集団の取り扱い

環境知能シンポには、色々なトピックが溢れていて、色々な話をしたいんだけど(ロボットの話とか、人間らしさの話とか)
ちょっと今思いついたことをちらほらと。
つまり、今まで人間は、あるいは近代社会は、真に集団というものを自らの体系の中に組み込むことが出来ていないのではないか、という話。
会社というのは、集団であるが、法人として法律上の人格を与えられた個体として認識される。
国家というのも、これまた集団ではあるが、その成立過程において人格を持った個体として扱われていた(る)。
先発近代国家(英仏)は、絶対王政期に国王=国家という形で、国家という集団を一個体として取り扱う枠組みを発明した。
後発近代国家(日独など)は、その近代化の過程において、国民国家をあたかもある統一した人格をもった個体であるかのようにして統一や独立を果たした(ある極端な形が、ヒトラー天皇への一体化)。
つまり、近代の政治・法体系というのは、集団を純粋に集団としてではなく個体としてしか取り扱えないということなのではないだろうか。
しかし、現在において、集団は集団として取り扱った方が、効率や利便性の上で有用である公算が高い。例えば国家であれば、それは複数のエージェントの複合体として捉えた方が、より実体に近いであろう。
あるいは、今後益々、分散した知や創造のあり方、というのは増えていく。知的財産の話をする場合、この分散化する知や創造をどのように捉えるか、という問題が出てくるだろう。
今後、集団は、仮想的に個体として考えるのではなく、安富歩のいう「コンテクスト」として考えていく方がよいのかもしれない。
ここでいうコンテクストというのは、散逸構造系とか複雑適応系とか言えるのかもしれない。流動的な個々の構成要素から創発した上位概念。例えば、生物の個体は個々の細胞から創発した上位概念といえる。そして、サイモンのように考えれば、それらはさらに階層構造を持つ。いわゆる個体→群れ→社会とかいうように。
だから、今まで個体だと思われていたものも「コンテクスト」として捉えられるようになって、個も分散化していくかもしれない。
統一された個体として認識するのではなく、分散した複雑なものとして認識すること。
近代とポストモダンの差がそこにあるのかも。


関連エントリ
環境知能シンポジウム2006
東は、責任という概念から近代の個人や法人の概念を捉えているのだと思う。責任をとらせるには、統一した一個人でないと困難。ただ、その困難は技術的なものなのかも。
知の分散に関しては、下條が指摘している。
結局、中長期の見通しを持てるかどうか、ということか
個人を、統一して首尾一貫したものとして捉えるのが近代。もはや不可分individualではないものだと捉えるのがポストモダン
戸田山和久『知識の哲学』
知の分散について指摘している。
安冨歩『複雑さを生きる』
集団というものが「複雑」に成立していることについて。「コンテクスト」とか。
InterCommunicationVol.56
会社は、個々人の集団としてではなく、法人という一個体として扱われなければならない、と岩井は言う。
集団は学習しない、という安富や、集団が学習するプロセスを研究している井庭も面白い。
『システムの科学』第3版
サイモンは、世界を階層性によって切り分ける。
S.A.C.
集団を規定するものとは一体何なのか。笑い男コンプレックスと公安9課コンプレックスの違い。