小説トリッパー斎藤環

セカイ系作品とそれに対する批評の分析を試みる、今回の記事。
要するに、セカイでは成長が不可能である、ということなのだ
あるいはコミュニケーションは出来ても、理解不可能な他者、決して変化しない「キャラ」(伊藤剛)を表現しているのである。
そしてそこでは、成長させよう、理解しあおう、という働きかけは全て暴力となる。
例えばニートを題材にしたある小説が例として出される。たいていのニート(あるいはひきこもり)ものが、「ニートを脱する」か「ニートを徹底する」のどちらかであるのに対し、その小説はどちらでもないらしい。
ニートを脱した登場人物がニートであるもう一人の登場人物に出会う。前者は後者に資金援助を行うが、そうした援助もそこでは暴力でしかないのである。
また、決して変化しない「キャラ」は死なず、「戦争」はより過酷となる。
ここではイジメではなくいじりをテーマにした小説が例に挙げられる。いじりという「戦争」は、果てがなく死がなく、より過酷な状況なのだ。
トリッパーの今号では、評論家が選ぶ新人作家なる企画があったのだが、その中の一つに「宮藤官九郎的なことば」なる表現があった。それは、秩序を破壊し終わりをもたらすことばではなく、その終わりの先で行きつづけるために肯定することば、だという。
成長もない、終わりもない、95年以来そんな光景ばかり見せ付けられてきた中、どう生き続けるのか。
<追記051216>
「コミュニケーションでは決して変化しない」というのは、僕の基本的認識と一致する
この認識があるために、社会学っぽい話で「ニートへの物語投与」批判を行ったのだ。
ところで今回の斎藤環象徴界の衰弱を決して認めないのは変わらないにしても、「中景」がなくなっていくことは肯定した。最近、ラカンについての本を読んでいるので、象徴界の衰弱がラカン的にありえないことであるのは理解したが、じゃあ「中景」というのはこの場合何?そこを肯定すると、結局は東との対立点は解消してしまうのではないか。

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号

小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 冬季号