『パラノイド・パーク』

ガス・ヴァン・サントの新作。
今までガウ・ヴァン・サントの作品は、『グッド・ウィル・ハンティング旅立ち』と『エレファント』しか見ていない*1のだが、今回、監督名だけで見に行くのを決めた。
つまり、どんな映画か内容は分からないけどガス・ヴァン・サントなら面白いだろうと思って見に行った。


まず、画面のサイズが普通の映画よりも小さい。縦横比がテレビと同じくらい。
音楽がいい。
冒頭、橋をロングショットで映すシーンで流れる音楽が、作品全体の不穏な感じを予感させる*2
それから、エレクトロニカも多用されているし、クラシックやロックも流れる。
これらが、実に見事に作品の雰囲気を醸し出している。いや、「雰囲気を醸し出す」という曖昧な言葉でいうのは、足りないかもしれない。
それから、映像。
背景のピントを外した絵がかなり多い。また、少年たちがスケートボードに興じる「パラノイド・パーク」でのシーンでは、意図的に画質が落とされ、一緒にスケートボードに乗っているかのようなカメラワークがなされる。
さらに、時間軸を前後させながらストーリーが展開されていく。起こっている出来事そのものはわりと単純なものだが、構成は複雑なものとなっている。
これらの効果によって、この映画は、少年の心情に迫ろうとしているといえる。
物語自体も面白かったのでそのことについて後述するが、これらの効果は、物語を支えるもの、というよりは、物語と共になっているものと思える。
この映画の物語は、ある意味で分かりやすい成長譚でもある。
しかし、単純な少年の成長が描かれているわけではない。少年の、いい知れない不安感、孤独感、そして混乱は、音楽、ピントのズレ、カメラワーク、複雑な構成によってこそ表現されている。
だからこそ、見ていて少年の側に引き込まれていく。


ガス・ヴァン・サントは、少年の歩くところを撮るのがうまいと思う。
『エレファント』では、彼らの歩くところを執拗に後ろから撮り続けたわけだが
今回、主人公のアレックスの歩き方は、見ていて、10代後半のころってこんなふうに歩くよな、と思った。
何となく怠そうな歩き方であり、まさに10代後半でしかできないような歩き方なのだ。


主人公のアレックスは、スケートボードが好きな高校生である。
ある日、友人に誘われて「パラノイド・パーク」へと行く。そこは、スケートボード用のフィールド*3になっていて、まああまり柄の良くないような感じの人間もたむろしているようなところだ。
『エレファント』は学校モノで、一種のスクールカーストみたいなものが見えたが、今回はそういう感じの描写は特にない。アレックスは、不良というわけでもないし、イジメも特にないっぽい。まあ、リア充か否かといえばリア充だろうなっていう感じではあるけれど、普通の少年である。親が離婚することになって、それはそれでストーリーの中で重要なファクターではあるけれど、決して決定的なものでもない。
そういえば、この作品も『エレファント』と同じく、演技経験のない一般の高校生を募ってキャスティングしている。そんなわけか、『エレファント』に出てきたキャストは、ルックスの点では、格別にかっこよかったりかわいかったりするわけではなかった。
ところが、今回は、アレックス、アレックスの彼女であるジェニファー、キーマンとなる少女メイシーの3人ともが、かわいかった*4
アレックスは、童顔で結構女の子みたいな顔立ちをしているので、かっこいいというよりはかわいい感じの男の子。
ジェニファーは、金髪碧眼で、絶世の美少女とまではいかないまで、美少女。
閑話休題
次の土曜日、アレックスは友人と共にもう一度「パラノイド・パーク」へ行く予定だったのだが、友人は用事ができていけないという。アレックスは一人でパラノイド・パークへ行く。
そこで、貨物列車飛び乗り遊びをするのだが、警備員に見つかってしまう。アレックスが警備員を振り払うと、その勢いで隣の線路に倒れ込んでしまい、その警備員が轢死してしまう。
PG12指定がかけられているのだが、この轢死体が結構生々しく描かれているからだと思う。ここはかなりショッキングではある。
既に述べたように、ここまでの流れは映画の中ではこのように描かれているわけではない。
友人と共にパラノイド・パークへ行くシーンも、一人でパラノイド・パークへ行くシーンも、2,3度繰り返し描かれている(少しずつ細部が明らかになっていく)。
ジェニファーと別れるまでの過程や、メイシーと出会うシーン、学校に来た刑事から話を聞かれるシーンなども、正しい時間軸とは異なる順序で描かれている。


アレックスは、いわば突如として非日常に触れてしまったわけである(正確には、「突如」ではない。警備員の死以前に、「パラノイド・パーク」自体、彼にとっては非日常であった)。
そこから彼は、不意に世界から孤立してしまう。自分の周囲の様々な出来事、つまり彼女との不和や両親の離婚が、急にどうでもいいことと感じられてしまう。
表面的にアレックスは事件前後で変わった様子を見せない。
だがメイシーは、アレックスのその変化に気付くのだ。
彼女はアレックスに言う。「わたしに手紙を書いてWrite to me」と。
この映画が、時間順序において錯綜した構成をとっているのは、アレックスの手紙がそのように錯綜しているから、でもあるのだ*5
それはともかく、このメイシーの台詞は、心に迫るものがあった。何か掴まれたような感覚。メイシーのその一言は、アレックスが再び世界と繋がるための手段を示したのだ。
「わたしに手紙を書いて」とは言っているが、その手紙は実際にメイシーには渡されずに燃やされる。メイシー自身、その手紙は捨てても燃やしても構わないと言っている。書くことが大事なのだ、と。
アレックスは、書くことによって、事件を自分の中で位置づけることができたのだろうか。
『エレファント』においては、日常から非日常へ飛躍してしまう少年たちが、ひたすら離れた視点から撮られてきた。彼らとの断絶がそこにはあった*6
だとすれば、これは日常への帰還を示そうとしたとも言えるかもしれない。
その手段が手紙を書くということだったことに、僕は心動かされてしまったのだ。


追記
ブログ「空中キャンプ」でも、紹介されている。
「パラノイドパーク」を見たゼ!
実は、このブログでこの映画の存在を知ったのだ。

感想を書きたいのですが、書きたいことが内容に触れてしまうため、未見の方は注意してください。せっかくの興味をスポイルさせないよう、見る予定のある方はまず作品を先に見てほしいです。

とあったので、記事は読んでいなかった。
今自分でブログに感想を書いたので、読みに行った。

私に書くんだったら、読んであげてもいいよ(なんて有効なアドバイスだ)。青年は最終的にその手紙を焼くけれど、それは当初から意図していたことだろうか? もしかすると主人公は、その手紙を投函するつもりで書いていたのかも知れない。しかし、書き終わって青年は、その手紙に書かれた考えがあまりにも「大切すぎる」ことに気がつき、空想の中の宛先人(=大文字の他者)にしかそれを委ねられないと判断したのではないだろうか。

これを読んで、なるほどーと思った。
この後の部分で、「それにしても十代ってやるせないね。そこで見たこと、聞いたこと、経験したことがその後の人生の大半を決定してしまうんだもの」とも書かれているけれど、まさにそういう人生を決定づけるような「大切すぎる」ことだもんな。

十代のあるポイントで、現実と自分のあいだに薄い膜があるような、うまく現実を把握できないような感覚に陥ることがある。どこにいても、なにを見ても、そこに自分がいないような感覚。この作品は、そうした乖離の感覚をとてもうまく表現している。

わたしはスケボーをしたことなどないし、警察から事情聴取をされたこともないけれど、まるで過去にそうした経験があったかのような錯覚を覚えてしまう。
(中略)
ふしぎだけれど、わたしはアメリカの十代の青年の物語に対してですら、「懐かしい」と感じることができる。わたしがガス・ヴァン・サントに惹かれる理由もそこにあるのだとおもう。

共感。

*1:その上、前者は見たのが大分前なので結構忘れてる

*2:パンフレットによると、有名な曲(映画音楽)だったらしい。あまりにも有名で、ガス・ヴァン・サントが使うのを躊躇うくらい

*3:ハーフパイプをかなり複雑にしたようなところ

*4:ジェニファー役の女の子は、プロだったみたいだけど

*5:さらにいえば、間接話法のシーンと直接話法のシーンがある

*6:一方、その断絶こそが、ガス・ヴァン・サントが少年たちを理解していることの証しでもあるように僕には思えた。分かることができないということを分かっている、というか