『魔法陣グルグル』から遠く離れて

魔法陣グルグル考
↑この文章の要約


衛藤ヒロユキは、実に論ずるに足るマンガ家だと思っているので、こういうのを発見できて非常に嬉しい。
特に『魔法陣グルグル』というのは、ドラクエのパロディとして成立し、そのパロディ性(つまりある種の批評性)を結構極めた作品なのではないか、と思う。さらには、この作品はゲームのパロディでありながら、ゲームも発売された。あるいは、彼の絵柄の変遷、というのもテーマとしては面白いかもしれない。彼ほど絵柄が変わった(そして現在進行形で変わっていく)マンガ家も珍しいように思う。特に『がじぇっと』と『衛星ウサギテレビ』の間に見られた変化などは、意図的なものを感じてしまうのだが、絵柄については論じる道具を持たないので、誰か論じる人が出てくるのを期待するのにとどめる。


上の論考は、非常に長い。また、読みにくさに関して人のことを言えたものではないのだが、読みにくい。でも、すごい力作だと思う(これまた、そんな偉そうなことを言えるような立場ではないのだが)。
何故、これをとりあげたか、というと、自分もまたかつてグルグルについて論じたことがあるからである。
「ファンタジーマンガの終焉〜『魔法陣グルグル』について〜」
グルグルという作品が、いわば「マンガのモダン」と「マンガのポストモダン」の中間的な存在であること、そしてそれをククリの恋愛に着目して論じること、といった点に、この二つの論には共通点があると思ったのだ。
ただし、もちろん相違点も多い。
僕は、壮大な体系をもつ作品群を「正統ファンタジー」と仮に名付け、それに対して、体系よりもむしろミニマムな人間関係を重視する作品群を、佐藤心にならって「現代ファンタジー」と呼ぶことにした。
その上で、グルグルは「正統ファンタジー」と「現代ファンタジー」の両方を志向しようとした作品である、と論じた。
つまり、「魔王ギリを倒す」という命題を頂点におく体系を持った「正統ファンタジー」としてストーリーを駆動しつつ、「パロディ」という手法においてそれらを徹底的に解体する。一方で、ククリとの恋愛を主題に置くことで「現代ファンタジー」への先鞭をつけた、といった次第である。
それに対して、彼の論考はもっと大きな枠を広げてみせている。
RPGのパロディであることに着目し、いわばグルグルをメタフィクション的な作品として捉えるのである。
その際に出てくるのが、「独我論的」「機械論的」というキーワードである。これは、東浩紀のいうところの「ゲーム的」に近いであろう。
プレイヤーにとっては「独我論的」であり、キャラクターにとっては「機械論的」である、というゲーム的認識だ。
ところで、グルグルのパロディ=ギャグは、プレイヤーレベル(メタレベル)で展開されるべきものが、キャラクターレベル(オブジェクトレベル)で展開されることによって行われている*1
そして、その齟齬がククリの恋愛を阻むのであり、またその齟齬の解消によってククリの恋愛はかなうのであろう。


と、以上の要約は、かなり上の論考を自分の論考に引き寄せる形で解釈させてもらった。
この論考の著者は、このプレイヤーレベルとキャラクターレベルの認識の齟齬を、さらに東浩紀/本田透、マッハ/レーニンの対立を通して論じている。
ククリを、データベースに回収されないもの(残余?)の象徴としてみる、というのは面白い視点だと思う。


ただし、主に前半部。『テヅカ・イズ・デッド』のキャラ/キャラクターの解説に多くを割く必要はなかったのではないだろうか。
また、『GUNSLINGER GIRL』への言及は、「独我論的」「機械論的」を導くのに必要だとしても、『鋼の錬金術師』への言及は不要であるように感じた。
鋼の錬金術師』で言われている「偽物」への感覚は、「独我論的」な感覚とはまた異なるものではないだろうか。
この論考が読みにくくなっている一因としては、外見としては似ているが実際には違う問題を同時に解こうとしているからではないだろうか。


最後に、僕にとってもガンガンというのはそれなりに思い入れのある雑誌である。
ガンガンの掲載作品のレベルが落ちたことは、非常に残念に思っている。
一方で、ファンのコミュニティに属していたことがないので、ガンガンを巡る言説に触れたことがない。
それで、この論考の最後に出てくる、「ガンガン系」とか「同人的」といった言葉の指すものが分かりそうで分からなかった。また、そうした状況を巡る論者の焦燥のようなものも、共感するには到らなかった。
とはいえ、稚拙ながら書き上げ、しかしどことも繋がらぬままだったグルグル論を持つ自分としては、意味のある出会いだと思いたい。

*1:上の論考での例示をあげるなら、「画面は開発中のものです」「けいけんちをくれ〜」といったセリフであろう