大江健三郎「セブンティーン」他(『大江健三郎全小説3』より)

コンプレックスを抱え込み、自慰に耽溺してしまうことへ後ろ暗さを持つ17才の少年が、偶然にも右翼団体に参加することになり、天皇主義へと傾倒していく過程を描いた短編。
大江作品については、先日大江健三郎『芽むしり仔撃ち』 - logical cypher scape2を読んだが、その時にも書いたが、大江作品をいくつか読んでいこうかなと思っている。
「セブンティーン」は、阿部和重が『ニッポニアニッポン』を書く際に念頭に置いていたとされる作品で、それで名前を知っていた。また、9条護憲を掲げ、いわゆる「左翼」と知られる大江が、右翼少年への共感を描こうとした作品らしい、というのも気になるポイントであった。
が、そもそも読む前には、内容や書かれた頃の状況についてはほとんど知らなかった。
「セブンティーン」自体は、短編集『性的人間』をはじめとして、収録している本がいくつもあるのだが、図書館で検索していたら『大江健三郎全小説第3巻』がヒットし、同書には、これまで単行本に収録されてこなかった「政治少年死す──セヴンティーン第二部」も収録されているとあったので、それで読んでみることにした。
「政治少年死す」についても、なんとなくタイトルに聞き覚えはあるものの、単行本未収録の事情などは、実は読むまでは全然知らなかった。
また、せっかく『全小説』を借りたので、他の作品もいくつか読んでみることにした(しかし、全部読むのもちょっと大変だなあと思ったので、なんとなく気になったものだけ)。
読んだ中では、「セブンティーン」「政治少年死す」を除くと「ブラジル風のポルトガル語」が面白かった。

セヴンティー
政治少年死す──セヴンティーン第二部
幸福な若いギリアク人
不満足
ヴィリリテ
善き人間
叫び声
スパルタ教育
性的人間
大人向き
敬老週間
アトミック・エイジの守護神
ブラジル風のポルトガル語
犬の世界

セヴンティー

1961年、大江が26才の時の作品。
冒頭に「コンプレックスを抱え込み、自慰に耽溺してしまうことへ後ろ暗さを持つ17才の少年が、偶然にも右翼団体に参加することになり、天皇主義へと傾倒していく過程を描いた短編」と書いたが、あらすじとしてはおよそこの通り。
17才の誕生日を迎えた「おれ」は、しかし家族の誰からも誕生日について言及されず、風呂場で自瀆にふける。家族の中で唯一誕生日に触れてくれたのは姉だったが、おれは姉を蹴り飛ばして目を怪我させてしまう。
この姉は、自衛隊の病院で看護婦をしているのだが、一方で、都立高校に通う「おれ」は反自衛隊の論陣を張り、姉と口論してしまう。高校の同級生などみな「左」で「おれ」もまた「左」の立場をとっており、姉は姉で自衛隊擁護の論拠の一つとして、農家の二男・三男の就職先になっている旨を挙げていたりするのが、時代だなと思った。
で、姉からつっこまれた部分は、実は「おれ」もまた「左」に対して疑問に思っていた部分で、だから姉に反論できず、思わず蹴飛ばしてしまったのである。
「左」に対する懐疑的な態度が冒頭から描かれているのだが、しかし、「おれ」の内面を占める問題は政治的信条の問題ではない。
学業成績も悪く運動もできず、クラスの中の優等生グループともお調子者グループにも属すことができず、夜になると、自室に遊びに来る野良猫に憧れを覚えながら、死への漠たる不安や孤独感、コンプレックスに悩み、その悩みから逃げるために自慰行為を繰り返してしまう。
この死への不安については、自分が存在しなくなることへの恐怖が的確に描かれているし、自慰行為については、したあとの後悔とか、こんなにしていることが人にばれたらどうしようという恥ずかしさとかが書かれており、10代の悩みとしては、わりと普遍性があるのではないかと思う。
ある意味では誰にでもよくある(だからこそ過ぎ去ってしまえばどうってことないような)悩みに、しかし深く深く落ち込んでしまう10代の精神状況が、前半に描かれている。
クラスのお調子者から「右翼のサクラのバイトをやらないか」と誘われて、「おれ」は新橋で右翼の演説を聴くことになるのだが、そこでそれまでの鬱屈を晴らすように大声をあげて、ボスから賞賛を受けることになる。
それで「おれ」はサクラではなく正式にその右翼団体に加入し、右翼活動にのめりこんでいく。
コンプレックスにまみれた身体に「右」という鎧をまとい、「左」のデモへ勇猛果敢に突進するセブンティーンとなる。
最後、樺美智子が亡くなった日((樺の名前自体は出てきてないが))に、同じく国会前で、自慰とは異なるオルガスムを感じているシーンで終わる
時代的に右翼だっただけで、右翼を他の何かに取り替えても成り立つ話ではあると思う。

政治少年死す──セヴンティーン第二部

まず、本作を取り巻く当時の状況について。
「セブンティーン」が『文學界』1961年1月号に掲載され、翌2月号にその続編として掲載されたのが本作「政治少年死す」である。
ところで、1960年10月に浅沼稲次郎暗殺事件が起こっており、本作の主人公である「おれ」は、この事件の犯人である山口二矢をモデルとしている。
また一方、61年2月には、『中央公論』に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡って右翼の少年が中央公論社長宅にて殺傷事件を起こしており、「政治少年死す」についても大江健三郎文藝春秋社に脅迫状が送りつけられていた。
本作の単行本収録が見送られていたのには上記のような事情がある。
大江健三郎全小説3』は、実に57年後の単行本収録となった。なお、大塚英志この記事によると、webで海賊版が読めたらしい。
60年以上たった今、浅沼暗殺事件については歴史上の出来事としては知っているものの、当時の状況については全く知らずに読んでみると、「57年間単行本未収録なのはありえんでしょ」という感想になる。
というのは、明らかに「セブンティーン」と2作で1セットというか、これがあって内容上も初めて完結する作品だろうと思われるから。
「セブンティーン」単体でも作品としては成立していないわけではないが、「政治少年死す」とセットで読むと、やはり「セブンティーン」単体では不完全な作品のように思えてしまう。
ただし、本書巻末にある尾崎真理子による解説によると、「セブンティーン」自体は浅沼暗殺事件が起きる前に作られた作品であり*1、事件を受けて「政治少年死す」が追加で書かれたようだ。
また、江藤淳は当時の月評において、「セブンティーン」を肯定的に評価したのに対して「政治少年死す」には否定的に評価していたようだ(内面を描くことに徹していた前者に対して、後者はそうではなくなってしまっている、と)。
実際「政治少年死す」は、あまりにも実際に起きた事件をなぞりすぎているのであり、当時リアルタイムに事件と本作に触れていた人からすると、それはかなり気にかかるところだったのかもしれない。右翼からの脅迫とそれを受けての出版社の謝罪、単行本未収録という結果からもそれは感じられる。
さて、物語内容についてだが、「セブンティーン」の直後から始まり、「おれ」の属する右翼団体は、広島の平和祈念式典に左翼学生らが来ると知って、広島へと向かう。しかし、「おれ」の中に国会前で感じられた昂揚は既になくなっている。
ボスである逆木原の方針に不満を覚え、より過激な方向に進もうと考えている者の1人、安西に「おれ」はひかれていくようになる。
広島では左翼学生と激突するが、その日の夜、テレビで作家がこれを批判したため、「おれ」はこの作家を脅しに行く。最初は「おれ」の脅迫に恐怖していた作家が、次第に恐怖に打ち克っていく様を見て、「おれ」は自身を省みていく。
「おれ」は、いまだにコンプレックスに悩み自慰に耽っていた時の自分のままなのではないか、と。そして「純粋天皇」という観念に殉じる(「忠心とは私心をなくすことである」)ために、ことを起こすことを考え始める。
広島から東京に戻ると、安西は既に脱党していた。逆木原は、離反者が続くこと(というか「おれ」の離反)を抑えるための演説をする。終戦後、集団自決したグループの最年少が17才であったことを逆木原は述べ、「おれ」はそのことに感動するのだが、しかし、「おれ」はすでに逆木原ではなく天皇に従うことを決めていたので、脱党する。
安西は、天皇統帥権復活のためのクーデターを画策する右翼だが、(左翼が編纂した)『きけわだつみのこえ』が愛読書である変わり者であり、「おれ」はそこにひかれたのだが、「おれ」にとっての天皇が、安西にとっては「戦没学生」であると見て取っていた。戦後派の「おれ」は、戦中派である安西のそのあり方に好感をもつが、彼とも袂を分かつ。
逆木原のもとにいたときは同団体の施設で、脱党後は、安西に紹介してもらった農場で生活していた「おれ」は、突然実家に戻る。
久しぶりに自室で夜を過ごしながら、「作家」を脅迫したときに考え始めた「使命」や「啓示」のことに考えを巡らし、「おれ」はついに死の恐怖を克服する。
ここまでずっと「おれ」の一人称視点で書かれているが、彼の犯行そのものは、第三者が獄中の「おれ」に宛てた手紙という形式で描写されている。
その後再び「おれ」の一人称に戻り、取り調べを受けている時のことが書かれている。
独房に入れられていることを「おれ」は、自由だと称する。取り調べに対しては協力的ではあるが、人間関係をもとうとはせず、自らの意志で閉じこもっているのだと。
あくまでも単独犯であり、対象は天皇を侮辱している者であれば誰でも良かったと供述している。「おれ」の犯行は、政治的なものではなく、あくまでも自分自身の個人的理由によるものなのである、と。つまり、「おれ」と天皇とのつながりのための犯行であり、共犯者がいるとするならば、それは天皇なのだ、と。
暗殺実行者となり天皇の子となったと確信する「おれ」は、独房の中でも穏やかな心でいるのだが、今後、少年鑑別所へ行くことになり、さらにその後も生きながらえるとしたら、暗殺実行者としての心を維持できなくなるのではないかという不安を覚え、自殺する。本人は、自由でいるための自殺としている。
右翼少年の政治的行動を性的オルガスムスと並置させており、これが当時の右翼の怒りを買ったらしいが(暗殺とオナニーを同一視したと思われたのだろうか)、しかし、そういう話ではなく、精神的逃避としての自慰をやめてある種の宗教的陶酔へ至った過程を描いているわけで、暗殺を自慰行為だと嘲弄しているような作品ではない。
もっとも、「おれ」の動機は、政治的というよりは宗教的な域に達していて、政治的な行動として考えていたわけではない(と少なくとも自供している)のは注意すべきかもしれない。
「セブンティーン」と同様、右翼の部分を他のものに置き換えてもある程度妥当する普遍性はあるだろう。だからこそ、今読んでも面白い作品だと思う。
つまり、彼が行動を起こすにあたっては、その行動が社会や世界を変えるというよりは、まず何よりも自分自身のためにしなければならない行動だと思われたこと、そこに強いモチベーションがあったこととして描かれていて、これは自分が10代だった時のことを思い起こすと共感できるものだった。
一方、右翼的という点では天皇への崇敬が挙げられるだろう。これについては、個人的な共感はもちにくいのだが、しかし、「おれ」の天皇主義は過度に観念的であるという点は指摘しておきたい(具体的に昭和天皇を意識しているようには思われない。一方で、美智子妃についてはその名前を挙げて言及していたりするのだが)。「純粋天皇」という独自の観念に至ってしまっている。とはいえ、これは極度に観念的であるからこそ、刺殺という現実的な行動に結びついてしまったのだろうとも思われる。これまた、かなり思春期的な心の動きのようにも思う。
ところで、普遍性ばかり強調していてもなんなので、時代特有っぽく思われた点もあげておくと、安西が「戦没学生」に拘っていて、それに「おれ」が好感を持っているというところは興味深く読んだ。

幸福な若いギリアク人

初出1961年
製材工場で働く若者が、偶然出会ったソ連への密入国を企てる男からギリアク人*2と呼ばれ、自分が日本人ではなかったことを知る。母親から、ギリアク人の老シャーマンが美幌にいることを知り会いに行く。自分がギリアク人という今まで聞いたこともなかった民族であることに不安と嫌悪を感じていたが、その老シャーマンから「ギリアク人の晴れ男」だと言われ、ギリアク人の歴史や習俗について教えられたことで、自信を得るという話
終戦の際に、サハリンから北海道へと移住してきていて(というか旧日本軍で特務として働いてたらしいので日本人として引き揚げに混ぜてもらったということらしい)、母親は息子にルーツを教えていなかった。
最終的には、自分は運の巡りのいい「晴れ男」なんだとポジティブになるので、いい話として終わるのだが、途中、主人公がギリアク人がアイヌみたいな種族だったら嫌だな、と思うくだりがあったりして、作中で描かれている内容自体は日本の民族問題を考えさせる。
(この嫌だなというのは、アイヌのイメージが派手な民族衣装を着て見世物っぽくなっているからっぽい)
ところで、美幌と国後は具体的に地名が出ててくるのだが、舞台となっている街は具体名が伏せられている。北海道北東のオホーツク海岸の市とあるので、網走だろう。網走から小舟で国後島まで行ったらしい(最初、さすがに国後に磯舟で渡るんだったら網走じゃなくて根室からとかなのではと思ったが、よく読んでみると、舟を漕ぎながら羅臼岳とかを確認しているので、網走から知床半島まわって国後島に行ってるようだ。舟が転覆して釧路の漁船に拾われて帰ってくるのだが)。

スパルタ教育

主人公の若いカメラマンは、新興宗教の信者を撮影した写真に「狂信者たち」とタイトルをつけて雑誌に掲載したために、脅迫を受けるようになる。身重の妻とともに団地の住居に引きこもるようにして、脅迫におびえる日々を送る。
脅迫者は団地内から電話しているのが分かりとっ捕まえるが、自分はバイトに過ぎないという。主人公が犯人を逃がしていたのを見た妻になじられ、主人公はバイトが口にした宗教団体の本拠地へと殴り込む。しかし、実はその宗教団体は脅迫とは関係ないところで……。
脅迫を受ける若い夫婦というモチーフ自体は、大江が「政治少年死す」を書いたことで受けた脅迫からきているのだろう。
しかしこれも、脅迫そのものというよりも、それによって明らかになった夫婦関係(夫を頼りなく思う妻)のようなものが中心になっているのだと思う。

ブラジル風のポルトガル語

初出1964年、『空の怪物アグイー』等に収録
主人公(大江自身をモデルにしたような作家)が、故郷の四国に戻り森林監視員の仕事をしている友人を訪れると、とある集落の人たちがあるとき忽然と姿を消したという。どこへ行ったか分からず、森林組合はその行方を捜している。
後日、彼らが葛飾区の工場で働いてるらしいということが分かり、友人が上京してきて、主人公とともにその工場を訪れる。すると、工場長は、主人公が工場で働くダウン症児たちの取材に来たのかと誤解する。
彼らの行方は分かったものの、その理由などは一向に分からない。子どもの一人が寄生虫に冒され命にかかわる状態になり、都内の病院に入院していた。その子は、集落を離れたことで助かったのだが、そのために集落を離れたわけでもないらしい。
半年後、その子は結局亡くなり、集落の人々はまた元の集落へと戻ってきていた。
再び四国の友人のもとを訪ねる主人公。友人は、集落の人々は今は熱心に畑仕事をしているが、いつかまた離れる時がくるだろうという。そして、自分も離れてしまうかもしれない、と。
この四国再訪の際、この友人は何故かブラジル訛りのポルトガル語を独習しており、集落の人々はブラジルに行くのがいいと述べたりしている。また、習いたてのポルトガル語のフレーズを主人公にも教えたりしている。
(主人公と友人はともに仏文科卒)
最後に、自分もどこかへ行ってしまいたい、君もそうなのではないかという思いをつげ、「オ・セニョール・コンプレエンデ?(貴君は理解しますか)」と友人が尋ねてくるのに対して、「ナウン・セニョール・ナウン・コンプレンド!(小生は理解できません)」と、同じくポルトガル語で答えるシーンで終わる。
一つの集落に暮らす人々が突然全員いなくなってしまい、実は東京の下町に移っており、そして半年後にまた戻ってきて、その理由は全く分からない、というのが、一種の奇想譚という感じで面白いのだが、この最後の2人の会話が何ともよい。
地方で生活するインテリである友人のある種の鬱屈と逃避への思い、それに対して自分も同調するところはありつつも、すんでのところでそれを拒んだ主人公。それが、ポルトガル語という片言の言葉だから成り立っているというバランス感覚というか。

犬の世界

初出1964年、『空の怪物アグイー』等に収録
主人公(大江自身をモデルにしたような作家)が、網走でギリアク人やオロッコ人の取材をしていると、妻から主人公の生き別れの弟が見つかったと連絡が入る。
この弟なる男は、おそらく本当の弟ではなくて、主人公と妻は彼のことを「にせ弟」と呼ぶが、2人は彼のことが気に入って自宅に泊まらせることにするのである。
なお、このにせ弟は、主人公の家系の中では異端視されている大伯母が見つけてきていた。あとで、大伯母自身も弟だと思っていなかったっぽいのと、彼の経歴をあえて伏せていたっぽいのが分かる。
で、このにせ弟は、暴力団とトラブルを抱えていたらしくて、一度姿をくらますのだが、大怪我をした状態で戻ってくる。医者に診せることを頑なに拒み、回復してくるとまたどこかへ出かけ、再び殴られて戻ってくるが、最終的に完全に姿をくらましてしまった。

尾崎真理子「封印は解かれ、ここから新たに始まる」

「セブンティーン」「政治少年死す」を中心にしつつ、本書収録作の解説
性的衝動からテロへ、という展開は『われらの時代』にもみられるようだ
大江は、20代の間、詩集を出そうと思って結局出せなかったということをエッセーで書いているららしいが、その時、その期間に書いた詩として、「政治少年死す」の一番最後に描かれた文章を引用しているらしい。
また、2000年に小森陽一井上ひさしとの座談会で、超国家主義への傾倒について聞かれ、超国家主義に飲み込まれてしまうという惧れや誘惑とその不可能性などについて述べている。また、超国家主義的な天皇との同一化に、山口二矢は成功したが、三島はそれと同じことをやろうとしたけど失敗した、とも述べているようだ。

日地谷=キルシュネライト・イルメラ「「政治少年死す」若き大江健三郎の「厳粛な綱渡り」ある文学的時代精神の"考古学"」

ドイツで大江健三郎研究をしている研究者による「セブンティーン」「政治少年死す」解説
ドイツでは2015年に同作が翻訳されており(つまり日本より早く単行本化した)、その際にドイツの読者向けに書いた紹介記事を、さらに本書用にリライトしたもの
大江作品には、性的人間と政治的人間の二元論があるが、本作はそれが融合しており、アンヴィヴァレンツやアンビギュイティーがあることなどが論じられている
また、埋め込まれたメッセージの例として、主人公を右翼のバイトに誘った同級生のあだ名である「新東宝」について指摘している。新東宝という映画会社が、娯楽的な映画に右翼的なサブテキストをつけていたというコンテキスト。
あるいは、三島と大江との関係など。

年譜

全集なので作家の年譜がついているが、見ていると若いうちから、全集なりなんなりが編まれているのが分かる。そういう時代だったのかなあという気もするけど(例えば、日本文学全集みたいなのに収録されているけど、そもそも最近だとそういう企画自体がない気がする)

*1:原稿〆切を考えると間に合わないという尾崎の推論と大江本人に対するインタビューへの回答による

*2:今はニヴフと呼ばれる北方先住民族