グレゴリー・カリー『フィクションの性質』("THE NATURE OF FICTION")第1章 - logical cypher scapeの続き
Chapter2. The Structure of Stories
2.1. Truth in fiction and fictional worlds
2.2. Being fictional
2.3. Lewis's theory
2.4. More on make-believe
2.5. Truth in fiction and belief
2.6. Fitional author and informed reader
2.7. Strategies of interpretation
2.8. Fictional to a degree?
2.9. Fictions in visual media
この章では、フィクションにおける真理について扱う。
ここでいうフィクションにおける真理とは、
「『人体発火が起きた。』は、『荒涼館』では真である。」とか「『デスデモーナは殺された。』は、『オセロ』では真である。」とか。
一方、「『失われた時を求めて』には、愛や時間や記憶についての真実がある。」というようなことも、フィクションにおける真理ということがあるが、それはこの章で扱うものではない。
フィクション世界は可能世界か
可能世界であるためには、いくつかの原理を満たしている必要がある。
- determinate
可能世界では全ての命題が真か偽かどちらか
- consistent
可能世界では論理的に不可能なことは真にならない
フィクションには、真か偽か決まらない命題もあるし、不可能なことが起きることもある
また、2つの可能世界があって、その両方が、ホームズの物語で起きたことを満たしているとしたら、どちらの可能世界がホームズの世界なのか分からなくなるという問題もある。
オペレータFについて
「何某かがフィクションの中で真」というのは、「何某かがフィクションである」「何某かがストーリーの中の一部である」という意味
「フィクションである」は、真理(「真である」)の一種とかではない。
「真である」ではないけれど、命題の性質でるという点で真理と似ている。それは、真理値への関数という性質。
「ホームズはタバコを吸う。」は真なる命題を表現していないけど、「『ホームズはタバコを吸う』はフィクションである。」は真なる命題を表現している。
「作品WにおいてPはフィクションである。」をFw(P)と略して表記する。
オペレーターFを使うのが適当ではないようなこと(例:「私は、オセローがデスデモーナを殺すことを恐れる。」)については、5章で
フィクショナルな名前が何を指示しているのかという問題はについては、4章で
D.ルイスは、F(P)という形式の文の真理条件についての説明を与えた。しかし、ルイスの理論には不足してるところがあって、それがカリーにとっては大事
ルイスの2つの分析
分析(1)
ストーリーの世界(S世界)というアイデア
S世界というのは可能世界で、ストーリーの中で明示的に真であることが全て真であるような世界。
一つのテキストに対して、S世界は複数ある。
例えば、ホームズが人間であるということがストーリーの中で明示されていなかったなら、ホームズがロボットだったり火星人だったりするS世界もある。
じゃあ、F(P)をどうやって決めるか、ルイスは、現実世界@との距離で決めるということを考えた。
分析(1)
Fs(P)が真である⇔Pが真であるようなS世界が、Pが偽である他のどんなS世界よりも、現実世界@に近い
これは、フィクショナルな真理のために作られたものではなくて、反実仮想の真理条件を説明するために作られたテクニック
- ホームズは火星人か否か
W1:ホームズが火星人である世界
W2:人間のような火星人がいない世界
W2でホームズは火星人ではない
W2はW1より@に近い
→「ホームズは火星人ではない」がフィクショナルに真
- ホームズの髪の毛は偶数か奇数か
ホームズの髪の毛が偶数の世界と奇数の世界、どっちが@に近いか決められない。
ストーリーの中でも不確定
分析(1)の問題点
分析(1)は、ストーリーの中の明示的な内容と現実世界での真から、フィクションの中の真を決める
もし、精神分析が真だとすると、ハムレットの世界でも精神分析が真となる。
ハムレットの逡巡は、神経症のためだということが真となるけれど、これはどういう解釈をとるかという立場によっては受け入れがたいのではないか。
- シーザーの髪の毛
シーザーが死んだときの髪の毛の本数がn本だとすると、ホームズの世界でも、シーザーが死んだときの髪の毛の本数はn本であるということが真になる。
いくらなんでも、ホームズの話とは無関係すぎることまで、ホームズの世界で真になるのはどうなのか。
しかし、これらは、害はない。もっと問題のあることがある
グラッドストンの性格というのは、現代の歴史研究によって、ヴィクトリア時代に思われていたようなものとは違うということが分かってきている。しかし、ヴィクトリア時代に書かれた小説のグラッドストンの性格も、そうか。
『ねじの回転』で、ガヴァネスは幽霊を見たけれど、現実世界に幽霊はいないから、それは彼女の妄想だったということになるのか
分析(2)
ルイスは、他の分析を提案する。
分析(2)は、ストーリーの中の明示的な内容と作者の社会で広く信じられている(overtly believed)ことから、フィクションの中の真を決める
だいたいみんながPを信じていて、だいたいみんながPを信じていることをだいたいみんな信じている時、Pは広く信じられている
作者のコミュニティで広く信じられていることが真である世界の集合=信念世界の集合、と呼ぶことにする
分析(2)
Fs(P)が真である⇔すべての信念世界wにとって、Pが真であるようなS世界が、Pが偽である他のどんなS世界よりも、wに近い
まだ問題がある
矛盾のあるストーリーはどうするか
→断片ごとに考える
「Pが真である」と「〜Pが真である」であっても、「Pかつ〜Pが真である」にはならないようにする。
→本当にちゃんとそんな断片に分けられるの?
→アドホックじゃない?
→明らかな作者のミスに対処できないんじゃない?
ごっこ遊びについて
フィクションというのは、作者が読者にごっこ遊びを期待する、コミュニケーション行為
ごっこ遊びには、命題的態度と命題のオペレーターという2つの意味があるので、区別しよう
作品のなかでフィクショナルであることと、ごっこ遊びのなかでメイクビリーブしていることとの違いを区別しよう(自分についてのごっこ遊びとか)
カリー説
信頼出来る語り手の信念と、フィクショナルな真を結びつける
フィクショナルな真と信念の論理的構造は似ている
(A)negation incomlete
信念には、信じているわけでも、信じていないわけでもない命題がある
同様に、フィクションにも、真でも偽でもない命題がある
(B)演繹にたいして閉じてない
信念の帰結を全て信じているわけではない
矛盾が帰結したとしても、矛盾を信じていたり、矛盾がフィクショナルに真になるわけではない。
(C)矛盾しあう2つの信念をもつことがある。
Pであることを信じているかつPでないことを信じている。
(D)「『PまたはQ』を信じている」から、「『P』を信じている」または「『Q』を信じている」が導かれない。
「『凶器は銃かナイフである』がストーリーの中で真」だとしても、「『凶器は銃である』がストーリーの中で真である」または「『凶器はナイフである』がストーリーの中で真である」ということにはならない。
(E)ω-不完全性
量化を例化する何らかの存在を信じることなしに、存在量化を表現する信念を持つ
「6が完全数である」ことを信じることなしに、「完全数がある」ことを信じている
「ホームズの歯の本数がn本である」ことがストーリー中で真でなくても、「ホームズに何本かの歯がある」ことは真になる
(F)explicitな信念とimplicitな信念の区別
ルイスの「世界の集合の中での真」アプローチは、この考えにミラーできる。
フィクショナルな作者fictional author
フィクショナル作者とは、実在する作者ではなくて、作品からフィクショナルに作られた作者。含意された作者とかと同じようなもの。
作品を解釈するっていうのは、フィクショナルな作者の信念を推論すること。
唯一の証拠はテキストだけど、テキストだけでは十分じゃない。信念を推論するためには、バックグラウンドの仮定が必要
『ドン・キホーテ』とピエール・メルナールの作品だったら、フィクショナルな作者の信念も異なる。
シャーロック・ホームズのフィクショナルな作者は、ドイルではないけれど、ドイルと同じコミュニティに属しているはず。
知識のある読者informed reader
フィクショナルな作者が、どういうコミュニティに属しているのかといったことを知っている読者
フィクショナルな作者と違って、フィクショナルな存在じゃなくて、実在しうる
分析(3)
Fs(P)が真⇔知識のある読者が、Sのフィクショナルな作者がPと信じているということを推論することが合理的である
ルイスの、広く信じられていること、というのと比較
ハムレットの幽霊について
『ハムレット』において、幽霊がいるのはフィクショナルに真なのか、間違いなのか
これは、シェイクスピアの意図がどうったかの問題ではなくて、そう推論するのかが合理的かどうかという問題
「ホームズがパディントン駅の近くに住んでいる」
→ロンドンの地図を見れば分かるが、ロンドンの地図は作中には出てこない
ルイスの分析においては、現実世界との近さで説明できる、カリーの分析においては、フィクショナルな作者の信念から説明できる。
また、この作品とは直接関係ないようなこと(例えば、ミンスクの地理)は、フィクショナルな作者が信じていると考えられないから、真にならない、とすることができる。
『まだらの紐』のヘビ:実際には、このヘビはロープを登ることができない→ルイス説ではうまくいかないが、カリー説なら
interfictional carryover
例えば、異世界ファンタジー物があって、そこに登場する竜が火を吹くかどうか
その作品には直接書かれていないが、同じジャンルの他の作品なら、そういう竜は火を吹く
フィクショナルな真が、他の作品に依存すること→カリー説なら
不可能な事例
- 作者のミス
ワトソンの怪我の位置が脚だったり肩だったりする。フィクショナルな作者がどっちか信じているのかはっきり分からないのであれば、どちらも真にならない。合理的に推論できるなら、どちらかが真になる
- 丸い四角
- タイムトラベル
- 同じ文での矛盾
人の信念に、矛盾を帰属するのと同様な感じ
部分的に帰属させて、結論は信じていないと解釈したり
フィクションにおける程度
推論が合理的であるかの度合い
視覚メディア
「直接提示理論」=舞台や映画においては、語り手を通してではなく、直接フィクショナルな出来事を見ているという考え
→これは間違い
視覚メディアのフィクションにも、フィクショナルな作者がいる
映画のモンタージュとか、人間が直接見ていると考えにくい
フィクショナルな作者が、言葉以外の手段を使って情報を伝えている
例えば、身振り手振りとか人形を使うとか、そういうのの延長に視覚メディアがあるのだと考える
視覚メディアには強度がある、という反論
=フィクショナルな作者による伝達という間接的なものを見ているのではなくて、出来事やアクションそのものを見ているのだ、という反論
しかし、この反論は、小説にだって同様に当てはまるのではないか
representional character
ウォルトンは、描写をごっこ遊びで説明する、つまり、見る人との関係で説明してしまう
フィクションの描写とノンフィクションの描写の区別がなくなってしまう
ごっこ遊びとして使われることを作者が意図することによって、フィクションになる。肖像画は、これに当てはまらない。
描写は、ごっこ遊びでは説明できない
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