Kathleen Stock "Fictive Utterance and Imagining"

フィクションの哲学の論文
フィクションを想像概念によって定義する、というのがこの分野のオーソドックスな見解だが、反論も多い。
反対派としては、マトラバースやフレンドがいる。
一方、最近の賛成派としては、このストックが挙げられることが多い
この論文は、フィクションにとって、想像させるよう意図してるものだ、というのが十分条件になってるよ、というもののようだ。


この論文はしかし、同じくフィクションを想像概念により定義するカリーの議論に対して、反駁ないし補足するようなものになっている。
「フィクティブな発話は、必ず想像を指定している」(この命題を以下NIP*1と略す)
これは、発話者(作者)が読者がPという命題を想像するように意図している、ということ
NIPの反例として、カリーは『ロビンソン・クルーソー』と『虚栄の市』をあげる。
前者は、元々作者がノンフィクションとして発表していて想像するように意図していないケース
後者は、事実について書かれており、想像ではなくそれについて信念を持つように意図されているケース
カリーは、前者について、正式にはフィクションではないのだがそのように扱われているケース、後者はフィクションとノンフィクションのパッチワークケースだと論じる。
これに対してストックは、カリーの応答は不十分であり、実際はNIPはフィクションを定義するのに十分であると論じていく


Pが真であるものとして示され、なおかつ非偶然的に真であることと、Pを想像するように指定していることは、両立する
両立するならば、NIPに障害はなくなる
というのが、ストックの見立て

この両立を示すのに最初に出てくるのが、Laslieの実験で、子どもに中身の入ってるコップ渡して、空のコップだと想像させる奴
ただ、ストックはこの実験によってこの論文で擁護したいことがちゃんと示せるとは考えてないっぽい


想像について、他の命題的思考と結びつく傾向性のあるものとして捉える、という提案をする
例えば、1945年のイギリスを舞台にした小説を読むとき、1945年のイギリスでは戦争があったという信念の内容と、その小説とを結びつける想像がなされる


読者の現象学的には、フィクションを読む時とノンフィクションを読む時とで変わりはないが、結びつく心的状態が異なるとも。
で、ここらへんから、『ロビンソン・クルーソー』はNIPの反例にならないと言ってるらしいが、あんまよくわからなかった


パッチワークケース
カリーはnon-non-accidentality condition、ラマルク&オルセンは、unreliablity conditionとか、条件を付け加えるけど、真であるかどうかということとNIPとの間にはつながりはないのではないか、というようことを論じているっぽい

*1:Neccessarily Imagining Prescribe

imdkm『リズムから考えるJ-POP史』

新年一発目は、リズムから考えていた
元々、realsoundで連載されていたものに大幅に加筆された本*1
連載当時読んでいて面白かったので、本も読んだ
本来なら出てくる音源も聴きながら読むべきなんだが、ほとんど聞かずに読んでしまった。知らない曲の方が多いくらいなのに……
曲を聴いてないのに、曲について書かれた文章が分かるということはないと思うが、しかし、何となくわかったような気分にはなる。
それは、分析のアプローチが多様であることも関わっている気がする。
分析のアプローチが多様であることは、著者本人があとがきでも触れている。


本書は、J-POPがPOPになるまで、という歴史を描こうとする。
そしてそれを、日本語の歌と様々な音楽(ここでは特に広義のダンスミュージック)のリズムの関係から紐解いていく本である

リズムから考えるJ-POP史

リズムから考えるJ-POP史

  • 作者:imdkm
  • 発売日: 2019/10/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

はじめに アジアンカルチャーの隆盛と日本
第一章 小室哲哉がリスナーに施した、BPM感覚と16ビートの“教育”
第二章 90年代末の“ディーヴァ”ブームと和製R&Bの挑戦
第三章 m-floから考える、和製R&Bと日本語ヒップホップの合流地点
第四章 中田ヤスタカによる、“生活”に寄り添う現代版「家具の音楽
第五章 Base Ball Bearから検証する、ロックにおける4つ打ちの原点
第六章 KOHHが雛形を生み出した、“トラップ以降”の譜割り
第七章 動画の時代に音楽と“ミーム”をつなぐダンス
第八章 “人間活動”以後の宇多田ヒカル
エピローグ 三浦大知と“J-POP”以後(書き下ろし)
おわりに(書き下ろし)
tofubeatsによる解説

imdkm.com

*1:なお、あとがきによれば、元々本を書く予定があり、それのダイジェストがこの連載だったよう

2020年ふりかえり

今年は、私的にも世間的にも激動の年だったが、その影響を受けて、本のタイトル数自体は少なめ。
ただ、下記の通り、シリーズ一気読みが2つと、英語論文をわりと読んでいることもあって、読書量そのものは意外と減ってないのかもしれない。
ブログを書く時間がとれなくなった、という方が大きいかも。


1月から8月にかけて連続刊行された『世界哲学史』を、ほぼ刊行にそって追っていたのと、『天冥の標』全10巻を一気読みしたのが、今年の二大トピック(?)
それ以外だと、英語の本・論文をいつになく読んでいる年だった。主に美学関連だが、美学以外のものもちらほら。

小説

『天冥の標』を除くと、14冊
そのうちSFが11冊。しかも、非SFカウントした3冊のうち2冊は奥泉光ミルハウザーという、広義ではSF作家にもカウントされることのある作家の作品なので、今年もまた相変わらずほぼほぼSFを読んでいた年だった。
SF自体は好きだし読みたい本も尽きないのでガンガン読んでいきたいのだが、もう少し非SF比率も高めたい。
(雑誌をノーカンにしているので数に含めていなかったが、1月に『群像』の短編特集を読んでいたので、まあそこで非SFを読んだといえば読んだ)
今年はほぼ国内作品を読んでいて、海外作品少なめかも。
面白かった本というと、『息吹』と『なめらなか世界と、その敵』がやはり突出しているかな。
あと、『天冥の標』も噂に違わずすごかった。

  • SF

アーカイブ騎士団『会計SF小説集』
テッド・チャン『息吹』
陳楸帆『荒潮』
飛浩隆『自生の夢』
冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』
伴名練編『日本SFの臨界点[怪奇編]ちまみれ家族』
伴名練『なめらかな世界と、その敵』
津久井五月『コルヌトピア』
伴名練編『日本SFの臨界点[恋愛編]死んだ恋人からの手紙』
スタスニスワフ・レム『完全な真空』
天冥の標1~10
『2000年代海外SF傑作選』

  • 非SF

渡辺零『Ordinary346(4)』
奥泉光『雪の階』
スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』

哲学

今年は『世界哲学史』シリーズを読んでいたので哲学を読んでいたような気持ちもあるのだが、それ以外はほとんど読んでいないので、あまり哲学に触れていなかったような気もする。
『世界哲学史』シリーズは、哲学は哲学でも、自分にとっては普段触れないタイプの哲学だったこともあり。
やはり雑誌をノーカンにしていたが、『フィルカル』を読んでいたので、そこでも哲学に触れてはいた。分析的ニーチェ研究とかアメリ哲学史とか
それから、古生物学の哲学を一冊読んだ。


倉田剛『日常世界を哲学する』
『世界哲学史』1~8
Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)"

科学

科学本は、ほぼ生物学系。
進化生物学・分子生物学系で4冊。人類学2冊。古生物学2冊。神経生物学1冊。
『我々は生命を創れるのか』『生命はデジタルでできている』のブルーバックス2冊、および『交雑する人類』が特に面白かった 


藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか』
チャールズ・コケル『生命進化の物理法則』
ジョナサン・ロソス『生命の歴史は繰り返すのか?』(的場知之・訳)
河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』
デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(日向やよい訳)
田口善弘『生命はデジタルでできている』
”All Yesterdays: Unique and Speculative Views of Dinosaurs and Other Prehistoric Animals”
 トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳)
土屋健『化石の探偵術』

美学・その他

今年はウォルハイムの訳書がでたのがとにかくでかい


ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(松永伸司・訳)
リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳)
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』

美学論文

描写関係の論文を中心に読みつつ、フィクション論関係のものも挟みつつ。


石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」
エティエンヌ・スーリオ「映画的世界とその特徴」
R.Hopkins ”Depiction"
Rafe McGregor "The Problem of Cinematic Imagination"
Elisa Caldarola "Pictorial Representation and Abstract Pictures"
Rune Klevjer, "Virtuality and Depiction in Video Game Representation"
Shaun Nichols ”Imagining and Believing: The Promise of a Single Code"
D.Lopes "The 'Air' of Pictures"
Dominic M. Lopes "Drawing Lessons"
Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"
Stacie Friend "Fiction as Genre"

論文その他

文学研究の方の「フィクショナリティ」について2本と、古生物学の哲学1本。古生物学の哲学は今後ももう少し勉強したい。
Henrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality"
Paul Dawson "Ten Theses against Fictionality"
Marco Tamborini "Technoscientific approach to deep time"

マンガ

そういえば、『チェンソーマン 』読みました
単行本派なので最終回読むのは年明け
主な感想は、以下の日のtwilogにおおむねまとまってる
シノハラユウキ(@sakstyle)/2020年08月10日 - Twilog



それでは、今年もお世話になりました。
来年も当ブログをよろしくお願いします。
よいお年をー

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』

2000年代というとわりと最近のような気もするが、もう10〜20年前のことであり、自分もまだほとんどSFを読んでいなかった頃だったりする
「暗黒整数」は言うに及ばず「ジーマ・ブルー」「地火」が面白かった

「ミセス・ゼノンのパラドックス」エレン・クレイジャズ/井上 知訳

短編というかショートショート
ケーキをひたすら半分こしていく

「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)」ハンヌ・ライアニエミ/酒井昭伸

ライアニエミというと、名前を覚えにくい作家として自分の中で有名な1人(次点はバチガルピ)だが、まだ読んだことがなかった。
犬と猫が、首だけになって服役しているご主人様を助けるべく、一計を案ずる話
編者解説には「ポストサイバーパンク」とあり、物語よりも世界観を楽しむ作品かもしれない。もっとも設定をゴリゴリ説明するような類いの作品ではなく、色々想像させるような専門用語が詳しい説明なくちりばめられているような作品で、そこから情景を想像するのが楽しい。
上に、面白かった作品として名前を挙げなかったが、振り返ってみるとなかなか楽しい作品だったと思う。

「第二人称現在形」ダリル・グレゴリイ/嶋田洋一訳

意識経験を失わせるドラッグを濫用し、異なる人格になってしまった少女の物語
編者解説にもあるとおり、テーマ的にはイーガンのアイデンティティSFばりな話だが、テーマを掘り下げるよりは、主人公の少女と両親との物語となっている

「地火」劉慈欣/大森 望・齊藤正高訳

タイトルの地火は、炭鉱の坑内火災のこと。
主人公は、炭鉱労働者を父親にもつ技術者で、新しいプロジェクトを掲げて故郷の炭鉱へと戻ってくる。
それは、地下で石炭を燃焼させガス化させてパイプラインに誘導するというもの。
危険な炭鉱労働がなくなり、高効率化することができるもので、アイデアとしては古くからあるらしいが、実現はしていない。
なお、ググったら下記のようなページがあった
石炭地下ガス化 [せきたんちかがすか]|JOGMEC石油・天然ガス資源情報ウェブサイト
主人公は、ドローンを駆使したコンピュータ監視システムにより、これを実現しようと試みる。
隔離された位置にある炭鉱を実験場として、実証実験を始める主人公だったが……。
自然を科学によってコントロールすることの難しさ、といってしまうと陳腐なテーマだが、炭鉱という言ってみれば古い技術の世界に最新技術を投入していくという、ある意味でワクワクするような様子と、しかし、それが急激にカタストロフをもたらしていく様子が、リアルな筆致で描かれていて、とても面白かった。
特に最後の破滅シーンは迫力がある。


がしかし、最後の最後に付されている部分は、急に雰囲気も変わるし、蛇足感がある。
ただ、これが書かれた当時の中国SF出版界がどのような状況だったのか分からないのでなんとも言えないのだが、表面上、誤魔化す必要があって付け足された部分なのかな、という印象を受ける。

「シスアドが世界を支配するとき」コリイ・ドクトロウ/矢口 悟訳

この『傑作選』が出た頃、twitter上でわりと言及の多かったように思える作品
それで想像していたのとはちょっと違ったが、確かに時代を感じさせるといえば感じさせる作品である。
とにかくいきなり世界が滅びるのだが、データセンターにこもっていたシスアドたちは一命をとりとめ、世界に一体何が起きたのかを調べ始める。
といって、シスアドたちが原因を突き止める話でも、世界を助ける話でもない。世界を支配する話かというと、まあ文字面の上ではそうなんだけど、実態として支配したわけでもない。
身もふたもなく言ってしまうと、ネットに引きこもってないで外に出ろよ、みたいな話でもある。

「コールダー・ウォー」チャールズ・ストロス/金子 浩訳

冷戦期スパイ小説+クトゥルー神話もの
クトゥルー部分がよく分からなくて、よく分からなかった

「可能性はゼロじゃない」N・K・ジェミシン/市田 泉訳

起きる確率の低い事象が起こりやすくなってしまったニューヨークが舞台

「暗黒整数」グレッグ・イーガン/山岸 真訳

読むの3度目だけど、やっぱり面白い
3度目とはいえ結構内容は忘れていたので、新鮮な気持ちで読めた
オルタナティブ数学世界の惑星の画像を取得するところとか、面白い


主人公たち3人は、10年間にわたって、向こう側の世界との間に密かな不可侵条約を結んで維持し続けてきたのだが、突如、こちら側の世界から向こう側の世界への攻撃が行われたと言われる。
10年前の主人公たちの研究を知っていたある研究者が、「不備」の存在に迫るような研究を始めていたのだった。


グレッグ・イーガン「暗黒整数」/庄司創「三文未来の家庭訪問」 - logical cypher scape2
グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』 - logical cypher scape2

ジーマ・ブルー」アレステア・レナルズ/中原尚哉訳

以前、Netflixでやっていた『ラブ、デス&ロボット』の中でアニメ化されていた作品。
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2
自らの身体に極限環境に適応できる改造を施し、惑星規模の芸術作品を発表し続けてきた芸術家ジー
自身への取材をずっとNGにし続けてきたジーマが、引退直前に、1人のジャーナリストにだけインタビューを許可する。
主人公・語り手であるインタビュアーも、何百年も生きており、記憶アシスタント技術を用いているポストヒューマンもので、記憶とアイデンティティをめぐる話となっている。

芸術SFなのかなーと思ったら、ちょっと違う路線で、ロボットにとって目的とは何かみたいな話だった

アニメを見た際には、このような感想を書いているが、原作読んだらやっぱり芸術SFだった。
究極的に自分が追い求めているものは何なのかを突き詰めていった結果としての、ジーマの最後の作品が、ジーマの原初のアイデンティティでもあったという話。

Stacie Friend "Fiction as a Genre"

メイクビリーブを批判する1人として有名なフレンドの、(おそらく)有名な論文
フィクションの定義を巡る話で、タイトルにある通り、フィクションをジャンルの1つと捉え、メイクビリーブや想像のために作られたもの、という標準的な定義を退ける。
ここでフレンドが持ち出してくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ある意味で、ウォルトンを使ってウォルトンを殴っているような論文とも言えて面白い(ただし、ちゃんと言っておくとこの論文の中で主に批判対象としてあがってくるのは、カリーやデイヴィスなど(のような立場)で、ウォルトン(のような立場)ではない)
メイクビリーブや想像とフィクションとの結びつきを完全に否定しているわけではなくて、想像はフィクションにとって標準的特徴であるとしている。
自分はメイクビリーブ派(?)だが、考えてみるとフィクションの定義自体にはさほどこだわりがないので、フレンドのジャンル説でも問題なさそうだな、と思った


Stacie Friend, Fiction as a Genre - PhilPapers

1.overview

フィクションとノンフィクションの区別についての理論は、以下の2つの問題に答えるべき
(1)分類の基準は何か
(2)個々の作品の鑑賞において、分類の効果は何か
標準的な理論はこれらに十分答えられていない
ジャンルには2つの特徴がある
(1)多くのジャンルは、歴史やコンテクストなどnon-essentialな条件によってそのメンバーが決められている(必要十分条件による定義ではない
(2)分類は、作品の特徴についての期待を生み、評価の基準を定める

2.standard theory of fiction

フィクションの標準理論というのは、フィクションを想像やメイクビリーブという反応で定義するもので、典型的には虚構的発話という言語行為によって特徴付ける
ただ、想像だけだとフィクションよりも広すぎなので、条件を加える必要がある
例えば、カリーがいうところの、作者の意図と偶然的に真であること(あと、デイヴィスによる別の提案も紹介・検討されている)

しかし、フレンドはその条件を加えても、反例が出てくると述べる(カリーの条件を満たすノンフィクション作品と条件を満たさないフィクション作品の実例)


虚構的発話理論は、フィクションであることを作品の部分または一側面に還元してしまう還元主義だからうまくいかないという
フレンドは、これに対して自分は文脈主義だという
作品全体を、読むこと・書くこと・批評などの実践の文脈に置いて判断する

3.criteria of classification

で、ここで出てくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ウォルトンはこれを芸術作品のみ、また、知覚的な特徴に限った話としているが、フレンドはこれを拡張する
ウォルトンの、標準的特徴・反標準的特徴・可変的特徴
あるカテゴリーの標準的特徴というのは、ある作品がそのカテゴリーに属してる時、それを持っていると期待される特徴
想像は、フィクションにとって標準的特徴
だから、フィクションとされる作品にとってそれがあることが期待されるが、かといって、それがあることがフィクションの定義になるわけではない。
だから、想像という特徴を持っていないフィクションもあって、その場合、それがその作品の評価に関わってくる(期待外れな作品だと評価されるが挑戦的な作品だと評価されるかは分かれるだろうけど、標準的特徴がないことについて注目されて評価に関わってくる)
あるカテゴリーにとって必要だと思われる特徴でも必要条件になってないことはある
ある作品がどのジャンル・カテゴリーに属するか決めるのは、歴史的な文脈など

4.effects of classification

フィクションやノンフィクションをジャンルと捉えることは、鑑賞にとって何か役割を果たすのか
サブジャンルの方が鑑賞には関連するのではないか
これに対して、ウォルトンゲルニカスで論じたゲシュタルト効果や、ロペスがモンドリアンを例に出して論じた比較クラスのスイッチ、つまり、どのジャンルに属しているものとして見るかでどの特徴に注目するかが変わることをあげる。
そして、実際にある作品の一部を引用し、これをフィクションとして読むか、ノンフィクションとして読むかで、特徴への注目の仕方が変わることを示す。
鑑賞に対して、フィクション・ノンフィクションというカテゴリーは、真正の違いをつくる


ウォルトンにおける「カテゴリーにおいて知覚すること」に対応する「カテゴリーにおいて読むこと」の説明が必要
これについてはまだ詳細に論じることはできないとしつつも、心理学における「リーディングストラテジー」が参考になるのではないかとしている。
これは、人間はワーキングメモリーなど認知的リソースに限界がある中でどうやって読解しているのかという研究
実際、フィクションかノンフィクションかという違いが、リーディングストラテジーに効果を与えてるっぽいことを示す研究もある。

5.conclusion

フィクションかノンフィクションか区別しがたい作品について
その区別しがたさは、作者の意図や現代的な実践に由来するのであって、作品の中に両方の特徴が混ざっているから、ではない。
そうした作品は、フィクションかノンフィクションか不確定としてもいいし、フィクションかつノンフィクションという新しいジャンルだとみなしてもよいだろう、と。


感想

「芸術のカテゴリー」論文ちょっと忘れてたので、なるほどこういう風に使ってくのかーと
上で、ロペスの名前一回しか出さなかったけど、実際には2回異なることで出てくる。カテゴリーと鑑賞についてはロペスも大事っぽい
上の要約では、論文中に出てくる具体例を(ほとんど知らない作品ばかりだったこともあり)全然紹介しなかったが、具体例が多い
実際に4節では、作品からの引用もあって、こういう風に読んだら読み方変わるでしょ、と読者に実体験させてるのが面白い(英語の読み物が読めないので自分はいまいち分からなかったが、説明読んだら何をいいたいかは分かった)
最後、心理学研究がひかれていたのも面白い
「状況モデル」もこの語だけ出てきた
マトラバーズも、ここらへんの文章読解についての心理学研究を引用していたはず。


作品を読んで、「こういう特徴があるからこの作品はフィクション/ノンフィクションだ」というのではなくて、読む前から、これはフィクション/ノンフィクションだと分かった上で、それをもとに鑑賞してるよね、という枠組みは、石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」 - logical cypher scape2と通じるところもあるのかな、と少し。

フランソワ・ダゴニェ『具象空間の認識論』(金森修訳)(中断中)

地質学や岩石学などを題材としてエピステモロジーの本

びおれん@薔薇の講堂 on Twitter: "この辺(イメージ美学による科学認識)はフランソワ・ダゴニェが『具象空間の認識論』や『イメージの哲学』でやってるのでオススメ。"
以前、描写の哲学で科学哲学と美学の両方にまたぐようなテーマに興味があることを呟いていたら、オススメされた
エピステモロジーは以前から気になっていたものの手を出したことがなかったので、また、地学に関する科学哲学というあまり見ない分野でもあるので、読んでみることにした。
したのだが、やはり全然知らない分野なので、なかなか読み方がわからない。
3分の1くらいまで読み進めたのだが、そのあたりで『天冥の標』を読み始めてしまい、いったん読むのを中断してしまってから、再開出来ずじまいになっている。

序論
第一章 岩石の認識論
第二章 風景の哲学
第三章 表層の発見論
第四章 心理の地図製作法
結論
自発的隷従の哲学(解説にかえて)

Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"

動物の美学について論じた論文
動物を美的に鑑賞するのは不道徳なのかという問題に対して、機能美を鑑賞するのであれば不道徳ではないと論じる。


以前、青田麻未「動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から」を読んだ時に、主に紹介されていたもの
内容的にはおおよそ上の青田論文を読んでもわかる

要約

動物を美的に鑑賞することは、美学では無視されてきている。
まず、なんで美学で動物があまり扱われてこないかについて、筆者の推測が挙げられる
動物は芸術作品と比べて複雑な存在だからではないか→自然環境の美学は盛んなのに、動物が扱われていない理由にならない
動物を鑑賞することは非美的だからではないか→非美的なところは確かにあるけど、だからといって全く美的ではないということにはならない
動物を美的に鑑賞するのは不道徳だからではないか
道徳的な存在を、主体subjectではなく客体objectとして扱うのは倫理的に問題だろう。そして、あるものを美的に鑑賞するというのは、それを鑑賞の対象objectとすること。
パーソンズは、この不道徳反論に対して、不道徳ではないやり方で、動物を美的に鑑賞することはできると論じることで、動物の美的鑑賞を美学で扱えるようにしたい。


パーソンズは自身の説を展開する前に、他の哲学者や理論家が、動物の美的鑑賞をどのように理解してきたかを整理し、それらが不道徳反論を免れないことを示す。
ラスキンヘーゲルは、動物の生き生きとした様子を賞賛することだとした
あるいは、エキゾチズム
他には、擬人化やシンボリズム
そして、Zangwillらによるフォーマリズム
これらは全て、人間と動物との関係や動物自身には関係のない人間の関心から、動物を見ており、不道徳反論を免れないだろう、と。


パーソンズは、機能美として動物の美的価値を位置づける
実は18世紀にも、動物の美はこのように説明されていた
パーソンズは、機能美の意味を弱い意味と強い意味とに区別する
弱い機能美は、「Xの美しさがXの機能に適していること」
強い機能美は、「Xの機能がXの美しさの一部であること」
例えばキッチンの色や形は、前者。
カントのいう付属美や、デイヴィスによる機能美の分析も前者。
カントやデイヴィスによれば、機能と美は外在的な関係。機能から美は生じない。
これに対して、強い意味での機能美は、機能から美が生じてくる
チーターの身体のラインの美しさは、チーターの速く走るという機能から生じてくるもの


機能美を鑑賞することも、動物を対象objectとするという点は変わらない、とパーソンズは述べる。
その上で、機能というのは動物の主体性と関わるものであり、機能美の鑑賞は動物の主体性を倫理的に問題ある形で否定することはない、と論じている


機能美の鑑賞は、美的経験なのか? 知識獲得の喜びなのではないか、という反論に対して、確かにそこを混同してしまうこともあるが、芸術作品の鑑賞だって、芸術史やジャンルについての知識を得ることを含むわけで、だからといって美的でなくなるわけではない、と。


機能美は美なのか、ということについて、バークが『崇高と美の観念の起源』で論じているので、それに反論する。
バークはまず、美しいけど機能美じゃない例(孔雀)を挙げる
パーソンズは、別に全ての美が機能美だと主張してるわけじゃないから、これは問題ないとする。
次にバークは、機能美が美の十分条件にもなってない例(ブタの鼻)を挙げる。
パーソンズは、ブタの鼻は確かに機能に適しているが美しくない例だと認める。
しかし、確かに美しいbeautifulという評価語は適用されないだろうが、なお美的aestheticな性質は有するだろう、としている。