宇野朴人『ねじまき精霊戦記 天鏡のアルデラミン』14(終)

テレビアニメ化もされた*1、ファンタジー戦記ライトノベルシリーズが完結
めちゃくちゃ面白く、ヤバい作品だったと思う。


舞台となるカトヴァーナ帝国は、いまだ繁栄を維持しつつも、貴族による腐敗政治と隣国キオカ共和国の伸長により、衰退を辿っている。
主人公のイクタ・ソロークは、言うなれば、女たらし属性のついたヤン・ウェンリーであり、その天才的な戦略眼により、本人が望むと望まないとに関わらず、若くして軍功を上げ出世していく。
この作品の面白さの1つは、もちろんこの主人公イクタの活躍と、それとは裏腹の飄々とした性格にある。
「全ての英雄は過労で死ぬ」をモットーとするイクタは、いかに怠けるか・楽をできるか、を指針として行動するわけだが、それが後々には、帝国の軍制改革へとつながっていく。
彼のライバルは、共和国のジャン・アルキネスクである。不眠体質の彼は、イクタとは真逆、あらゆることを1人でやり遂げようとするタイプの指揮官であり、そしてそれを実際に成し遂げることができるキレ者である。


ライバル同士の争いが繰り広げられるわけだが、この作品の戦記物としての主眼は必ずしもそこだけにあるわけではない。
むしろ、技術の発達が引き起こす戦場・戦争の変化を描いていく。
物語が始まった当初にもたらされたのは、ライフル銃の登場であった。
さらに、爆砲と呼ばれる新型砲の登場が、昔ながらの城を無効化した結果、最終巻では、第一次世界大戦さながらの塹壕戦の風景が広がることとなった。
いくらなんでも、ほんの数年で、ライフルの登場から塹壕戦までというのは早すぎでは、と思うだろうが、それが何故可能になったのか、というのはこの世界の成り立ちと関わっている。


ところで、『軍靴のバルツァー』というマンガも、ほぼ同時期の軍事技術の発展と戦場の変化を、架空のヨーロッパ風の世界を舞台にして描いている。


戦争の変化だけではない。
この作品は、シリーズの後半においては、いかに帝政・貴族政治を脱して民主化へいたるのか、というプロセスが描かれていくことになるが、カトヴァーナ帝国の場合、下からの民主化ではなく、啓蒙専制君主による上からの民主化プロセスを進むことになる。しかし、上からの民主化とはなんぞや、というところである。
そのための最後の決定打をどうするのかが、最終巻で描かれていくこととなる。


しかし、この作品はそうした戦略・政治といった規模の出来事を描きながらも、それを動かす登場人物たちをめぐる物語や行動の動機は、友情・愛・家族・トラウマなどあくまでも個人的な問題に端を発したものとなっている。

ちょっと過激に最終巻の内容について煽った紹介をする

上述してきた通り、アルデラミンという作品は、ファンタジー戦記物であるわけだが、近世から近代へという流れを描こうとする作品でもある。
ところで、この作品はシリーズの初期(とはいえ、テレビアニメの最終回にあたるエピソードなのだが)において、主人公の1人でもある、帝国の皇女シャミーユは、以下のような構想を抱いている。

第三皇女シャミーユは、皇族と貴族による腐敗政治の蔓延に対して、敗戦による世直しを考えるようになり、イクタであれば、決定的ではあるが国土を荒廃させるほどではない負け戦が可能になると白羽の矢を立てるのである。
宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』1〜11 - logical cypher scape


これに対する、読んだ当時の自分の感想は以下の通り

シャミーユが、敗戦によって国を立て直すという倒錯的な信念を抱くようになったのには、作中で理由というか事情があるのだが、それはそれとして、敗戦後に国が栄えた例として、やはりどうしても思い浮かぶのは日本で、あんまりファンタジーを戯画や寓話として読むのもよくないけど、日本の寓意があったりするのかなあと思ったりもする。モチーフの発想元というか。
宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』1〜11 - logical cypher scape


だが、これは実は大当たりで、シャミーユの考える敗戦構想にはかなり直接的な日本の寓意を読み取れるのである。
というのも、この最終巻で起きた出来事を要約すると「玉音放送で全国民に敗戦を宣言した者が、その責を国民裁判の手によって裁かれ、死刑に処される」というものだからである。
最終巻は、まず帝国と共和国の最後の決戦が描かれる。
帝国本土に攻め込む共和国軍に対して、綱渡りのような防衛戦が繰り広げられるが、最終的に帝国は、辛くも共和国の侵攻を食い止めることに成功する。
しかし、シャミーユの望みは、カトヴァーナという国を建て直すために、国土を荒廃させずに帝政を廃止し旧弊を捨て去ることなのである。
いや、単なる帝政の廃止ではなく、カトヴァンマニニク家そのものの絶ち、民衆が皇帝や貴族に依存しない政治を行うことを望んでいる。
そこで彼女が考えたのはこうだ。
共和国の侵攻を食い止めることで、侵略による国土の荒廃を防ぎつつ、しかし、その決定的瞬間に敗戦を宣言することによって国民を裏切る。戦争の終結時における指導者の裏切りに怒る国民たち自らの手によって、皇帝を処断することで、君主制から民主共和制への転換点となす、というものだ。
これは明らかに、戦後日本の民主化にとって必要だったのは、天皇制の廃止と民衆革命だったのでは、という歴史のifを描く的な構想が見て取れないだろうか。

物語前半

精霊通信と爆砲によって、大きく変化した戦場だが、この作品は、近現代の戦争と近世までの戦争との(物語的な意味で)いいとこどりした戦場を描く
近現代の戦争というのは、大規模化してしまい、一人の英雄によって大きな状況を動かしたりすることが難しい戦争である
一方、物語としては、集団の動きを描くよりも個人の活躍を描く方が、面白い
この作品は、精霊たちによる技術解放によって、一気に新技術が出てきてしまったという事情があって、こうした技術に対応した戦術・戦略を編み出せるのが、一部の天才、つまり主人公であるイクタとジャンしかいなかった、という事情と
精霊通信によって、一人の指揮官が非常に細かいところまでを末端にまで指示できることが可能になった、という設定によって、
近現代的な大規模化した戦争を進行させつつ、その大きな状況を個人がコントロールすることが可能な状況を作り出して、技術による戦場の変化というマクロな歴史的な状況と、個人の活躍というミクロ的な物語の両方を描くことを成立させている。

物語後半

イクタは何故死を選んだのか
この作品は、結構、登場人物の感情とか関係とかを説明しがちなところがあるのだけど、イクタの死を巡っては、珍しくちょっと凝った語りのさせ方をしている。
イクタは、ハロに対して、シャミーユが自分を許し生きていくためには、自分という存在が邪魔になることを理由として述べている。
これはまあ、確かに理屈としては一つ通っている。
しかし、一方で、彼は最後の最後で、シャミーユに対してカウンセリング的なことを行い、さらに愛を告白することで、彼女にかけられていた呪いを、おそらくある程度以上、解いてしまっている。
シャミーユが生かすために、イクタの死が決定的に必要であったのかどうか、疑いを差し挟む余地があるように思える。
さて、イクタはハロに対して、人が自殺する理由として、死にたいという思い、死ななければならない理由、生き続けたいという理由の欠如という3点を挙げている。
これはシャミーユの状況について述べたものだが、ある程度、イクタについても当てはまるのではないだろうか。
そもそも、イクタは自分が置かれた状況を、自分が望んだことでもあるのだ、と述べている。
ただ、ここでイクタが自分の望んだものとして明確に述べるのは、帝国の崩壊である。
一方、彼のおかれている状況は、そもそも彼自身の死である。彼は、自身の死も望んでいるのだが、その明確な理由を述べてはいない。
シャミーユを生かすことが、イクタにとって死ななければならない理由になっているだろうが、それ以外に、彼には生き続けたいという理由の欠如がある。しかし、それをイクタは自分から語らない。
ひいては、他の登場人物も、地の文も含めて、一切、触れられていない。
しかし、読者からすれば、その理由は明白である。
いや、おそらく、登場人物たちの多くも、内心では気付いているのだが、決して口に出すことができないでいる。
つまり、ヤトリの不在である。
結局のところ、イクタと対等な関係を結べたのは、ヤトリただ1人なのであり、イクタは確かにシャミーユを愛したのは間違いないのだが、ヤトリへの愛とはやはり全く別のものだったのもまた確かである。


この作品は、登場人物の死を、必ずしも美しくは描かない。というか、おおよそ、どの死についても、死んでよかったというようには描かない。死とは望まれないものであり、また苦しいものであるということを描き続けてきたように思っている。
対して、イクタの死は、苦痛と無縁に描かれ、死ぬ者自身が死を全く冷静に受け入れ、この死は意味あるものだと民衆に認識させ、死を惜しむ人々に対して無理矢理にでもその死を納得させるように描かれている。
この作品では数多の死が描かれてきたが、イクタの死は、それまでの死の描き方と相反するように思える。
だからこそ、何故イクタは死ななければならなかったのか、と問いかけたくなるし、
マシュやトルウェイが、たった一言、「ヤトリが望むと思うのか」と聞いてくれれば、多少は彼を動揺させることができたのではないだろうか、と思ってしまう。


アルデラミンは、技術的発展が、戦場を近代化させるという変化を描いた作品であり
また、同時に、近代化の流れは、技術面だけでなく、君主制から民主制への移行を余儀なくするものであるとして、それを如何にソフトランディングさせるのか、という問題を描こうとした作品であった。
しかし、そのような問題を解決すべく活躍した者を突き動かしていたモチベーションの根源は、未来の戦争へのヴィジョンでも、民主的な国家への希望でもなく、たった一人の女性との間にあった愛情とパートナーシップだった、というとても個人的な物語でもある。
この2つの側面が、非常にうまい具合に噛み合いつつも、最終的に、その愛の大きさ・重さを何よりも突き付けてくるような物語だった。
イクタにとってのヤトリの存在が、これほどまでに大きいということを、このような形で突き付けてくるとは、と。
この巻でイクタ、そして他の誰もヤトリについてほぼ何も語らないわけだが(わずかな言及はある)、誰からの説得にも応じず、死を何の動揺もなく受け入れる確固たるイクタの意志と計画によって、イクタにとってのヤトリの大きさを思い知らされる。
アルデラミンは、徹頭徹尾、イクタとヤトリの物語だったのだ、と。


ラストは、おそらく遠い未来の話だが、一方で、細部はぼかされ、夢の中のような非現実的な感覚をまとったシーンとなっており、イクタとヤトリの再会はまるで来世を描いているかのようである。
徹頭徹尾2人の物語であったからこそ、いつでもない場所に座る、印象的な2人のシーンで終わるのだろう。

*1:自分はそれきっかけで知った