Kendall L. Walton "Mimesis as Make-Believe :On the Foundations of the Representational Arts"

ウォルトンの「ごっこ遊び」論
小説や絵画といったフィクション作品=representational artsをごっこ遊びとして捉えて分析する。
まず、想像、特にごっこ遊び的な想像というものが取り上げられる。この場合の想像というのは自由奔放に思い描いてくことではなくて、取り決めに従うような想像。例えば、おままごとであれば、泥団子がごはんであると想像しなければならない。
このような想像しなければならないことを「虚構的真理」とか「フィクショナルである」とかいう。そしてこの虚構的真理を生みだすものを小道具と呼ぶ。
小説や絵画などは、そのような小道具の一種である。
そうした作品を鑑賞するというのは、そうした作品を使ったごっこ遊びに参加するということである。こうしたごっこ遊びへの参加という観点から、フィクション作品に対して覚える感情の問題や悲劇のパラドクスへの説明を与える。
また、こうした作品がどのようにごっこ遊びをさせるのかという手法・スタイルについても論じている。絵画などについては、見ることと想像することが分かちがたく結びついている「描写」というごっこ遊びがなされていると論じる。絵画や写真を見ることは根本的にごっこ遊びだとされる。言語的作品については「語り手」について論じられる。
また、フィクショナル存在については否定的であり、そうした存在への言及(批評など)もごっこ遊びだとしている。


ウォルトンごっこ遊び論の概要は、清塚邦彦『フィクションの哲学』のほか
森功次「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」(pdf)が参考になる(関連:[仕事][連絡]紀要論文が出ました。ウォルトンのフィクション論。 - 昆虫亀)。


ちなみに、この本の出版年は1990年だが、ウォルトンのごっこ遊び論についての論文は1970年代くらいから出てるみたい。サールの「虚構的言説の論理的身分」も70年代で、他の参考文献など見ても、アメリカでフィクション論は70年代〜80年代頃に盛り上がっていたみたい。


当ブログで洋書を扱うのはこれが初めて。というか、そもそも自分が英語苦手なので、今まで英語の本というのをまともに読んできたことがない。
実は読むのに1年半くらいかかっている。もっとも、中断していた時期とかもあるけど。
しかし、時間をかけて読んだというのは別に精読していたといかそういうことではなくて、単に英語が読めないだけで、何とか一冊読み終わったとはいえ、文字通り読めていない箇所もたくさんある。読めた部分も、ちゃんとあってるのが甚だ自信がない。
というわけで、以下にいつものように要約を書くが、いつもよりもさらにひどいので注意してほしい。
訳語については、清塚邦彦『フィクションの哲学』を参考にした。が、自分の不慣れな訳もあるし、訳してないものもある*1

第1部 Representation

第1章Representationsとごっこ遊び

まず最初に、想像について述べられている。ウォルトンは想像とは何かということについてはっきりとした定義などは述べないが、様々な種類の想像を示す。「自然発生的な想像と随意的な想像」「顕在的な想像と非顕在的な想像」「1人での想像と社会的な想像」など
「pがフィクショナル」というとき、pは虚構的真理である。が、ここで注意すべきなのは、虚構的真理という呼び方になっているが、これは別に真理でもなんでもないということ。これは想像する際におけるルールというものに近い。つまり、「pがフィクショナル」というのは、「pを想像すべきである」ということである。
そして、この虚構的真理を生みだす役割を持つのが小道具である。
絵画、彫刻、小説、演劇、映画などといったrepresentational artsは小道具である。また、切り株や雲の形、星座もそこに動物の姿を見るときには小道具であるし、人形やおもちゃのトラックも小道具である。ただし、切り株などはアドホックな小道具である。人形などやrepresentatinal artsは、その機能をもったものである。機能とは、通常、その目的のために使われるということ。
公式のごっこ遊びと非公式のごっこ遊び、鑑賞者のごっこ遊び世界と作品世界を区別する。リチャードが、《グランド・ジャット島》を見て、「自分(リチャード)が公園にカップルがいるところを見ている」ことを想像する。これは、リチャードのごっこ遊びにおいてフィクショナルだし、公式のゲームでもあるけれど、作品においてフィクショナルであるとはいえない。
なので、作品におけるフィクショナル(作品世界)というのは、その作品単体によってのみ生成された部分を指す。
切り株のようなアドホックな小道具や人形のような小道具は、作品世界を持たない。
また、フィクションの世界は可能世界ではない(何故なら、不可能で不完全だから)。

第2章 フィクションとノンフィクション

ノンフィクションは他の証拠の提示とともに信念を形成させるもの。フィクションは、証拠の提示などはなく、想像するように命じるもの。
言語理論を使ってフィクションを理解しようとするのは誤り。
真なる主張Assertionであるかどうかとフィクションであるかどうかは無関係。主張しないがフィクションでもない文もある(文法書の例文)。また、フィクションであることと主張することは両立する。
サールはフィクションを「ふりをすること」と捉えたが、これでは文学以外のフィクションを説明できない。絵を描くことは

主張するふりをすることではない。
フィクションの制作行為を独特の発話内行為とする考えもあるが、石の割れ目がフィクションとして見える場合もある。フィクションは行為より対象と結びつけた方がよい。
フィクションとノンフィクションの混合や、ノンフィクションの中のフィクション、フィクションの中のノンフィクションといったものもある。

第3章 Representationの対象

対象とは何か。『戦争と平和』はナポレオンについての小説であり、ナポレオンは『戦争と平和』の対象。
描かれているものと特徴が偶然一致しているものというのは対象にはならない。なんらかの因果的な関係が必要。
refferしていなければrepresentしていることにはならないが、全てのrefferがrepresentなわけではない。
風刺画。三頭の怪物がライオンに倒される絵。これは、フィリップ王がヘンリー王に倒されることのアレゴリーになっている。しかしこの絵は、三頭の怪物になったフィリップ王がライオンになったヘンリー王に倒されるということをフィクショナルにしているのではない。この絵の生成している虚構的真理は、「三頭の怪物がライオンに倒されている」であり、アレゴリカルに、「フィリップがヘンリーに倒される」ことをrefferしている。
自分自身をrepresentしているrepresentationを、ReflexiveRepresentationと呼ぶ。『ガリバー旅行記』『トリストラム・シャンディ』『完全なる真空』、ソウル・スタインバーグの?DrawingTable?や、リヒテンシュタインの?LittleBigPainting?はreflexiveである。
グッドマンは、denotingがrepresentationのコアだと主張したが、denotiveではないrepresentationはある。
ドン・キホーテのような実在しない対象は、対象ではない。

第4章 生成の機構

虚構的真理は、直接的または間接的に生成される。直接的に生成されるものをprimaryな虚構的真理、間接的に生成されるものをimpliedな虚構的真理と呼ぶ。
ゴヤの絵には、銃だけが描かれていて、それを持っている兵士は描かれていない。しかし、銃の位置からいって兵士がいることは確実。兵士がいることは、銃の位置に依存している→間接的に生成されている虚構的真理。
impicationにはさらに、「現実性の原理(RealityPrinciple(RP))」と「共有信念の原理(MutualBeleifPrinciple(MBP))」がある。
RPは、現実世界と同じようにimplyする(登場人物には血が流れているとか)。MBPは、作者の属する文化圏で共有されている信念をimplyする。地球が平らだと思っている文化で、海の向こうへと航海する者の話があったとしたら、RPに基づいてその話の中の世界の地球は丸いと考えるのではなく、MBPに基づいてその世界の地球は平らだと考えた方がよい。
implicationは、RPやMBPだけでなく、よく知られた伝説や神話、伝統なども使われる。
他にも様々な生成の機構がある。

第2部 Representationsの鑑賞

第5章 パズルと問題

劇を見ているヘンリーが、悲劇のヒロインを助けようとステージへ上がる。
ホラー映画を見ているチャールズが、スライムを怖がる。

第6章 参加

ごっこ遊びの参加者は、自らが想像の対象であり、また小道具でもある。
スティーブンが(船が描かれている)絵を指して「これは船だ」という。これは何かフィクショナルな存在をさしているのか、あるいは「これは船の表象だ」の省略形なのか。そうではなく、スティーブンが絵を見ているとき、スティーブン自身も小道具となって、「そこに船がある」だけではなく、「スティーブンは船を見ている」「スティーブンは船を指している」ということもまた虚構的真理となっている。

第7章 心理的参加

チャールズがスライムを怖れていることもフィクショナルである。
現実に恐れを感じているのと同じような身体的な状態のことを準恐怖と呼ぶ。この準恐怖によって、チャールズがスライムを怖れていることがフィクショナルとなる。
悲劇のパラドクスはパラドクスではない。悲劇を見ている者は、「ヒロインに助かってほしい」と思うのはフィクショナルであり、ヒロインが悲劇的な結末を迎えるという虚構的真理を望んでいる。
何がフィクショナルであるかを知ることと、フィクショナルに何かを知ることとを区別する。鑑賞のポイントは、何が虚構的真理であるかを知ることよりも、ごっこ遊びゲームに参加することにあるので、人は何度でも同じ話を鑑賞したりする。音楽を繰り返し聴いて楽しむ際にも、フィクショナルに驚くということがあるのではないか。
何に対して驚くか。実際に驚くこととフィクショナルに驚くことの区別。妖精がいる世界を描いた作品であれば、その世界の中に妖精がいるのは当たり前なので、フィクショナルには驚かないとか。
批評では、読者が知っていることと登場人物が知っていることの違いに関心が持たれるが、読者が知っていることの中にも違いがある。
参加なしの鑑賞というものもある。鑑賞者のごっこ遊び的な想像を妨げて、作品そのものの材質とかに注意を向かわせる作品。
椅子にとって、座ることは機能だが、装飾用の椅子は椅子は椅子でも座ることができない。同様に、装飾的なrepresentation
がある。装飾的なrepresentationは、それ自身をrepresentしている。
このようなReflexivityの例。『虚栄の市』、ソウル・スタインバーグの?DrawingTable?、『冬の夜ひとりの旅人が』など。

第3部 ModesとMannner

第8章 描写的なrepresentation

「描写」:水車小屋の絵を見ることによって、水車小屋を見ていることを想像するようなごっこ遊びにおける小道具の機能
小説を読むことは、描写にはならない。
「描写」を、視覚だけでなく聴覚や触覚にも拡張したい。彫刻や演劇、音楽や映画も。描写とは、リッチでビビッドな知覚的ごっこ遊びの小道具としての機能をもつrepresentationのこと。
描写(絵画)と記述(言語)との違いを、グッドマンは記号システムの構文論的性質によって区別したが、この提案はのみがたい。むしろ、ウォルハイムのSeeing-inの方がよい。ウォルハイムは、seein-inの経験の「二重性」を強調する。キャンバスを見ることと想像することが不可分であるような経験。
「絵」と「絵に描かれているもの」の類似ではなくて、「絵を見ること」と「事物を見ること」の類似。
小説では、情報を得る順序は作者に決められているが(視覚的ではない)、絵や事物を見るときに情報を得る順序は定められていない(視覚的な探求)。絵や現実世界では、85と85.001の方が、85と35より間違いやすい。文章では逆。
現実世界と絵とでは、探求の限界が異なる。現実世界は、望遠鏡や顕微鏡で限界が拡大されるが、絵の場合は拡大しても色のドットが見えるだけである。
フェルメールマチスマチスが影を暗く塗らないのはスタイルの違いであって影が不在というわけではない。重要な違いは何が虚構的真理かではなく、虚構的真理を生成する方法やごっこ遊びゲームにおける効果。知覚的なきっかけがフェルメールマチスでは違う(光か形か)。
写真によってDNAを見ることもフィクショナル(写真を「実際に」見ている+裸眼で「フィクショナルに」見ている)
鳥が撃たれて落ちる絵を見ることは、銃声を「見る」ことをフィクショナルにするわけではない。
天気図やグラフは、非知覚的な情報をあらわしているので、描写ではない。
音楽は、音を表しているときは描写的だが、クロスモーダルだったり非知覚的なものをrepresentしているときは描写的ではない。
音楽はリスナーの鑑賞から切り離すことができない(=ごっこ遊び世界はあるが作品世界についてはよく分からない)ので、音楽はrepresentationだが他のもの(絵画など)とは違う。
描写にノンフィクションはない。言葉にはフィクションとノンフィクションがある。pictureの意味を捉えるには根本的にごっこ遊びが必要。言葉の意味はごっこ遊びとは独立に把握できる。

第9章 言語的なrepresentation

語り手について。
信頼出来るかどうかについて。
事実をリポートしている語り手と作り話をしている語り手。前者は語り手と出来事が同じ世界に、後者は違う世界に属している。語り手と含意された作者について。
語り手と虚構的真理について。
視点人物と語り手について。

第4部 意味論と存在論

第10章 虚構的存在なしでやること

いないが、フィクション上はいるという矛盾
beingとexistance、existとreal、actualの区別(例えばマイノング)→矛盾をカモフラージュするトリック
フィクション存在への言及を自明だと思うとき、ごっこ遊びのことを人びとは忘れてしまっている。理論でさえ影響を受けるほど浸透している。
鑑賞と批評を、参加することと記述することというふうに区別することができるかもしれないが、参加と記述は互いに互いを必要としているので、やはり区別は難しい。
フィクショナルな存在を指示しているような言明も、一義的にはごっこ遊びである。
異なる作品のキャラクター同士の比較は、非公式なごっこ遊び。

第11章 存在

「ザムザは物語の登場人物である。」のような文は、公式のごっこ遊びではフィクショナルとならない。しかし、それがフィクショナルとなる非公式なごっこ遊びはありうる。ザムザについてのごっこ遊びを拒否することが、別のごっこ遊びとなっている。
「ザムザは存在しない。」のような存在についての主張は、ごっこ遊びではない。指示しようとする試みが失敗すること。


第4部はちょっと力尽きた。
ところで、ウォルトンは、フィクションについて可能世界論やマイノング主義について退けているけれど、プリーストを読むと、プリーストの非存在主義はウォルトンが問題視した点はクリアしているように見える。ウォルトンがどう思っているかは分からんけど。
心理的参加の章や描写についての章が面白かった。分析哲学と文芸批評とか相性悪いと思っているのだが、こういう美学的な切り口であれば使えるところもあるのではないかと。しかし、「準感情」も「描写」も結構難しい。わかりそうでわからない。「準感情」については本文読んでても全然よく分からなくて、森さんの論文を読んでようやくおぼろげに分かったような気がする。
「描写」は、絵画や写真、音楽といった、小説以外のフィクション作品ないしRepresetationsについての特徴が色々分析されているところなので、興味深い。
第9章の語り手のところは、ジュネットについての言及がそこそこあって、ジュネットのナラトロジーをごっこ遊び論の中に位置づけているのかなーというような気もしたし、ジュネットとは注目するところが違うんだよーと言っているようなところもあった。ここらへんは、ジュネット未読なのが辛い。もうずいぶんと前から、ジュネットは課題図書となっているのだが、一体いつになったら読めるやら。
次はグッドマンを読む予定である。

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

*1:例えば、representationは普通、再現ないし表象と訳され、清塚もその両方を使っているが、どうもその両方ともあまりぴんと来ないので英語のままとした