『増補サブカルチャー神話解体』宮台真司他

待望の文庫化。
この作品のタイトルはよく聞いていたのでいつか読まなければいけないのだろう、と思っていて、文庫化を機に手に取った。
文庫版解説で上野千鶴子も言っているが、これが宮台真司の中の必読本であることは間違いない。
こんなこといえるほど宮台の本は読んでいないのだが、宮台はこの本と『サイファ覚醒せよ』を読めば、大体分かるのではないか、と思う。
宮台の映画評論などが前提としている議論が、この本では全て行われている。


理論と実践がこの本では強力に絡み合っている。これはすごいことだ。
社会状況*1にたいし仮説をたてる。
大規模なアンケート調査と統計処理に加えて、インタビュー、参与観察によってデータを揃える。
仮説とデータが相互に噛み合うさまが面白い。
仮説に基づきデータを集め、データから仮説をたてる。
これによって、戦後から90年代初頭までの日本社会の見取り図を、実に大胆に提示してみせる。その大胆さには驚かされるばかりだが、論理とデータがそれを支える(もしくは支えているように見せる)。
個人的には、この見取り図にはかなり納得したのだが、考えてみればもともと自分は宮台の論にかなりコミットしているので当然といえば当然か。逆に言えば、この見取り図はやはりどうしても、宮台の立場に拠ったものなのである。
この本で繰り返し重視されるのが、少女マンガである。
もちろん宮台は、少女マンガに注目した必然的な理由を解説しているが、しかしやはりその選択には彼の少女マンガへの強烈な愛着があるに違いないだろう。
理論と実践を支えるモチベーション、あるいは心情的前提が見え隠れする。


この本は、ポストモダン的言説へのアンチとして企図されたと宮台は言う。ポストモダン的言説に代わり、コミュニケーションによって成り立つ社会システム論に基づく言説を展開する。だが、現在の読者としては、周囲にポストモダン的言説など見出すことが難しい。宮台が仮想敵として想定したポストモダン的言説がどのようなものなのか、うまく実感できない。さらにいえば、アンチ・ポストモダン的言説として提出される宮台的言説こそが、今周囲を満たしていることの方を強く実感する。
そしてだからこそ、この本は読まれるべき本である。宮台がこの本で提示しているモデルは、かなりの程度で現在にも適用可能である。


マンガの分析に関しては、宮台は今でも映画評論などでも使っている、意味論、コードというものを使った内容分析を行っている。これは、昨今のマンガ論の主流が、表現論、表象分析であることを考えると、異色かもしれない。
作品の内容を機能によって、かなり単純化して分類していく手法は、何度も言うが大胆であり、また無茶のようにも見える。
人格システム論というのが何となくどういうものか分かったことは、宮台の言っていることを理解する上で有用だった。
状況を予期しながら、しかし期待はずれが起こったときにどう対処するかで、いくつかの性格類型を分類する、というものである。分類されたそれぞれの性格類型の人間が、どのようなマンガや音楽(の機能)を享受するか、という分析は、思わず自分はどれだろうななどと考えながら読んだりして、なかなか興味深かった。
しかし、宮台理解の上で重要なのは、性格類型の分類やそれと各メディアの機能とのカップリングを知ることではない。宮台が、人間の行動を、期待はずれが起こったときの対処の仕方に注目して分類していることである。これは、宗教分析にも繋がっていくし、『サイファ覚醒せよ』へも繋がっていく。


70から80年代のマンガ、音楽に関する資料として読んでいくこともできる。かなりの分量があり、資料的価値もそれなりにあるだろう。
しかし、宮台真司を理解する上で実に重要であり、また宮台真司を理解することと現代社会を理解することにもまた密接なリンクがあるのではないか、と考える上でも価値がある。
純粋に読み物としてしまっても面白い気がする。
各メディアの具体的分析が面白いので、分量が長いけれど読んでいける。しかし、全てを貫く基本的なアイデア(偶発生の増加! 選択の前提の再帰化! 短絡化!)は序章に出尽くしている。あとは、序章のアイデアを各具体的メディアの分析で繰り返していく。重要なことは何度もしつこく繰り返されるので読みやすいし、逆に言えば飛ばし読みも可能にする。
序章と5章によって理屈は分かるようになっている。あとがきを読むことで宮台の意図が分かる。そして、上野千鶴子による文庫版解説を読めば、この本の長所と短所が過不足無くまとまっているだろう。

*1:本書では二つの前提がある。社会とはコミュニケーションの総体であること。サブカルチャーはコミュニケーションのありかたを反映しているということ