『RATIO』01〜04

図書館行ったら、RATIOあったし!
3巻と4巻を借りる。
図書館には4巻までしかないが、今のところ6巻まで出ている。鬼界先生の論考は5巻、安藤馨は6巻のようだ。
今まで本屋では、戸田山・伊勢田連載以外わりとスルーしていたのだけど、よくよく眺めてみると面白そうなものが多い。ってか、これはほんと上田哲之さんはマジでいい仕事するなあって感じである。

1巻

大家論文が面白かった
これが法哲学かーって感じ。基本的に野矢茂樹に依拠しつつ、最後にはベンヤミンデリダが出てくるという。

2巻

ってなわけで、持ってる2巻も見直してみたら、橋本努レオ・シュトラウス論が載ってるし
前読んだ時は、橋本努レオ・シュトラウスも知らなかったからスルーしてたな。ってか、東アジア論なんてよく読んだな、自分。
レオ・シュトラウスってネオコンの思想的ボスってことしか知らなかったので、よい入門になった。ってか、アメリカにシュトラウスの弟子大杉w
ものすごく大雑把にまとめると、エリート統治主義者で、それゆえにノンエリート向けへの「公儀」とエリート向けへの「秘儀」を使い分ける。って、宮台真司か。でも、古典哲学の精読がベースになっているという点で、宮台とは違うけど。

3巻

高橋清貴「軍とNGO――人道支援をめぐる軍民関係」

軍が人道支援始めてるけど、NGOは軍と協力するにしろ協力を拒否するにしろ、ちゃんと自分たちの目的意識と政治への意識をはっきりさせないとやばいよ、って話をJVCの人がしている。
人道支援NGOも「非政治的」なものではあるけれど、取り巻く状況が変化して、「政治的」であらざるをえなくなっている。

伊勢崎賢治vs篠田英朗「「非戦の思想」と「責任の思想」――日本の国際正義を問う」

9条のもとにできる国際貢献も色々あるよって話
9条のせいでできない話は、色々おかしいよとか。
この伊勢崎って人、肩書が紛争屋なんだけど、なんだと思ったら、国連の東ティモールやシオラレオネの活動をやっていた人のようだ。
いわゆる戦争学・平和学って奴かなー

乗立雄輝「世界はなぜ、このように存在しているのか」

再読。
やっぱ面白いわ。
新カント学派からプラグマティズムの流れかー。パースの不確定性ってのは、物自体をいったん消去して不確定な物自体をもういちど呼び込むということみたいだ。真の値の知覚は完膚無きまでに不可能ってことで、不可知論のカントよりも踏み込んでいる、と。
ハッキングは、フランスとカナダで大学の先生やってるらしいし。ってか、『偶然を飼い慣らす』はパースについても論じているようなので、やはり読まないとなあ

4巻

白井聡「民主主義は不可能か?――シュミット、フロイト、ラディカル・デモクラシー」

民主主義っていうのは、色々なものが混ぜ合わさったキマイラみたいな思想で、純化しようとすると空虚になってしまうもので、それで今じゃ右派からも左派からもイスラムからも嫌われるものだけど、可能性はあるのかなあという論
まずはシュミットが持ち出されて、自由主義と民主主義の違いが言われる。
次いで、ムフとハーバーマスが比較される。ムフはハーバーマスを批判してシュミットを持ってくることで、多元的で闘技的民主主義を主張するわけだが、白井はムフも結局のところ、ハーバーマスと同じくコミュニケーションに信を置いているのだとする。
コミュニケーションが真理を生成する、これが西洋に根深い思考モデルなのである。
一方、このモデルとは根本から違うモデルを持ってきたものとしてフロイトを持ってくる。というよりも、フロイトの革新性とはこのような思考モデルのパラダイムシフトでしあったと白井は言う。
患者の転移が、真理の生産という構造であり、患者が転移を意識することによってその構造を解消するのが、精神分析という治療なのである。
我々の民主主義への態度は、熱狂的な賛同か批判かという点で、転移のようなものである。この転移を意識した先に、この構造の解消があるのかも、しれない。
ちなみに、最後にレーニンにも少し触れている

「「日本の中世像」を更新する」

日本の中世史研究者、本郷和人新田一郎本郷恵子、東島誠、榎本渉の座談会
日本の中世というと、鎌倉から安土桃山までなのだが、そもそも中世というのはいつからいつまでなのか、というような話もしつつ、進んでいく。
色々なトピックがあって、あまりこの時代をよく知らない自分にはうまくまとめられないが、武家政権と公家政権(のようなもの)が両立していたような時代で、っていうか、まあもう公家政権なんてもう力がないんだけど、しかし何故公家・天皇というのは生き残ったのか、みたいなことが割と中心的なテーマになっていたような気がする。まあ、なんか公式な文書が書けるとか儀式ができるとか、そういったことがあったからじゃないか、みたいな。
あと、交易史を研究している榎本は、そもそも中世って枠組が海にはないことを指摘する。というか、歴史区分が陸の歴史家とは異なるとか。

大家雄裕「憲法とは政治を忘れるためのルールである――理念から決め方の論理へ」

センによる、概念(concept)と構想(conceptions)の違いについてから。
前者は「なぜ〜するのか」、後者は「どうやって〜するのか」。前者を問うても意味はなく、大抵の対立は後者の対立に起因する。
平和や平等は概念面ではみな同意するわけで、憲法の問題は構想の問題。
憲法学者アッカーマンの「憲法政治」と「通常政治」の区別。「通常政治」をプロに任せてしまうための「憲法政治」
憲法問題は、憲法典だけの問題ではなく。関連法も含めて考えなければならない。
日本国憲法が抱えている欠陥としての参議院
衆議院が圧倒的多数だと参議院には何の意味もなく、衆参がねじれていると何も決められなくなる。そして、それを解決する方法が全く法律上には存在していないことが問題。

イタリア現代思想への招待4 美学と現代思想のあいだ

これは、一つの論というよりも、イタリア美学と現代思想の紹介なので、トピックが多岐にわたっている。
「作者の死」という「神話」の指摘。作者の「イメージ」論。
ネオバロックとしての現代。
ポストヒューマンの思想。単なる積極論、楽観論ではない形で。
イメージ論。アガンベン、カッチャーリ、そしてカルキアが「イメージとは何か」を論じている。
またカルキアは崇高論も論じている。偽ロンギノスを読むことで、リオタールとは別の方向性で崇高を論じている。

  • マリオ・ペルニオーラ「芸術と残余」
  • ジャンニ・カルキア「芸術の哲学/哲学の芸術」
形而上学の可能性
  • 柏端達也「「われわれ」の行為とは何か――共同性の形而上学

行為者の個別化をどのように行うか、という問題から、共同行為とは一体何かということについて論じている。
「私は〜をしたい。だから、私は〜をする」と、「私たちは〜をしたい。だから、私たちは〜をする」をどのように区別するのか。
その問いに対しては、造反と犠牲という特徴が共同性にはあるとしている。
そして何より面白いのは、共同行為にも、直接知が成立しているとするところにある。いわゆるアンスコムのいうところの「観察によらない知識」である。

  • 加地大介「現代的カテゴリー論の諸相」

形而上学存在論の関係について軽く触れたあと、存在論の一つの議論としてのカテゴリー論を挙げて、現代におけるカテゴリー論の分類を行う。
具体的には、チザム、ホフマンとローゼンクランツ、ロウのそれぞれのカテゴリー論の比較である。それぞれの相違と類似について。またそれが、彼らのどのような目的と関わっているのかについて。
ところで、こうした形而上学者たちのカテゴリー論もまた、三中のいうところの心理的本質主義のような分類したがりな人類の性質によるところなのだろうか、とか思った。


『RATIO02』 - logical cypher scape
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「世界はなぜ、このように存在しているのか──不確定性の形而上学」『RATIO03』 - logical cypher scape
『RATIOVol.4』『増刊ヤングガンガン』 - logical cypher scape
今日立ち読みした雑誌 - logical cypher scape

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)

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別冊「本」RATIO 02

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別冊「本」RATIO 03

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別冊「本」RATIO 04 (別冊「本」)

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