『ライプニッツ』ルネ・ブーヴレス

関東限定ですが、昨日のNHK*1東浩紀が出ていました。偶々見てたら出てきたのでびっくりしました。だってNHK東浩紀ですよ。「東京工業大学特任教授で批評家の東浩紀さん」と紹介されていましたが、これじゃあ一体何者なんだかって感じです。
番組内容は監視カメラの話で、東の発言も至って普通でした*2
存在論的、郵便的』でデリダをやってて、『動物化するポストモダン』でオタク文化論をやっててという東浩紀しか知らない人には、『東京から考える』とか、監視カメラについてのNHKの番組に出演するとかは、分かりにくいかもしれないですが、ホントは結構連続しているのです。
ところで、監視技術に東浩紀が関心を持ったのは決して最近のことではなく、初期の仕事を集めた『郵便的不安たち#』には、通信傍受法にまつわる小論*3が掲載されています。


さて、上述の東浩紀の話は単なる世間話といえば世間話なのだが、この色々やっていて本職がいまいちなんなのか分かりにくい感覚は、ライプニッツにもつながるのではないだろうか、と強引に繋げて本題に入る。
ライプニッツはまず第一に哲学者であり、かつ数学者であって科学者であった、というのはまあこの時代の哲学者にはよくある話だが、彼の場合、さらに法学者と外交官という肩書きが付け加えられる。政治や裁判に関わる論文を書いたり、実際に様々な国や地方の為政者との会見も行っている。
基本的にはドイツで活動していたが、フランスに渡った時期には数学を主な仕事としていた。
彼自身はプロテスタントであるが、カトリックとも仲がよく、キリスト教同士の平和を目指す仕事もしていたらしい。
さて、彼はキリスト教徒であり、彼の哲学でもやはり「神」という概念は非常に重要であり、現代日本に生きる者にとっては理解しにくい、あるいは最早古くなってしまった学説に見えるところもあるのだが、しかしそれでもライプニッツはすごい、といえる。彼の哲学は、おそらく未だに通用しうる部分を多く持っているように思える*4


大きく分けると、数学・力学、論理学、形而上学の分野が非常に大事になる。
まず数学で、ライプニッツにはこの方面で様々な業績があるが、特に微積分の発見は非常に有名であるし重要である。これによって彼は、無限小という概念を見出す。
この無限小、という考え方は、不連続な実在としてのモナドというものをライプニッツが見出すのに重要だった。それは、延長のない実体なのである。このことによって彼は、実体を延長と思惟に完全に二分したデカルトを批判する*5
さらに力学においては、あらゆるものは連続している、という考えが彼にはある。要するに、直線とは直線という確かなる現象なのであって、点によって構成されているわけではない、というものだ。また彼は、運動の本質を位置ではなく力に見る*6
また、ニュートンの弟子クラークとの間の往復書簡によって、ニュートンの絶対空間・絶対時間というものも批判するが、それはこちらで既に述べた。
続いてライプニッツの論理学は、後にラッセルなどに再発見されることになったらしいが、現代の論理学とつながりうるところが見られる。
彼は記号化を行うことで、全ての推論を計算の過程に帰そうとしていた。ある学説が正しいか否かは、計算が正しいか否かに還元されうる、そのような基礎的な言語としての論理学の構築を目指そうとしていた。これなどは、フレーゲから始まる記号論理学や論理実証主義の目指そうとしていたことと非常によく重なるのではないだろうか。
さらに、彼は、真なる命題は同一的である、と主張する。これは、恒真式はトートロジーであるという現代の論理学が説くところとやはり重なるだろう。ただしここからさらに展開される説は、やや特殊であるが、理解できないことは決してない。
ライプニッツによれば、真なる命題が同一的である、ということは、述語が主語のうちに含まれている、ということである。
トートロジーの代表は「AはAである」だが、「Aである」という述語は「A」という主語のうちに既に含まれている。
ライプニッツは、およそ真なる主語は述語を含んでいる、と考えるのである。主語が分かれば述語(主語の特性)も分かるというのである。
例えば「ライプニッツは哲学者である」というとき、既に「ライプニッツ」という語の中に「哲学者である」という語が含まれている、というのである(もちろん「ライプニッツ」は複数の述語を含む)。
ところで、このような真理概念は、おそらく現代においては受け入れられないだろう。主語が真理であることを知るには、主語の属性(主語に含まれる述語)を全て知らなければいけないからだが、勿論人間にそんなことはできない。ライプニッツは、それを知ることが出来る存在として神をあげているのである。
続いて形而上学である。
ライプニッツ形而上学を支える最も重要なテーゼは、充足理由律、矛盾律、最善律であるが、充足理由律と矛盾律はほぼ同じものである。
充足理由律とは、何かがあるためにはそこに十分な理由がなければならない、というもので、これは神にとっても同じことである。
さてそこから導かれるものに、不可識別者同一の原理がある。見分けのつかない全く同じ者は二つとないのである。見分けが全くつかないのであれば、それが二つ以上ある合理的な理由がないということである。
そうした諸々から、モナドジーという形でライプニッツ形而上学はできあがってくる。
唯一の実在としてのモナド、というものが想定されるのである。
これは、全てはある不連続なモナドという単位からなる、という考えで、実は力学における全ては連続する、という考えとは矛盾する。どうもライプニッツは、形而上学のレベルと力学のレベルで分けて考えていたようなふしがある。形而上学のレベルではモナドという実在について考え、力学のレベルでは現象*7について考えているようである。
モナドは完全である、というのは、モナドというのはまさに真理なる命題そのものなのである。つまりモナドの内にその属性(述語)は全て含まれているのである。だから、モナドがすることも全てその内に含まれているのであって、そのモナドのすることは必然的に起こりうる。
モナド同士は絶対に影響しあわない。モナドトートロジーだからだ。
モナドは互いに影響し合っているようにみえるが、それは予めそのように振る舞うようになっていただけである。
デカルト心身二元論というより、延長と思惟に分けるやり方をライプニッツは批判している。モナドは延長のない実体である。モナドは、不可識別者同一の原理によってヒエラルキーがある。そのため、思惟のあるモナドとないモナドがある。
さて、デカルト心身二元論では、心と体がどのように影響し合っているのかを説明するのがほとんど不可能であるが、ライプニッツモナドジーでは至って簡単である。心(というモナド)と体(というモナド)は、現実には影響しあってなどいないのである。ただ、表面上は影響し合っているように見えるだけなのである。
ところで、このモナドジーは、ある種の宿命・運命論にも見える。ライプニッツも、モナドに内在する述語のことを、確実性という言葉で呼んでいる。
だが、ライプニッツはこのことは必ずしも私たちの自由とは抵触しないと考えている。何故なら、私たちには「自由である」という述語が含まれているからでもあるし、またそもそも確実性というのは厳密には必然性とは異なるからである。
ライプニッツが、偶然的真理と必然的真理を分けて考えているのも興味深い。必然的真理とは論理的真理であり、それは例えば真理とはトートロジーである、とか充足理由律とかであって、これは神であっても従わなければいけない真理である。
それに対して偶然的真理(事実の真理)はそうではない。
この本の中では、実に当然のように「可能的世界」という言葉が出てくるのだが、何故そのような概念が導出されたかについては説明して欲しかったところである。
ともあれ、充足理由律を満たすような世界は複数個ありうる、ということをライプニッツは考えていたようだ。それが可能的世界である。
つまり今この世界がまさにこのようにある、ということはある種の偶然的真理に属することであって、それ以外にありうる可能性というのはあるのである。
しかしそれでは、何故世界は今このようにあるのだろうか。
そこでライプニッツが出してくるのが、最善律である。これは、神はあらゆる可能性を知っていて、その中から最善の世界を選んだ、というものである。
人間は不完全な認識者だから、この世界が最善であるということが分からないかもしれないけれど、とにかく神はこの世界を最善だからこそ選んだのである。というか、そうでなければ多くの可能的世界がからこの世界が選ばれたことに対する、充足理由律が満たされないだろうし。
そうやってライプニッツの哲学は神学へと傾倒していく。
そしてそもそも、充足理由律というものを何故ライプニッツが信じているか、というのも結局は神を信じているから、ということに辿り着き、ライプニッツは神の証明を行うのだが、こうなってくるとちょっと理解できる範囲を超えるので割愛させていただく。


ライプニッツの哲学・世界観は、とにかく現代の(少なくとも自分の)レベルからいって論理的に構築されていて、また非常に魅力的でもある。
僕自身は、自分を唯物論者だと考えているので、ライプニッツモナドとのようなものは必ずしも受け入れられる概念ではないのだが、そこに到る道筋に関しては大いに驚かされたし魅了もされた。

ライプニッツ (文庫クセジュ)

ライプニッツ (文庫クセジュ)


(誰も見ていないだろうけど)今日の日記のタイトルについてはこちらをどうぞ

*1:特報首都圏。月〜木ならクローズアップ現代がやっている時間帯

*2:監視技術のデジタル化によって生じるリスクを語ることで、監視技術を間接的に批判している

*3:監視技術/社会を、いわばサヨク的発想によって批判するのではなく、あくまでも技術そのものが持っているリスクについて考えようとするやり方はこの頃から既にある

*4:ただし、慎重に腑分けする必要はあるだろう

*5:ライプニッツは、スコラ哲学やデカルトを大いに批判するが、その一方で多くをそれらにも負っている。ライプニッツは様々な学説の、極端な部分を修正していったとも考えられる。

*6:実はここにもデカルト批判が現れる

*7:この「現象」という言葉でさされるものにも二種類あって、力学で扱われるのは「確かな現象」でかなり実在と近い概念ではあるようだ