仲俣暁生『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』

2003年から2006年にかけて、群像やユリイカに掲載された文章がまとめられたもの。
それほど長くない文章なのだけど、その中で次々と異なる議論を展開していくので、軽い文体で綴られながら読みにくいものもある。
「羊男賞」の話は、面白くてワクワクさせられるけれども、思いつきを並べただけのようにも読めてしまう。
そんなわけで前半は、仲俣の文章よりも、舞城王太郎愛媛川十三の文章の方が面白く読める。
「僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。」「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって。」「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」の3編が、特別収録されているのだ。
特に「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」は、舞城エッセンスをよくまとめた短編になっている。作品の出来としては、単行本化されている作品には劣るけれど、よい。
さて目次を見ると、後半に、吉本隆明小林秀雄、内田百ケン(門構えに月)、寺山修司に対する各論が並んでいる。最初目次を見たとき、ここらへんがハードルに思えたのだが、読んでみるとこの一連の論考が面白い。
吉本隆明論では、70〜80年代にかけての情勢と、その際に吉本が発見した「マスイメージ」「ハイイメージ」「ポップ文学」と、仲俣暁生個人の読書歴が語られていく。個人史を世界史へと仮構していく、あたかも古川日出男のような試み(同書収録の古川論を見よ)でもある。また、いわゆるエンターテイメント文芸から文学への橋渡し役としてW村上と吉本が仲俣の中で果たした役割というのも分かる*1
最も面白かったのは、意外にも(失礼)小林秀雄論であった。
「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」「遊星から落ちてきた「X」の悲劇」「テラヤマシュージ・ツールキット」「この街のすべてがポップなゴミでできていることは、なんてつまらなくも素敵なことだろう」の4編こそが、この本を、そして仲俣を貫く中心的なテーマを論じている。
『ポスト・ムラカミの日本文学』において仲俣は、ポップ文学の作家たちと共に「闘う」ことを示した。というよりも、共に闘っていく仲間を提示した。しかし、それは何に対する戦いであるのか。その答えがこの4編に載っている。
仮想敵は、未だに「青春」や「青春の終焉」を語る者たちである。
そうではなく、いまは「終わりの終わり」をこそ語らなければいけない。
小林秀雄が「故郷喪失者」であり、寺山修司が「語りかけるべきものがなにもない」者であるように、私たちには(その終焉を自覚するという形での青春も含め)青春も故郷も歴史も何かもがない。私たちは、ただガラクタの中で生きて、ガラクタを作り続けている。
そしてそれこそがポップである(あるいはまた、東浩紀いうところのポストモダンと言い換えることも当然可能だ)。
小林秀雄は、「故郷喪失者」として「故郷=青春」を喪失していない中原中也に憧れたし、寺山修司は語るべきものが何もなかったのにもかかわらずイコンとされてしまった。
しかし、現在では違う。全ての者が「故郷喪失者」となり、憧れる対象となるような、未だ故郷を喪失していない者はいない。寺山修司はイコンからツールキットとなる。
古川日出男は、はっきりと歴史を失った者からの物語を紡ぎ出すのだ。
寺山修司は「書を捨て、町へ出よう」と言ったが、仲俣がその言葉を知ったとき、「町」はもはやなくなっていた。仲俣はインターネットの世界へと出た。
「終わりの終わり」や「ポップ」は、メディアの中の世界に用意されている。そう考えるとき、吉本隆明論や内田百ケン論の意味もおぼろげながら見えてくるだろう。

しかし、いまや「一九八二年」も「八九年」も同じくらい遠い過去である。一九九〇年代という焼け跡の時代を経て、いま私たちはどのような「現在」を生きているのか。その時代を語るのに、イメージという概念ははたして有効なのかが、あらためて問われるべきだろう。なにより、失われてしまった「暴力とポップ」の行方はどこなのかが私には気にかかる。
「暴力とポップ吉本隆明論」P.202

ポップでくだらないゴミで充ち満ちた私たちの世界を、古川日出男は「レプリカ」という言葉で表現しきっている。でも、まぎれもなくそのニセモノの世界で私たちは生きているのだし、そこから生まれてくる言葉は、なんの模造品でもなくて、やはり本当の「言葉」なのだ。
「この街のすべてがポップなゴミでできていることは、なんてつまらなくも素敵なことだろう」P.253


『ポスト・ムラカミの日本文学』では、共闘する仲間が示された。
本書では、闘うべき敵とそれを乗り越えた先にあるビジョンが示された。
この後に『極西文学論』が来る、という寸法になっている。

ものごとを考えてきた順番からいうと、今月出た『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』は、02年の『ポスト・ムラカミの日本文学』と04年の『極西文学論』の間に位置している。だから、『極西』を読んでよく分からなかったという方はぜひ『鍵〜』を読んでほしいし、『鍵〜』では不満という方は、ぜひ『極西』を読んでみてほしい。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20070321#p1


「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか


追記(070322)
ポップでポストモダンな状況とは、漠々とした荒野であり、不毛な地でもある。
何故、ポップ=ポストモダンか、といえば、そこでは既にハイカルチャーサブカルチャー、マスカルチャーといった概念が失効しているからだ。それは相対主義の地獄とも、フラットな文化状況とも言えるだろう。文化的ヘゲモニー闘争が終焉したのだ、とか、マジョリティ文化が消えたのだ、とかとにかく色々な言い方が出来ると思う。サブカルでもマスでもマジョリティでもなく、ポップ。
しかし、世界がまだ不毛ではなかった頃を知らない身では、その不毛さを嘆くこともない。
仲俣はそのようにして、ポップというくだらなさを全力で肯定しようとする。そのくだらなさを嘆くような身振りを許さない。
ところで、宮台真司大塚英志は、まさにこのポップ=ポストモダン状況を準備した者たちだろう。彼らは、ハイカルチャーサブカルチャーの階級差を突き崩すことに専念した(あるいは、カルチュラル・スタディーズと呼ばれる動きもそれと同様かもしれない)。しかし、彼らは2000年代から急展開する。
彼らは、ポップ=ポストモダン状況の不毛さに愕然とする。そこは、相対主義の地獄であった。彼らは共に、近代(モダン)への再帰的コミットメントを促しはじめる。それは、宮台においてはパトリであり、大塚においては憲法である。パトリとは「故郷」であり、憲法とは「歴史」だろう。共に仲俣やポストムラカミ世代がなくし、そもそもなくしてしまったことすらも忘れてしまった概念だ。
再帰的コミットメントは、コミットメントする先が失われていることを自覚しているからこそ可能だ。だから、宮台も大塚も「故郷」や「歴史」の存在を無邪気に信じているわけではない。ないことはわかっているが、それでも「地獄」を回避するためにあるかのように振る舞う。そもそも近代とはそういうものだ。
だが、仲俣が闘おうとするのは、そうした近代の振る舞いに対してなのだ。
仲俣が共闘できるのは、やはり東浩紀北田暁大であろう。彼らをそれぞれ、大塚と宮台のポスト的な存在として規定するとすれば、彼らは二人とも「地獄」に耐えることを選ぶのだ。
仲俣、東、北田がポップ=ポストモダン状況にどのように対処するか、具体的な戦略は異なる。だが、宮台・大塚といった先行世代の、近代への再帰的コミットメント戦略に対しては、彼らは反発するだろう。
ところで、阿部和重の『ミステリアスセッティング』はその点で興味深い。
無論、阿部は、近代などには背を向けて、ポップ=ポストモダン状況を描こうとしている作家だ。しかしそれは無邪気な全肯定などではない。「ポップと暴力」というテーマが貫かれていることと思うが、『ミステリアスセッティング』においてそれは確かに方向を変えたように思う。

*1:仲俣にとっての吉本、というのはもしかすると自分にとっての大塚英志なのかもしれない