小説トリッパー大塚英志

本題は、自民党の提出した憲法草案に関するもの。
id:sakstyle:20051215:1134641477で書いたとおり、大塚はエリートが大衆を愚かだと思っている、と指摘する。そして、その事情は右でも左でも同じである、と。
また、大衆を愚かだと感じるとともにそのエネルギーに恐怖も感じている、ゆえにエリートは大衆を如何にコントロールするか、という術を身に付けていく。それがid:sakstyle:20051215:1134641477で使った言葉を使えば、「折衷(啓蒙)」ということになる。
戦後民主主義」とは要するにそれのことであった。
戦後民主主義」にしろ「近代」にしろ、それはフェイクに過ぎない、というのが大塚の基本的な理解であり、大塚が江藤淳にこだわるのは江藤もまたそういう認識を持っていたから、らしい。大塚は数年前から「戦後民主主義」を擁護する立場にあるが、それがフェイクであるという認識を捨てたわけではない。
では、何故フェイクであるものを擁護するのか。
それが社会を維持する秩序を形成する「ことば」となるからである。「本音」と「建前」の「建前」なのである。「本音」と「建前」では「本音」が重視されがちだが、「建前」には社会を円滑に維持する役割がある。
要するに、本音では韓国が嫌いかもしれないけどそれをそのまま口に出すと角が立つでしょ、という話なのだが、それは別に自虐でもなんでもなく円滑な関係を維持するための戦略に過ぎない。
しかし、それがなくなっている。
大塚は、今回の小泉選挙で保守系の雑誌が小泉批判をしていることに注目する。もとより、保守の掲げる「ナショナリズム」にしても、「大衆」をコントロールするための「啓蒙」でありフェイクであったのだが、そうしたフェイク性の抜け落ちた、「本音」の発露に、保守系雑誌もビビりだしたのだろう、という指摘であった。
小泉劇場とは、「大衆」型民主主義が容赦なく現れて「エリート」を脅かす出来事なのかもしれない。
大塚が苛立つのは、「エリート」が自分たちで「ことば」や「建前」を壊しておきながら、その代替となる「啓蒙」手段を用意できずにいるからである。故に大塚は、「戦後民主主義」を擁護しつづけるしかないのである。
蛇足ながら、isedや東が目指しているのが「ことば」ではない「啓蒙」手段であることは明らかであろう。

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号