ケンダル・ウォルトン「フィクショナリティと想像」

指定された想像が、フィクションの十分条件でなかったという論文
(『ごっこ遊びとしてのミメーシス』*1の頃の見解を修正している)

1. Imagination (and Beleif)
2. Fictionality
3. Tempting Solutions
4. Seeing the Unseen; Reporting the Unreported
5. Game Worlds

十分条件への反例として
イコニック-メタ表象
例:フェルメールのA Young Woman Standing at a Viraginal→絵の中の絵。絵の中に、キューピッドの絵がある。キューピッドがいるように想像されるが、絵の中の世界において、キューピッドがいることはフィクショナルではない(キューピッドの絵があることがフィクショナル)
例:柔らかそうに見えるサボテンの写真、ゴルフボールが鼻のように見える写真など
例:比喩表現
何がフィクショナルになってて、何がフィクショナルにならないかの解決方法は、それぞれの表現によって違う


ランフォリンクスの絵
誰かがランフォリンクスを見ているがフィクショナル
しかし、この時代には人類はいないので、見ているような人は誰もいない。誰も見ていないもまたフィクショナル
ハックルベリー・フィンの冒険
語り手のハックは最後に死んでしまう。
この冒険物語はハックが語っていることもフィクショナルだが、ハックは語ることができないし語っていないこともフィクショナル
物語世界を、第一の世界(語られている世界)と第二の世界(語り手のいる世界)に分ける。
(『ごっこ遊びとしてのミメーシス』でも、『虚栄の市』を例にあげながら、作品世界が2つある場合について論じてる)


ゲーム世界についても、ウォルトンはかつての考えを修正する。
複数の世界がありうるし、「断片」として捉える。


参考:Kendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

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