『明日、君がいない』

ガス・ヴァン・サントの『エレファント』とよく似た手法によって展開される作品。
見始めた時は、『エレファント』のパクリだなあと思いながら見ていた*1
しかし、やっぱり『エレファント』とも違うところもある。
どのような作品か、ざっと紹介する。冒頭、高校のトイレで誰かが自殺するところから始まる。そして時間はその日の朝へと遡り、6人の高校生たちの一日が「エレファント的手法」*2で映し出されていくことになる。
学校空間における生きにくさ、サバイバルが描き出された作品で、オーストラリアが舞台となっているが、話自体は日本でもアメリカでも通用するだろう。
この映画の特徴の一つに監督の若さがある。15歳の時に友人を自殺で亡くしたタルリ監督は、19歳の時にこの作品を作ることを決意し、21歳で完成させる。そしてそのままカンヌへと出品されたのだ*3
『エレファント』が、カメラと映し出される高校生たちとの間に「距離」があったとすれば、こちらの作品は、カメラと高校生たちとが近い。それはおそらく、監督の若さゆえなのかもしれない。カメラが彼らの周りをグルグルと回るのは、なかなか印象的である。
だが一方で、この作品は監督の年齢などとは全く感じさせない、「あざとさ」がある。
これは誉め言葉として言っているのだが、とにかく「あざとい」
6人の高校生の学校での風景を映す合間に、彼らへのインタビュー映像を混ぜるやり方。
彼らが、少しずつその悩みを露わにしていく展開。
その悩みも、家族、同性愛、病気、いじめ、妊娠など、非常に類型的なものとなっている。
そして「誰が自殺したか」が明らかになる最後。
これらには、『エレファント』にはなかった「あざとさ」がある。
前半は、正直この「あざとさ」が気になって落ち着かなかった(だからこそ、あえて「あざとい」という言葉を使っているのだが)。
しかし、これが最後になって効くのである。


最後、自殺することになる少女が、校舎から歩み出る。光で画面が白くとぶ。作中、何度かインサートされている木漏れ日と葉の映像。
ここに「世界のありそうもなさ」が映し出されている。
「私」と「世界」の齟齬、息苦しさ、そもそも何故「私」や「世界」はいまここにこうして在らねばならないのか。


そして、凄惨な自殺シーン。
あのシーンを撮ることは、並の監督にはできないように思える。
それはもしかしたら、若さ故に撮れてしまったのかもしれない。
一方で、その若さで*4、「他者」を描けたことはすごいと思う。いや、「他者」という言葉を使うのは語弊があるかもしれないが、ある種の疎外、ある種の相対性だ。自殺することになった少女が自殺した理由と、自殺しなかった他の人たちが少女に向ける視線のぎこちなさだ。


最後に、この映画は邦題が決まっている、と思う。
原題は『2:37』と言う。これは少女が自殺した時刻なのだが、『明日、君がいない』の方がよいと思う。


追記(070803)
「他者」について。
10代というのは、自分のことで精一杯でとても自分以外にまで思いを成す余裕のない時代だと思う。それはつまり、自分が他の人から見てどのように見えているか、よく分かっていないということでもある。さらにいえば、分かっていないことさえ分かっていない。
この映画のラストは、分かっていないことを分からせる。

*1:もっとも、似ているということを知ったから見に行こうと思ったのだけど

*2:6人の生活を別々に映しながら、少しずつ重ね合わせていく。あるいは、ロングショットで歩く彼らを着いていくカメラワーク。

*3:この映画のパンフレットには、同じく若くしてデビューした映画監督のリストがついているのだが、21歳はいない

*4:いや年齢をこんなに特別視しても本当は仕方がない。パンフレットで金原瑞人が書いていたが、あの映画は何歳で撮ったとしてもすごい