いて表現することで、翻訳者がギリシアとインド双方の理解があることがわかるとか。


ミリンダ王の問い』
バクトリア周辺のギリシアミランダの、仏僧ナーガセーナとの対話篇
行為の主体や責任についての話と輪廻思想との問答がされており、筆者によれば、お互いに噛み合わないズレた応答になっているが、インドの思想をギリシアの立場から質疑することで、双方の一致と不一致を明らかにしている、ギリシア思想史とインド思想史の双方に属する作品と見ている。



次は
sakstyle.hatenadiary.jp

*1:まあどの章でも知らない話多いけど

石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」

teapot.lib.ocha.ac.jp


森さんのこのツイートを見かけて、読みにいった。
ただ、前半3章読まずに、4章から読んだ
1~5章がおおむねサーヴェイで、6章でフィクション鑑賞における石田説が展開される。

序論
第一章 フィクションとは何か
 第一節 フィクションの定義
 第二節 文学理論における試み
 第三節 分析哲学における試み
第二章 言語哲学における虚構上の存在の問題
 第一節 ラッセ
 第二節 サール
 第三節 グッドマン
第三章 ウォルトンによるメイクビリーブ理論
 第一節 メイクビリーブ理論の概要
 第二節 メイクビリーブ理論に対する反論
第四章 マトラヴァーズにおける「直面」と「表象」
 第一節 「フィクション」に対する反駁
 第二節 直面と表象について
 第三節 マトラヴァーズの理論における問題点
第五章 二つの意識による説明
 第一節 シェフェールによるフィクション的没入
 第二節 キヴィによる証拠的信念と知覚的信念
 第三節 キルティダンの信念的理論
 第四節 パスコーの実在主義者的理論
 第五節 フィクション鑑賞の特性はどこにあるか
第六章 フィクション鑑賞における二つの心的機能について
 第一節 背景知識とは
 第二節 IM 機能とBK 機能
 第三節 フィクションのパラドックスの解決
結論と展望
参考文献


フィクションの哲学について各説を、「区分派」と「還元派」とに大きく分類し、還元派による区分派の批判を受けつつも、区分派の立場から論じる。
区分派というのは、フィクションとノンフィクションを区分する考えで、還元派は、フィクションとノンフィクションの違いは本質的じゃないという考え
ウォルトンは区分派、マトラヴァーズが還元派


マトラヴァーズは、表象の内容を理解するにあたってフィクションもノンフィクションも同じ(信念と想像の区別なんてものはない)ということを心理学から論じている。
ただ、ノンフィクションが実はフィクションだと分かった時などに、鑑賞者の情動的反応が変わることを、マトラヴァーズ説は説明できないと筆者は指摘する。
第5章では、フィクション鑑賞における二つの意識による説明をいくつも紹介する。


二つの意識による説明は、色々なバージョンがあって論者によって色々言っているのだな-(そもそもキルティダンやパスコーは名前も知らなかった)と勉強にはなったが、どれも信念の宙づり説の亜種っぽい感じがする。
信じるかつ信じないとか矛盾じゃん、というよくあるツッコミに対して、いろんな方法で別に矛盾してないと説明しようとしているのが各バージョンという感じがする。


筆者が提案しているのも、ある意味ではそうしたものの一種かもしれない。
フィクションを鑑賞する際の心的機能として「IM機能」と「BK機能」という分類を行う。
IMは没入Immersionのこと
BKは背景知識Background Knowledgeのこと
鑑賞における、娯楽モードと批評モードといってもよい。
IM機能は、フィクションの内容をフィクションであることを忘れて(ノンフィクションと同じように)鑑賞しているような状態(
BK機能は、「この作品はフィクションである」「この○○を演じているのは××という俳優である」というような、作品についての背景知識を呼び出しているような状態
石田説のポイントは、この2つの機能はそれぞれ強まったり弱まったりするということ。
典型的なフィクション鑑賞は、IM機能が強まりBK機能が弱まった状態で行われるが、批評的なモードで鑑賞する場合には、逆にIM機能が弱まりBK機能が強まった状態で行われる、と。
ウォルトンのメイクビリーブ論では、鑑賞におけるモードの違いないし没入度合いの違いを説明できないが、IM機能の強弱によって説明ができる。
また、フィクションかノンフィクションかの区別は、弱まりながらもBK機能が働いていることにより説明ができる。


面白かったのは、作品に没入しながらも作品の背景情報に基づく鑑賞もするような「マニアックな」鑑賞を、IMとBKの両方が強まった状態として説明できるとしていること。


様々な鑑賞のあり方を、二つの機能の強弱によって説明する、というのは使い勝手のよさそうなフレームだなあという気がするし、色々説明できそうな気もする。
一方で、メイクビリーブ説の代わりになるのかと言われるとよく分からない。
想像という心的態度で鑑賞者の心的状態を説明するのは難しいかもしれないが、メイクビリーブは心的状態についてのみに関わる議論ではないと思うので。


背景知識について
順番が前後したが、背景知識については、上に挙げたようなその作品がフィクションかどうかというもの以外にも色々ある(現実世界についての知識とか)。マトラヴァーズが指摘したように、同じ背景知識がフィクションの理解にもノンフィクションの理解にも使われる。というか、両方に使われるものの方が多い
でも、「この作品はフィクションである」という知識はフィクションの鑑賞にしか使われないし、その逆にノンフィクションの鑑賞にしか使われない背景知識もある。
そういう分類をちょっとしている。


フィクションであることを前提にしているということについて
これまた順番が前後しているが、本論では繰り返し、そもそも鑑賞において、見ながら、あるいは見た後に「これはフィクションだったな」とか判断したりしているわけじゃなくて、そもそも事前に「これからフィクションを見るぞ」と思ってみているものじゃないのか、ということが指摘されている、と思う。
「作り物」「こしらえ物」を見る態度というのが前提としてあるんじゃないか、という話で、これを指摘している人ってあまりいなくて、西村-森ラインくらいじゃないのか、と。
で、フィクションを鑑賞する時にBK機能が働いていると本論の主張は、これに基づいているところがある

テッド・チャン『息吹』

控えめに言って最高
というか、テッド・チャン作品はテッド・チャンにしか出せない世界観になっている。
例えば、確かにSFではあるのだが、必ずしも現代の科学の延長にはない世界を舞台にしていることなど

息吹

息吹

商人と錬金術師の門

アラビアンナイトの世界のタイムトラベルもの
門を通して過去や未来へ行くことができる。自分の過去や未来を見に行った者たちの物語
過去や未来に行くことはできるが、過去や未来を変えることはできない
変えることはできないのだが、それを知ることにちゃんと意味がある、という話になっている。
この短編集、これで始まって「不安は自由のめまい」で終わるが、この2篇は扱っているテーマがよく似ている。
ところで、読むの3度目
SFマガジン1月号 - logical cypher scape2
大森望編『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』 - logical cypher scape2

息吹

全くの異世界を舞台にした作品で、登場人物は人間ではない。
貯蔵空気のボンベ(「肺」と呼ばれる)を身体にセットすることで生命活動を行っている。また、脳の中は金箔片がいくつも組み合わさってできている。
世界中で時間がズレるという現象が起きる。主人公は、自ら自分の頭を開き、その内部を観察するという実験を実行する。
この世界の「人間」は、空気の流れによって形成された脳内の金箔のパターンによって意識が生じており、また、生命活動は、肺と世界の気圧差によって行われており、この気圧差が徐々に失われているということを解明する。
自分たちの不可避的な死*1と滅亡に直面する。
そして、主人公による語りが、この世界が滅亡後に他の世界からやってきた探索者が読むことを想定して書かれていることが明かされることで、それでも科学的な真理の探究には価値があると主人公が最後まで信じていることが明らかになる。
ある種の絶望的な真実が明らかになったとしても、真理の探究にポジティブな価値を置こうとする主人公の態度は「オムファロス」とも共通しているように思う。
これまた読むの3度目
『SFマガジン2010年1月号』 - logical cypher scape2
山岸真編『SFマガジン700【海外編】』 - logical cypher scape2

予期される未来

スイッチを押すとLEDが光る、ただし押す前に、という装置が作られ、普及した世界。
自由意志の存在を疑わせるこの装置により、人々に無力感にさいなまれる。

ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル

収録作の中でもっとも長い(ノヴェラなので)
主人公は動物の飼育員をやっていたのだが、AI開発会社へと転職する。そこで、新しいAIの開発に携わる。
人語を解するペットのような存在で、基本的にオンライン上で活動するが、動物型のロボット筐体にダウンロードすることもできる。
彼女は、開発に携わるだけでなく実際にそのAIのオーナーにもなって、育てていく。
そのうち、その会社はつぶれてしまうが、そのAIのオーナーたちはコミュニティを作って、AIを育て続ける。
さらに、そのAIを動かしていたプラットフォームが廃れてしまい、別のプラットフォームへの移植が必要になるのだが、そのためにはお金が必要となってくる。
あたかも人間のように育てられてきたAIたちは、さりとて人間というわけではない。彼らの能力には一体どのような価値があるのか。あるいは、彼らが「独り立ち」することはできるのか、できるとしたらそれはどのような時なのか。
といったようなことが描かれる
テッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(『SFマガジン1月号』) - logical cypher scape2

デイシー式全自動ナニー

想像上の展示品を集めたミュージアムのアンソロジーという企画で書かれた掌編
ナニーというのは乳母のこと
ある学者が、自らの育児哲学を実践するために全自動式乳母なる機械を作って、自分の息子を育てるのだが


偽りのない事実、偽りのない気持ち

ライフログとして人生のあらゆる瞬間が映像として記録され、瞬時にそれが検索可能になった時、人間の記憶というものはすっかり変わってしまうのではないか。
そんな時代を生きる父と娘の物語と、アフリカはナイジェリアの先住民族    がヨーロッパ人と関わりを持ち始めた頃の物語とが交互に進められる。
後者は、口承文化だった彼らの世界に文字がもたらされるところを描く。文字による記録と口承による記憶が対立した際に、口承による記憶の方が彼らの文化にとってはより正当なものであることが描かれる。
それに対して、前者は、ライフログによる映像記録が人間関係に問題をもたらすのではないかと問題意識で取材していた主人公が、実際に自分と娘との間に起きた過去の出来事について、自分の記憶が誤っていたことが映像記録によって判明し、映像記録が新たな記憶となることがむしろ人間関係をよりよくすると考えを翻していく過程が描かれる。

大いなる沈黙

アレシボ・メッセージとオウムの話
知的生命体としてのオウム
大いなる沈黙とは、フェルミパラドックスのこと
元々はインスタレーション作品につけるテキストとして書かれた作品らしい

オムファロス

「若い地球」説、すなわち聖書の記述が正しく、地球の年齢が千数百年程度である地球が舞台で、主人公は考古学者。
へそのないミイラや年輪のない木の化石が、神による創造を示す証拠として発見されている。
主人公は、教会で売られていた遺物が博物館からの盗品であることに気づき、その出所を探る。
盗んでいたのはある研究者の娘。彼女は、近々発表されることにあるとある論文が、神の奇跡を否定するものであることを知ったのだが、人々が神の奇跡を疑わないでいられるようにと、神の奇跡の証明たる遺物を広めようとしていたのだった。
その論文は、天文学によるものだった。
主人公は、天文学は進歩のないつまらない学問だと思っており、そのような分野からそのような衝撃的な結果が出てくることにまず驚いている。
この世界は、地球の年齢は若いのだが、一方で地動説が正しい世界で、太陽の周りを公転している。
ところで、その論文は、宇宙の中心になっている星が別にあるということを示していた。
この地球は、神の奇跡が唯一起きた星ではなかったのかもしれない。
神は我々のことを全く見ていなかったのではないか、ということを突きつけられ、まさしく世界が崩壊するような衝撃を受ける主人公だが、しかし、それでもなお科学の探究に価値があると信じるラストは「息吹」にも通じるものがあり、なかなか感動的でもある。

不安は自由のめまい

プリズムという装置は、これを起動すると世界が分岐し、分岐した世界との通信が可能になる。
人々は、プリズムを用いて、自分のいる世界とよく似ているが少し違うパラレルワールドの別の自分と会話することができるようになる。
プリズムはいくつか特徴があって、
まず、起動時に世界が分岐するので、それより前に分岐があるような世界を知ることはできない(例えば、第二次大戦が起きてない世界とかは生じない)。
通信容量に制限があり、それを使い切ると通信できなくなる。なので、テキストでのやりとりが中心。音声や映像での通信も可能だが、それだけ容量を食う。
プリズムが高価だった頃は、普通の人たちは専門店に訪れてそこでプリズムを使うのが一般的だったが、次第に安くなり、個人所有も普通になってきている。
主人公は、客が減り始めているプリズム店の店員をやっているのだが、ここの店長が一方で詐欺でもうけており、主人公も片棒担がされている。
主人公は、元々薬物中毒でそれを克服し、ここの店員をしている。
で、プリズムによって悩みを抱えてしまった人たちのためのカウンセリング・グループというものがあり、主人公はそこに潜入している。価値のあるプリズムを主人公の店で売却させ、それを高額転売するということをやっている。
価値のあるプリズムというのは、珍しいパラレルワールドと通信できるプリズム。
このカウンセリング・グループでは、パラレルワールドの自分の方が人生に成功しており、それを知って苦しんでいる人たち
このグループのコーディネーターをつとめるカウンセラーはプリズムは使っていないが、過去に親友を裏切ったことについて罪悪感を抱いている。
パラレルワールドの存在は、自分と少しだけ違う自分との間の違いが一体何なのかとか、自分の選択にどのような意味があるのかとかいったことを考えさせる。
パラレルワールドごとに様々な違うありさまがあるが、変わらないところもある。それは自分が一体どういう人間であるかを証しだてるものになるのだろうか。

*1:事故死などを除けばこの世界に死はなかった

日経サイエンス2020年3月号

SF小説『三体』に見る天文学最前線 系外惑星の先にある異星文明  中島林彦/協力:須藤 靖

www.nikkei-science.com

プロキシマ・ケンタウリやアルファ・ケンタウリの惑星系の話やSETIの話を中心にしつつ、須藤靖による『三体』への感想コメントがところどころに挟まって、最後に中国の天文学研究の話してる感じの記事
現在、世界最大の電波望遠鏡の座は、アレシボから中国の「天眼」に変わっており、天眼はブレイクスルー・リッスンにも参加しているという話でしめられている。知らんかったー

作者 劉 慈欣が語るSFと科学技術  語り:劉慈欣

www.nikkei-science.com

埼玉大で行われたシンポジウムでの劉慈欣講演をまとめたもの
子どもの頃、中国の人工衛星打ち上げを見たという例のエピソードとか
SFはイノベーションと関係しているという話とか(なんかそういう相談役みたいない仕事もしてるらしい)
また、SFは科学知識の普及に役に立つか、という点については疑問があるという。というのは、自身の作品が映画化された流浪地球について、見た人が恒星と惑星の区別がついてなくて話が分かってなかったというエピソードを述べて、科学知識の理解があってSFが楽しめるという順だ、と。
で、最近は中国でも基礎科学が大きなニュースになるようになってよかった、と。

神経回路網はどのように知性を生み出すのか  M. ベルトレロ/D. S. バセット

www.nikkei-science.com

「ネットワーク神経科学」
脳の神経細胞のネットワークについて、グラフ理論からアプローチする
神経細胞同士のつながりが強い「モジュール」があり、モジュールとモジュールをつなぐ「ハブ」がある。
モジュールを楽器に、脳の活動をオーケストラ演奏に喩える。個々の楽器について分かることは重要だが、しかしそれだけでは、脳の活動について分かったことにはならん、と。
モジュールはそれぞれ独立性が高く、また、モジュールの独立性の高さと知的能力等の高さも関係しているらしい。経済的によい環境で育つと、早くにモジュールが独立するようになる、とか。
一方で、これらのモジュールが連携して活動することも必要で、それで重要になってくるのがハブ
また他に、脳の様々な領域に跨がっているモジュールもある。前頭頭頂モジュール、顕著性モジュール、デフォルトモードモジュール。
最近、デフォルトモードネットワークとか脳の三大ネットワークとかよく聞くけど、いまいちなにもんかよく分かってなかったので、やっと位置づけが分かったような気がしてよかった。
話戻って。他に病理との関係として、統合失調症はハブが過剰に活発で、モジュール間をつなげすぎてしまうとか、鬱はデフォルトモードモジュール(ネットワーク)が優位になりすぎてるとか。
あとなんかシミュレーションして、実際にハブのあるネットワーク構造を作れた話とか。

From nature ダイジェスト AIが地動説を“発見”

普通ディープラーニングは、データからそのパターンを学習するけど、何を学習したのかを単純な形で示したりできない。
今回、データを食わせるネットワークと予測を行うネットワークを作り、二つのネットワーク間でやりとりできる幅を絞って学習させた。
今回学習させたのは、地球から見た火星のデータ。前者が後者に渡す学習結果の中に、惑星の軌道を示す公式が出てきた、というような話らしい。
筆者は、量子力学に応用して、AIに新しい科学理論の発見をやらせたいっぽい。

「統計的に有意」を問い直す  L. デンワース

www.nikkei-science.com

統計的有意性をあらわす「p値<0.05」について、近年、これを改めるべきという議論が活発になっているという。
この基準を考えたフィッシャー自身が後年、0.05という数字を提案したことを後悔していたという話があるとかないとか。
そもそもこのp値<0.05というのは、その研究を続行するか否かを判断する指標として作られたもので、0.05を上回っていたらやめた方がいいが、0.05を下回っていたからといってその結果が何か重要な意味をもっていることを示すものではない、と。
また、分野によって、求められる精度は本来変わってくるものであり、
あるいは、測定方法によって、同じデータから違うp値が算出される。
つまり、p値は全く無意味な指標というわけではないけれど、絶対視できるような基準ではない、と。
ところが、現代の科学では、絶対的な基準のように使われている。
p値が0.05下回ったらそれでよしとして思考停止してしまっている、と指摘する研究者もいる。
心理学や生物学の分野で、再現実験したら再現できなかったという例も見つかるようになっている。
そんなわけで、最近では、p値以外の方法を使おうということが提案されていたりする。実際、p値を表記しなくなった雑誌とかもあるらしい。
人間、不確実性に耐えられないので、p値みたいな判定基準に頼っちゃうんだけど、不確実なものは不確実なまま捉えられるようにならなきゃダメなんじゃないかとか
そもそも「有意性」って言葉がよくなかったとか。

NEWS SCAN ●国内ウォッチ

  • ペンギンの泳法まねた推進装置

www.nikkei-science.com

東工大長崎ペンギン水族館の協力のもと、開発した水中ドローンの推進装置
スクリューを使わないので、巻き込む危険性をなくせる

エクリヲvol.11

ミュージックビデオ論とかは、気になっているジャンルだったのだが、全然分からない部分でもあったので、勉強になった
扱われているMVをほとんど知らないので、それをいつかちゃんと見なきゃいけないなあと思いつつ*1
ecrito.fever.jp

【特集 I 聴覚と視覚の実験制作——ミュージック×ヴィデオ】
《Interview》山田健人 音楽と映像の蜜月——MVが表現しうるもの
《Critique》
ミュージックヴィデオには何が表現されているのか——レンズ・オブジェクト・霊 荒川 徹
《Appendix》
ミュージックヴィデオ史 1920-2010s——聴覚と視覚をめぐる試み歴史
MVエフェクティヴ
《Critique》
アニメーテッドMV、第三の黄金時代アニメーテッドMV、第三の黄金時代——マイケル・パターソン『a-ha “Take On Me”』からAC部『Powder “New Tribe”』:松 房子
映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか――宇多田ヒカル『Goodbye Happiness』を例に:長門 洋平
誰のためのパフォーマンスなのか?——ミュージックヴィデオの現在:小林 雅明
なる身体になる―メシュガーMV論―:吉田 雅史
《Series》〈三体〉から見る現代中国の想像力
第一回 『三体』における閉域(ルビ:ヴァーチャル・リアリティ)と文脈(ルビ:コンテクスト)主義:楊 駿驍
【特集 II インディゲームと動詞】
《Interview》
ALTER EGO』大野真樹
『Baba Is You』Arvi Teikari
『KIDS』Mario von Rickenbach & Michael Frei
『The Stanley Parable』/『The Beginner’s Guide』Davey Wreden
『The Tearoom』Robert Yang
《Appendix》
インディーゲーム 動詞リスト
《Critique》
ルーカス・ホープと「楽しむ」ことの終わりに:横山 祐
動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって:松永 伸司
《Special Text》
ヴァーチャルなカメラとそれが写すもの:谷口 暁彦
《Critique book Review》
『vanitas』No.006
石橋英敬×東浩紀『新記号論

ミュージックヴィデオ史 1920-2010s——聴覚と視覚をめぐる試み歴史

折り込みで年表がついている
タイトルにある通り1920年からで、もちろんその頃に、いわゆるミュージックビデオはなく、この年表の前半はMV前史とでもいうべき映画・映像史年表になっているのが、よい

MVエフェクティヴ

MVで使われる特徴的な技法として、例えば「カメラ目線」とか「長回し」とか「幾何学模様」とか「線画アニメーション」とか14の技法がコラム形式で解説・紹介されている。

アニメーテッドMV、第三の黄金時代アニメーテッドMV、第三の黄金時代——マイケル・パターソン『a-ha “Take On Me”』からAC部『Powder “New Tribe”』:松 房子

ノルウェーのアニメーション研究者グンナル・ストロームによる、アニメ―テッドMVについての論文を紹介し、その枠組みをさらに作品分析に応用するというもの
ストローム論文の中には、MVの歴史やMV研究史もまとめられていて勉強になる
MV研究においては、キンダーによる三つのカテゴリー分析というものがあるらしい。MVには「パフォーマンス」「ストーリー」「夢幻的視覚」の三つのカテゴリーがあるというもので、ストロームもこれを発展的に継承している。ストロームは、キンダーの3つを「コンサート」「コンセプト」「コラージュ」と言い換えた上で、さらに「アーティスト」「レコード会社」「ディレクター」、「言葉」「音楽」「映像」という3つをそれぞれ組わせて3×3で分析する

映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか――宇多田ヒカル『Goodbye Happiness』を例に:長門 洋平

映画音響理論による、ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの区別によって、MVを分析できるか、という試み
とても面白かった
ミュージカル映画について、物語世界と非物語世界の区分が溶解してしまうことを、リック・アルトマンが「オーディオ・ディゾルブ」という概念で捉えた、とか
元々、ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの区別はゴーフマンによるものとされているが、ゴーフマンはジュネットのナラトロジーに多くを負っている。これに対して、スーリオによる「フィルミック・リアリティ」という概念を重視し、新たなモデルを提案するウィンターズの議論、とか
そのあたりの話面白そう。
なお、本論のさしあたっての結論は、MVは、サウンド付きのサイレント映画である、というもの

誰のためのパフォーマンスなのか?——ミュージックヴィデオの現在:小林 雅明

YouTube時代のMVについて

なる身体になる―メシュガーMV論―:吉田 雅史

リップシンク(口パク)ならぬ、フィンガーシンク(指パク)、エフェクトシンクなどを用いて、ポリリズムな楽曲と映像の同期など

《Series》〈三体〉から見る現代中国の想像力 第一回 『三体』における閉域と文脈主義:楊 駿驍

『三体』は、SFを「射撃手・農場主(Shooter・Farmer)」とする作品だと論ずる。
文革時代、VRゲーム「三体」の世界、現実世界を「閉域」として捉える。それは、その世界の法則や秩序が偶然的であるということ。科学法則ですらも偶然的なものとして描かれる=「射撃手・農場主(Shooter・Farmer)」的世界観

動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって:松永 伸司

「インディーゲームと動詞」という特集の中で、その特集のテーマである「動詞の観点からゲームを見ていく」こと自体を相対化する記事。
動詞から捉えることを「シミュレーション主義」的な見方だと整理し、それ自体はよくある見方であるし、間違ってはいないが、あくまでも見方の一つでしかない、と。
その上で「パターン主義」的な見方があり、ゲームを語る上では、時にはこちらの見方の方がよいこともあるのだと論じている。
「シミュレーション主義」というのは、ゲームを現実の何かのシミュレーション(としての表象)と見る考え。「このゲームは「食べる」ゲームだ」とかそういう言い方は、「「食べる」という現実にある行為を何らかの点でシミュレーションしているゲームだ」という風にゲームのことを見ている、と。
一方、ゲームの特徴を言い表す時に、パターンの組み合わせとして捉えるやり方もある。
例えば、あるゲームジャンルの特徴を言い表すのに「パーマデス」「グリッドベース」「ターンベース」など、ゲームメカニクス上のパターンで示すことがある。
ところで、僕自身はゲームをほとんどしない人間*2ではあるのだが、ここ数年は、例外的にスマホアプリのアイドルもの音ゲーだけはやっており、その感覚からしても、このパターン主義というのはしっくりくる。
アイドルものゲームは、アイドルを「プロデュースする」「育成する」ゲームと説明されることが多いが、正直、あまりそういう感覚はないし、リズムゲーム部分に関していえば、そもそもあれはなんだ? 「演奏している」わけでもなさそうだし、というところがあって、動詞で考えると言われてもピンと来ないところがあった。
また、あの手のスマホゲーは、大体ゲームシステムが共通していて、つまり、ガチャやってカード集めて、経験値になるカードを消費して他のカードをレベルアップさせて、というような。
特にこの中で「経験値になるカードを消費してレベルアップさせる」というのが、ゲームによって「レッスンする」とか「育成する」とか呼ばれるが、呼ばれ方はまちまちで、そこがどういう動詞で呼ばれるかは、ゲーム経験にほとんど何の影響も与えない。
経験値になるカードがどのように入手できるか、それらを消費する時に一括選択ができるかとか、そういったことがゲーム経験の質に大きく関わる。
このジャンルのことを、「プロデュースする」「育成する」ゲームというよりは、ある一定のゲームメカニクスのパターン群からなるゲームとして理解しているし、その中で各ゲームの差異は「メカニクスaとこのメカニクスbは使われているけれど、メカニクスcは使われていない」というような形で把握していることが多い。

ヴァーチャルなカメラとそれが写すもの:谷口 暁彦

インゲームフォトグラフィー(ゲームの中での写真撮影)について、
これ、エクリヲvol.9*3のセス・ギディングス論文でも扱われていた奴(本論でもギディングス論文が参照されている)
インゲームフォトグラフィーと、普通の写真との違いとして、「瞬間」という概念がなくなっている、変質していることをあげている

*1:この「いつか見る」は大抵いつまでも見ない奴になりがち……

*2:ゲーム自体は子どもの頃からやっていたし、ゲーム文化と無縁だったわけではないのだが、平均的な同世代の人と比較すると全然やっていないも同然。親から禁止されていたというわけでもなく、ほんとただ個人の好みとして子どもの頃からゲーム自体をあまりしていない。でも、好きなゲームとかがないわけではない

*3:写真のメタモルフォーゼ特集を半分くらい読んだのだが、途中で読むのが止まってしまいブログにできていない

倉田剛『日常世界を哲学する』

社会存在論の入門書的な本
ただし、結構前提知識が必要な部分があり、しかも紙幅の都合で何気なく省略されたりしている部分もあったりする
「社会存在論? サールとかがやってるのは知ってるけど、日本語で読めるの少なくてあんまりよく知らないんだよね」くらいの人(つまり俺)にはお薦めの本ではあるが、そうでないと結構難しいと思う
新書で出してくれたの個人的には嬉しいけど、何故新書で出せた、という感じもする


前半3つの章は、方法論的個人主義への批判というか、社会的事実や規範などを個人の信念に還元するのは難しいのではないか、という筆者の立場から描かれている

序 論 日常世界を哲学する
第1章 ハラスメントはいかに「ある」か?――「社会的事実」を考える
第2章 「空気」とは何か?――「社会規範」の分析
第3章 集団に「心」はあるのか?――全体論的アプローチ
第4章 時計は実在するのか?――「人工物」のリアリティーについて
第5章 サービスの存在論――私たちが売買する時空的対象
第6章 キャラクターの存在と同一性――「人工物説」の立場から

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書)

  • 作者:倉田 剛
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/08/20
  • メディア: 新書

第1章 ハラスメントはいかに「ある」か?――「社会的事実」を考える

フレーム原理(サールのいう「構成的ルール)について
基礎づけ関係とアンカー関係

第2章 「空気」とは何か?――「社会規範」の分析

山本七平が「空気」と呼んだものを、ルイスの慣習論に当てはめ、慣習の一種だと捉える
また、ルイスによる慣習の分析は(「法規範」や「道徳規範」とは異なる)「規範性なき社会規範」なるものがあることを示している、とする


ルイスの慣習の話ー!
ルイスの慣習概念にとって重要となるコーディネーションゲームについては、グァラ『制度とは何か』
ルイスの慣習定義については、ザグデン『慣習と秩序の経済学』がそれぞれよいらしい。
肝心の『慣習』の日本語訳が出ないので、日本語参考文献の紹介ありがたいというかなんというか

第3章 集団に「心」はあるのか?――全体論的アプローチ

集団を、デネットいうところの志向的システムとして捉えるというもの
個人に還元しようとするアプローチは、どこかで還元しきれないところがあるよ、ということを示し、さらに効率的に説明可能な理論だと集団に心を帰属させる説明を擁護する
最後に、では、志向的スタンスを当てはめられる集団とそうでない集団の違いってなんだろう、というのが今後の課題としてあげられて終わっている

第4章 時計は実在するのか?――「人工物」のリアリティーについて

人工物種について、HPC説で実在性を擁護するというもの
ここでいう実在性っていうのが一体何かってことで、社会種までいたると、かなりその基準が撤退しているような気もするんだけれども

第5章 サービスの存在論――私たちが売買する時空的対象

サービスの存在論的カテゴリーは何か→「プロセス」である、と
サービスは、「物」がプロセスに対して「参与」しているよ、と(「物」を「サービス」に還元できるか、いやできないみたいな話をしている)
で、レンタルサービスなどにおいては、物が「トークン・ジェネレーター」として参与している、と


ところで、この章では、プロセスは時間的部分をもつ存在者であり、一方で、出来事は時間的に幅をもたない瞬間的な存在者であるとしていて、そういう「出来事」の定義もあるのかと驚いた(本文中でも、これはスタンダードな見解ではないと書かれている)

第6章 キャラクターの存在と同一性――「人工物説」の立場から

キャラクターの人工物説の紹介
人工物説は、トマソンに帰せられることが多いけど、クリプキの「ジョン・ロック講義」の中に既にみられるとして、主にクリプキに従って紹介されている
それから、キャラクターの同一性についての話
ここらへんはちょっと以前考えていた話とも繋げられそうかなーと思ってるけど、やっぱ色々な場合があるから難しいな
タイプ同一性はまあ確かにそうかもなと思う
権利者の承認は、二次創作のこと考えると、条件としてどれくらい必要かちょっとわからない。https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=584のファン世界的な奴とかを条件にできないかな、とも思う