Stephen Chadwick「星々の中の想像――芸術的天文写真における想像の役割」

Stephen Chadwick
Imagination in the Stars: The Role of the Imagination in Artistic Astronomical Photography
https://www.contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=770


ナンバさんが紹介していたこの論文と、同じ著者で同じ雑誌に掲載されていた論文
天文写真における想像の役割ということで、科学と美や芸術の関係であったりとか、写真の透明性とか写真の定義とかの話と絡んでいるのかなーと思い、読んでみた。
結果的には、示唆が得られたとかそういうところはあまりなかったけど、まあ。ぱらぱらと読む分には面白かったし、折角読んだのでメモる。


「観察に基づく絵画」「芸術写真」「芸術的天文写真」という3つのジャンルを比較するという形をとって、これらの制作行為のなかで想像が果たす役割を4つあげ、その4つがそれぞれ3つにおいてどのように働いているかを論じている。


鑑賞側ではなく、制作側から論じているというのはポイントかもしれない。
また、筆者はマッセー大学(NZ)で哲学と天文学の講師であり、なおかつ天文写真家でもある

1. Artistic and scientific astronomical photographs
2. The imagination
3. Imagination in observational painting
4. Imagination in traditional artistic photography
5. The creation of artistic astronomical photographs
6. Imagination in artistic astronomical photography
7. Conclusion

1. 芸術的天文写真と科学的天文写真Artistic and scientific astronomical photographs

科学的な目的で撮影される天文写真とは別に、非科学者が、美的な経験を目的として撮影する写真がある。ここではそれを、芸術的天文写真と呼ぶことにする、と。

2. 想像The imagination

筆者は、作品の創作における想像の役割に興味がある。
本論で筆者は「芸術的天文写真の制作において想像が働く方法」と「観察にもどつく絵画の制作において想像が働く方法」とを比較する。
「観察に基づく絵画」とは、記憶や想像の中ではなくて、目の前にあるシーンを描写する絵画のこと
ただし、写実的である必要はない。
例えば、ゴッホの「ヒバリのいる麦畑」も、観察に基づく絵画の一例

3. 観察に基づく絵画における想像Imagination in observational painting

想像は、4つの重要な働きをしている
(1)描かれる主題・情景・パースペクティブの選択
環境にある事物が、ウォルトンのいうところの「想像のプロンプター」となって、想像を促す
(2)細部を取り除く
モデルの首にあるネックレスとか、草原の中にいる馬とかを、画家は描かないこともできる
(3)要素を付け加える
逆に、ネックレスや馬を付け加えることもできる
(4)どのように描くかを考慮する
色や影、筆触などをどのようにするか

4. 伝統的な芸術写真における想像Imagination in traditional artistic photography

写真は、作者の信念に影響されないとか、反事実的な依存があるとか、機械的であるとか言われるけれど、想像が重要な役割を果たしていて、機械的ではないのだとして、筆者は、写真において、先にあげた4つがどのように働くか(あるいは働かないか)を述べている
(1)写真に撮るシーンを決める
(2)細部を取り除く
被写界深度や露出時間を利用すれば、いらないと思ったものを写さないことは可能
(3)要素を付け加える、は伝統的な写真においてはない
(4)

デジタル写真について
デジタル写真は、生データをソフトウェアが調節・加工して生成される
加工した写真は写真なのかと問われるかもしれないが、デジタル写真にとってソフトウェアによる加工は不可欠
どこまでの加工なら許容できるか、という問題になるが、これは線引きが難しく、曖昧性のある問題
自然な見た目と異なっているかどうかが、写真か(写真に基づく)絵画かを分ける基準になるのではないか
「自然な見た目と異なっているかどうか」も、もちろん曖昧にならざるをえない基準だけれども、筆者は、要素を取り除くのはOKだけど、付け加えるのはNG、という基準をここでは提案している。
この基準について、例えば、ニキビを取り除くような加工の場合、写真の誠実性を損なったとは感じないけれど、他の写真から切り取ってきた馬を挿入したら、それを損なうように感じるよね、と述べている。

5. 芸術的天文写真の創造The creation of artistic astronomical photographs

天文写真は、普通の写真とは事情が異なっているところがあることが説明されている
本論は基本的にデジタル写真の話をしているが、先に述べたように、デジタル写真は元データをソフトウェアが調節している
ただ、こういうソフトウェアは、日常的な対象向けに作られているので、天文写真では使えず、マニュアルで調整・加工をしないといけない
明度、コントラスト、カラーバランスの調整など、天文写真の対象は、肉眼では見ることができないものなので、「自然な見た目」のような規準がなくて、写真家が想像力を発揮しないといけない、

6. 芸術的天文写真における想像Imagination in artistic astronomical photography

想像の4つの役割はどのように働いているか
(1)
対象をプロンプターとするのではなく、(対象を肉眼で見ることができないので)写真をプロンプターとする
事前に撮った写真から想像が促され、写真にとる主題・対象を選び出す
(2)
天文写真においては、被写界深度や露光時間を使って、取り除くことができない
(3)
何かを加えるという形での想像の働せ方を、芸術的天文写真では行っていない
(4)
対象が肉眼で見えないので、写真的誠実性を損なっているかどうかの基準がない
基準が不在ということは何でもありななのか? なんでもありだとすると、それはもう写真ではないのではないか
これに対して、筆者はそうではないという
芸術的天文写真には他の基準があって、例えば、科学的メカニズムの理解がその基準となっている

感想

制作にあたって、想像が果たす役割を4つあげて、それを比較していくというのは面白かったけど
写真としての基準を満たすかどうか考えるにあたって、取り除くのはありだけど、付け加えるのはだめ、何故なら、後者は不自然だけど、前者は不自然に感じないから、みたいな話は、何というかさすがに実感的なものに寄りすぎていて、それでいいのだろうかという感じもする
もちろん、この基準自体、別にそこまできっちりしたものではなくて、色々曖昧なところがあたり決め難かったりするところがあって、とりあえずこのあたりじゃない、というくらいのものであって、きっちり証明しようと思っているものでもなさそうなので、まあそんなところかなあと思えばそんなところだなあと思うが。

Milena Ivanova「科学の美的価値」

原題は、Aesthetic Values in Science
科学において、「この理論は美しい」とかいった形で、美や美的価値に言及されることがあるけれど、これは科学においてどういう役割を果たしているのか、という論文
筆者は、科学哲学が専門で、ケンブリッジ大学所属


以前、科学における美とは何か - logical cypher scape2という記事を書いたが、科学と美の関係はちょっと気になっている。

philpapers.org

1.Introduction
2.Aesthetic Judgement and Science
3.Beauty and Aesthetic Value
4.Truth and Beauty
5.Aesthetic Value and Understanding
6.Conclusion

2.美的判断と科学Aesthetic Judgement and Science

まず、科学と美に関する様々な見解が紹介される。

  • 科学において美的価値は、動機としての役割を果たす(ポワンカレ)
  • ヒューリスティックとしての役割を果たす(マッハ)
  • 美と真の間には特別な関係がある(ディラックハイゼンベルク、ワトソン、チャンドラセカール)
  • 科学のプロダクト(理論等)を芸術作品とみなす(デュエム、ラザフォード)
  • 美的感覚能力によって有用な理論を選ぶ(ポワンカレ、フォン・ノイマンデュエム
  • 科学的表象への注目による美学と科学哲学の接近

美的判断が科学者にとって真正な認識的な役割を果たしているという考えに対する懐疑論もある
例えば、科学者が使っている美的な語は、他の語に還元できるとか
発見の文脈と正当化の文脈の区別にのっとると、美的なものは主観的であり、発見の文脈と関わるものであって、客観的なのは、正当化の文脈であるとか
懐疑論に対する再反論もある(Cellucci)

数学と、絵や音楽とで、脳の同じ部位が反応しているという研究もある(ゼキ)


3.美と美的価値Beauty and Aesthetic Value

美beautyは客観的か? それとも見てる人の投影か?
客観主義者は、美は永続的なものだと考える。
投影主義者は、美はダイナミックな概念で、時代によって異なると考える。
芸術における美は時代や流行によって変化するとしても、科学における美は客観的・普遍的だと考える科学者もいる(ディラック


多くの科学者は、美beautyの概念を、他の美的性質aesthetic propeties(単純性、対称性、調和、統一など)に還元して理解している
ただ、このような美的性質も、時に応じて変化している
McAllisterは、科学史の中から美的概念の変化の事例を挙げている。
また、分野によっても異なる(生物学は、複雑性を評価する)
理論を作るときか、現象を学ぶときかといった文脈によっても異なる(現象においては、対称性を破るものが美しいと考えられ、理論においては、対称性が求められる)
科学において、美的に評価されるものは多様(理論だけでなく、数学の証明、科学的発見、実験、観察、モデルなど)

4.真と美Truth and Beauty

美的価値は、理論の信頼性を正当化するという認識論的役割をもっているというMcAllisterの主張が、この節では検討されている。

  • McAllister

美的価値が科学的理論の信頼性を正当化する
その美的価値は、過去の成功した理論の美的性質に基づく
過去の成功した理論について、心理学でいうところの接触効果によって、科学者は美的に好むようになる
美と結びついた概念は、ダイナミックに変化するとMcAllisterは考えている
この変化と、科学理論の移り変わりを、結び付けている

  • 反論

(1)歴史的に一定な価値もある(単純性とか統一性とか)
(2)成功している理論の性質だけど美的価値とされていないものもある。複雑な理論や証明が成功しているけれど、それで単純さよりも複雑さがより評価されるようになった、ということでもない
(3)接触効果だけでは、美的価値が増さないことを示す近年の研究がある

5.美的価値と理解Aesthetic Value and Understanding

美的価値には、他の認識論的役割があるのではないか
真であることと結びついているのではなくて、理解することを結びついているのではないか。
理解することと知ることとは異なる
理解にとって、真であることは必要ない
理解とは、法則や原理を適用できること、理論を使ったり操ったりできること
もし、理解に真が必要だと、過去の科学者は、今から見ると誤りだが当時は経験的に成功していた理論について、理解を欠いていたことになる
理解にとって美的価値が役割を果たしているという主張がある(Kosso(2002)、Breitenbach(2013))
科学における美的判断は、世界の客観的特徴についてのものではなく、我々自身の経験を反映しているもの
まるっきり主観的というわけではなく、間主観的
美的価値と理解の関係についての見解と、ポアンカレの見解をあわせると、科学の目的は、真理ではなくて現象の理解ということになる。
ポアンカレは、一見結びつかない現象がどのように統合されるか把握された時に、美が感じられるといっている。

暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』

1940年に、東京五輪と同時開催の計画を立てられていた幻の東京万博について、同時代の他の万博や博覧会との比較を通して浮き彫りにすることを試みる。
芸術や文化と政治・戦争の関係を万博を通じて紐解いていく。
むろん、開催されることのなかった万博について明らかに言えることは多くないが、1930年代に開催された日本国内の博覧会や、パリ万博での日本やナチスドイツの出展、東京万博と同じく開催には至らなかったローマ万博などについて論じられている。
1940年というのは、いわゆる皇紀紀元2600年にあたり、以前から万博をやる機会をうかがっていた流れがあって、このタイミングにあわせ奉祝イベントとして開催しようと企画されていったらしい。


自分の大学時代の恩師である江藤先生が筆者の1人であるのだが、最近時々、同窓会ではないのだが、他の元学生と一緒に飲んだりすることがあって、その際にこの本をいただいたので、早速読んだという次第。
そもそも、1940年に万博が計画されていたことを全然知らなかったので(幻の東京五輪は有名だと思うが)、その点だけでも非常に面白かったが、この政治と文化との関係というテーマは、単に歴史的事象というのではなく、アクチュアルでもあるなあというのが節々から感じられた。
民間からの動き、大衆文化・消費社会という側面から捉えるのが、やはり面白いかなあと思った。万博、だから当然そういう側面があるわけだけど、それと、戦前の雰囲気の結びつきというか。
ドイツやイタリアの話もなかなか面白かった。

はじめに――幻の紀元二千六百年記念万国博覧会 暮沢剛巳
第1章 幻の紀元二千六百年記念万博――開催計画の概要とその背景 暮沢剛巳 
第2章 肇国記念館と美術館――紀元二千六百年記念万博の展示計画 暮沢剛巳 
第3章 プレ・イベントからみる幻の万博――横浜復興博とプロパガンダ 江藤光紀 
第4章 パリに出現したナチのショーウインドー――一九三七年パリ万博へのドイツ出展 江藤光紀
第5章 幻のなかの経験――ローマ万博の展示空間 鯖江秀樹 
第6章 一九三七年パリ万博への日本の参加とその背景 寺本敬子 
第7章 万博という代理戦争――植民地表象を中心に 江藤光紀 
第8章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元二千六百年記念万博の痕跡 暮沢剛巳 
おわりに 暮沢剛巳

幻の万博:紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス

幻の万博:紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス

第1章 幻の紀元二千六百年記念万博――開催計画の概要とその背景 暮沢剛巳

サブタイトルにあるとおり、この章は、紀元2600年記念万博の計画概要について、残された資料から解説している。
この章は、元東京都知事鈴木俊一の話から始まる。
元々、鈴木が計画していた都市博について、白紙撤回することを公約に掲げて青島幸雄が出馬し、都知事となったということくらいは、自分もかろうじて知っているのだが、ここでは、鈴木が、東京万博の「延期」がなされた時期に、ちょうど内務省官僚をやっており、彼の都市博への動機はこの万博のリベンジ的な意味もあったのではということが述べられている。
さて、この紀元2600年万博は、会場が、月島や新越中島の埋め立て地として計画されていたらしい。
「ふーん、月島とか越中島とかかー」と思っていたのだが、よく見てみると、現在の晴海、有明豊洲、東雲とあり、そりゃ、月島から先の埋め立て地となれば当然そのあたりなんだけど、一気に、上述の都市博の話とつながり「なるほど」感が出てくる。このあたりが、1940年に万博会場になっていたとしたらと考えると、今現在とは湾岸区域の様相がまるで違ったものであっただろう。
なお、この万博は、ほぼ構想・計画のみで終わってしまったわけだが、唯一、現存する施設としては勝鬨橋がある。
上に「延期」と書いたが、この万博は、言葉の上では「中止」ではなく「延期」ということになっている。
その要因については、本章では、戦争の進展に伴い、軍事予算が大きくなり万博への予算がさけなくなっていったから、ということが書かれている。
ただし、第6章を読むと、また別の要因があったことが分かる。
 

第2章 肇国記念館と美術館――紀元二千六百年記念万博の展示計画 暮沢剛巳

第1章は紀元2600年万博の概要であったが、第2章ではより踏み込んで、予定されていた様々な陳列館の中から、肇国記念館と美術館に絞って、その計画を見ていく
肇国記念館は、いわば万博のメイン会場となる施設
建築コンペでデザイン案が選ばれており、それの絵が掲載されているが、日本風の切妻屋根の建物に、真ん中に塔があるという、なんじゃこりゃという建物っだったりする。ただ、同じくこの章で、サンフランシスコ万博やニューヨーク万博での日本館の写真が載っているのを見比べると、まあそれの延長線上にはあるのかな、とは思うのだけど、それでもやはりなかなか奇抜な見た目のデザイン案ではある。
日本の「国史」を展示する計画であったようだが、万博の計画と同時に、国史館構想というのが動いており、本章ではそれとの比較から展示内容を推測している。
国史館というのは、歴史学者黒板勝美が提案し、記紀神話を中心とした国体史観を展示するための博物館構想だったようだ。
万博の一環として建てるのか、独立した博物館として建てるのかとかで、色々すったもんだがあり、結局、万博がなくなってしまい、国史館自体立ち消えになってしまう。のだが、戦後この構想が紆余曲折あった末に、千葉の歴史民俗博物館として結実するらしい。むろん、内容は全く異なるものではあるのだが、初代館長は黒板の孫弟子にあたる人だったりするらしい。


美術について
洋画より日本画。帝展中心の画壇ヒエラルキーを反映した展示。これも実際には東京で万博は行われていないので展示内容は分からないが、1940年に実際に開催された紀元2600年奉祝美術展や、サンフランシスコ万博、ニューヨーク万博での美術展示がどのようなものだったのかが紹介されている。
国内での評価と国外での評価が完全に割れていたようだというのがあって、「あ、あー」という気持ち
最後に、もし万博が開催されていたら出展されていたのではないかと夢想される作家、日名子実三について
日名子は、日本サッカー協会八咫烏のエンブレムのデザインをした人
本章では、日名子は師匠と仲違いした結果、帝展と距離を置いていたので、実際に万博があっても参加はしなかっただろうとしつつ、日名子が宮崎に1940年に立てた八紘一宇の塔について紹介している
この時代の思想がどのように芸術にあらわれたのか、の極北とでもいうべき塔で、なんというか、やべーな、としか言いようのない塔
しかも、GHQによって、一度、八紘一宇の文字は外されたのだが、何故かその後復活している、という別のやばさもある。

第3章 プレ・イベントからみる幻の万博――横浜復興博とプロパガンダ 江藤光紀

1章・2章はどちらかといえば、国策としての万博の面を見るようなところがあったが、万博は実際には官民がともに行っていくものである。
この章では、1930年代に日本国内で行われた博覧会などの比較を通して、民間側あるいは官民の協働での動きをみていくもの
大衆文化としての万博、大衆消費社会を反映したものとしての万博という側面である。
ラジオやレコード、新聞や印刷など大衆向けメディアが、宣伝に使われたとあるが、特に注目すべきは「参加型」という点だろう。
この時期、歌の公募なんかを非常によくやっていたようである。
最近、大塚英志が、大政翼賛会とメディアミックスというテーマを論じているけれど、あれと通じる話なんじゃないかなというところ。


宣伝に関しては、官製プロパガンダを担当していた情報委員会(のちの内閣情報局)が、紀元2600年に関する宣伝についても基本方針みたいなのを打ち出していた、とか
一方、民間側では、万博宣伝委員会というものがあって、この中には、官僚の他、東京音楽学校長、松竹創業者である大谷竹次郎阪急電鉄宝塚歌劇団の創業者である小林一三らが入っていた、と。
ここでちょっと、小林と宝塚の話がちょこっと書かれているのだけど、阪急宝塚線の開発にあたって、宝塚大劇場だけでなく、博覧会を毎年のように開催して集客を図っていたらしい。
あ、あと、帝国劇場ってもとは松竹で、それを小林が譲り受けたって知らなかった

第4章 パリに出現したナチのショーウインドー――一九三七年パリ万博へのドイツ出展 江藤光紀

ナチスドイツが唯一出展した、1937年のパリ万博
この時期は、まだフランス側が宥和的で、一方のドイツも戦争までの時間稼ぎをしたくて、思惑としては別だが、双方、友好的なムードを出したかった時期で、かなりフランスに金を出させる形でナチスドイツの参加がなったらしい。
すごく象徴的な写真が掲載されているのだが、エッフェル塔が真ん中に写って、その両サイドに、ナチスのシンボルである鷲のエンブレムが掲げられたドイツ館と、鎌と槌を掲げる男女の像のあるソ連館が向かい合って立っているというものである。
なお、このパリ万博には、スペイン館に『ゲルニカ』が展示されていたというのだから、まあとにかくすごい時代だとしか言いようがない。
ナチスドイツは、もちろんモダニズム絵画とかは排斥していたので、芸術の面では非常に古典主義的な作品が並ぶ一方で、レーシングカーやテレビなど先端技術も並ぶというものだったらしい。
パリ万博は、ライトアップが定番のショーとなっていたらしいが、ドイツは、サーチライトを柱のようにして、光の聖堂をつくるような演出をしていたらしいが、これはナチスの党大会でも使われたもの
万博ドイツ館やゲルマニア計画など、ナチスは、新古典主義的な建築で、永続性や荘厳さを示そうとした。光の聖堂はそのような政治のスペクタクル化・芸術化のある種の到達点というような旨が論じられている。
 

第5章 幻のなかの経験――ローマ万博の展示空間 鯖江秀樹

ムッソリーニ率いるファシズム政権が、1942年の開催を予定していたローマ万博について(これもまた、実際には開催されなかった万博である)
元々、1941年の開催を国際博覧会事務局(BIE)からは求められていたが、これを政権樹立20周年にあわせるため42年に開催予定年をずらしていた。このあたり、紀元2600年にあわせて1940年開催にこだわった日本と近いものがある。
この章では、特にローマ万博で中心になるはずだった「文明館」をメインに、ローマ万博が一体どのような経験をさせるようなものであったのかを論じている。
ローマ万博跡地(エウル)は、今ではオフィスビルやマンションが立ち並ぶ街区になっているらしいが、これが、デ・キリコの絵画に喩えられるような雰囲気の街らしい。フェリーニらの映画で使われたり、『エル』や『ヴォーグ』といった雑誌のグラビア撮影に文明館が使われたこともあったとか。
ローマ万博は、ファシズム全体主義帝国主義といったイデオロギーとは別に、軽やかな「気分」を演出し、新しいライフ・スタイルを示そうとするものでもあったのではないか、と。
ここでも、大衆消費社会的なものと万博とのつながりが、示唆されているようである
 

第6章 一九三七年パリ万博への日本の参加とその背景 寺本敬子

前半は、1937年のパリ万博への日本の参加経緯、出品内容などについてだが、後半は、1940年の万博開催に向けての日本の交渉の経緯が書かれている。
万博、開催がどんどん増えていった結果、大変になってきたので、1928年に国際博覧会条約というものが締結され、国際博覧会事務局(BIE)が各国の万博を統括するようになった、と。
BIEで認可されないと、万博が開けない。
で、日本は実はこの時、条約未締結。
さらに、万博は開催の間隔が決められていて、39年にニューヨーク万博が決まっていたので、1940年の開催は無理とされていた
一般博ではなく、特定のテーマを定めた特別博ならいいよ、と言われ、日本は「東西文化の融合」というテーマを決めて特別博を装うのだが、内容はほとんど変更せず、BIEからは再検討とされていた。
この時期、日本は国際的に孤立を深めていた時期でもあり、万博開催についてもこれが悪く影響していて、BIEからの認可は下りずじまいだったらしい。
それでも日本はかなり無理矢理開催しようとしていたとか。
第一章では、戦争の長期化に伴い、予算面の問題で万博は「延期」になったと述べられていたが、それだけではなく、BIEとの交渉がうまくいかなかったというのも、万博を行うことのできなかった、かなり大きい要因のようである。 
なお、戦後の大阪万博の際には、64年に条約を批准したことで、有利にことを進めることができたらしい。

第7章 万博という代理戦争――植民地表象を中心に 江藤光紀

万博と満州
日本各地で開かれた博覧会では植民地館(朝鮮・台湾・(名目上は植民地ではないが)満州)があるのが普通だった
一方、海外で開かれた万博では、満州館的なものはあったが、独立国として認められていないのでなかなか扱いが微妙だったよう
奉祝イベントとメディア(テレビ技術)
建国神話と芸術
第2章でふれられた八紘一宇の塔や、管弦楽曲『海道東征』など、皇紀というフィクションの中から生まれてくる芸術について。ベースは紛れもなく西洋でありつつも、意匠として純日本風のものをまとう。
 

第8章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元二千六百年記念万博の痕跡 暮沢剛巳

これは、この研究のために、大連・長春ハルビンを実際に旅行した時の記録をもとに、これらの都市の建築物や、これらの都市で開催された博覧会について述べられている。
満映についても、ページがそこそこ割かれている。
人工都市であること、実験国家であることをもって、ある意味で、満州自体が巨大な万博のようなものだったのではないか、といいう話をしている。

セオドア・グレイシック(源河亨・木下頌子訳)『音楽の哲学入門』

タイトルにある通り、音楽の哲学についての入門。ラウトレッジ社のThe Thinking in Actionシリーズの一冊で、原著タイトルはOn Musicであり、同シリーズには、ジジェク『信じるということ』、ドレイファス『インターネットについて』、キャロル『批評について』などがあるとのことである。
4つの章からなり、音楽と芸術、音楽とことば・知識、音楽と情動、音楽と超越性がそれぞれテーマになっている。
「音楽の哲学」の入門であるが、同時に音楽の話題を通して「哲学」に入門する本ともなっていて、関係する様々なトピックに触れられている。
哲学を進める上での方法としても参考になる。というのは、具体例が多く出てくる点だ。本書の方針として、必ずクラシック音楽とそうではない音楽(ロックやジャズ、民族音楽など)の両方に触れるということを心掛けているらしいし、また、何らかの論点を説明する際に、音楽以外の具体例から始める場合も多い。
ピーター・キヴィやスティーブン・デイヴィスといった現代の美学者(いわゆる分析系)への言及も多いが、それ以上に、ウィトゲンシュタインの考えからかなり影響を受けているのがうかがえるし、カントやショーペンハウアーについての検討も行われている。
なお、本書の中で触れられている曲については、下記のプレイリストにまとめられており、9割方はこれで聞けることができる。超便利!

第1章 耳に触れる以上のもの――音楽と芸術
 1 鳥の歌
 2 音楽であるもの/音楽的なもの
 3 「芸術」に関して
 4 音楽と文化
 5 美的側面
 6 文化、コミュニケーション、スタイル
第2章 言葉とともに/言葉なしに――理解して聴く
 1 教養なき知覚
 2 純粋主義
 3 言語と思考の交わり
 4 命題知と技能知
 5 音楽の四つの側面
 6 歴史、スタイル、美的性質
 7 芸術としての音楽、再考
第3章 音楽と情動
 1 しるしとシンボル
 2 表出と表出的性格
 3 ウタツグミ
 4 喚起説
 5 カルリの悲嘆、アメリカのジャズ、ヒンドゥスターニー・ラサ
第4章 超越へといざなうセイレーンの声
 1 実在の語りえなさ
 2 美から崇高へ
 3 ショーペンハウアーの音楽観
 4 崇高さは主観的なものか
 5 崇高さの経験
 6 例示

音楽の哲学入門

音楽の哲学入門


第1章 耳に触れる以上のもの――音楽と芸術

筆者は、音楽は全て芸術である、と述べる。
音楽は芸術であるということで、2つのものを音楽から排除している
1つは、「天球の音楽」である。かつて音楽というのは、数学的構造・調和だと思われており、天球も音楽の一種だと思われていた。この考え方だと、音楽にとって音は必ずしも必要ではない。地上の音楽にはたまたま音があるというだけで。
芸術というのは、知覚可能なものである、という点から、こうした考え方を退けている。
まあ、天球の音楽を音楽だと考える人は、現代ではほぼいないだろうし、本章においても、ここはそれほど大きな論点ではない。
もう一つは、「鳥の鳴き声」などである。
例えばサヨナキドリの鳴き声を「歌」(音楽)と称することがあるけれど、筆者は、これを「音楽的」であることは認めるが「音楽」ではないとする。
芸術というのは、文化的伝統の中にあり、文化的探求を体現するものだからだ。
鳥の鳴き声は、社会的なコミュニケーションの道具ではあるかもしれないが、文化的伝統・文化的交流はそれ以上のものだと。
ある作品一つとっても、そこにはその作品が属するジャンルの歴史が背景にある。
また、この章では、ハンスリックとワーグナーのあいだにあった、純粋音楽をめぐる論争についても取り上げられている。
何かを伝えるための音楽と、音楽のための音楽。この対立に対して、合目的性という観点から答える。
目的に合意しないとしても、その目的のためにどのように作られているかを鑑賞することはできる。
音楽は、単なる音のパターンではない。文化的な合目的性をもった人工物である。

第2章 言葉とともに/言葉なしに――理解して聴く

音楽鑑賞について、純粋主義を巡る議論
純粋主義というのは、音楽を鑑賞する上で、言葉(専門用語や分類など)はいらないという立場
これに対して、筆者は、言葉が必要で不可欠であることを論じる
専門用語を知っている必要はないが、少なくとも、それに対応する概念を分かっている必要はあり、概念を理解するためには言語能力を持っている必要がある(だからこそ、言語能力を持たない鳥には「音楽」はできない)。
例えば、「チューニング」と「演奏」は異なり、演奏は鑑賞の対象だがチューニングは鑑賞の対象にはならない。しかし、この概念の違いが分からないと、誤ってチューニングを「鑑賞」するということが起きてしまう。

第3章 音楽と情動

表出説と喚起説をそれぞれ批判する
表出と表出的とを区別することなど

第4章 超越へといざなうセイレーンの声

この章が一番面白かった
音楽には言葉では語りえない側面があり、それは神秘的・超越的・超自然的なものを示すものである、という主張が検討される。
感覚経験は言葉では語りつくせないから、音楽も言葉で語りえない側面がある。これは当たり前すぎるし、これだけだと神秘的・超越的な側面については何も説明できない
筆者は、崇高という美的性質を通じて、音楽によって超越的な面が示されているのではないかと考える
その前にショーペンハウアーの考えを検討。ショーペンハウアーは、崇高ではなく美によってそれがなされると考えている
美的性質や美的判断は主観的かが検討される
美的性質は、主観的なものではなく、知覚されるもの
美的判断は、判断であるという点で情動と似ている
音楽が超越的なものを示すということが論じられる際、作曲者というのは妨げになると考えられることが多いが、筆者はむしろ、作者の介入や文化的慣習によってこそ、それがよく達成されるされるのだと考える
音楽は、崇高などの美的性質を例示する。例示は、作者の意図や文化的慣習を通じてなされる。

丹波竜化石工房「ちーたんの館」

GWということで行ってきた
実際に化石が発見された場所から数キロのところで、なかなか遠く、GWだからこそ行けた場所という気がする
大きな施設ではないし、福井の恐竜博物館と違って、激混みということもなく、ゆるりと1時間くらい見る感じの場所だった
写真全然撮ってないので、とりあえずこの1枚だけ


全然知らなかったのだけど、篠山層群では、丹波竜ことタンバティタニスだけではなく、鎧竜、鳥脚類、ティラノサウルス類、テリジノサウルス類の歯・骨の化石や、恐竜の卵の化石、それから、トカゲ、カエル、哺乳類の化石も産出しているらしい。
カエルや哺乳類は新種だったり新属新種だったりして学名がついてる奴がいる
哺乳類のは、ササヤマミロス・カワイイという名前で、種小名は河合雅雄にちなんだ命名とのことだが、スペルは「kawaii」なのでやっぱそこに目がいってしまうというかなんというかw

「ル・コルビジェ 絵画から建築へ――ピュリスムの時代」

西洋美術館
GW中という、明らかに美術館・博物館行くには向いていない日程に行ったのだが、全然混んでなかったw
チケット売り場には列ができていたし、人はもちろんかなり入っていたのだけど、鑑賞するのが難しいような混雑ではなかった
西洋美術館は過去にも行ったことがあるのだが、企画展やってる場所の内部を全く覚えていなかった。
コルビジェの設計した美術館であり、展示室内部にある窓とかにコルビジェっぽさがあるような気がした。
順路が複雑で自分が今どこにいるのかわからなくなってくるのだが、不思議と動線が混乱することのない配置になっていた気がする。


さて、今回のコルビジェ展であるが、タイトルでも示されている通り、彼の絵画作品に着目したものになっている。
今回全然予習していなかったのだが、コルビジェキュビスムみたいな絵も書いていて、今回、ピカソとかブラックとかキュビスムの作家の作品も来ている、と聞いて見に来た感じだったわけだが、
これがかなり面白かった、というか、「ピュリスムー、お前らーw」みたいな感じだった
ジャンヌレ(コルビジェの本名)とオザンファンは、第一次大戦終了後(1918年頃)から、キュビスム批判を行い、ピュリスムという運動を始めるのだが、
素人目には「いや、これキュビスムと何が違うの?」的な作品が並んでいる
で、1921年以降、キュビスムの画家たちと交流を持つようになり、キュビスムへの誤解が解け、キュビスムいいじゃんという手のひら返しがくるのである
そこから、キュビスム画家たちの作品が展示されるのだが、「あ、キュビスム画家の作品の方が、明らかにいい」というのが分かる
正直、オザンファンとジャンヌレの絵は、キュビスムピカソ、ブラック、レジェ、グリス)の絵に今一歩劣る感じがするのである
この何というか、キュビスムを批判しピュリスムという運動を作ってみたが、実はその批判は当てはまってない上に、キュビスムの方がやっぱすげーじゃん、というのが分かってしまい「ジャンヌレ、オザンファン、お前らどんまい」って思わざるをえない感じ
コルビジェ、お前、絵画から建築いってよかったな」っていう
我ながらひでー感想だなと思うけど、こういう見方ができる展覧会ってそうそうないし、とても面白かったと思う。

1階

19世紀ホールと呼ばれる場所に、コルビジェ建築の模型が何点かと解説ビデオが展示されている
パリの住宅計画としてコルビジェが提案していた「ヴォワザン計画」と、そのための集合住宅「イムーブル=ヴィラ」の模型があるのだが、この集合住宅、各戸にピアノ室があるように見える。なぜ?!

1 ピュリスムの誕生

ジャンヌレ(コルビジェ)とオザンファンは『エスプリ・ヌーヴォー』という雑誌*1を創刊し、そこでピュリスムとしての活動を行う
近代化とか機械とかを礼賛する感じの思想だったみたい
コップとか瓶とかあるいはバイオリンとかいったモチーフを使った静物画で、モチーフもキュビスムっぽいなあという感じがある
この頃はまだ立体感が残っていて、影とかも描かれている
瓶の側面を横から、口を上から描いてそれを組み合わせるという手法だけど、ビンの口がきっちりどれも正円。ヴァイオリンの輪郭をすごくそろえていたり(オザンファンにその傾向が強い)、ジャンヌレの「白い椀」を見ると、お椀の影と紙筒の角度がぴったり揃えられていたり
とにかく、幾何学的な秩序を重んじていた、というのがすごくよくわかるのだけど、よくも悪くも几帳面すぎるというか、うーん、なんか物足りないなーという感じがしてしまう

2 キュビスムとの対峙

タイトルこそ対峙だけど、キュビスムと対立したというよりは、キュビスムの画家と仲良くなって吸収していった時期
1922年以降、キュビスムの技法を吸収したオザンファンとジャンヌレの絵は、完全に平面的になっていく。
その前に、キュビスム画家たちの作品を見ると、オザンファンやジャンヌレほど、きっちり幾何学的な秩序にそって、角度や線を揃えるということはしていない、というのが分かる。画面全体の中での構図のバランス・収まりのよさ、色の配置のうまさが目に付く
ブラック「ギターとグラス」は、画面の中に菱形でちょうどおさまるようにものが配置されている
ピカソ静物」は、チラシにも載っているが、輪郭線と青・白・赤などの色面がそれぞれ異なっていて、それが重なりあわされている。一応、かろうじて真ん中にギターがあるなって分かるけれど、めちゃくちゃ平面的で抽象的な画面構成になっている
ファン・グリス「果物皿と新聞」も、画面の上にある半円と下にある机の脚が青くて、机の面が茶色くてそこに文字があって、という構図と色の配置のバランスがよい
レジェの「2人の女と静物」「2人の女」は、背景がカラフルでリズミカルな感じ。レジェ作品は、ほとんど全てで、人体が描かれているのが他のキュビスム画家と違うところ。人体の丸みがグレーっぽい色で描かれていて、独特さを出している。
で、これらの作品は1917年~1922年までに描かれている作品
この後に、1922年に描かれたオザンファンの「和音」、23年に描かれたジャンヌレの「多数のオブジェのある静物」があって、まあ、やっぱりなんというか「うーん」感が否めない
「和音」は、ギターと水差しの曲線をそろえたよって感じの作品だし、「多数のオブジェのある静物」は、画面が平面的になって色鮮やかになってと思うけど、逆に細かく分けすぎ、要素多すぎとなってしまっている感じ

3 ピュリスムの頂点と終幕

なんか色々あって、コルビジェとオザンファンは仲たがいしてしまうらしい
同じくらいの時期に、コルビジェはオザンファンのアトリエを設計してるっぽいけど
機械が好きっていう点で、レジェはピュリスムの思想と共鳴したらしい。
レジェの「バレエ・メカニック」という16分ほどの映像作品があるのだけど、面白いカオス動画と機械の動画を集めたよって感じの作品になっていて、とてもよかった。女性がブランコ漕いでる映像とそれを上下反転させた映像、女性の目だけの映像、口だけの映像、なんか万華鏡みたいな奴でくるくる動かしている映像、ひたすら色々な機械のピストンや歯車の動作を撮った映像各種、だんだんリズムが速くなっていくのも楽しい。最後は、キュビスム風の人間の絵を動かしたアニメーションもある。
レジェの「無題」は、写真(双眼鏡の写真と工場の写真)のコラージュを組み合わせた絵
このあたり、1924、25年の作品なんだけど、シュールレアリスムっぽさもあるなあと思った。
オザンファン「真珠母No.2」、ここまでさんざん言ってきたけど、これはよい作品だと思った。キャンパスが大きくなっていて、余白がすごくとられている。描かれている形の構成の仕方ははやはり同じなのだけれど、余白を大きくとって真ん中にまとめるというので、洗練されたように見える。真珠っぽい色で概ね色が統一されていて、一か所だけ深い赤でアクセントがついている、という色配置も。

4 ピュリスム以降のル・コルビジェ

1925年に、建築論を発表していくようになり、ジャンヌレはル・コルビジェとなっていく。
一方、絵は描き続けたが、それは個人的活動となり、展示会への発表はしなくなっていく。
コルビジェの家具が展示されていたり、この時代のコルビジェの絵、それからコルビジェの本の日本語訳のが展示されていたりする。前川國男訳の本があったりとか。
で、この時期の「灯台のそばの昼食」(1928)と「レア」(1931)*2とがよかった。
直線・円の組み合わせ、幾何学的なものが前面にでていたピュリスム時代に対して、柔らかいものが入ってくるようになる。「幾何学と自然」と展示の説明があった。
灯台のそばの食卓」は、ぐにゃぐにゃした柔らかそうなスプーンとかが置いてあって、画面の下の方にちっちゃく灯台が描いてあったりする。平面的な輪郭線と立体的な食卓・スプーンとかが同居している絵。
「レア」も、なぞのぐにゃぐにゃした青いものがあって、きっちり幾何学的に描かれた戸とか机とかがある。戸に鍵穴が描かれているのがちょっとユーモラス


ピュリスムのあたりを見てると、コルビジェ、ほんと絵から建築にいってよかったなと思うし
逆に、キュビスムの画家には建築はさせたくないなって思うんだけど
コルビジェの建築って、四角四面で作られてるけど、丘とかにあって、周囲の自然と組み合わせられることで、よい作品になっているのではないか感がある

常設展

そのまま、ほぼシームレスに常設展へとつながっていたので、常設展も鑑賞
いきなり19世紀に飛ばされる上に、ブーグローとかアカデミズム絵画とかなので、チューニングあわせるのが大変。常設展は、わりと流した。
メモってあった固有名詞を並べてく
コロー「ナポリの浜の思い出」何となくメモったけどなんでだ
ルノワール「木かげ」検索してみたら、以前西美で見た印象派展か何かでも、これとよいと書いていた
モネは「セーヌの朝」ち「ウォータールー橋」がよかった
シャヴァンヌ「貧しき漁夫」北方ロマン主義感あるなーと思ったら、以前別の展覧会でも見てて同様のこと感想に書いてた
ラファエル・コラン「楽」「詩」新収蔵品らしい。なんか、ラファエル前派とかそのあたりっぽい? と思ったけど帰ってから調べてみたら全然違った。


常設展示室の途中で、林忠正展というのやっていた
ちゃんと見なかったけど、1878年のパリ万博に通訳として参加、そこで日本の美術・工芸品が人気だったのを見て、美術商をはじめ、その後の様々な万博で日本美術をヨーロッパへと紹介。一方で、ヨーロッパ美術を日本へ紹介する役割も果たした人、らしい
没後、そのコレクションは散逸してしまったとか
エッフェル塔三十六景が何枚かあったのでそれだけ見た


ハンマースホイがあった
デュフィモーツァルト」これだけ見ると、佐伯祐三に似てる? と思ったが、家帰ってググってみたら全般的な画風は全然違った
グレーズ、キュビスムの画家だが、モチーフとしては農夫などを描いた。めっちゃでかいのが展示してあった
エルンスト「石化した森」エルンストを見るの久しぶり
ミロ「絵画」(1953)
ミロって高校生くらいに美術の教科書見てる時には、中二病的な逆張り(?)的に好きだったんだけど、どっかで実際に見たときに、別にそんなに好きじゃないかもって思ったのが、今回、この作品は結構好きかもってなった。
グレーの背景に、赤い太陽がどんと描いてあって、それが黒く縁取りされている。その黒のぼんやり感
隣にフランシス「ホワイトペインティング」(1950)というのもあったけど、これも塗りにぼんやり感があり、この輪郭のぼんやり感みたいなのは、自分わりと好きだなと思う。ロスコもそういうところが好き。

*1:この雑誌がずらりと展示されていたが、所蔵が大成建設だった。他にも、コルビジェの絵をいくつか持っているみたい

*2:スペルはLeaでeにアクサン

ピーター・ワッツ『巨星』

人類とは異なる知性、意識、自由意志などをテーマにしたワッツの短編集
ワッツは最近長篇が続けて邦訳が出てちょっと気になってたけど、読めていなかった
面白かった作品もありつつ、難しくてよくわからんかった作品もありつつ。
ウェブが初出という作品もそこそこあった。
あと、カナダの作家なので、舞台がカナダという作品もそこそこあった。
遊星からの物体Xの回想」「乱雲」「帰郷」「巨星」「島」あたりが面白かった

天使
遊星からの物体Xの回想
神の目
乱雲
肉の言葉
帰郷
炎のブランド
付随的被害
ホットショット
巨星

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

天使

軍用ドローンの視点から描かれた作品
視点から、だけど、三人称
付随的被害の計算をして倫理的判断ができるという代物

遊星からの物体Xの回想

映画『遊星からの物体X』を「物体」の側から見るとどうなるか、という作品
「物体」は、全体で一つである知的生命体で、身体の個々の要素がその時の状況に応じて変化する
「交霊」を通じて情報交換を行う
物体は最初、地球生命について「こいつら、魂がないのでは?!」と驚く。その後、脳の存在に気付いて、思考を司る座が偏在していることにさらに驚き、脳を「考える癌」と呼んだりする。
当初、南極基地にいる地球人などは、なんかの病気か、あるいは実験を行っていてわざとこんな形態をとっていると思っているのだが、最終的に、こいつらマジで変形できないし、器官なんてものを固定化しているのかよということが分かり、最終的に、地球人に対して哀れみを抱き、救済してやらねばならぬと思うところで終わる。
お互いにお互いが全然わかりあえてねーって感じなのと、最後に物体が地球人を救済せねばと思い始めるところの、ある種の皮肉っぽいオチでもあるし、すごい違う知性の在り方だって感じさせるものもあるし、面白かった


実は『遊星からの物体X』を未見だったので、これを機にちょっと見てみたのだが(あらすじとビジュアルがわかればいいやくらいのノリで見たのですごく大雑把にしか見てないけど)、『寄生獣』や『犬神』がかなり直接的に影響受けてんだなってのが分かった

神の目

空港の保安検査場に並ぶ男
犯罪者かどうか、というかそれっぽい思考をもっているかどうかスキャンして、それをあらかじめ取り除く的な装置
ここでいう犯罪が、児童への性虐待的なものを指してるっぽいのだが、あんまりよくわからん話だった

乱雲

雲が知的生命体になっている世界
あ、これ考えてみると、比喩が比喩じゃなくなっているSF作品の事例だなー*1
人類が環境破壊したせいで、雲が怒って暴れ出したぞ、みたいな話なんだけど
主人公とその妻は、いわば抵抗するように地表に暮らし続けてきたのだが、妻は死んでしまう。そして、娘は生まれたときから、雲が生命体であるという事実を受け入れている世代で、妻と娘の世界認識の違いに主人公は戸惑い続ける。

肉の言葉

かつて恋人を病で亡くし、それ以来、死ぬ瞬間の脳の電気信号を記録することにとりつかれている科学者
死に際に、死を望むなどということが本当にあるのか。延命治療を打ち切る側の正当化ではないのか。
死んだ恋人をPCのアシスタントソフトにしている

帰郷

海洋SF掌編
深海底で行われる計画のために、身体改造された主人公。自の分では、主人公は一貫して「それ」という三人称で呼ばれているが、もともとは「ジュディ」という名前の人間。
身体だけでなく精神なども深海での孤独な作業に耐えられるように改造されており、言語なども一時的に忘却している。
その意味で、上田早夕里のルーシィみたいな奴だけど、もっと沈鬱な感じ。ルーシィは地球環境が激変しても人類が絶滅しないために改造され、群れで生活している生き物だけど、こっちは、人類自体は全くそのまま存続している世界で、一部の人間が改造され、ひたすら孤独に海底を歩いているというものだし。
海底から基地へと帰還し、そこで元々の人間としての言語的能力などが徐々に復活していくような過程を描いているのだが、もともとジュディは児童虐待か何かの被害者で、地上には戻らず再び海底へと戻っていく

炎のブランド

初出が、MIT出版局編集のSFアンソロジーとかで、大学出版でSFアンソロでるのか、すげーなアメリカ、と思った
改造遺伝子が漏出し、水平伝播により人体発火現象が起きている世界。政府機関で、情報操作の仕事をしている主人公の話

付随的被害

「拡張」を装備しているサイボーグ兵士の話
無意識による倫理的判断を「拡張」が拾い上げ、常人よりも早く反応・判断できる。だが、ある戦場で誤作動を起こして、民間人を殺してしまう。
カナダへ戻ってくると、そのことで国会は紛糾。彼女自身は、広報戦略の一環もあり、左翼系ジャーナリストの取材を受けることになる

ホットショット

本短編集のラスト3篇である「ホットショット」「巨星」「島」は、同一のシリーズとなっており、執筆順では「島」→「巨星」→「ホットショット」だが、作品世界内での時系列は「ホットショット」→「巨星」→「島」となっている。
ワームホールを使った宇宙ハイウェイを作るための構築船の乗務員の話
乗務員といっても、構築作業はほぼすべて船に搭載されたAIが行い、乗務員である人間は基本的にみな冷凍睡眠しており、AIでは対処できない事態が起きたときだけ、起こされるというもの
「ホットショット」は、出発前の話
構築船の一員になるべく生まれ育てられてきたサンディは、しかし、常に反抗的でもあった。
乗組員候補にはいつでも辞める権利が認められていたが、果たして本当にそこに自由はあるのか
太陽へと落下するツアーというものがあって、このツアーの参加者の中には自由意志を経験できたという者もいて、サンディは出発前にこのツアーに参加する
しかし、このツアーの中でサンディが経験したのは、自由意志ではなくて、決定論が正しいという感覚だった
ただそれは、自分の生き方を公社が決めていたわけではなくて、全てが、これまでもこれから先も決まっているということで、サンディは吹っ切れるというか、自由よりもいいものを手に入れたという

巨星

「ホットショット」からはるか未来。構築船「エリオフィラ」はもう何千万年も航海を続けている
途中、乗組員たちの叛乱が起きている。この叛乱は、まだ訳出されていない別の短編に書かれているらしい。「巨星」と「島」はその叛乱以後の時代を描いている。
AI(「チンプ」という名前)とのネットワークを切り離して叛乱を起こした側のハキムと、叛乱には参加したがAIとのネットワークを切断しなかったので裏切り者といわれた「ぼく」の2人が、起こされる。
ある恒星の重力圏に掴まってしまい、抜け出すために、一度恒星の中を突っ切るコースをとらなければならなくなった。
運命を共にする氷惑星の内部に隠れて突入する。
すると、恒星の大気の中には、プラズマ生命体がいて、船に襲い掛かってくる。
太陽のめちゃくちゃ近くまでいくSFとかはあるけど、恒星の中に突入するってのがさらっと描かれているのがすごい。その上、プラズマ生命体まで。
一方で、「ぼく」とハキムは、常に緊張関係にもあって、お前はAIに操られてんだー的な主張と、何まだそんな非効率的なことやってんただよー的な主張がぶつかりあう。
「ぼくはチンプのサブルーチンなんかじゃない。/チンプがぼくのサブルーチンなんだ」

「ホットショット」に引き続きサンディが主人公
サンディが目覚めさせられると、ディスクという乗組員が既に起きていた。サンディには見覚えがないが、ディスクは自分がサンディの息子だという。
どうもこのディスクという乗組員は、AIのチンプによって育てられたらしい。
チンプを擬人化しチンプに従いチンプに学ぶディスクに対して、サンディはチンプが決して人間を越えられないということを教えようとする。
ある恒星の周りを、薄い膜が取り囲んでおり、この膜が信号を送ってきている。
チンプは非生命的なものだと考えるが、サンディはこれを知的生命体によるものだと直観する。
この超巨大な薄い膜状の生命体(「島」と呼ぶ)を殺さないために、ワームホールの構築場所を変えるかどうかで、サンディとチンプは対立する。
サンディはこの宇宙生命体について色々と考えを巡らせる。
重力という制約もなく、小天体の前駆物質を吸収して成長できるんだから、地上よりも宇宙の方がよほど生命が住む環境なのでは、という超逆転の発想が語られる。ダーウィン進化的に淘汰を経ずに、巨大な神経系を手に入れ、その巨大なネットワークで人類には思いもよらない知性を身に着けているのだ、と。
まあ、実際にはサンディが夢想したような、超越的な知性をもった奴ではなくて、普通に他の個体と相争っている奴だったっぽい、というオチがつくのだが。


作中で、アップロードしてめちゃくちゃ小さい宇宙船で旅するとかありえないでしょ、とさりげなくイーガン批判していたりするw

*1:SF研究者の牧眞司さんが、よくSFをそのように形容する。非常に好きな形容なのだが、ぴったりくる作品をなかなか見つけられずにいた