結局、中長期の見通しを持てるかどうか、ということか

高校の履修漏れの件。
結局、高校に何しに行くのか、というのが、全関係者に欠けているのだと思う。
大学に行くための予備校、ではないはずなのだが……。
大学に行く、という短期的なヴィジョンしか持っていない(学生も教師も親も)のであれば、履修漏れというのも仕方ない話だ。
ただ、世界史とかが必修になっているのはどうしてか、ということを考えれば、中長期的な視野に立ったとき、必要だから設定されているのだろう(というか、文科省にそこまでの見識がどれだけあるのかということも疑うべきだろうが、ここではそういうことにしておく)。


実は、教育における中長期的ヴィジョンについては以前書いた
そこでは、鈴木謙介カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)を参考にして、現代が短期的なモチベーションの繰り返しになっていることを指摘した。
中長期的あるいは全体的な見通しがつかないので、短期的な見通しによって行動する。そこでは、「ハイテンションな自己啓発」が繰り返されることになる(大学受験が、「ハイテンションな自己啓発」の典型例であることは、予備校の授業や『ドラゴン桜』を見るとよく分かる)。
こうした現象は、長期的に一貫した近代的自我というアイデアとは根本的に対立する。
このことをどう評価するか、ということが非常に重要なこととなってくると思う。
否定的な評価をする場合
これはあくまでも近代モデルを推奨する立場である。この立場にたって教育を考えるのならば、教育というのは、長期的に一貫した人格を形成する場である。そこでは、大学受験などはあくまでも副次的なものとして位置づけられるだろう。受験科目の有無よりも、長期的に有用と思われる科目が優先的に教えられるべきだろう。具体的なカリキュラム編成は、専門家の仕事となるので、ここで述べることはできないが、例えば個人的な要望としては、哲学の時間をつくる、とか、論理的思考や記述の能力を養成する、とか。あるいは、「情報」の時間に教えるべきことは個々のアプリケーションの使い方ではなく、コンピュータの基本的概念やwebの理念などになるのだろうか。
逆に、肯定的な評価をする場合
これは、(仮に)ポストモダンな立場ということができる。この立場は、統一された人格というものを必ずしも重要視しない。「いま、ここ」に立ち上がったコンテクストの中で求められる能力を身に付けていくことが、教育に必要とされる。上の例と対比させるのであれば、受験科目が優先されることになるだろうし、また「情報」の時間に教えられるべきことは、すぐに使えるアプリケーションの使い方ということになるかもしれない。


これだけでは、虚学と実学の対比、のように見えるかもしれないが、虚学か実学か、はこの際それほど重要なことではない(現実的には後者の立場に近くなればなるほど実学が優先されるだろうが)。その場その場で、必要なものを身に付けていくことになるかどうか、である。
例えば、ある何かについて調べたい、知りたい、と思ったとき。
近代的な立場にたてば、その分野に関する入門書から読み始めて少しずつ専門書へと進んでいく過程が必要であった。これはすなわち、ディシプリンである。
一方、ポストモダンな立場にたてば、googleを使えばすむことである。
中長期的な体系の確立を目指すか、短期的にその場で必要とされるものだけを集めるか、という違いである。
これは、知識面だけでなく、人格面にも通じる話だと思う。


さて、近代的な立場とポストモダンな立場、とどちらがよいか、という単純な話でもないだろう。
ここであえてポストモダンという、現在では否定的な言葉を使ったのは、かつてラディカルなものとして語られ、しかし今は批判されている考え、という含意がある。
個人的に、現在というのは保守反動の時代だと思っている。60〜80年代にかけてのポストモダニズムというラディカルな考えに対する、保守反動である。
現在、保守的な言説が受け入れられているのは何故か、ということにたいして、考えるべきは、保守的な言説が中長期的な視野を提供している(あるいは提供しているように見える)ことであろう。
保守言説は、近代-国家の再建・徹底を目指す(必ずしも全ての保守言説がそうなわけではないが)。あるいは、国家と自己を一体として語るような語り口(そういうものがあるとして)には、国家との一体化によって、自己を中長期的に一貫したものせしめる、という目論見があるのかもしれない。
とはいえ、現実において、中長期的に一貫した何かというものは期待しずらくなっているのもまた事実ではないだろうか。その際、ポストモダンな立場というのは、なし崩し的に現実的な処方となってくる。
だが、そもそもポストモダンというのは、近代を徹底してこそ見出されるものなのではないか。
というわけで個人的には、理念的にはポストモダンを目指しつつ、実践的には近代を振る舞う、というダブルバインドな態度こそが、選択すべき道なのではないか、と思っている。甚だ困難な道ながら。