テッド・チャン『息吹』

控えめに言って最高
というか、テッド・チャン作品はテッド・チャンにしか出せない世界観になっている。
例えば、確かにSFではあるのだが、必ずしも現代の科学の延長にはない世界を舞台にしていることなど

息吹

息吹

商人と錬金術師の門

アラビアンナイトの世界のタイムトラベルもの
門を通して過去や未来へ行くことができる。自分の過去や未来を見に行った者たちの物語
過去や未来に行くことはできるが、過去や未来を変えることはできない
変えることはできないのだが、それを知ることにちゃんと意味がある、という話になっている。
この短編集、これで始まって「不安は自由のめまい」で終わるが、この2篇は扱っているテーマがよく似ている。
ところで、読むの3度目
SFマガジン1月号 - logical cypher scape2
大森望編『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』 - logical cypher scape2

息吹

全くの異世界を舞台にした作品で、登場人物は人間ではない。
貯蔵空気のボンベ(「肺」と呼ばれる)を身体にセットすることで生命活動を行っている。また、脳の中は金箔片がいくつも組み合わさってできている。
世界中で時間がズレるという現象が起きる。主人公は、自ら自分の頭を開き、その内部を観察するという実験を実行する。
この世界の「人間」は、空気の流れによって形成された脳内の金箔のパターンによって意識が生じており、また、生命活動は、肺と世界の気圧差によって行われており、この気圧差が徐々に失われているということを解明する。
自分たちの不可避的な死*1と滅亡に直面する。
そして、主人公による語りが、この世界が滅亡後に他の世界からやってきた探索者が読むことを想定して書かれていることが明かされることで、それでも科学的な真理の探究には価値があると主人公が最後まで信じていることが明らかになる。
ある種の絶望的な真実が明らかになったとしても、真理の探究にポジティブな価値を置こうとする主人公の態度は「オムファロス」とも共通しているように思う。
これまた読むの3度目
『SFマガジン2010年1月号』 - logical cypher scape2
山岸真編『SFマガジン700【海外編】』 - logical cypher scape2

予期される未来

スイッチを押すとLEDが光る、ただし押す前に、という装置が作られ、普及した世界。
自由意志の存在を疑わせるこの装置により、人々に無力感にさいなまれる。

ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル

収録作の中でもっとも長い(ノヴェラなので)
主人公は動物の飼育員をやっていたのだが、AI開発会社へと転職する。そこで、新しいAIの開発に携わる。
人語を解するペットのような存在で、基本的にオンライン上で活動するが、動物型のロボット筐体にダウンロードすることもできる。
彼女は、開発に携わるだけでなく実際にそのAIのオーナーにもなって、育てていく。
そのうち、その会社はつぶれてしまうが、そのAIのオーナーたちはコミュニティを作って、AIを育て続ける。
さらに、そのAIを動かしていたプラットフォームが廃れてしまい、別のプラットフォームへの移植が必要になるのだが、そのためにはお金が必要となってくる。
あたかも人間のように育てられてきたAIたちは、さりとて人間というわけではない。彼らの能力には一体どのような価値があるのか。あるいは、彼らが「独り立ち」することはできるのか、できるとしたらそれはどのような時なのか。
といったようなことが描かれる
テッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(『SFマガジン1月号』) - logical cypher scape2

デイシー式全自動ナニー

想像上の展示品を集めたミュージアムのアンソロジーという企画で書かれた掌編
ナニーというのは乳母のこと
ある学者が、自らの育児哲学を実践するために全自動式乳母なる機械を作って、自分の息子を育てるのだが


偽りのない事実、偽りのない気持ち

ライフログとして人生のあらゆる瞬間が映像として記録され、瞬時にそれが検索可能になった時、人間の記憶というものはすっかり変わってしまうのではないか。
そんな時代を生きる父と娘の物語と、アフリカはナイジェリアの先住民族    がヨーロッパ人と関わりを持ち始めた頃の物語とが交互に進められる。
後者は、口承文化だった彼らの世界に文字がもたらされるところを描く。文字による記録と口承による記憶が対立した際に、口承による記憶の方が彼らの文化にとってはより正当なものであることが描かれる。
それに対して、前者は、ライフログによる映像記録が人間関係に問題をもたらすのではないかと問題意識で取材していた主人公が、実際に自分と娘との間に起きた過去の出来事について、自分の記憶が誤っていたことが映像記録によって判明し、映像記録が新たな記憶となることがむしろ人間関係をよりよくすると考えを翻していく過程が描かれる。

大いなる沈黙

アレシボ・メッセージとオウムの話
知的生命体としてのオウム
大いなる沈黙とは、フェルミパラドックスのこと
元々はインスタレーション作品につけるテキストとして書かれた作品らしい

オムファロス

「若い地球」説、すなわち聖書の記述が正しく、地球の年齢が千数百年程度である地球が舞台で、主人公は考古学者。
へそのないミイラや年輪のない木の化石が、神による創造を示す証拠として発見されている。
主人公は、教会で売られていた遺物が博物館からの盗品であることに気づき、その出所を探る。
盗んでいたのはある研究者の娘。彼女は、近々発表されることにあるとある論文が、神の奇跡を否定するものであることを知ったのだが、人々が神の奇跡を疑わないでいられるようにと、神の奇跡の証明たる遺物を広めようとしていたのだった。
その論文は、天文学によるものだった。
主人公は、天文学は進歩のないつまらない学問だと思っており、そのような分野からそのような衝撃的な結果が出てくることにまず驚いている。
この世界は、地球の年齢は若いのだが、一方で地動説が正しい世界で、太陽の周りを公転している。
ところで、その論文は、宇宙の中心になっている星が別にあるということを示していた。
この地球は、神の奇跡が唯一起きた星ではなかったのかもしれない。
神は我々のことを全く見ていなかったのではないか、ということを突きつけられ、まさしく世界が崩壊するような衝撃を受ける主人公だが、しかし、それでもなお科学の探究に価値があると信じるラストは「息吹」にも通じるものがあり、なかなか感動的でもある。

不安は自由のめまい

プリズムという装置は、これを起動すると世界が分岐し、分岐した世界との通信が可能になる。
人々は、プリズムを用いて、自分のいる世界とよく似ているが少し違うパラレルワールドの別の自分と会話することができるようになる。
プリズムはいくつか特徴があって、
まず、起動時に世界が分岐するので、それより前に分岐があるような世界を知ることはできない(例えば、第二次大戦が起きてない世界とかは生じない)。
通信容量に制限があり、それを使い切ると通信できなくなる。なので、テキストでのやりとりが中心。音声や映像での通信も可能だが、それだけ容量を食う。
プリズムが高価だった頃は、普通の人たちは専門店に訪れてそこでプリズムを使うのが一般的だったが、次第に安くなり、個人所有も普通になってきている。
主人公は、客が減り始めているプリズム店の店員をやっているのだが、ここの店長が一方で詐欺でもうけており、主人公も片棒担がされている。
主人公は、元々薬物中毒でそれを克服し、ここの店員をしている。
で、プリズムによって悩みを抱えてしまった人たちのためのカウンセリング・グループというものがあり、主人公はそこに潜入している。価値のあるプリズムを主人公の店で売却させ、それを高額転売するということをやっている。
価値のあるプリズムというのは、珍しいパラレルワールドと通信できるプリズム。
このカウンセリング・グループでは、パラレルワールドの自分の方が人生に成功しており、それを知って苦しんでいる人たち
このグループのコーディネーターをつとめるカウンセラーはプリズムは使っていないが、過去に親友を裏切ったことについて罪悪感を抱いている。
パラレルワールドの存在は、自分と少しだけ違う自分との間の違いが一体何なのかとか、自分の選択にどのような意味があるのかとかいったことを考えさせる。
パラレルワールドごとに様々な違うありさまがあるが、変わらないところもある。それは自分が一体どういう人間であるかを証しだてるものになるのだろうか。

*1:事故死などを除けばこの世界に死はなかった