スピリチュアルと専門知

昨日のクローズアップ現代が、スピリチュアルブームについて取り上げていた。
それを見て、少し考えたことをつらつら。


今、30代を中心に、スピリチュアルブームが起こっているらしい。
占い師に相談を持ちかける人が、男女問わず増えているらしい。
会社の上司、同僚、親、友だちにも相談することができず、相談相手として占い師のところにいく、ということらしい。
最初は「ちょっと待てよ」と思ったのだが、ここまで聞いて、思ったほど有害ではないのかもしれないと思った。
身近な人間に相談できる相手がいれば、それに越したことはないのだが、身近な相談相手が見つからない場合に、金を払って相談しにいく、というのは、まあ十分にありうる話だ*1
思えば、ホントかウソか分からないが、マンガなんかだとよく、政治家や大企業の社長とかが、占い師を抱えていたりするが、あれは腹を割って相談できる相手が関係者の中にはいないから、そういうことになるのではないか、と思ったりもした。


とはいえ、問題がないわけではない。
まず、これはクロ現でもとりあげられていたが、詐欺が横行しやすいということである。
詐欺だけではなく、オウムのようなヤバイ宗教に絡め取られる可能性もないわけではない*2


さて、もう一つ僕が問題だと思ったのは、占いないしスピリチュアルは、専門知ではない、ということだ。
(以下に書くことは、番組を見て僕が思ったことであって、番組で触れられたことではない! 
また、僕は占い師の実態をよく知らないので、かなりのところ想像で書いている)
これには二つの側面がある。


上述したとおり、占い師は、相談事のアウトソーシングだと考えてみる。
さて、相談事というのは、身近な人を相手に、あるいは現在であれば2chやなんたら小町あたりで行われているだろう。
その際、相談された側というのは、力になれる範囲で相談に乗りつつ、自分の出来る範囲を超える出来事だと思った場合は、
「病院に行け」「警察に言った方がいい」「弁護士に相談しろ」「消費者センターに電話しろ」
というだろう。
つまり、相談事にも種類があって、素人でも応対できる(あるいは素人が応対すべき)相談と、プロが応対すべき相談がある。
そして素人は、自分では手に負えないと思った場合、プロの元に行くよう促す。
さて、占い師の場合はどうだろうか。
僕は実際の占い師の仕事をよく知らないので、何とも言えないのだが、おそらく病院や警察、弁護士などへ行くことを勧めることはあまりないのではないだろうか、と思う。
しかし、身近に相談できる相手がいない人が、その代わりとして占い師に相談しているのであれば、場合によってはそのようなプロへと導くべきだと思う。
自分の手に負えない場合は、それが手に負えるだろう人の元へ行くように促す。
これは、プロである医者や弁護士だって同じはずだ。
例えば医者なんかは、患者から信頼を得た場合、かかりつけの医者だったりすれば、自分の専門外のことについても相談される可能性は十分にありうるだろう。そしてそういう場合は、専門の人間を紹介するはずだ。
相談事には種類がある。身体の不調、お金の問題、人間関係や家族について、仕事のことなどだ。
それら全てに関して解決策を持っているような人はいないが、それぞれのことについてであれば、専門家がいる。
ただし、専門家の元に即座に行くというのはハードルが高い。
また、専門家の手を借りなくても、解決できてしまう問題というのも多い。
そのための相談窓口として、本来であれば、身近な人がいる。
身近な人に相談できない場合において、ネットが活用できるだろうし、そして占い師という職業も役に立つのだろう。
最近、医者であれば、内科を中心に総合外来というものが出来つつあるらしい。
また、弁護士であれば、法テラスというものが作られつつある。
前者の場合、大学病院などあまりに科が細分化されてしまって患者がどの科にいけばいいか分からなくなってしまっていることをうけて、まず最初の窓口として作られている。
後者の場合、弁護士にいきなり相談しに行くというは難しいし、そもそもどの弁護士が何について詳しいのかということも普通の人はよく分からないわけで、やはし最初の相談窓口として作られている。
占い師は、気軽に相談することの出来る存在であるかもしれない。
しかし、占い師は医学や司法(あるいはその他の事例であっても)の専門家ではない。
もし占い師が、そのような専門領域に該当する相談事を受けたときに、専門家のもとへ行くように促さないのであれば、それは問題である。


次の問題は、占い師は何ごとかの専門家であるのか、ということだ。
医者は、病気に関する専門家であるし、警察は、犯罪に関する専門家であり、弁護士は、司法業務に関する専門家だ。
だとすれば、占い師は何かの専門家なのだろうか。
おそらく、霊的なことにかんする専門家だということができるだろう。
しかしそもそも、霊的なことにかんする専門家とは一体何なのだろうか。
医学という専門知、法学という専門知は、この社会、少なくとも日本社会には確かにある。
一方で、霊的なことに関する専門知は、日本社会にあるだろうか。
神学、宗教学、民俗学、心理学は確かにある。
だがここで言われるものは、そのような学によって扱えるものではない。
つまり、ある人を見てその人に背後零がついているか否か*3判断するための、専門知だ。
医者は、ある人を見てその人が何の病気にかかっていてどうやって治療すればいいか判断するための専門知を持っている。
警察は、ある出来事に対してそれが犯罪か否か、どうやって逮捕すればいいか判断するための専門知を持っている。
他の専門家に関しても同じだ。そしてそうしたことに関して、私たちは信頼している。
だが、占い師に関してはどうだろうか。
もちろん、過去の社会や日本以外のどこかの社会であれば、占い師のそのような専門知を有している社会はある。
そしてそういう社会では、もしかすると弁護士なんかは、専門家とは言い得ないかもしれない。
司法制度のないような社会の場合、そこに弁護士がいたとしても、離婚問題や遺産問題について、ある程度含蓄のあることを言ってくれる人とは見なされるかもしれないが、専門家としては見なされないだろう。
それにしても、私たちが、あの人(医者)は医学について知っている、あの人(弁護士)は法律について知っている、と言うのと同じように、あの人(占い師)は霊について知っていると言うことはできるのだろうか。
上で、弁護士について述べたように、社会における制度の問題がまずはある。
だがそれだけではない。
医者は、どんな社会であっても、おそらく専門家と見なされるだろう。
彼(彼女)は、問診をしたり聴診器を使ったりあるいはレントゲンを撮ったりして、患者について調べる。そしてそれらの結果について、聞けば教えてくれる。「喉が腫れてますね」→「風邪です」→「Aという薬を出します」とかいうふうに。
そして、私たちは、自分でもレントゲンの写真を見たり調査の数値を見たりすることができる。そしてその写真や数値について、あるいは薬の効果について医者の説明を聞いたり、本で調べたり、他の人に聞いたりすることで、その意味について確認することができる。
占い師の場合はどうだろうか。
彼(彼女)も、問診をしたりあるいは色々な道具を受かって、相談者について調べるのかもしれない。そして、「この霊がついていますね」→「眠れないのはこのせいです」→「この壺で除霊できます」などというのかもしれない。
問題は、私たちは、その霊を見ることができないし、その霊が悪さをすることや壺でその霊を祓えることについて、どうやって調べればいいか分からないことだ。
霊について知っているとは、どういうことだろうか。
占い師は、その霊を直接見て知っているのかもしれない。
僕は見えたことがないが、生まれつき見える人と見えない人がいるのかもしれないし、あるいは修行によってしか見ることができないものなのかもしれない。
生まれつき絶対音感のある人は、直接聞くことで音階を知ることが出来る。そういう感じなのかもしれない。
道家が身体を適切に動かすための知識は、ある程度の修練を積んだ人たちにしか分からないだろう。そういう感じなのかもしれない。
それでもなお、僕は、「霊について知っている」という文が何某かを意味しているように思えないのだ。
簡単に言えば、「あなたには背後霊がついている」などという文は、僕には単なる妄言の類にしか思えないのだ。
でも、「あなたの肺は癌になっている」などという文は、僕自身はガン細胞を直接見ることが出来ないにしても、確かな知識であるように思える。


話がすっかり混乱してしまったかもしれない。
整理しよう。
僕には、霊についての知識*4は、専門知であるように思えない。
だからもし、占い師が、霊的な相談にのるプロだとするならば、それは問題であるように思える。
何が問題かというと、要するに詐欺だから、ということになってしまうのだが。


ただし一方で、専門知とは一体何か、ということは何だか非常に曖昧なものであるなあ、ということが浮かび上がってきていて、これが哲学的な問題のように僕には思える。
これはテレビでやっていたのだが、1リットルくらいの水を6000円くらいで売っているらしい。
あるいは、何か落書きみたいな、毛筆で書かれたものが数十万だったりするらしい。
典型的な詐欺である。
ところで、これが何某かの現代アートのアーティストによる作品だったら、どうだろうか。まあ、アートとして見ても売れなさそうなアートなのだけど、10万とか100万とかいう値段が付いたとして、それを買った人が詐欺だ、と言い出すことはおそらくない。
それは結局、アートにまつわる専門知が、そうした作品に物質的価値以上の価値を付加しているからで、そして売る人も買う人もその価値を信頼しているからだ。その信頼は、おそらく専門知にかかっている。
アートの歴史やアートの批評、アート市場の評価といったことについての知識が、作品の価値を決めるだろう。
そうであるならば、占い師が売る水とか壺とか絵とかも、霊に関する知識が、その価値を付加しているのかもしれない。
買った人は、これで幸福になるならば、と思って買ったらしい。そのバックボーンに、霊に関する何らかの知識があったであろうことは想像に難くない。
つまり、この水には霊的なパワーが込められていて、そのパワーを吸収することで運気が上昇する云々といったものだ。
買った人は、そういった文言を信頼したのだろうが、しかしやはりそれは、知識なのではなく単なる戯言に過ぎない。だからこそ、それは詐欺になる。
単なる水じゃん、という話だ。
でも、現代アートの作品だって、知識がないと、単なる便器じゃん、という話になってしまう点では、それほど代わりがないようにも思えてしまう。


私たちは、何が専門知であって何が専門知でないか、大体見抜くことが出来る。
つまり、医学は専門知だが、霊的な事柄は専門知ではない。
しかし、専門知とは一体何であるのか、はっきりと定めようとすると、何だかよく分からないことになってくるような気がする。
これは、疑似科学と科学の見分け方、みたいな話とも繋がってくる話だろう。
今回、相談というところから話が始まったので、専門知として医学と司法しか挙げなかったが、専門知といえば、自然科学という広大な領域がある。

関連リンク

知識とは一体何か、ということについて考え始めたきっかけは
『哲学者は何を考えているのか』ジュリアン・バジーニ、ジェレミー・スタンルーム
ラッセル・スタナードの発言がきっかけ。
それを
「知っている」とはどういうことか
プラトン『メノン』
で展開している。
ついで、知識の哲学に関しては
戸田山和久『知識の哲学』
科学哲学に関しては
伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』

クロ現の感想

を書き忘れるところだった。
コメンテーターが、香山リカだった。
リカちゃん先生はいつのまに立教大に行ったんですか?
それだけ気になった。

クロ現の内容

上のエントリだと、クロ現の番組内容については、結局何だったのかよく分からないと思うので、他のブログの該当記事にリンク
■「過熱するスピリチュアル・ブーム」(クローズアップ現代)(uumin3の日記)
クローズアップ現代(スピリチュアルブームについて)のメモ(逃げる男のブログ)

追記 「ゆるい宗教国家」(仮装算術の世界)からコピペ

スピリチュアルというのは、香山リカ氏が『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』で書いているように、科学的に正しいかどうかは脇に置いて、とりあえず「自己」を手っ取り早く意味づけることを目指すシステムのことです。
(中略)
これはもちろん科学的な所作ではありません。しかし、神話的に合理的な行為だとは言える。
(中略)
スピリチュアルは、この意味でごく素朴な神話体系です。前世を信じるひとは、前世(過去)を使って現在をハッキングし、人生というゲームをチートし、それで安心を得ている。香山氏の当惑は、そんな神話の論理を科学の現場に持ち込まれたことに由来しています。


このように、科学と神話はまったく異なるシステムで動いています。カッシーラーはそれを「モダリティ」が違うと言ったわけですが(『シンボル形式の哲学』)、簡単に言えば、科学と神話はそれぞれ異なる概念で動いていて、いずれが優位ということでもない。ならば、モダンの終焉とともに科学的知への信頼が失墜したとき、神話が台頭するのはある意味では当然の流れです。
(中略)
「ゆるい宗教国家」というのは、要は、科学にかわって神話がひとびとの物語を統御する国家のことです。これが望ましい国家かどうかは、実は判断が難しい。香山氏が言っているように、スピリチュアルは科学と何の関係もない風説にすぎない一方、現実にひとの不安を和らげ、ストレスを減らしているからです。これを「いかがわしいから」という理由で撤廃すると、そのせいで実存的危機に陥るひとはたぶん大勢いる。よって、神話を駆逐するのはかなりの覚悟が要ります。
(中略)
実は、プラトンというのは「神話は確かに機能しているが、それでも悪しき神話は撤廃すべきだ」と主張した最初のひとでした。というより、哲学というのはその初発の時点から、自然学(いわば科学)と対決し、神話と対決することで、みずからの輪郭を整えていったと考えたほうがいい。プラトンの議論は、いま読んでも、やはり傾聴に値するものだと思います。「ゆるい宗教国家」(プラトンが生きたアテネのような)において、それでも神話による植民地化は解除されるべきなのか。もしそうだとしたら、それはどのようにか。

元記事の半分くらいを引用もといコピペしてしまった。
下のコメ欄で、船が「重要なのは機能」ではないか、と書いている。
上の福嶋亮大の記述からも、スピリチュアルもとい神話的思考がこの社会で機能しつつある、ということが指摘されているし、それを科学的思考でもって「駆逐」することが問題視されている。
神話的思考は、この社会の中でどういう地位を占めて、どういう正当性を得て、どうやって制御されうるのか。

さらに追記

再び、福嶋ブログよりコピペ

単純に言えば、神を語る奴はあやしい、だからテレビには乗らない。ところが、オーラが見える奴はあやしくない(いやあやしいんだけど、物語論的にその関門はクリアされる)、だからテレビに乗る。それでブームになる。あやしい奴をあやしくないように見せる物語論的技術が、そこには挟まっている。僕はそれを「神話」と呼んでいる。

どんな物語でも、あるいはどんな非物語(ドラッグ)でも、無条件で流通するわけではない。流通しやすい物語と、流通しにくい物語が世の中には存在する。その区別は、モダンでは科学的知(真理)によって実行されていた。ところが、ポストモダンでは神話的知によって実現される。あるいは、もっと別の知によって実現される。いずれにせよ、近代のように簡単には割り切れない。

http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/dd57344d4d691379b20b5b66f35fd7f1


上で僕は「神話的思考は、この社会の中でどういう地位を占めて、どういう正当性を得て、どうやって制御されうるのか。」と書いたが、むしろ逆で、スピリチュアルなどのある種の言説に、社会の中での正当性を与え、制御しているものを、福嶋は「神話」と呼んで、「科学」と対置しているのだろう。
もちろん、僕がこのエントリで問うた問題は、いささかも変化してはいない。
野家啓一は、科学と文学の違いを、「種」的な違いではなく「位置価」ないし「機能」の違いであると論じた。
つまり、科学と呼ばれていたものが文学と呼ばれるようになることがありうるし、またその逆もありうるということだが、問題は、その線引きがどのように行われるか、である。
その線引きを行うシステムのことを、東ならば「データベース」と呼ぶだろうし、福嶋ならば「神話」*5と呼ぶのだろう。

*1:近代社会というのは、何でもアウトソーシングされていく社会だとも言える。飯もセックスも金を払って手に入れることができる。況わんや相談相手をや、だ

*2:ただ、現在流行っているスピリチュアルブームは、現世利益型のものが多いらしく、いわゆる超越性を求めるタイプのは流行っていないらしい

*3:もちろん、占い師やあるいはスピリチュアルカウンセラーによって言い方は色々違うのだろうが

*4:ここでは繰り替えしある人に背後霊がついているか否か、ということを例に出したが、もちろん別の内容でも構わない

*5:ただし、ポストモダンの時代における線引きシステムが「神話」。他の時代には、他のもの(例えば科学的合理性)がそのシステムを担っていた