小熊英二『民主と愛国』

いやあ、とにかく長かった。
しかし、難しいことは全然書いていなくて、読みやすい文章なので、非常にさらさらと読める。本が重たい*1ことを除けば、長さはあまり気にせずに読むことができると思う。
あと、何度も何度も同じことが繰り返し出てくるので*2、またそれね、という感じで読んでいける。


この本の大きな主張としては、
まず、戦後思想とは、戦争体験の言語化である、ということ。
次に、新しい思想であっても、古い「言葉」を使って表される、ということ。
そして、一口に戦後と言われるが、それは大きく二つに分けられる、ということ。


第二次大戦によって、多くの日本人が衝撃的な体験をすることになった。
その言葉を絶するような体験を如何にして言語化していくか、それが戦後思想である。
そしてその言語化の際、どのような言葉を使うかというと、それは実は戦中、戦前の言葉であったり、「近代」とか「革命」とかいったヨーロッパの言葉であったりした。
ただしそれらは、戦争によって言葉を失ってしまった人たちが、とりあえず自分たちの体験を言語化するために、周囲にあるのをかき集めた言葉であった。
だから、戦後思想家が、「個人」とか「民族」とか言うときに、その言葉だけを見るのではなく、その言葉にどのような体験を込めているのかを見なければならない。
しかし、戦争体験というのは、実は人によってバラバラであったし、また戦後生まれの世代にとってはもちろん知る余地のないものである。だから、それらの言葉は誤解に曝されてしまった。
その誤解を解くために書かれたのがこの本であるわけだが、そのために、戦後という時期を二つに分ける。
まず、1945年から1955年までが、第一の戦後。まだ、日本が貧しくて、社会情勢も不安定だった時代。
それ以降が、第二の戦後。豊かで安定した時代。
そして、大体この時代区分を区切りとして、いわゆる「右」と「左」の言語体系が変わる。
つまり、第一の戦後においては、「左」の方が改憲派で、「右」の方が護憲派だったりしたわけである。


この本が読みやすいことの一つの理由として、各思想家の思想内容を見ていくに当たって、その人の個人的な体験や当時の心情などを扱っていく、ということころがあると思う。
また、わりとクールな距離感を保っており、肯定的に扱っている思想家に対しても、時折厳しい一言を投げかけたりしている。


戦後の(小熊言うところの第一の戦後)日本の社会状況というのが、あまりにも今の日本と違って結構愕然とするところがある。
まず、圧倒的に貧しいのである。
データの上でも、また人々の意識の上でも、日本というのはアジアの後進国という位置づけの経済力しかなかったのである。
敗戦直後なのであるから、それも当然なわけであるが
例えば、サラリーマンというのが、戦前・戦中からそうだが、当時はまだエリート層でごく一部でしかなかったり、あるいは都市と農村での間の格差が激しかったりしている。都市と農村との間の格差というのは、経済的格差だけではない。戦中に都市から農村へと疎開した人たちは、疎外感を感じざるをえなかった。
あるいは、共産党への支持の高さである。
一点としては、貧しさに起因しているところもあるのだろう。当時の知識人は、共産党支持者でない者であっても、戦後、日本でも革命が起こって共産化すると普通に考えていたらしい。
そしてもう一つは、獄中非転向幹部の存在である。
また、これは小熊は特に何も言っていないが、読んでいて思ったこととして、マルクス主義大きな物語として機能していた、ということが何となく分かったような気がした。
マルクス主義歴史学とかマルクス主義言語学とかがあるわけで、本当にありとあらゆるものをマルクス主義によって説明しようとされていたのだな、ということが感じられた。
それから、政治への関心の高さがある。
この時期に訪米した者が、アメリカ人が政治のことに全然関心がないことにショックを受けている。
食うや食わずの当時の日本人は、必然的に政治への関心も高かったらしい。
下山事件』を読んだときも、この40年代後半の日本というのが、妙に混沌として良くも悪くも熱気のある時代だったのだなと感じたのだが、同じようなことを感じた。
同じ国とはちょっと思えない程である。


まず、戦後思想家としてあげられてくるのが、丸山真男である。
彼や彼と同世代の思想家の多くは、「近代主義」を掲げた。この「近代主義」は、のちに吉本隆明らによって批判されていくわけだが。
彼らは、戦争中に30代であった。戦前から戦中にかけて、いわばインテリ層として知的で自由な空気に触れていたわけだが、それが崩壊していく様を見ていたわけである。
彼らは、自分の教え子を戦場へ送ったり、食うために仕方なく戦争賛美の文章を書いたりといった「戦争体験」を送った。
また、戦中から敗戦後の混乱期にかけて、町内のボス的な者(つまり下士官レベル)がエゴイスティックに権力を行使していったことを、苦々しく感じていた。
さらには、日本人の特徴としての無責任の構造も見て取っていた。
そこで彼らは、責任と連帯をとることのできる「近代的個人」や「国民」「民族」などを称揚していくこととなる。
彼らは、「明治」を理想の時代と考え、「大正」を理想の時代と考える彼らよりもさらに上の世代であるオールド・リベラリストたちを批判した。
またこの時代には、天皇への戦争責任を求める主張も多かった。天皇への敬愛と共に天皇への責任を求める声も大きかった。退位せずにマッカーサーなどと並んだりする天皇に対して、幻滅する者たちもいた。いわば、「武士道」精神にもとっているように見えたのだ。この「武士道」という言葉は、「近代的個人」を主張していた者たちも使うことがあった。現代から見ると「武士道」と「近代的個人」は矛盾しているようにも見えるが、彼らにとっては共に「責任」をちゃんととる人間を目指すという点で一貫していた。
また、この頃共産党の支持が高かったことは既に述べたが、その要因として獄中非転向幹部の存在があった。
戦中にかけて、多くの知識人が「転向」を経験していた。つまり、何らかの形で戦争協力をしていた。それに対して、徳田球一宮本顕治は、獄中非転向を貫いた。これが、戦争協力をしてしまったことに負い目を持っている多くの人々から、敬意を抱かれる要因となった。必ずしも共産党を支持しなかった者でも、非転向に対して敬意を抱いていた。
ただし一方で、そうした非転向幹部は、教条主義的でもあった。そのことが、その後の共産党にとって悪い方に働いていく。
丸山真男たちとも、共産党とも、やや異なるポジションにいたグループとして荒正人らの「近代文学」がある。
彼らは「個人」や「芸術至上主義」を掲げて、共産党系の文学者との間に、「政治と文学」論争を引き起こしていく。
彼らは、あえて当時の共産党からマイナスと捉えられていたイメージの言葉を使い、文学と政治との距離を置こうとした。
観念と肉体の分裂ということが問題であった。これらが分裂せず一致した例としては、政治の側に身を置いた共産党系の文学者と、その逆に政治的無関心を貫き戦中は沈黙を続けた永井荷風らがいた。「近代文学」グループは、両者に注目しつつも、両者とは異なるあり方を模索しようとしたのである。


「民族」ないし「単一民族」という言葉は、いわゆる「右」ないし保守系ナショナリストの語彙のようであるが、第一の戦後の時代においては、むしろ共産党や「左」の使う語彙であった。共産党は愛国を唱えていたのである。
あるいは、9条を巡っても現代とは相違がある。
例えば、平和憲法は当時、むしろナショナリズムの言葉として保守系から歓迎されたのである。これは経済力も何もかも失ってしまった当時の日本にとって、日本という国を誇りに思うためには「平和」という理念しかなかったからでもある。またもちろん、保守系政治家にとってすれば、アメリカとの関係を維持するため、ということもあるし、あるいはそもそも武装解除されていた当時の日本にとって、軍備放棄は理念ではなくて単なる事実でもあった。
共産党は、「民族」や「民衆」「大衆」を強調し、彼らの中に入っていって武装闘争運動をしていくということをしていた。当時、「左」の人間は「市民」という言葉をマイナスの意味で使った。「市民」というのはプチ・ブルを意味していて、むしろ唾棄すべきものだったのだ。
「特攻から共産党へ」という言葉もあった。
また、中国などで共産革命が起こったことによって、アジアへの注目も高まっていった。
ところで、共産党の権威というものは、1955年頃に低下を始める。武装闘争路線をやめたことや、フルシチョフによるスターリン批判などが起こったのである。
結局ここでも、1945年と同じことが起こったのである。つまり、1945年には、「鬼畜米英」と言っていた指導者が突然「民主主義」を唱えたわけだが、この時期、モスクワの方向転換に伴って、共産党の指導者も突然言うことを変えてしまったのである。
この転換に反発して、共産党を離れた者たちがつくったのがブントなどの新左翼である。


戦争体験を言語化したものが戦後思想である、ということでいえば、竹内好が非常に重要で、一章を割かれている。
竹内は、中国文学、特に魯迅を研究していた文学者である。彼もまた、戦中の自分自身に対して後悔の念を抱いていた。
彼は、自己の内面を探り、主体性や自立を確立していくという立場をとった。


安保闘争に触れて、この本の第二部は終わる。
第三部では、全共闘吉本隆明江藤淳鶴見俊輔小田実が論じられる。
ここでは、まず戦後思想家の世代の差、そして世代内部の差が取り上げられていく。
まず「戦前派」、これは敗戦時に30歳前後だった、丸山真男竹内好らである。
次に「戦中派」、これは敗戦時に20歳前後だった、吉本隆明三島由紀夫橋川文三鶴見俊輔らである。
そして「戦後派」、これは敗戦時に10歳前後だった、江藤淳大江健三郎小田実らである。
戦中派は、戦前派を批判した。戦前派は、心ならずも戦争協力をしてしまった後悔を、「戦争体験」として抱えていた。一方、戦中派は、もっとも戦死者の多かった世代であり、その上、戦中は全く影響力を持っていなかった世代である。
吉本や鶴見は、当時の知識人が、戦中にどのような戦争協力をしたかを徹底的に調べ上げて、彼らの戦争責任を問うた。
これは、「第一の戦後」において問われた戦争責任が主に天皇や指導部のものだったのとは異なる、戦争責任論である。「第一の戦後」においては、国民が被害者で指導部や天皇が加害者という図式であったが、この時の戦争責任論は、加害者という枠がもう少し広くなる。ただし、アジアへの加害責任は、一部から言われ始めていたが、まだ大勢を占めていたわけではなかった。
この本では、吉本、江藤、鶴見・小田(ベ平連)がそれぞれ、一章ずつ割り当てられて論じられている。
ここでは、彼らの思想の違いが、彼らの体験の違いに拠っていることが論じられている。
戦中や敗戦時に、どのような体験をしたかによって、同じ世代であっても彼らの思想は異なってくる。
また、そのことによって、「戦前派」に対するスタンスも少しずつ異なってくるし、さらには「戦中ないし敗戦直後、日本人はみな〜と思っていた」というような言い方をしていても、それは彼らの個人的体験を普遍化してしまっているという指摘もなされている。
吉本らによる丸山らへの批判は、戦後生まれの戦争を知らない世代や、その世代の全共闘によって強く支持された。そこで、吉本の認識がのちに広く流布することになってしまったが、それが必ずしも「第一の戦後」の時代の正しい認識ではなかったのではないか、ということも指摘されている。
思想に違いをもたらした体験の違いというのは、
世代の違い、戦地に赴いたか否かの違い、出身階層の違い、都市にいたか田舎にいたか(空襲を体験したかいなか)の違いなどである。
例えば、吉本や三島は、実際の戦闘や空襲を体験していないがゆえに、死へのロマンティシズムがある、とか
戦地へ赴いたことのある鶴見や、大阪空襲を体験している小田は、意味づけられない死を目にしている。
また、戦前はむしろ恵まれた家に育った江藤にとって、敗戦というのは、解放などではなく没落を意味していた。


「言葉」を、体験に即してどのように作り替えていくか、ということがこの本の一つの軸となっており、そういう意味では
第一部では丸山真男、第二部では竹内好、第三部では鶴見俊輔が、特に重要視されていると思う。
鶴見は、戦前から戦中にかけてアメリカ留学しており、そこでプラグマティズム哲学を学んでいる。彼は、英語と日本語の転換、あるいは戦前の日本語と戦後の日本語の転換などを体験して、言語体系が切り替わることを意識していた。言語体系を乗り換えていくのではなくて、古い言葉を如何に換骨奪胎して、自分の言葉として使っていくことをできるか、ということを考えていた。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

*1:重量的な意味で

*2:「当時、「民族」とは「民衆」と同義であった」なんてフレーズ、何回出てきたことか