虚構実在論に対していくつか

三浦俊彦『虚構世界の存在論』を読んで、いくつか今考えていること。
基本的に、小説のことしか扱われていなかったけど、マンガ、映画、演劇などに同様に適用可能だろうか。
三浦が最後に展開する、現象主義=一世界説すなわち虚構実在論は、厳密に一つの作品に一つの世界が当てはまるとされる。極端な例としては、カンマとピリオドが違っていても対応する世界が異なるとしている。
それで疑問に思ったのは、では映画や演劇はどうなるのか、ということだ。
演劇であれば、全く同じ脚本で全く同じメンバーで演じられたとしても、演じられるたびに少しずつ異なってきてしまうはずだ。
そもそも映画や演劇など、俳優を演じさせるタイプの虚構芸術*1が表わしている虚構世界とは一体どういうものになるのだろうか。
つまり、『虚構世界の存在論』で問題になっていたのは、「シャーロック・ホームズの背中にホクロはある」という文が現実に確かめられないということである。
仮に、キアヌ・リーブスの背中にはホクロがある、とする。「『マトリックス』のネオの背中にホクロはある」はどうなるのか。ネオにもホクロがある、と言い切れるのだろうか。
ここで問いたいのは、虚構芸術作品と虚構世界の関係である。
虚構芸術作品が虚構世界を表わしているとして、現象主義=一世界説をとると、作品と世界との間のズレが許容できなくなってしまうのではないか。つまり、現象主義=一世界説は、作品と世界が一心同体であるからだ。作品と世界の創出が同時に行われている、とおそらく考えられる。
ある世界があって、それを写し取ろうとしたのが作品、というわけではない。
例えばネオの背中には実はホクロがないのだが、マトリックス世界を『マトリックス』という作品にする際に、些細なコピーミスとして背中にホクロのあるキアヌが使われた、という解釈が、現象主義=一世界説ではとることができないはずだ。
そしてそもそも、キアヌ・リーブスとネオの関係は一体どのように理解すればいいのだろうか。
これがもし、原作小説の映画化であるならば、話はやや異なる。
その場合は、メディアの変化を作品の変化と捉えてしまえばいいからである。もちろんそれにしたって、俳優と登場人物の関係はそう簡単に解くことができない。
多分、この俳優と登場人物の関係というのは、もう誰かが研究しているのではないか、と思う。
どうやって探せばいいのだろうか。


さて、こうなってくると、一世界説よりも多世界説を採用した方が、虚構芸術作品と虚構世界を理解するにはいいのではないか、と思えてくる。
ところで、三浦が多世界説を退けた理由はなんだったか。貫世界同定の困難さである。
もしかしてこれを解く鍵が、『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ」概念なのではないだろうか。
「キャラ」概念は、dere同定をするための「このもの」性に他ならないのではないだろうか。
そういえば、東浩紀によるとデリダは、identiteとmeme*2という二つの言葉を使い分けているそうだが、identite=「キャラ」=dere同定するための「このもの」性とかなったりしたら、面白いかも。意味わからんけど。
上述した俳優と登場人物の関係の関係に関しては、「フレームの不確定性」が使えるのではないのか、と思ったりしている。
いまだに『テヅカ・イズ・デッド』未読なので、これはいよいよ読まないといけなくなってきたっぽい。
(訂正070603)

補記2(061217)

存在論的、郵便的』を読んでいた時のメモにこんなのがあった。

付記(06.2.20)

記号の同じもの性(mêmeté)と同一性(identité)の違いは、伊藤剛のキャラとキャラクタに布置できるのではないだろうか。

どちらも前者はコンテクストをなくした上でも「同じ」あるのにたいし、後者はあくまでもある特定のコンテクスト上で「同じ」であることである。

よって、上のidentite=キャラは誤り、正しくはmêmeté=キャラ
まあ、ほんとにmêmetéとキャラは同様の概念として捉えていいのかどうかはともかく

*1:今作った造語

*2:面倒なのでアクサンは省略