『グラン・ヴァカンス』飛浩隆

早川はとかく装丁がいいよね、装丁が。
この作品の場合、読み終わった後に見るとしみじみしますね。


実によく出来ていて、物語の面白さもテーマ性もよいのだけれど、あともう一歩インパクトが足りない気がした。衝撃を受けるまでには到らなかった、ということ。
それは、これが「廃園の天使」シリーズの第一作目にで、まだ謎が残されてしまっているせいかもしれない。


まず、非常に群像劇として面白い。
主人公たちがいるとある町に、正体不明の敵が現れて、町の人たちみんなで力を合わせてそれと戦う、というのがこの作品の前半部のストーリーの大枠である。
それで、この出てくる人たちみんながそれぞれに魅力的で、それぞれに「ときめき展開」*1を見せてくれる。
これだけではさすがにSFとはいえないかもしれないが、エンターテイメント小説あるいはラノベとしてはこれだけで面白い。
登場人物たちの老若男女のバランスの良さもある。そしてそれぞれが適材適所な働きをしてくれるわけだ。
ところが、この作品はそういう「物語」を解体してしまう。
つまり、この作品の舞台となっている世界が仮想現実空間で、登場人物はみなAIである、という設定の出番である。この設定はなにも、正体不明の敵やそれと戦うための手段を手っ取り早く説明してしまうためにあるわけではない。
この空間は、現実世界から人間たち(ゲスト)がリゾートとして訪れる場所で、そこで「生活」しているAIたちの感情や記憶は全て設定されたものである、というのはよくある話だが、なかなか考えさせられるのが、彼らが実際には体験していない記憶を持っているということだ。
彼らAIは、起動されてから1000年が経っている。それゆえ、彼らは1000年を実際に体験したことになる。しかし彼らはAIなので、その1000年間、1歳たりとも年を取っていない。
だが、例えば20歳という設定のAIは、20年分の記憶を予め持たされている。
つまりそのAIは、実際には体験していない20年分の記憶と、実際に体験した1000年分(かつ1年分)の記憶を持っていることになっている。
彼らはその「20年分の記憶」が実際には起きていないことを知ってはいるが、しかし確かに持ち合わせてもいる。
これはいうまでもなく、あらゆる物語のメタファーなのである。
何らかの物語は、必ずしも主人公の生まれてから死ぬまでを描いているわけではない。主人公の一生からすればほんの一部を切り取ってくるだけだ。だが、その主人公には確かに一生があるはずではないか。
つまり、物語の登場人物には、設定されてはいるが実際には描かれていない「20年分の記憶」があるはずだ。
この作品の舞台となっている町は、延々と1000年間、同じ1年を繰り返しているが、このことも同様に物語のメタファーであることはもはや自明であろう。
そしてこの世界に、外部から突然の終焉をもたらされる。その町に襲ってきた敵とは、そもそもこの世界の外部の存在であったのだ。
となれば、その外部とはすなわち、現実世界の人間(ゲスト)=作者=神となるわけだが、この作品ではそうはならない。というか、そこに到るにはワンクッション置かれていて、この先に現実=作者=神が待ち受けていることを何となく予期させつつも、この作品ではそこまでは到らないのである*2
というわけで、この物語のメタファーは、そのまま何の解決もなされずに話自体が終わってしまう。
このメタファーの描き方自体は、とてもきれいで、読者に「うあ、これメタフィクションじゃん」と思わせないようにうまく出来ている一方で、当然のことながらテーマとしてはありがちで、だからこそこのメタファーに対して作者がどう処理するかが問われるところだと思うのだが、この作品ではそこまで到っていないのである。
さて、先ほど「同じ1年を繰り返している」と書いたが、この作品はそのループを抜け出す話でもある。
つまり一種の成長譚なのであるが、こちらの方は何とも評価しにくい微妙な形で締めくくられている。
まずは、ループを死で終わらせてしまいたい、という願いが描かれ、この願いは部分的に叶えられる。
この世界に登場してくるAIは、前述したとおりみなが魅力的でそれぞれに「ときめき展開」をしてくれるほど生き生きしているのだが、一方で暗い影も背負っている*3
そうした影を死=終末によって解放する、という思想がまずある。
だが、主人公の少年はその思想を否定して、脱出を目指し成功する。
その一方で、その少年の分身はそのどちらをも否定し、何もかもなくなり砂漠と化してしまった仮想現実空間に残るのである。
とりあえず、ループとそこからの脱出としては、例えばビューティフルドリーマーがあり、終末による解放というのは、エヴァによって体現されている。
だが、そもそも脱出も終末も問題の解決にはならない。物語はそこで終わるかもしれないが、人生はさらに続くからだ。そうしたテーマを扱ったものとして僕は、西尾維新佐藤友哉、あるいはEDEN、砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない(変則的なものとしてハルヒ)などの作品群をあげたい。
この手のものは同時に、「万能感」とその喪失、つまり「去勢=成長」を含んでおり、この作品にもそれが一瞬出てくる。
僕はこの手の作品は、大体そういう軸で評価しているのだが、そこからするとこの作品は実に評価しにくい。


メタフィクション的構造やループからの脱出というテーマを、SF設定の力を借りて、「ときめき展開」してみせる物語の中に巧妙に配置したのは、作者の力量を発揮しているところだと思う。
「ときめき」な物語を構築しておいて、それをさらに解体し、なおかつその解体の過程も、変に実験的にならず物語として成立しているのだから。
だが、じゃあ実際にその構造やテーマは(暫定的でもいいから)どういう答えを提示したかというと、提示していない、という点で物足りなさがある。


文章の話をすると、非常に映像的だった。
これでもかというくらい、全てのエピソードが映像的、可視的だった。
この作品で、AIというのはその仮想現実空間の中で走っているプログラムのスキンなのだけれど、作品に描かれているものが全てスキンなのではないか、というくらいに可視的。
とても読みやすかったし、エンターテイメントになるし、ガチガチな難解な議論を展開するよりはよっぽど良いことだと思うのだけど、一方でこういう話なんだから、ちょっと観念的なことも書いていいんじゃないかとも思った。
どうでもいいこととしては、ジュール、ジュリー、ジョゼ、ジョルジョって名前似すぎじゃない?
最初混乱した。
あと、ファーストネームだけのときとフルネームが書かれるときの区別が、よくわからなかった。


海難記*4からの抜粋

一人またひとりと憤死していく「人間的な」魅力をたたえたAIたちの壮絶な最期も、どう描けばもっとも読者がそれを楽しむかを知悉した上でプログミングされている。そう、この作品自体が、「読者」のために、あたかもディズニーランドのように心地よく制御された場所なのである。

これに関しては、先ほどの*3の注も参照のこと。
仲俣は、ゲストのサディスティックな性欲と読者のこのような期待を重ね合わせている。
これはおそらく正しい読解なのだろうけど、個人的にはあまりピンと来なかった。
ここまでAIの「苦痛」ばかり執拗に描く意図を計りかねて、むしろひいた。
ただ、読者には確かにそのような「期待」があって、それが物語に対してある種の「無理」を強いている可能性については同意する。その「無理」のある具体例として『ダブルブリッド』をあげたい。『ダブルブリッド』には、記憶とか眼球とかあるいは映像的とか、色々と掘れば面白くなりそうな要素がある。

もっとも、この場所には一種の毒が仕込まれている。二つの残酷なエピソードを、本書を読み終えた誰もが記憶していることだろう。ひとつは、ジュリー・プランタンが飼っていた「金盞花(スウシー)」と名づけられた兎が迎える無惨な最期。もうひとつは「夏の区界」の世界設計の下敷きとなった「クレマン家の年代記」にある、小さな檻に閉じ込められた農婦が檻の枠に刺繍の図案を彫り付けた話。この二つは読者に向けられた悪意というよりも、作者が自分自身に向けた、容易に呑み込むことも消化することもできない毒なのだと思う。そのようなところまで自身を追い詰めてはじめて、飛浩隆はこの長編を書き終えることができたのに違いない。

後者に関してはそれほど深く感じなかったけど、言われてみればその通り。
そして、前者。前者のエピソードがあるために、ループからの脱出というテーマをどのように理解すればいいのかわからなかった。
このエピソードにおいて、終末による解放、終末を否定した上での脱出、どちらも否定した上での残留の三つが一点に収束してしまっているから。

たとえばミステリの世界で舞城王太郎が描く物語と、飛浩隆の作品とがどこかで共振しているとしたら、絶望の果ての希望とでもいうべき、この祈りの感覚にある。だからこそ本作は傑作なのだ。

九十九十九が、脱出とも残留ともとれないように、ジュール*5も、脱出とも残留ともとれない。その点で確かに共振している。
この作品にインパクトを受けなかった要因は、先に『九十九十九』を読んでいたからか。
とはいっても、九十九十九の希望とジュールの希望には、構造的には確かに同じなのだけれど、ややズレがあると思う。あくまでも暫定的な、想定上のものであるにせよ、現実=作者=神が、『九十九十九』では出てきたが『グラン・ヴァカンス』では出てきていない。
逆に言えば、それ故に、今後の展開如何では、「廃園の天使」シリーズの方が舞城より深いところに達するのかも知れない。

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

*1:僕の属している文芸サークルで使われる俗語。ベタなんだけど盛り上がるシチュエーションのこと

*2:これが前述した、1作目であるが故に残されてしまった謎の部分である

*3:というのも、彼らは人間(ゲスト)のサディスティックな性欲を満たすために開発されたAIだからである。解説で仲俣は、ゲストと読者を構造的にだぶらせて、読者に罪悪感を持たせる作品だと評価している

*4:http://d.hatena.ne.jp/solar/20060926

*5:本作品の主人公