『ベルクソン』ジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロン

ベルクソンはやはり重要な哲学者だ、ということと、ベルクソンにはこれ以上関わるのをやめようかな、ということの二つを感じた。
その方法論と思索の広さにおいて、学ぶべきところはあるように思えるが、その内容には必ずしも首肯しがたいものがある。


ベルクソンは、生前から既に高い評価を得てフランス哲学界に広く受け入れられていたらしい。
それから哲学者としては珍しく(?)社会性のある人物だったようだ。
おとなしく紳士的で慎み深い、というのも一般的な哲学者という生き物のイメージとは異なっているような気がする。


著作が紹介されていく。
まず、『意識に直接与えられたものの試論』であるが、これは岩波で『時間と自由』というタイトルになっていて、既に読んでいたのでおおむねそれの確認という感じになった。
ベルクソンの方法論として、間違った解にいたるのはそもそも問題設定が間違っているから、というものがあり、これはそれの典型でもある。自由は自由な意志決定としてあるか、という問題設定自体が間違っているのである。自由はあるが、それは意志決定という選択ではない。
それから、著者(ヴェイヤール=バロン)が注意を促すのは、表面的自我というのは決して軽く見なされているわけではない、ということ。
物質と記憶』でなされるのは、心身二元論を超克することである。
精神も身体もそれのみでは成立しない(のち、ベルクソンは社会や宗教もそれのみでは自足しえない、ということをいうがそれに繋がるのかも?)。
全てはイメージである。だが、身体というものがそれらのイメージを一点へと収束させる。また、その役割を担うのは記憶である。
ベルクソン心理的生には、行為の極と夢の極があると考える。行為の極に寄りすぎれば、人間の行為は自動運動になってしまうし、夢の極に寄りすぎれば、独我論的世界に陥ってしまう。ベルクソンは逆円錐が頂点で面に接している図を描く。頂点が行為であり、そこに到るまでのイメージとしての記憶が逆円錐の各切断面となる。螺旋を描いて一点へと収束していくのである。
『笑い』は、個人と社会の関係や芸術に関する論文が収められている。
その後ベルクソンは夢について論文を書く。フロイトの無意識の概念を認めて使っている。また、知的努力についての論文も書く。ベルクソンは「直観」を使うといわれているが、そこに到るための知的努力はなされているのである。
そして『創造的進化』に至って、生と知性は対立するものとなり、創造的跳躍によって物質を越えようとすることこそが生であるとされる。創造は、自分にないものを自分から生み出す奇跡的な力なのだ、と。そしてそこには「神」も現れてくる。ここから、神秘主義的なものが顔を出してきていると感じられる。
続く『道徳と宗教の二源泉』からベルクソンは、神秘主義者との共感を表明するようになる。
ここでは、道徳や宗教を二つに分ける。道徳であれば、閉じた道徳と開いた道徳、宗教であれば、静的な宗教と動的な宗教である。閉じた道徳と静的な宗教は、一般的に道徳とか宗教とか呼ばれるものである。開いた道徳と動的な宗教は、新たに創造されていくもので、特に動的な宗教は神秘主義者のそれである。天才によってなされるものでもある。
人類の物質的進歩、産業や技術の発展は、神秘思想によって補完される、とか。


著作の紹介が終わると、いくつかのベルクソンの主題が紹介される。
まずは方法論的なもの。それは錯覚をただすことにある。
錯覚としては、まず回顧的論理、つまり後になってから合理的な理由を探し出すこと。
言語による錯覚、体系による錯覚がある。本来、ありえないような概念を生み出してしまうが、それについて考えても詮無いのである。
例えば、無や無秩序は錯覚である。無というものを考えるから、「何もないところから存在がでてきたのは何故か」ということを考えてしまう。無秩序とは私たちとは別の秩序のことである。
言語は、このように錯覚をもたらす障碍であるが、しかし言語なくして思考できないこともベルクソンは認めているので、言語を全否定しているわけではない。
ベルクソン哲学は楽観論である。
それは生を肯定する哲学だからであり、その理由は「人類が結局のところ生きているのは、生が喜びだからである」ということである。
個的なものと社会的なものは、『試論』においては社会的なものが個的なものに寄生していると考えられていたが、次第に相互補完的なものとして考えられるようになる。


ベルクソン (文庫クセジュ)

ベルクソン (文庫クセジュ)