マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』(田村さと子・訳)

19世紀フランスで女性解放活動家として労働組合結成を呼びかけたフローラ・トリスタンと、その孫でポスト印象派の画家であるポール・ゴーギャンの半生をそれぞれ描いた歴史小説
リョサマリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(旦敬介訳) - logical cypher scape2に続いて2冊目。
本書は「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」が初訳で、それが文庫化したもの(文庫化で版元が移ることもあるが*1、これは河出文庫)。
海外文学読むぞ期間の一環
ゴーギャンにはこれまであまり惹かれたことがなかったのだが、バルガス=リョサの作品は面白そうだなというのと、本作自体もわりと良さそうなので読むことにした。



ゴーギャンは有名人だが、その祖母が活動家であったことはあまり知られていないだろう。実際、フローラ・トリスタンは知る人ぞ知る感じだったのが、このリョサの小説によって改めて注目されるようになったらしい(とはいえ、彼女の著作は以前から2冊邦訳があり、全く無名だったわけでは決してない)。
というわけで本作は(小説なのでフィクションであるとはいえ)、フローラ・トリスタンという知られざる偉人の伝記としての面白さがあるし、また一方で、もちろんゴーギャンの伝記としての面白さもある。
その上で、その構成や語りの妙もある。フローラについてが奇数章、ゴーギャンについてが偶数章で交互に展開されるのだが、いずれも2人の晩年を時系列で追いつつ、かなり自由に回想が差し挟まれて、彼らの生涯全体が浮かび上がるようになっている。その現在と回想の行き来の仕方や構成が巧みにくみ上げられている。
また、語りという面では、語り手がフローラやゴーギャンに対して「おまえ」と呼びかける人称小説になっているのが特徴的である。
一方で、それ以上の何かナラティブ上の仕掛けがなされているわけではないし、物語の展開上も(2人の人生それ自体が劇的ではあるが)、例えば『世界終末戦争』にあったアクション的なクライマックスがあるわけではない。だから、これ以上説明するところがあまりないのだけど、しかし、読んでいて退屈するところがなく、じっくりと面白い。
この面白さを説明するのはなかなか難しい。
もちろん、2人の人生それ自体がドラマティックだからこその面白さではあるのだが、しかし、作家の技術がかなり貢献している感触はある。だが、その技術がなかなか説明しがたい。

フローラ・トリスタンについて

実際には、フローラとポールの人生が交互に展開されるところに本書の妙(の一つ)はあるのだが、ブログ記事もそれにあわせるのは大変なので、それぞれまとめて書くことにする。
というか、小説に書かれているフローラの半生をまとめ直すだけになってしまうが。


物語は、彼女が労働組合結成の呼びかけのための南仏旅行に出発するところから始まる。
この旅行を描きながら、回想が差し挟まれて、彼女の人生の全体像が浮かび上がるような構成になっている。
そうしたプロットの構成を無視して、彼女の人生を要約すると以下のようになる。
彼女は、ペルー人の父親とフランス人の母親との間に生まれる。両親ともいい家の出身なのだが、結婚式が父方とは違う宗教(カトリックなのにプロテスタントで、とかなんかそんなだった気がする)で挙げたために私生児扱いとなる。そして父親が死んでしまったことで、母娘ともども極貧生活に陥る。
印刷工として働いていた工場の親方に見初められ結婚することになるが、元々フローラはこの結婚を望んでおらず、夫婦であるというだけで無理矢理にセックスさせられたことで、完全に結婚制度とセックスを憎むようになる。3人の子どもが生まれた後、逃亡する。しかし、当時のフランスにおいてこれは犯罪行為。
イギリスで女中の仕事をしながら逃亡生活を送る(この時期は、伝記的には謎の時期らしい)。
しかし、ある時、「トリスタンというと、あのペルーのトリスタン家の方ですか」と話しかけられることで、自分の父方の親族がペルーにいることを知って、単身ペルーへと渡る。
彼女はペルーで歓待を受けて、富裕層の生活を知ることになるが、彼女が求めていた遺産相続は結局認められない。
ペルーでは、自分の従妹が修道院でひどい生活を送っていたことを知ったり、共和国になったばかりで政情不安定なために起きたクーデターと、女元帥を目の当たりにしたりする。
彼女は、パリへと戻り、ペルーでの体験を本に書くと、これが一躍ベストセラーとなる。その一方で猛烈に勉強を始め、サン=シモン主義やフーリエ主義に触れながら、自らの思想を練り上げていくことになる。
なお、一躍有名になったために、夫に発見されてしまい、裁判を起こされる。しかし、夫が彼女を銃撃し、夫が収監されることでこの問題は解決を見る。
オーウェンの誘いを受けてロンドンへの視察旅行を行い、貧しい労働者や売春婦の実情についてのルポルタージュを書くとともに、労働者との連帯が必要だとの確信を得る。
こうして、労働組合設立を訴える本を書くとともに、フランス各地を巡り、実際に労働者たちとの会合をもつ旅を始める。
この旅は、訪れた土地ごとにうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある(元々労働者の意識が高いところもあれば、そうでないところもあるし、次第に、官憲の目も厳しくなっていく)。
彼女は、サン=シモン主義やフーリエ主義に大いに薫陶を受けており(サン=シモンには直接会うことができていないが、フーリエには直接会っていて、私淑していた)、行く先々でもサン=シモン主義者やフーリエ主義者の協力を得ているのだが、一方で、彼らとは決定的なところで意見が異なる。というのも、彼らは啓蒙主義的な考えで、ブルジョワが労働者たちを援助するという立場で、労働者自身が何か活動するという観点を持たない。フローラ曰く、彼らは労働者を信じていないのである。フローラは、彼女の経歴からいっても当然だが、ブルジョワをこそ信じていない。サン=シモン主義やフーリエ主義の主張をブルジョワが受け入れるとは思っていない。だからこそ、労働組合こそが必要だと考えている。
また、武力闘争にも反対しており、あくまでも平和主義的な運動を目指すとしているが、ただ、フランス革命のような革命を起こそうとしているのではないかとあちこちで思われている。さらに、最終的にはフランスのみならず国際的な連帯が必要だとも考えていた。
マルクスエンゲルスの先駆者だったのではないかという評価もあって、作中では、印刷所で互いに相手のことを知らずに、フローラとマルクスが出くわすというシーンも描かれていたりする。
上述の通り、フローラはセックスに対して憎悪や嫌悪感を抱いているのだが、逃亡生活以降、ラブロマンスがないわけではない。何人かの男性に言い寄られており、フローラ自身も彼らに気を持たせるような言動をしていたりする。が、そうした男性と愛人関係になることはなく、一方で、パリでオランピアという女性と愛人関係を持つことになる。最終的に彼女とも別れるが、それは労働運動に打ち込むためであった。

ポール・ゴーギャンについて

フローラ・トリスタンと比べて、その孫ポール・ゴーギャンの生涯は有名だろうが、今までゴーギャンにあまり興味関心を持ってこなかったので、タヒチに行ったことくらいしか知らなかった。
上述したとおり、本作では語り手がゴーギャンに対して「おまえ」と話しかける形式をとるが、それ以外にも「ポール」、そして何より「コケ」と呼びかけている。ゴーギャンタヒチ風にいうとコケになるらしく、タヒチではコケと呼ばれていたらしい。
ゴーギャンについて語られる偶数章の章タイトルは、ゴーギャンの作品からとられており、その作品の制作時期の話が書かれている。
タヒチ滞在以降の晩年が描かれるが、やはりフローラの章と同様、回想が頻繁に挟まれることで、ゴーギャンの人生全体が浮かび上がるようになっている。
フローラ・トリスタンについても性格に難ありというところがないわけではないが(すぐに怒って相手を挑発するようなこと言う)、ゴーギャンは完全に生活が破綻している。
ゴーギャンは、西洋美術が文明化してしまっていることを批判し、原始的な美術の復興を主張するが、そこでの彼の原始文明・野蛮の称揚は一方的なオリエンタリズムだとは言えるだろう(ヨーロッパ人に隠しているだけで食人をやっているはずだ、と譲らなかったり)。文明化されていない野蛮で放埒な生活を求めて、フランス郊外、パナママルティニーク島を訪れ、タヒチで生活することになる。さらに晩年には、タヒチですら西洋化を免れていないと考え、マルキーズ諸島に移住しそこで亡くなっている。
フローラとポールでは、その活動内容にせよ、持ち合わせている思想にせよ、性観念にせよ、大いに異なる(もしフローラが孫のことを知ったとしても、全く理解できないだろう。実際には、孫が産まれる前にフローラは亡くなっているが)。
しかし、彼らの生き方は確かに似ているところがある。
2人とも世間で言われるような幸福な生活を、自らの思う使命のために投げ捨てている。
それは、タイトルにあるよう、まだ見ぬ楽園を目指す道だったのかもしれない
(タイトルの「楽園への道」は日本語訳における意訳で、正確には、子どもの遊びに由来するフレーズが使われている)
また、晩年の2人はともに病気に苛まれていた点も似ている。
フローラは、夫からのレイプにより子宮を痛め、さらには夫に銃撃された弾丸が体内に残っており、労働運動のためのフランス旅行中はチフスに苦しめられていた。そうした病苦によってうまく活動できないところも度々ありつつも、それを押してなお旅を続けていた。
ポールは、作中では直接病名が書かれていないが、梅毒を患っており、それが次第次第に進行していく様が克明に描かれている(梅毒は発病した後、潜伏と進行を繰り返すので、病状が回復したように見えた時期のあと、さらに悪化した状態になる)。アルコールやアヘンで痛みをごまかしながら生活している。このために絵が描けていない時期も結構ある。


こういうあらすじよりも、もう少し細部に面白さが宿る作品だったと思うのだけど、それを書き出していく作業は大変なので、ちょっと尻切れ感あるが、とりあえずこんなところで……