スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』

ミルハウザーの中編小説集(3本の作品を収録)
11月頃から1月頃にかけて、アニメ関係の本を読んでいたら、細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』 - logical cypher scapeで、本書収録の「J・フランクリン・ペインの小さな王国」がウィンザー・マッケイをモデルにしていることを知ったので、読んでみることにした。
ウィンザー・マッケイ及び、マッケイがモデルになっていると思われるフランクリン・ペインは、若い頃に10セント博物館でイラストの仕事をしているのだが、ミルハウザーには、10セント博物館を扱った「バーナム博物館」という作品もある(スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape)。

三つの小さな王国

三つの小さな王国

J・フランクリン・ペインの小さな王国

ウィンザー・マッケイをモデルにしたフランクリン・ペインは、新聞社で連載漫画や社説漫画を書く一方、夜な夜な自分の家の屋根裏部屋みたいな部屋で、一人アニメーション制作をしている。
セルを使わずにライスペーパーを使っている、というのは[]にも書かれていた。
ペインは、背景も1枚1枚描き写すことで、背景もキャラクターと同様に動くアニメーションを目指しているから、セルを使っていない(のち、部分的には使うようになる)。
主な登場人物は、妻のコーラ、娘のステラ、友人のマックス。
コーラは、そこまで漫画というものに理解があるわけではなく、ペインの漫画が人気が出てニューヨークの新聞社から誘いを受けたときも、ニューヨークへ行くことに抵抗していた(ニューヨークへ移ってからも都会での生活には慣れず、田舎に一軒家を購入している)。
ステラは、物静かな娘で、絵を描くことを好み、父親に懐いている。父親であるペインも、少しずつ自分の秘密の仕事であるアニメーション制作をステラに見せるようになる。
マックスは、同じ新聞社で働く漫画家の友人。ペインにとっては唯一といっていい友人。言うなれば、コミュ障気味のペインに対して、コミュニケーション能力が非常に高いタイプ。他の同僚が、ペインに対してやや距離を置いているのに対して、マックスだけは分け隔てなく接しており、ペインの能力を高く買っている。
自分のアニメーションをマックスにこっそり見せたところ、マックスは早速アニメーション会社に営業をかけて、売り出すことに成功してしまう。
そして、マックスは新聞社を辞め、アニメーション会社へと転職。さらには機会をうかがい独立をも果たす。彼は、効率的に制作する分業体制を整え、次々とヒット作を飛ばすようになる。
マックスは、ペインにも新聞社を辞めて自分の所で働かないかと誘う。
ペインのアニメーション作品は高い人気と批評家からの高い評価を勝ち得たが、会社の方はあまりよく思ってはいなかった。しかし、ペインは結局、マックスからの誘いを断る。ペインは、あくまでもアニメーションを一人で誰からも介入されずに作ることにこだわりを抱いている。
一方、マックスとはプライベートでも付き合いがあり、ペインは度々家に招いたり、またマックスが土地を買い、自らも家を建てるようになると、そこに遊びに行ったりもするようになる。そんな中、次第にマックスとコーラが親密になっていく。コーラがマックスのもとへ出かけると、ペインとしては、アニメーションの作業ができるぞと喜んでいて、危機感を全く抱いていないのだが、最終的に、コーラは家を出て行ってしまう。
最終的に、ペインはマックスにも知らせずに、再び一人でアニメーションを完成させる。
ステラと共に自室で上映するラストシーンは、なかなかきついというか。
二人で見ていると、コーラが、マックスが、会社の上司が次々と部屋へとやってくる。さらには、亡くなった両親までも訪れて、全員が拍手喝采し、ペインが涙ぐむというシーンで終わるのだ。
一緒にいるステラは全く彼らの来訪に気付いていないし、亡くなった親も来ている時点で、ペインの見てる幻なわけだが、コーラが戻ってきたことにペインはかなり喜んでいて……。



ちなみに、ペインの作品としては以下がある。
「十セント博物館の夢」シンシナティ時代に描いていた漫画
「都市の怪人」「いたずらフィガロ」ニューヨークに移ってきて連載した漫画。前者は、ニューヨークを写実的に描き、後者はキャラクターがコマ枠の上を進んだりする実験的な作品。作風も人気も正反対だったが、ペインの創造力にとって、両作品が相補的だった。
『十セント博物館の日々』ペイン最初のアニメーション作品。ナイフ投げ師が出てくる。ヴァイヴォグラフ社によって配給される。
『真夜中のおもちゃたち』ステラが熱を出したとき、看病しながらパラパラまんがを作って見せていたペインの中で、次第にイマジネーションが膨らみ作られた。完成まで1年5か月を要し、ペインは完成の知らせを誰よりも早く、ステラに伝えている。12324枚、12分ちょっと。ヴァイヴォグラフ社に入社していたマックスにより配給。

真夜中のデパートで、おもちゃたちが目をさます。巨大な家具のあいだを抜けていく悪夢のような飛行、回転ドア、不気味な地下鉄の車両、ぬっとそびえる高層ビル、夜の嵐、すべては人形がどんどん小さく見えるよう計算されていて、やがて菓子屋で転換点が訪れる。人形は一転してぐんぐん大きくなっていき、丹念に少しずつ縮小して描いた世界は見るみる小さくなって、ついに人形はマンハッタンをまたぎ越すまでになる。結末は迅速だ――(p.90)

『月の裏側への旅』コーラが出ていったあとに着想。誰にも明かさずに、夜中に描きつづけ、フィルムにするのもこっそり行い、自宅で上映した。32416枚

フランクリンの一番奥深い活力を引き出したのは、何といっても月の裏側だった。(...)この黒い世界で、主人公はつぎつぎと、走馬燈のような変身をくぐり抜け、夢のような溶解や、幻覚のごとき組み換えを経験する。(...)もはや緻密な遠近法にのっとって描かれた背景も、風変わりなアングルの偏愛もなく、それに代わって、平べったい絵画平面に、意図的に単純化された人や物の姿が並んでいる。月の裏側に足を踏み入れたとたん、少年の体はほどけはじめ、ついには一本の揺れる線となって、それが次第に、くるくるまわる独楽の形を帯びていく。その独楽が、あくびをしているピエロの顔に変わる。あくびで開いた口のなかに幻想的な庭があり、その庭に少年がふたたび現れたかと思うと、たちまち少年はリンゴが数多くぶらさがる一本の木に変身するが、やがてどのリンゴも少年の形を帯びていく。(p.125)

王妃、小人、土牢

架空のヨーロッパ風(ドイツ風)王国を舞台にした、王妃、王、辺境伯、小人の物語
王城と城下町が川を挟んで隔てられており、城下町に住む「私たち」による語りという形式で進んでいく。
形式的な点で、この作品の面白さというのは、王城で繰り広げられる王妃、王、辺境伯、小人の四角関係の物語が、「私たち」の語りによって、(この世界における)事実なのか作り話なのかわからなくなっていき、最終的には時制すらわからなくなっていくというところである。
「私たち」は、非常に現実的な人々で、技術には長けているが芸術などはそれほど優れているわけではない。が、子供たちに語って聞かせるようなお話があって、これが様々に語り継がれている。隔たった王城について、「私たち」が想像して語っているものでもあるし、昔話として語っているもののようでもある。また、様々なヴァリアントがあることも語られている。それだけではなく、こうした「私たち」の物語を王城の人々も知っていて、その物語に沿って彼らは行動している、というようなこともほのめかされている。ばかりか、最終的には、結末が未来時制になっているヴァージョンすら存在していることが明かされる。
優れた国王と美しく誠実な王妃の、しかし不幸な結婚生活の物語である。彼らのもとに、辺境伯が訪れ城に滞在するようになる。彼もまた立派な人物で、王と王妃のよき友人となる。だが、ちょっとしたことで王は、王妃と辺境伯との仲を疑うようになる。二人の間にそのようなことは全くなかったのだが、王は、彼らを試すために、毎夜、王妃を辺境伯の寝室へと送り出す。
ここにさらに小人が加わる。彼は、宮廷に長く使えているが、小人であるがゆえに疎まれたり軽んじられたりきたので、逆に影の仕事に長けるようになり、また密かな権力欲を持ち合わせている。彼は、王から王妃と辺境伯の仲を探るように命じられる。しかし、何もないと報告しても王は納得しないだろうし、あると報告すれば自分の身が危ないと考えた小人は、王妃から辺境伯のことを告発するようにそそのかす。
ノイローゼ気味になっていた王妃は、小人のそそのかしに最初は抵抗していたものの、結局は屈し、辺境伯は地下の土牢に幽閉される。だが一方で、小人は王妃に魅かれてしまい、王妃から辺境伯の脱獄を手助けしてほしいという願いを受け入れてしまう。

展覧会のカタログ―エドマンド・ムーラッシュ(一八一〇‐四六)の芸術

タイトルにあるとおり、「展覧会のカタログ」という形式をとった作品
こういうタイプの作品が自分は好きらしくて、とても面白かった。
絵画のタイトル、制作年、サイズ、メディウム(「カンヴァスに油彩」とか)がまず書かれていて、その後に解説文が続くという体裁で、26枚分の解説が書かれている。
絵の解説であると同時に、ほぼ、このエドマンド・ムーラッシュという架空の画家についての伝記として読むことができる。
タイトルからわかるとおり、19世紀前半の画家である。学生時代にロンドンへ留学していたのをのぞき、人生の大半をアメリカ(ボストンないしニューヨーク州郊外の田舎)で過ごした。
肖像画や風景画を手がけた画家だが、カタログの解説文によるならば、当時のどのような流派とも異なる画風だったことになる。
この解説文の特徴として、「この絵は○○と似ている/影響を受けているetcとされているが、実際は○○とはこのように異なる」みたいな説明の仕方が多く、それによってムーラッシュの絵が非常に独特であることが強調される。
解説自体が伝記のようになっていると述べたが、展覧会カタログであるので、絵画自体のディスクリプションも書かれており、そしてそのディスクリプションがかなり奇妙なものとなっている。訳者あとがきにもあるが、その記述通り、絵の内容を想像しても絵として成り立っていない、というか、どこかつじつまのあわない感じがあるのである。そのような傾向は、画家の晩年になるにつれて強くなっていき、どこかしらオカルティックなものとなっていく。
また、輪郭線などが曖昧にぼかされて描かれているとされる作品も多く、その意味で、ちょっとターナーっぽい絵なのかなと想像させるが、その人生自体にはターナーのようなところはない(フランクリン・ペインは、明らかにウィンザー・マッケイをモデルにしているが、ムーラッシュにはそのようなモデルはなさそうである)。また、晩年の絵については、黒に塗られた黒のようなロスコを思わせるような記述も出てくるが、ムーラッシュは抽象画を描いていたわけではない。
なお、ホフマンやショパンなどの名前は出てくるが、画家や流派についてはほとんど架空のものしか出ていないように思われる(ちゃんと調べてはないがいくつかググった感じだと)。また、ハドソン・リバー派が、この世界では架空の流派とされているっぽい。
このような点でも面白い作品であるが、書かれているムーラッシュの人生についてもまた面白いものであって、以下にあらすじを書くが、例によってネタバレなので注意のこと。
なお、カタログに書かれている伝記としては、非常に細かいところまでよく書かれているのだが、これはエドマンドの妹であるエリザベスが詳細に日記を残していたことによるものだろう。
本書の上2作品と同じく、この作品も四角関係が中核となっている。
エドマンドとその妹エリザベス、エドマンドの友人ウィリアム・ピニー、その妹のソフィアである。
ウィリアムは学生時代からの友人で建築家である。
エドマンドとエリザベスは、田舎の山荘のようなところでずっと二人暮らしをしており、エリザベスがエドマンドの暮らしを支えている。ウィリアムはもともとエドマンドの友人だが、次第に兄妹ぐるみでつきあうようになり、4人は互いに親友同士となり、ピニー兄妹も近くに別荘をもつようになり、毎夏のように4人は互いの家を行き来するような関係になる(ムーラッシュ兄妹はそこに定住しているが、ピニー兄妹は夏以外はボストンで生活している)。
4人の幸せな生活はしかし、ある時期からバランスを崩して始める。まず、ウィリアムがエリザベスへと求婚するのだが、エリザベスはこれを断る。兄の生活を支える者がいなくなることを危惧したためである。これにより、エドムンドが兄の幸せを妨げたと考えたソフィアはエドムンドを疎むようになる。もとよりソフィアは、エリザベスと非常に親密な仲になっていた一方で、エドムンドの絵画を好んでいなかった。
4人の関係は崩壊してしまうかに思われたが、ウィリアムは自らの思いを封じ込め、4人は再び表面上それまでと同じような関係へと戻った。
ところが今度は、エドムンドがソフィアに求婚し、断れるということが起きる。
さらに、エリザベスが病に倒れる。エドムンドは憑かれたように鬼気迫るような絵を描いていく。最後の4枚は、3人の肖像画と自画像なのだが、これらの絵は、エリザベスをして「魂を描いている」とされ、長くエドムンドの絵を高く評価しつづけてきたウィリアムが衝撃を受けるような作品となっている。
エドムンドが若くして亡くなっていることは、すでにタイトルに書かれているとおりだが、4人ともに不幸な結末を迎えることとなる。