言語哲学について整理

なんか、選挙について書こうかなーとか思っていたのですが、面倒なのでやっぱりやめようと思いました*1
そしたらさっき、このブログでは最近よく言及したりコメントをもらったりしている(ような気がする)ggincこと高橋さんとメッセをして、何か面白かったのでログをメモ代わりに残しておきます。
といっても、僕の発言だけです。


高橋さんから、「現在のフランス王」とか「丸い四角」とかは、「偽」なのか「ナンセンス」なのか、と質問されたのが話のきっかけです。

SAK の発言 :
うーん、それはそもそもどういう立場に立つか、どの説を、あるいはどの領域を採用するか、ということで変わってくる問題だと思うのですが
ラッセルの記述理論の立場をとると、「現在のフランス王は禿である」は、はっきりと「偽」ですが
ストローソン的な、言語行為論の立場をとると、これは「真」とも「偽」ともいえなくなってきます
ただ、これは授業で先生が言っていたのですが、ラッセルは意味論を扱っていて、ストローソンは語用論を扱っていて、そもそも扱っている領域が違うので、どっちが正しいということはできない、とのことです*2
その文を、一体どのレベルで解釈したいのか、ってことになるのではないでしょうか

SAK の発言 :
「外延(指示対象)が、フィクションの中にしか存在しないもの」ってありますけど*3その、フィクションの中の存在というのをどう扱うのかってことになってきますよね
「真」か「偽」かっていうのは、すごく限定された評価軸に過ぎなくて、それでは収まりきれない文が大量にあるわけですから、「真」でも「偽」でもないものは、「ナンセンス」としかいいようがないのかもしれません
そうなってくると問題は、「真」とは何か、ということになってくると思うのですが
これは結構、形而上学的というか存在論的な考察が必要になってくる領域なのではないだろうか、と思うのです、ラッセルや三浦俊彦のやっていることを見るに。
なので、フィクションの中にしか存在していない存在に言及する文は真か偽か、という問いに答えるには、どの存在論にコミットメントするのか、という問いに答える必要が出てきてしまうのではないか、と
語用論というか、言語行為論というか、後期ウィトゲンシュタインというか、そういう方向にいくと、そういう存在論に頭を悩ます必要はなくなるかもしれません

SAK の発言 :
真か偽かよーわからんので、僕としてはそもそも真か偽かという評価軸を捨ててしまいたいです
というか、真か偽かというのが重要なのは、単に、フレーゲ論理実証主義者たちのテーマにとって、というローカルな重要性であって、そのテーマを共有しないこっちとしては、そんなもんしらーんと言いたいです
というか、言おうと思っているのですが、どうやってそれを言えばいいのか分からないっていう状況です
そして、何が真か偽かを決めるのは、言語哲学ではなくて認識論とか存在論とかのお仕事です
だからこそ、今では言語哲学が、分析哲学とか心の哲学とかいうふうに名前を変えたんだと思うんですけどね

高橋さんが、まとめてくれたので、以下は僕ではなく高橋さんの発言。

・フィクションにおける真偽を区別する存在論は複数ありうる。私達は、特定の存在論を選ぶまで、虚構文が実際どんな風に二値原理で判定されるかを選べない。

・フィクションで扱われる〈世界〉は、その(実在的な意味での)真偽に関わらず、いくつかのドグマをまず設定し、そこから演繹と帰納を繰り返すことで形成される。


あとは、フレーゲってよくわからん、とか、ウィトゲンシュタインってよくわからん、って話をしていました(^^;
あと、最初「ナンセンス」って言われたとき、僕はピンとこなくて、話しているうちに、「真」でも「偽」でもないものを「ナンセンス」って呼ぶのかなあと理解したのですが、最後に高橋さんから、「ナンセンス」っていうのは「語りえぬもの」ことだと思う、と言われて、「えーそうなの?」と頭を抱えてしまいました。
むしろ僕は、ジャバウォッキー文的なものではないかな、とか思ったのですが、それもちょっと違う気がする。
「真」か「偽」か、で判断できるような文の集合があって、その外側に、「意義」があるか否か*4で判断できるような文の集合があって、さらにその外側に、「語りえぬもの」があるのではないだろうかなあ、というイメージ、今のところ。
とりあえず、高橋さんとの会話の中で、「ナンセンス」というのを、「真」でも「偽」でもない文のことを指しているものとして理解したのだけど、「ナンセンス」というのは、「意義」がない文、人に意味が伝わらない文のことを指すのではないのだろうか。
というのも高橋さんが

「私はバカンスに行く」は偽だけど、ナンセンスじゃない

と言っていたので、この文は、「真」か「偽」かでは判断できないけど、「意義」あるか否かでは判断できる文なのかなあと思った。そうすると、フィクションにおいて問題になってくる文は、「真」か「偽」かでは判断できないけど「ナンセンス」でもない文なのかな。
で、ジャバウォッキー文は多分「ナンセンス」な文。でも、ジャバウォッキー文は「語りえぬもの」ではない。文になってるから。

*1:政党に投票するんじゃなくて政策に投票できるシステムってできないのかって話をしようと思いました。ってかそれだけです

*2:この指摘はクリプキがやっていたみたい。あと、ストローソンじゃなくてドネラン。http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_139.html

*3:高橋さんの質問は、「現在のフランス王」や「丸い四角」の扱いというよりも、フィクショナルな存在の扱いについてのものだったようだ。ここでいうフィクションは、物理的には存在しない想像上の存在

*4:フレーゲのいう「意義」かどうかは頭が混乱するから置いておく。言語行為として成功するか否かという感じ