『SFマガジン6月号』『メフィスト5月号』

SFマガジン6月号』

読もうと思って読まなかったもの

クラーク追悼特集
クラークのエッセイと、追悼コメントだったので、とりあえずパス
来月はクラークの短編が載るらしいのでチェックしよう。
西島大介が、クラークがいなければ漫画家になっていなかったと書いていたのだけ読んだ*1
樺島三英の短編が載っているので読もうと思ったが、連作短編の第2回目で全部で10回あるとあったので、単行本になるのを待とうかなと思った。
余裕があれば読むけれど、それよりもジャンジャックをまず読まなければ。

「消失点、暗黒の塔 『暗黒の塔』5部、6部、7部を検討する」藤田直哉

第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞受賞作
これが実に面白かった。
この評論の作者は、これがデビュー作となるが、少し前からブログを始めていてちらちらと見たことがあった。
僕はキングを読んだことがなくて、この『暗黒の塔』という作品はタイトルも知らなかったのだけど、この評論を読もうかなと思ったのは、そういうことで藤田直哉という名前に見覚えがあったから。
あまりにも荒っぽいところは目に付く。
そんなに色々と詰め込みすぎではないかとか、文体が時々砕けたものになっているとか
けれど、そういう荒っぽさが気にならないほどに面白い。あるいはむしろ、それがすごいエネルギーになっているというか。
既に述べたとおり、僕はそこで論じられている『暗黒の塔』という作品を全く知らない。知らないのだが、この評論は非常に面白く読めた。それはこの文章に、並々ならぬエネルギーが注ぎ込まれていて、そのエネルギーが伝わってきたからだと思う。*2
暗黒の塔』という話は、そのタイトル通り暗黒の塔を目指す話らしい。
ところが、主人公はその塔に到達することができず、ループしてしまう。ここで藤田は、暗黒の塔を「消失点」と捉える。そして、ジジェクラカンを引用しながら、目標への到達ではなく、そこに到る経緯こそが、欲望の対象であるとして、塔へ到達できないループこそが実は求められているものだとする。
そして、またそのループを、資本主義そのものの構造として捉える。キングという作家は、まさに市場の欲望が求めるエンターテイメントを提供してきた作家である。
ところで、この作品は、第5部以降、メタフィクション的な異形の姿をとるようになる。キング作品には怪物が多数登場するが、藤田はこの作品そのものが怪物であるとする。
また、その怪物を、バタイユがいうところの「内奥性」として捉える。
「消失点」を目指す資本主義の運動と、そうした運動を脱臼させてしまう「内奥性」の対立として『暗黒の塔』を捉える。
しかし、それだけにとどまらず、対立関係にあるその両者が共犯関係にあるとも論じている。
ホラーともファンタジーともSFともつかぬような異形の、圧倒的な迫力を見せつけられた感じがする。


追記(080428)

SFマガジン6月号に掲載されました。せっかくなので、このエントリを開放するので、質問、ツッコミ、反論、意見、苦情、激励、などなど、ご意見がありましたらお気軽に書き込んでいってください。できるだけ返事もいたします。

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080425/1209285139

とあるので、トラバを送ります。
内容を要約しただけで、意見というほどの意見を述べたわけではないけれど、一応。

宇野常寛ゼロ年代の想像力

最終回ということで、今までの連載のまとめ。
自意識を一体どうするか、という話だったのかなーと何となく思う。
自意識の中に閉じこもるセカイ系、自意識を撒き散らす決断主義、自意識を飼い慣らす小さな成熟と、えらく大雑把にまとめてみた。詳しく読んでないので、よくわからんけど。
個人的には、そういうふうにまとめられたセカイ系の中に佐藤友哉が含まれてしまったことだけが不満で
佐藤友哉が自意識の固まりなのは確かだけど、佐藤作品は自意識なんてないということを突きつけられてどうするかということを延々とやっているので、一概に閉じこもっているわけでもなく、決断主義的なところもところどころに混ざっていて、そう簡単に区分できるものでもないんだーと主張したい。
これは別に佐藤作品に限ったことではない。
おそらく僕は、「自意識なんてものはない」ということと格闘する自意識に、もっぱら興味があると思われるので、自意識があることを前提に、むしろそれをどう処理するのかという視点から整理された議論には、それほど興味が持てなかったのだと思う。

メフィスト5月号

「虚構の自意識の系譜――浦賀和宏佐藤友哉論」前島賢

メフィスト賞作品を評論しているシリーズの第3回みたい。
新本格ミステリの中に現れる、青春ないし自意識について。
舞城・佐藤・西尾のいわゆるファウスト系に先立つものとして、浦賀が論じられている。
ミステリの中で描かれる以上、どれだけ深く内面が描写されようとも、それはトリックのためのものとして見なされてしまう。つまり、新本格ミステリで描かれる自意識は、虚構の自意識でああり、そのような緊張関係の中で描かれている*3
佐藤作品において、鏡公彦は死に、佐藤友哉もまた死んでしまい、ミステリから撤退する。
一方の浦賀作品において、安藤直樹は死なず、浦賀は今もミステリを書き続けている。もはや、ミステリとしての要素はほとんどなくなってきているのにも関わらず、主人公は探偵という死なない生を生きている。
さて再びミステリに戻ろうかとしている佐藤は今後どうなるのか。
という内容。
そういう意味でもやはり、「333のテッペン」は一つの変化として読んでよいのかもしれない。
ところで、僕はファウスト系を読んではいるが、メフィストは全く読んでいない。『探偵小説のクリティカルターン』を読んで、辻村深月を読まなければいけないなあと思ったのだが(そしてまだ読めていないのだが)、これを読んで浦賀和宏も読んでおいた方がいいなあと思った。
大変だなあ(^^;


S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]

メフィスト 2008年 05月号 [雑誌]

メフィスト 2008年 05月号 [雑誌]

*1:エイフェックス・ツインより庵野秀明よりも以前に影響を受けた作家と

*2:どんだけ上から目線だよって思われたらすみません

*3:そのような緊張関係のない、純文学で書かれる佐藤作品は、それゆえに面白さに欠けるとか