大衆は愚かか

ついつい色々な情報を一つのスキームで捉えようとしてしまうので、「小説トリッパー」の大塚英志連載記事と、ised理研第6回について、書いていきます
さらなる元ネタとしては、「InterCommunication」で鈴木謙介が提示した、情報社会の未来に関する2つのモデル(アドミニスター・モデルとハッカー・モデル)にあります。この2つのモデルは、鈴木自身によって、ヨーロッパの思想において古くからある2つのモデル(ギリシアヘブライ)を参照していることが明かされます。
要するにこの2つのモデルがどういうことかというと、前者は「エリート」型民主主義、後者は「大衆」型民主主義とでもいえると思います。
前者は、一部の能力の高い者が集団の管理を担うのに対し、後者は、集団に所属する(理想的には)全ての構成員が集団を管理します。
ここで補足的に言っておくと、おそらく現在(あるいは20年くらい前まで)はこの両者を折衷したモデルが動いている。理念的には「大衆」型を志向しつつも、現実的には集団管理(=政治)を行うにはある一定以上のスキルが求められるため、「エリート」が「大衆」の補佐を行う。この「補佐」が要するに「啓蒙」なのであり、またあるいは「批評」「論壇」といったものが担ってきたことなのであろう、と考えています。
そして、大塚が指摘するのは、そもそも「エリート」は「大衆」を愚かだと思っている、という事実である。「啓蒙」という語からもそれは明らかなわけですが(^^;
大塚というのは、あくまでも「大衆」型民主主義を志向する。おそらくこれは、自分は決して「エリート」にはなるまいという自戒でもある。大塚が、例えば宮台や東と決定的に態度を異にしているポイントの一つがここだ。
宮台は、自分の「エリート」意識を一切隠さないし、そしてisedで繰り広げられている議論の根底にも、「大衆」は愚かだ、という考えが見えないことはない。
isedに関してもう少し正確に言うと、「エリート」モデル、「大衆」モデル、「折衷」モデルが混在している状況ではある。そして、「大衆」は愚かだ、という考えにしても、よくある意味での「大衆」や「愚か」ではなくて、そもそも人間には限界がある、という考えであるわけだが。
ただ、大塚の記事にしても、isedにしても、現代とは「折衷(啓蒙)」モデルに対する限界が噴出した時代だ、という認識にあるのではないだろうか。

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号