倉谷滋『進化する形 進化発生学入門』

あ、これ、サブタイトル「入門」だったんだ。入門ではない、おそらく。
新書とは思えない密度で内容が詰まっている本である。
筆者自らあとがきで倉谷滋『形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ』 - logical cypher scape2の続編だと述べている。
この本では後半において、ボディプラン(動物門)が如何にして進化してきたのか、についての筆者の仮説が展開されている。
決して分かりやすい本ではない。
それはこの本がゲーテから形態学史を紐解く、ともすると衒学的とみられかねないような本だからか、あるいは、まだ仮説段階の考えを検討しながら書かれている本だからか
そういった面によって読みにくくなっている可能性は否定しないが、そもそも、扱おうとしている現象自体がそう簡単に掴ませてくれないようなものだからだろう。
すぱっと分かりやすく示してくれる本ではないが、それは、説明しようとしている現象が、すぱっと分かりやすいものではないのだ。


この本に書かれている内容について、論理をうまく追い切れていない部分もわりとある(内容が専門的だからとかとは別に、結構道に迷う。それは既に述べた通り、説明しようとしている現象自体が難しいせいだろうとは思う)。
また、そもそもこの分野について、全然知識がない(というか上述した筆者の前著くらいでしか知らない)ので、妥当性とかは判断できないけれども、面白いことは面白い本だったのは間違いない。


例えば、三中信宏『分類思考の世界』 - logical cypher scape2キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scape2を読むと、生物に対して系統と分類というふたつのアプローチがあって、身も蓋もなくまとめてしまえば、系統は実在しているけれど、分類というのは実在しているわけではなく、人間がそのように認識してしまうだけなのではないかと考えたくなる。
本書は、系統や分類の本ではないし、分類というのが、人間側の認識によるものであること自体もおそらくは認める立場にあるろう。
しかし、じゃあ何で人間はそうやって認識してしまうのか、といえば、それはやはり生物(自然)の側にも原因はあるのである。
生物の発生には、発生拘束というクセがあって、要するに、あんまりに突拍子もない形は生まれないようになっている。
人間は、その「クセ」を認識しているのである。


さて、この本は形態学と進化発生学の本なので、上述の話は、分類の話ではなく、原型論や反復説と絡めて論じられる。
原型論や反復説は誤りである。誤りではあるが、なんでそのような考え方をするようになったのかにはちゃんとした理由がある。
また、原型論や反復説は決して過去のものではなく、現在の進化発生学においても同様の発想が入り込んでくることが指摘されている。
原型論はそもそも進化論以前の考えであり、原型は決して祖先を意味しているわけではないが、いわゆる単純な生物から複雑な生物へと進化していったと考えてしまう時、原型論的なものの考え方は再び顔を出す。


作者は、多様なボディプラン――ここでは動物門とほぼ同義だが――が、単純な形態の祖先から漸進的に進化することによって、生み出されてきたとは考えない。
ここで作者が重視するのは「深層の相同性」である。
「相同性」という概念が、非常にややこしいというか、こんなに複雑なものだとは思わなかった。
「相同」と「相似」自体は、高校の生物でも習う概念であり、わりとみんな知っているような気になる概念なのだが、それがどのように正当化されているのか、というのは案外と難しい。
いちおう、相同というのは進化において祖先が同じ種同士で、位置づけが同じ器官のことであり、相似というのは、機能的には似ているけれど系統的にはつながりのない、他人の空似器官のことである。
ところが、相同という概念自体は、進化論以前の原型論から由来するものでもあって、原型論と進化論があわさって、現代的な相同の概念が生まれてきたのである。
そして、ホメオボックス遺伝子の発見などにより、進化発生学が勃興すると、これが分子レベルで根拠をもっていたことが分かっている。
ところがところが、である。
相同は確かに進化において祖先から受け継がれたものであり、それがある種、原型論的な考え方を生み出した根拠ともなるのだが、細胞レベルで見ていくと、単純に、実は原型論も正しかったという話ではない。形態的相同性と細胞レベルの相同性にズレが生じるという現象が起きているのである。
つまり、同じ細胞型を使っていながら、形態的には全く異なるという生物群があるわけである。
ボディプランの進化の説明は、形態の相同性と「深層の相同性」のズレという現象をうまく説明できるものでなければならないのである。
これに対して、90年前に提唱されたが忘れられていた「アルシャラクシス理論」を、それが説明できるものとして筆者は挙げている。


この世界には、多様なボディプラン=動物門が存在している。
筆者は、こうした多様性が、微小な変化の漸進的な蓄積のみで形成されてきた、というライエル・ダーウィン的な考え方について、不信を抱いている。
既に、ある程度のパーツを揃えた状態で、そのパーツを並べるパターンを組み替えるような変化が起きることで、ボディプランの変化は生じる、と論じている。
また同時にそれは、ヘッケル的な過形成(発生プロセスの末端に新しい形質が付加されていく、という進化プロセス)ではなく、アルシャラクシス(発生の初期過程に変異が生じること)なのだ、としている。
なんとなくだが、過形成と漸進的進化が、ほぼ同義的なものとして扱われていて、過形成を否定することによって同時に漸進的進化も否定しているのかな、と思われる。なお、ここでいう否定というのは、全面的な否定ではなく、あくまでもボディプランの進化に関しては、過形成や漸進的進化ではできない、ということであって、多くの進化が漸進的なものであることは筆者も認めている。だからこれは、普通の進化とは別に大進化みたいなものがあって、それは進化プロセスが異なるのだ、という考えでもある。
ただ、筆者が考えるボディプラン進化においても、変異があって淘汰されていく、というダーウィン的プロセス自体は、もちろん生じる。
変異のランダムさについての違い、というものを示そうとしているのかな、という気がする。
つまり、突然変異によって生じるランダムな変異の中から淘汰が起きるのではなくて、既にある程度モジュール化されたパーツの組み合わせの中から生じる変異なのだ、と
筆者はこれを、量子レベルの偶然ではなく、麻雀レベルの偶然、という比喩で言い表そうとしている。


で、これは、エピジェネティック・ランドスケープで、ボールが転がる地形が変わることであって、単にゲノムの変異というだけでなく、発生に関わる遺伝子のネットワークや細胞の配置など発生システムの変化なのであるともいう。


1980~90年代にかけて、発生学と進化学の総合による、進化発生学という分野が生まれている。
これは、進化の総合説において、進化から切り離されてしまった発生を、進化と総合しようという試みである。
森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』 - logical cypher scape2でも、発生システム全体の変化が進化であるという、発生システム論の考え方(上述のランドスケープ、カナリゼーションとも関係している)が紹介されており、これが、従来的な総合説における、進化とは遺伝子の頻度の変化であるという考え方と異なるものであると紹介されている。
進化発生学は、従来の総合説を完全に否定するものではないが、概念の変化をもたらすものであるとしている。


それから、本書は、生物史の中における具体的な時代やタイムスケールへの言及は、あまりしていないように思えるが、動物門の話なので、カンブリア大爆発の頃に相当する話題だろう。
で、カンブリア大爆発の進化の話として、宮田隆『分子からみた生物進化』 - logical cypher scape2もちょっと面白いことが書いてある。
形態の多様性が増えた時期と、遺伝子の多様性が増えた時期とがズレているという話で、カンブリア紀には遺伝子の多様性は増えていなくて、それより遡る時代に遺伝子の多様性は生じている。この本は、分子進化学の話で、全然発生の話はしておらず、分子レベルの中立進化と形態レベルの適応進化とをどのように架橋するか、というテーマの本である。
ただ、ここでそれを架橋するキーは、遺伝子の使い回しにあるのではないか、という仮説を述べている。
遺伝子の使い回しは、本書における深層の相同性ともかかわってくる話である。カンブリア紀大爆発に対して、遺伝子の多様性が増えた時期がズレていることというのは、ちょっと関わっているような気がする。
また、遺伝子と形態とを結びつけるのが、発生であるのも間違いない。
進化と発生を切り離してしまうと、遺伝と進化の間がブラックボックスになってしまう、というのは『生物学の哲学入門』で指摘されていた点。
倉谷が、漸進的進化ではボディプランの進化は説明できないという時、「遺伝子が突然変異して新たな形質が生まれました」という説明だと、間にある発生がぶっ飛ばされてしまっていて、説明になってないっていう話なのかもしれない
(ただ、やはり、微小な変化だけではボディプランの多様性は生じないだろう、とも書いているので、ランダムさの程度の違いや、発生プロセスについての説明を欠いているからというだけではなく、やはり漸進性それ自体を否定しているようではある)

第1章 原型論的形態学の限界
第2章 形態学的相同性
第3章 分類体系をなぞる胚
第4章 進化を繰り返す胚
第5章 反復を超えて
第6章 進化するボディプラン:アロモルフォーゼ
終章 試論と展望

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

第1章 原型論的形態学の限界

たとえば、なぜ我々の体は大まかに左右相称なのかと問うてみよう。(中略)同様な疑問には、「なぜ陸上脊椎動物には二対の脚しかないのか」「なぜ昆虫の歩脚は六本にきまっているのか」などがある。どれもが動物の形の本質を問うものであって、しかもその理由が明瞭ではない。本書で扱うのは、こういった問題群なのである。
(pp.22-23)

このような問いに対して、分かりやすく答えてくれるような説明はいまだない、と

  • どの動物にも、その分類学的位置を反映するようなある種の型=ボディプランがある
  • 動物の体を作り上げる「部品」は、常に特定の「型」に属している(相同性)

というふたつの法則が指摘される
そして、ボディプランというのが、進化論以前の形態学者の間で論じられていた「原型」という概念と結びついている、と。
また、現代の進化生物学でいう「発生拘束」という概念ともかかわっている。


原型は、ある種の理念であり、想像の産物であり、形態学者がたくさんの生物を観察する中で見いだしてきたパターン
これに対して、祖先というのは、過去に実在した存在
原型論は、進化論に対して直接何か説明を与えるようなものではない
原型=祖先というわけではない。
しかし、生物の発生には「クセ」のようなものがあり、進化を通じて、ある程度発生の在り方は固定されてきた=発生拘束
人間(形態学者)はこの「クセ」を読み取って、「原型」を見いだしたのだろう、と
一方、進化というのは連続的な変化の過程なので、どこかから突然「哺乳類」となるわけではない。
ないのだが、ひとたび哺乳類らしさとなる特徴が生み出されると、これらは容易に変更されなくなる(発生拘束)
進化の果てに生じた安定性からくる共通性、これが原型なのではないか、と
ただ、この共通性というものを洗い出すと、共通祖先の姿になるのではないか、という考え方自体は、現在の進化生物学の中にも残っている、とも。

第2章 形態学的相同性

現代の生物学において、相同は進化の結果によって生じる器官や構造の同一性(極端に言えば、相同性はつねに共有派生形質)
しかし、判断の難しいケースがある
イモムシの疣脚は、広義の付属肢であるが、実は「祖先をもたない」(共通祖先において腹部の付属肢は失われている)
だが、発生学的には、歩脚と疣脚は同じ機構によって生じる
ゲノムの中に温存されていたために、再獲得することができたもので、形態としては進化の過程で一度失われてしまったのだけど、遺伝子レベルでは残されていた。
これは、いわゆる「相同性」ではないが、「深層の相同性」と呼ぶ。


ところで、相同性という概念は、もともとは進化論以前に生まれた概念
ジョフロワやオーウェンによって最初定義された
原型というのは、形態学的相同性の集合ともいえ、原型と相同性は実は表裏一体
また、ジョフロワによる相同性の考え方は、現在の比較形態学者が、何と何か相同か判定するための便利な基準として今でも使われている

第3章 分類体系をなぞる胚

原型論と胚発生
この章では、ヘッケルとともに反復説の唱道者と呼ばれるベーア
胚発生において、初期と後期は形態のヴァリエーションが多く、中期に少なくなるというベーア的理解を砂時計モデルと呼ぶ
咽頭胚期に、脊椎動物のボディプランが完成する
ベーアは、胚発生において現れるボディプランを反映するパターンを主型と呼ぶ。原型が観念であったのに対し、これは具体的なパターンデアrう
そして、この共有された胚形態は、現代の進化発生学においても重要
この時期に、多くの器官原基に「極性」や「位置価」が与えられる
相対的位置関係は、発生学的機構が発動するための「かなめ」
これにより、進化的に保存された特定のパターンができあがり、相同性が判定される基準となる
では、これは担っている遺伝子はあるのか
→ホックス遺伝子群
1994年、ドゥニ・ドゥブール=ホックス遺伝子の発現が最も明瞭となるのが咽頭胚期であること、それがベーアのいう主型と一致することを指摘し、主型を「ファイロタイプ」と呼び直した。
ファイロタイプ=動物門(ファイラム)に共通する型
キュヴィエやベーアの「型」を現代的に言い直すと、「動物門を定義する発生的な型」となる
進化発生学の幕開けとなり、20世紀から21世紀にかけて、原型論的思考がもたらされることになる(ゲーテ的な原型が遺伝子に書き込まれているといったふうに)


なぜファイロタイプのような発生段階があるのか
遺伝子レベルでそのような保守性があるのか
入江直樹による、大規模な解析が行われていたりするが、まだ原因がはっきりわかっているわけではない。

第4章 進化を繰り返す胚

原型的なパターンとは、つまるところ進化の中で特定のタクソンに共有される一過的な発生拘束、あるいはその背景にある安定的な発生機構でしかない。この事実が認識されなかったところに、原型論や構造論の誤謬の発端がある。それは同時に、形態学的考察と進化的事実の混同でもある。p.125

「形態的同一性の概念群」は、単に人間が発明した恣意的な抽象化や形式化などではなく、むしろ遺伝子レベルの「お定まりの発生プログラムの使いまわし」が、人間の形態学的パターン認識の仕方を有限個のレパートリーに分類・形式化させてきたと見たほうがよい。p.128


ベーアの法則:形態学的特徴の出現する序列が、分類体系の階層的系列をなぞること
これが進化と結びつくと、発生は進化を繰り返すというヘッケルの反復説となるが、ベーアは進化を否定するキュビエに心酔しており、そのような考え方をとらなかった
ベーアとヘッケルの考えは、非常によく似ているが、発生過程を分類の階層体系と結びつけるか、進化の系統樹と結びつけるか、という世界観のレベルでは大きく異なっていた
また、両者は、ファイロタイプをどれくらい重要視するか、という点でも異なる
ベーアは、ファイロタイプを最も本質的なものとみなした
ヘッケルにとって、ファイロタイプも発生の段階の一つで、相対的な重要性


「発生負荷」について
脊椎動物の成体にとって「脊索」は不要だが、発生段階では必要。正しい時期、正しい位置に脊索がないといけない。脊索はのちの発生プロセスに「責任を負っている」=発生負荷
発生負荷が、原型的なパターンをもたらす
では、あらゆる器官が発生負荷をもっているのか
しかし、それだと進化は起きない。実際に、進化(変化)が生じているので、変化しやすい部分と変化しにく部分がある(モジュール性
初期胚であればあるほど重要、と考えたくなるが、発生学的にはファイロタイプ段階が重要視される砂時計モデルが現実的

第5章 反復を超えて

進化と発生を重ね合わせる反復説だけでは、説明がつかないことがある
ヘッケルもそれは分かっていて、例えば、時系列が異なってしまう例外事象を「ヘテロクロニー」と呼んだ
また、進化によって新規形質が加わることを「終末付加」とした
発生段階の最後に新しい形質が付け加えられるという考えで、これはまた、上等生物と下等生物の違いという考えとも相性がよい(祖先からの差が多い=発生力がある=上等生物)


筆者は、これまでそれほど重要視されてこなかった、アレクセイ・ゼヴェルツォッフが提唱した「アルシャラクシス」理論を、ボディプラン生成を説明する理論として見いだしていく
アルシャラクシスとは、ゼヴェルツォッフが、新規形質が加わる方法の一つとして考えたもので、発生の初期で、大きな変化が生じることをさす

ゼヴェルツォッフの考えたような系統的認識は、系統特異拘束の起源を、進化的変化の系列として理解する一助ともなる。それは、相同性というものが一つの保守性でしかないことをよく示し、しかもそれが系統分岐とともに多様化することをも説明する。が、(中略)アルシャラクシス理路を認めたうえでボディプランの進化機構を理解しようとすれば、それが複雑な発生ネットワークの組み替えや、その組み替えを可能にするゲノムの変化を通じてでしかあり得ないことも予想される。それは言うまでもなく、極めてむずかしい複雑な現象である。p.177

ゼヴェルツォッフに言わせれば、「局所的な原型もまた進化する」。したがって、複数の異なった原型は、祖先にまで遡ればたしかに共通のパターンに至る。しかし。その変化のパターンが分岐であるがゆえに、分かれてしまった原型同士はすでに重ね合わせることができなくなってしまっている。p.177

つまり、ジョフロワのように、エビをひっくり返せば脊椎動物と同じパターンになるんだ、みたいな話はできなくて、オーウェン的な最大公約数的な原動物みたいなものも作れんよ、と

第6章 進化するボディプラン:アロモルフォーゼ

アロモルフォーゼ=大きな分類群を定義するボディプランそれ自体が変化すること

発生プログラムの何らかの変更によって従来の発生拘束がキャンセルされ、新しいパターンを創成するような不連続なイベントが起こらなければ、真に新しい形質、つまり進化的新規形質は得られない。「アゴ」という共通のパターンを保持したまま、さまざまな摂食機能に適応したさまざまな形のアゴが多様化することと、アゴそのものが獲得されることは、まったく別の進化イベントなのだ。p.189


反ヘッケル的現象として、「椎式の変化」が紹介される
椎式=頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎といったそれぞれのタイプの椎骨がいくつ並んでいるか
「椎骨の形態的相同性の原因は、その原基に発言する遺伝子の相同性に遡る(p.203)」
「何番目の椎骨原基にどのホックス遺伝子が発現するかという、椎式の決定にダイレクトにかかわる発生プロセスは、咽頭胚期ではなくむしろ軸形成期(p.204)」
「遺伝子発現の場所まで考えると、咽頭胚期は必ずしも、期待されるほど系統間で似てはいない(p.205)」

すでに述べたようにホックス・コードをシフトさせようと思ったら、何らかの初期発生過程に働くホックス遺伝制御システムを変更するしかないことになるからだ。これはヘッケルの考えたような終末付加や、後期発生過程の変更では決してできない芸当である。
そしてそれこそが、ゼヴェルツォッフの提唱したアルシャラクシスに他ならない。つまり、椎式というボディプラン要素を変化させようと思ったら、ファイロタイプ期をはるかに遡り、祖先型の初期発生プロセスとパターンを変えてしまうしかないのだ。そして、それ以降の発生過程では、そういった変化はもう起こらず、起こすこともできなくなる。すなわち、ボディプランを変更するチャンスは、発生の初期段階にしかない。(p.207)

終章 試論と展望

ロマン主義的ボディプラン幻想」:ゲーテからオーウェンダーウィンを経てヘッケルへ至る、動物の多様性の深層に原型があり、首尾一貫した相同関係の基盤となっている、という考えで、おそらく、進化発生学の第一期(90年代半ば頃)にもこの幻想が共有されていた


ボディプランのアイデンティティと細胞型のアイデンティティが進化の中で半ば乖離している
古典形態学では、部品が同一ならば(相同関係があるなら)、全体(ボディプラン=原型)も同一であるという考えが堅固にあったが、そうではなく、部品と全体のアイデンティティは乖離している

新しいボディプランを伴った大型の子孫動物を作り出すためには、遺伝子の重複や使い回しを積極的に行い、特定の細胞型を特定の場所に必ず分化させることができるような、新しい発生プログラムの構築に励む必要があったに違いない。(p.237)
(中略)
出来合いの規格品を多用し、かつ、いつでも使える状態にあるゲノムから出発したほうが進化は速く進む。(p.238)

小型のプランクトンが過形成を複数回起こしたのではなく、そのような比較的大型の動物がアルシャラクシスを起こしたのではないか。
(p.238)

実際、左右相称動物の間で、細胞レベルの相同性が発見されている。
(クラゲなどの刺胞動物との相同性も)
細胞型や器官系に相同性が見られ、ツールキット遺伝子群が残っている。体全体のパターンだけが大きな変化を経験し、一方で細胞型のモジュールには保守性が見られる


細胞型と解剖学的パターンの間に乖離が見られる

・相同的な遺伝子が、古典的な意味での非相同的な形質を作り出す
・相同的な形態パターンの下部構造に、非相同的な現象(遺伝子発現、発生機構)が見出される。
・相同的な細胞型が、異なったボディプランの構築に用いられる。
(p.252)


こうした乖離を生じさせる現象の一つが「コ・オプション」
例)甲虫の角、ショウジョウバエの複眼のマスターコントロール遺伝子
原基を作り出す遺伝子セットを、他の場所で発現させると、角や目が生じる
同じ遺伝子セットが、進化の過程の中で何度も使い回されている(深層の相同性)


コ・オプションは、見かけの類似性や深層の相同性しか生み出さないが、アルシャラクシスは、真の相同物(共有派生形質としての相同物)を生み出す
脊椎動物節足動物では、ボディプランが大きく異なり、背と腹の位置関係が逆。ジョフロワは、背腹反転によって、この両者を一致させようとした。
20世紀終盤、脊椎動物節足動物で、背腹決定機構に、同じ遺伝子群が使われていることが判明。ジョフロワの背腹反転的な考え方が、にわかに息を吹き返す。
当初、この背腹反転はコ・オプションだと考えられた。つまり、元々持っていた遺伝子群の二次的な利用。
しかし、そうだとすると、これらの遺伝子群はもともと別の発生に用いられたということになるが、そのような発生現象は見当たらない。

ボディプランの多様化機構を考えるところに来た。最初に私の結論を言っておくと、おそらくいったんできあがった複雑な体制の動物がそのままの形に留まることはなく、アルシャラクシスの過程を経て、別のボディプランを持つ別の動物門を創り出していったというシナリオが、現在、見るいくつかの動物門の多様性を最もよく説明すると思われる。(p.269)

刺胞動物以前の時代では、それぞれの異なったボディプランに共通する規格品としての器官系のようなものは存在せず、その動物にしかないような細胞型が多く存在するように見える。(中略)後生動物の中で「刺胞動物+左右相称動物」に共通する細胞型が極めて多く、そこには相同な規格モジュールが多く存在する一方で、それ以前に分岐した原始的な系統では、そのような規格品が確立しているようには見えないのだ。(p.272)

これにさらに追い打ちをかけたのが、三胚葉の確立
→細胞型など部品の相同性を保持したまま、ボディプランだけが進化することは可能=実際の進化は原型論を受け付けない、よりダイナミックなもの

可能な仮説は、「小型で単純な祖先動物からの過形成に始まる適応放散」ではなく、むしろ、「最初から高度な体制を持った動物において、その初期発生過程が変更されることにより、新しいボディプランがもたらされた」とする非ヘッケル的過程、すなわちアルシャラクシス理論のみが当てはまる。またその副産物として我々は、「ボディプランを共有しない相同性」も認めないわけにはゆかなくなる。(p.276)

ボディプランが「漸進的な変化」とか「微小な変化の積み重ね」として進化してきたのではなく、むしろラディカルなモジュールの繋ぎ替えによって進行してきた可能性を考えていゆく。それは基本的にはパターン上の変化であり、深層における個々のモジュールそれ自体の相同性は、しばしば保存されている。つまり、小さな単位が保存されていても、大局的な解剖学的構築は進化しうるということだ。(p.281)

ここで筆者は、ライエル・ダーウィン的な、わずかな変化でも長時間蓄積すれば大きな変化になるというような説明の仕方への不信感をあらわにしている、
微小な変化の蓄積のみで進化を説明しようとする考え方では、ボディプランの多様性を説明できない。ヘッケル的な過形成のような進化しか認めないのであれば、ボディプランはひとつあれば事足りてしまう(が実際にはそうはなっていない)


ボディプランの進化は、発生パターンの進化である
この進化プロセスについて、発生システム浮動やエピジェネティック・ランドスケープとキャナライズによって説明していく
エピジェネティック・ランドスケープというのは、エディントンが提唱した、発生過程を示した地形図のこと
進化とは、この谷を深堀りして、安定化させていく過程
これには、ゲノムの変異だけでなく、胚の中での細胞の配置などの要因も含むので、「エピジェネティック」・ランドスケープ
1つのゲノムから作りえる表現型については、一定の幅の中で揺らぎや変異がある。これを「応答規準」と呼ぶ

表現型を介して選択が進行するとき、それによって選ばれるのは特定のゲノムであり、同時にそのひとつのゲノムは、ある幅を持った表現型のセット、つまり応答規準と結びついている。したがって、特定の対立遺伝子が生き残るチャンスはひとつの固定した表現型によるのではなく、むしろ表現型の潜在的可能性と、それを選び出すさまざまな環境条件に依存していることになる。(p.307)

一.キャナライズされた安定な発生プロセスであるらこそ、同時にそれはカタストロフィックな変化をも呼び込む可能性を持つ
二.さまざまな要因により発生パターンが大きな擾乱に晒されるが、それによって生じる揺らぎは決してランダムでも均一でもない。むしろ、不均一なシフトに帰結する。そして、
三.偶発的にできた有意義な細胞型や組織の組み合わせが、淘汰の篩にかかり、すみやかに安定していゆく可能性がある。
(p.308)


進化の過程でボディプランが変わる場合
ランドスケープが、相同性を維持するための許容度をこえる擾乱を受ける
ランドスケープを転がるボールの目的地自体が変わる。樹状の発生経路の分岐地点に変化が起きる。
→新しい経路はまだ安定していない。一方で、細胞型や器官を形成する遺伝子モジュール自体はゲノムに存在しているので、半ば自動的に、細胞の分化が起きる
→ボディプランが大きく変更され、器官の配置は祖先とは異なるものになるが、相同の器官が発生する


ボディプランが大きく変動しても、器官などが発生するのは、祖先がもっていたレパートリーを使い回せるから
逆に言えば、ボディプランが変わるときに、部品も含めて一から作り直しになっていたとしたら、「気の遠くなるほどの偶然が必要となり、我々はいまでも形態的多様性の乏しい生物の世界に住んでいたに違いない(p.328)」


カンブリア紀をさかのぼる時代に、多細胞体制となり様々な細胞型があらわれる。この時代の細胞型はカスタム品で、使い回しはなかった
クラゲの祖先が現れた頃、状況が変わり、遺伝子制御ネットワークと細胞型が結びつき、発生プログラムがあらわれ、単純なエピジェネティック・ランドスケープができる
さらに、左右相称動物が生まれ、三胚葉や極性が形成されると、ランドスケープが複雑化し、キャナライズされ、動かしやすい部分と動かしにくい部分が生じていく
動かしやすい部分は、過形成によって適応放散的な進化をするが、それは新しい動物門の創出にはつながらない
ランドスケープの動かしがたい部分は、アルシャラクシスによってのみ変更され、それによって新たな動物門が生まれたが、それでも変わらない部分が様々な細胞型や器官のレパートリーとして残る
上流の遺伝子群は、動物門を越えて大きな負荷を追うようになり「ツールキット遺伝子群」と呼ばれるものとなっていく

追記

1万字ほど書いているが、要約なのでかなり省略してしまっている部分も多い。
この本の論理の追いにくさは、どの議論がどこに効いていて、どこには効いていないのかが、ちょっと把握しにくいからかもしれない。
というか、要約してみて、筋が見えてきた部分と、つながりが分からなくなってしまった部分の両方があって、省略した部分が後者に効いている可能性はあるんだけど、ちょっと今は分からない。


何がわかりにくいのかというと、原型論を批判しつつも、どうして原型論的な考え方が生まれたのかを考えると、それを支えるような事実もある、という点だと思う。
原型論にも、キュビエ的な原型論と、ジョフロワ・オーウェン的な原型論がある。
キュビエは、ボディプランを4つあげてそれ以上は統一できないと考えた。一方、後者はそれらもすべて統一しようとした(ジョフロワの背腹反転、オーウェンの原動物)
本書は、わりと一貫して後者のような型の統一を批判している。しているんだけども、しかし、進化という意味では祖先がいるわけで、原動物を批判しつつ、でも、原動物的なアプローチでの祖先動物の探求を紹介してたりもしている。
深層の相同性とか、細胞型の相同性とかもわかりにくいところ。
ジョフロワやオーウェンが考えたような、形態的な相同性を組み合わせて、すべての動物を統一的に理解できるような原型はない、という点では批判は一貫している。
しかし、遺伝子とか細胞とかのレベルで見ると、動物門の違いを超えて、祖先動物から受け継いでいる相同性はある。
だから、原型はないんだけど、相同性はある、という話になっている。


生物史を見たときに、途中までは、単純なものから複雑なものへ進化しているけど、ある程度以上複雑なものは既にできた複雑なものからしか進化しなくて、複雑なものから複雑なものへの進化において、微小な変化ではなく、一気にガラリと変わるような変化があるみたいな話なのかもしれない。
(クラゲみたいな動物までは、単純なプランクトンみたいな生物から進化しうる。しかし、それ以上複雑な動物は、アルシャラクシスによって進化する)
ただ、タイムスケールがあまりよくわからないし、全然グールドとかには言及しないので、それがいわゆる進化パターンにおける大進化とか断続平衡とか言われるものと対応するような話なのかはよくわからない。というか、その論点とは中立的で、結びつける必然性はないのか。
発生プロセスがガラリと変わるという意味で、微少な変異ではなく大きい変異があるという話で、それと動物門の数の激増が対応しているかどうかはまた別の話だ。
で、微少な変異ではなく、あまりに大きな変異が起こると、普通死ぬでしょって話なんだけど、これに対して、まあ実際ほとんどは死んだのではないかって筆者も述べてるんだけど、それでも現在あるくらいの多様な動物門は事実生じているでしょと。
で、これは、もうある程度個々のパーツ(細胞とか器官とか)は完成した上で、それの配置を組み替えるような変異なので、そこに生き延びる可能性があるし、微少な変異をランダムに繰り返すよりは確率が高くなるだろう(完全ランダムより試行回数は減らせる)という話なのかな。
門が変わるほどの大きな変異なんだけど、発生システム上何らかの拘束は働いているので、あんまり無茶な変異になるわけでもない(天使(腕と翼がある)のような動物は生まれない)から、その点でも分は悪くない賭けだろう、と。