グレゴリー・カリー『フィクションの性質』("THE NATURE OF FICTION")第1章

ウォルトンKendall L. Walton "Mimesis as Make-Believe :On the Foundations of the Representational Arts" - logical cypher scapeに引き続き*1、分析美学のフィクション論の本
まだ読んでいる途中で、とりあえず第1章の部分について
1990年初版、ということは、ウォルトン本と同じ年だけど、ウォルトンのごっこ遊び+グライスのコミュニケーション論、みたいな感じ

Chapter 1. The concept of fiction
1.1 Fiction and language
1.2 Semantic properties
1.3 Readers and authors
1.4 The pretence theory
1.5 Make-believe
1.6 The author's intentions
1.7 Communicative acts
1.8 Fictive communication
1.9 Objections to the necessity of the analysis
1.10 Objections to the sufficiency of the analysis
1.11 Make-believe and pretense


フィクションかそうでないかを判別する基準は何か
・言語的特徴?→なさそう
・意味論的特徴?
 →フィクションは真理値を持たないと言われたりするが、それも違う。フィクションの中にでてくる単語や文も指示を行っている
・読者(集団)がそれを決めている?
 →読者が、フィクションを作っているわけではない
作者が、フィクションを作っている
フィクションを作る行為とは、フィクティブな意図をもってなされる、フィクティブな発話によってなされる


サールの「ふり」説の検討
フィクションかどうかは、言語的特徴でも意味論的特徴でも読者の反応でもなく、作者の行為によって決まる、という考え方は、カリーの考え以外に、サールの「ふり」説がある。
フィクティブな発話は、発語のふりをしている=発語内効力がない、という説
カリーは、フィクションかどうかは、発語内効力の違いだ、という説
サールがフィクションについて、発語内効力の違い、ではなく、発語内効力がないと考える理由
「発話内行為はその文の意味の関数である」という原理があると考えているから
この原理に従えば、同じ意味の文(トークン)は同じ力の発話内行為で使われなければならない。
同じ文トークンを、二つの異なる発話内行為で使うことはできるから、この原理は間違い
また、フィクションについての言明(例「ホームズは結婚していない」)は、ホームズを指示するふりをしているのではなく、虚構のホームズを指示している。これをどう説明するかという問題がある。
サールは、指示するふりをすることで、フィクショナルキャラクターを創造するといっているが、これは謎


ごっこ遊び
ごっこ遊びは命題的態度の一種
フィクションかどうかは、想像行為ではなく、どのような命題的態度を採るか、つまり、ごっこ遊び(make-belief)か信念(belief)か
作者のフィクティブな意図とは、聞き手・読み手にごっこ遊びの態度ををしてもらうという意図
これが、フィクションとは何かということの説明の中心


グライスのコミュニケーション理論
コミュニケーションは意図的な行為
言語使用が必須ではない(手振りでも可)
発話者が相手にどういう信念を形成させようとしているかという意図を持っている


フィクティブなコミュニケーション
作者は、読者がごっこ遊びすることを意図している。
作者は、読者が、作者の上記の意図を認識することでそうすることを、意図している
作者はその意図を、複数の方法で伝達することができる(作品以外の方法もありうる)
言語以外の方法でもできる


フィクション作品の定義
「ある作品がフィクションであるというのは、その作品が、フィクティブな発話によって作られたものであるとき、かつその時に限る」


必要条件の検討
ウォルトンは、フィクション作品であるのに意図は必要ないという
1)フィクション作品でも主張であることがあるから
→一つの発話で二つの意図をもって行為できるから、カリーへの反論にはならない(サールへの反論にはなる)
2)何の意図ももたずに作られたものがフィクションになることがあるから(石の割れ目とか星座とか)
→「読者によってフィクションとして扱われるかどうか」と「フィクションであるかどうか」を区別すべき
フィクションではないが、フィクションとして読まれているものを「擬フィクション」と呼ぶことにする
こうした区別は、直観的なフィクション概念とも整合している。
種の起源』をフィクションとして読んでいる読者がいるからといって、それはフィクションになるわけではない
視覚芸術について
絵画・写真も、その意図によってフィクションかそうでないかが区別される
(ちなみに、ウォルトンによれば、絵画・写真は全てフィクションということになる)


十分条件の検討
フィクティブな意図をもってなされたら、全てフィクション作品ということになるのか
隠されていたテキストを見つけて、それをもとに発表された作品についての思考実験
「もし作品の内容が真であった場合、それは偶然に真であること」という条件を付け加える必要があることが分かった
偶然に真であるとはどういうことか
たまたま真と、信頼できる真の区別:もし状況が違っていたら、異なって書かれていたかどうか。異なって書かれていたなら、信頼できる真。


The Nature of Fiction

The Nature of Fiction

*1:っていうには大分間が空いたけど