ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史』(上)

戦争にまつわる技術や産業の観点からマクロ的に世界史の流れ(特に西欧史)を見ていく本。具体的な国名、人名、出来事名を追い掛けていくタイプの叙述ではなく、技術の発展などがどのようにその時代・地域の趨勢を変えていったかという叙述がなされる。
「戦争」と銘打っているが、戦史ではなくて、上述したように技術や産業、制度の歴史。また、技術といっても武器・兵器のみならず、組織経営の技術なども含まれる。
原著は1982年刊行、2002年に邦訳、2014年に文庫化されたもの。


長い記事になったので、上巻と下巻で記事を2分割
下巻はこちら→ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史』(下) - logical cypher scape

戦争の世界史(上) (中公文庫)

戦争の世界史(上) (中公文庫)


人や資源を動かすのに、指令原理と市場原理がある。
指令原理というのは、上意下達のシステムのこと。例えば、王様が命令して巨大な墓を作る、とか。命令によって人や資源が集められて、何らかの事業に使われる。マクニールによれば、人類にとってこれが基本。
これに対して、市場を介して人や資源を動かすという仕組みもある。歴史を辿るうちに、指令原理よりも市場の力が次第に強くなっていく。こちらの方が効率的で、指令原理によるよりも多くの資源を動かすことが可能だし、また技術革新も起きる。指令原理もこれを無視できなくなる。
この動きが人類史の中で最初に現れたのは中国なのだけれど、しかし、中国は結果的には指令原理の方が強く、むしろ市場を組込ながら技術革新をどんどん進めていくことに長けたのは西欧で、帝国主義の時代に西欧がアジアを寄せ付けなかった理由がそこにある、というのがマクニール史観となる。
また、基本的には歴史をパターンで捉えている。
技術革新が起きる→他の地方にも広がる→資源の多い(農地=生産力が多い)辺境が強力化する→覇権を握る→安定化する
アジア圏は一度安定化すると技術革新が停滞する。
一方、西欧は技術革新が次の技術革新を生む感じで連鎖してる。技術革新をリードしてるのが国じゃなくて民間なので、競争が起きる。ユーラシアの他の地域と違って1つの国が覇権を取らないので国同士の競争が続く。
革新的な軍事技術によって覇権を握った国は、その後は、叛乱が起きるのを怖れて新しい技術を作ることはしなくなる。だから、技術革新が停滞する。資源配分も国=指令原理によって行われているとなおのこと(失敗しないことが重要になるので新しいことをしない)。


古代のパターンだと、略奪か徴税かっていうのがよく出てくる。
国、戦士、商人という3つのグループがあって、ここでいう国というのは、定住民が生産してて支配者層が指令原理で資源を集めているようなもの。戦士は、戦争する時に自分たちの食い扶持を周辺の村を略奪することで賄う。ただ、彼らがある程度領土を持ったりすると、略奪するよりも徴税する方が効率がよくなる。農民からすれば略奪にしろ徴税にしろ戦士に搾取されていることには変わりないのだけど、不定期に略奪されるよりは定期的に徴税される方がまだマシなので、徴税を選ぶ。その代わり、戦士は彼らを保護する。
一方、商人ってのは、他の国の生産物と交易するグループなので、定住民からするとやはり彼らも部外者といえば部外者。あと、指令原理とは別の原理で資源を集めて分配するという意味でも、国とはちょっと違う存在。国にお金払って保護してもらう場合もあるけど、彼ら自身が武装して身を守る場合もある。あと、戦士も、自分たちの食い扶持を賄う手法として、略奪だけでなく、交易を選ぶこともある。なので、戦士と商人は案外区別できなかったりする。

市場に任せた方が効率的に大規模な資源の動員ができるよねということと、あと18世紀以降の話だと、政府の財政出動(=軍事への出費)による需要拡大が経済を拡大させたということを述べていて、経済学的な観点からの歴史だともいえる。


マクニールが注釈を好む人らしく、注釈が非常に多い本であるが、訳者もそれに対して工夫をしており、例えば参考文献のみを記している注釈は巻末に、補足説明の注釈は本文の段落末尾につけることで、非常に読みやすくなっている。
注についての凡例が4ページもあってびっくりしたけれどw

(上巻)
第1章 古代および中世初期の戦争と社会
第2章 中国優位の時代―一〇〇〇~一五〇〇年
第3章 ヨーロッパにおける戦争というビジネス―一〇〇〇~一六〇〇年
第4章 ヨーロッパの戦争のアートの進歩―一六〇〇~一七五〇年
第5章 ヨーロッパにおける官僚化した暴力は試練のときをむかえる―一七〇〇~八九年
第6章 フランス政治革命とイギリス産業革命が軍事におよぼした影響―一七八九~一八四〇年

第1章 古代および中世初期の戦争と社会

古代における転換点
青銅
戦車→ユーラシアで威力を発揮。ヨーロッパではあまり効果的に使われなかった。高価。
→青銅と違って、鉄はいたるところで取れる。安価。耕作の能率が向上。周辺民族の戦力向上。
アッシリア:官僚機構、行政システム
騎馬革命:馬の上にまたがるようになる。誰が始めたかは不明だがステップ遊牧民が強くなる。農耕民と遊牧民とのあいだの境界線が行ったり来たりするパターンが2000年続く
大型の馬とアルファルファ
5−6世紀ころ、鐙発明。あまりにも早く普及したのでどこが発祥の地か不明
中国でクロスボウ(弩)発明
1000年頃までは、指令原理が優位
交易をおこなう者は、ある一定以上の富を持つと、それを守るためには権力者の保護をあおがなければいけなくて、結局それ以上の富を蓄積できなかったし、社会的にも名誉や尊敬を得られなかった

第2章 中国優位の時代―一〇〇〇~一五〇〇年

1000年頃、中国で市場優位の行動形式が広まり、世界中へ伝播していく。しかし、この流れは途中で頓挫する。
宋において、コークスを用いた製鉄が始まり、鉄の生産量が拡大。それを支える物流のための運河も整備される。貨幣経済へと切り替わっていく。
商業によって成り上がり的に富を蓄積するのは中国の儒教的価値観と抵触。時々、重税を課すことは、民衆からも喜ばれたが、それをすると長期的には税収が下がるので、11世紀のあいだ、宋の役人はそれのバランスをはかっていた
12世紀になると、理由は不明だが鉄産業が崩壊する
宋の軍事は、防衛的
→文官の優位を保つことができる
「仲たがいさせて統治せよ」軍人、蛮族、経済すべてに共通の統治原理
クロスボウは取扱いが簡単だが作るのは難しい。材料を集めるのに市場経済は適してる
南宋の水軍の伝統、元から明へ
明の鄭和の大航海
だが、途中で対外貿易政策は打ち切られる。官僚派閥の争いの結果でもあり、またヴェトナムに戦って負けたことや、内陸水路が整備されて海を通らなくてもよくなったこと、公海上に脅威が存在しなかったことなどの理由による
製鉄や海運で他の地域より先んじて市場による行動様式が発達した中国だったが、官僚優位の伝統的価値観の方が強く、ヨーロッパのようにはならなかった
市場による行動様式自体はイスラムの方が先にあったかもしれないが、その影響の程度を大きくしたのが中国
マラッカなどの保護レント

第3章 ヨーロッパにおける戦争というビジネス―一〇〇〇~一六〇〇年

14世紀ヨーロッパ
人口増加と黒死病の流行
一方で、造船技術と鉱山技術が進歩をとげ、経済発展を遂げる時代
北イタリアの諸都市において、防衛が市民兵から職業軍人、つまり傭兵集団との契約へと変わる。
「フリーカンパニー」による略奪
→複数のキャプテンを雇用
→当初、短期契約であったが、どちらにとっても不安定であり、次第に契約は長期化
常備軍
→契約をコントロールしやすくるために、契約単位を細分化
→兵隊同士の結びつきより、文民官僚との関係の方が重視されるようになる


大砲の出現と進歩
もともとは中国で生まれたが、大きな音で威嚇する以外は投石器と違いなかった。ヨーロッパではなぜか大砲にこだわり技術革新が起きていく
青銅による大砲から鉄による大砲へ→強度が上がりサイズを小さくできる(持ち運びが可能に)
砲弾を石から鉄へ→威力があがる
高いコストを払って大砲を入手できる国が強くなる→フランス等により北イタリアの覇権が終わる
が、イタリアで土を盛ることで大砲の威力を弱められることがわかる、盛り土を掘ったことによる堀とあわせて、「イタリア式築城術」として1530年代にヨーロッパに広がる
カール5世が帝国復権を試みるが、イタリア式築城術が小国の抵抗を可能にし、これを阻む
ヨーロッパでは、帝国による一国支配がならず、諸国家の競合関係が続き、軍事技術が発展し続ける
一方、ヨーロッパ以外では、大砲は発達したがイタリア式築城術は生まれなかった
ムガール帝国モスクワ大公国オスマン帝国は、大砲を原動力とする「火薬帝国」(版図の広さは大砲を運搬できる距離)
海戦
接近戦から砲撃戦へと変化する
地中海ではしばらく接近戦が続いた。オスマントルコを破ったスペインは、砲撃戦型への変化が遅れた。
アマルダ艦隊の敗北は、実際には暴風雨によるものだったが、世間的には接近戦型の戦法が時代遅れだということを示すことになった


ヨーロッパでは、「指令」から「市場」がより優勢になっていく
リエージュ司教区
1492年、武装蜂起し中立を宣言し、ヨーロッパの武器製造センターとなる。各国に大砲などの武器を供給する。
フェリペ2世でも財政的制約に逆らうことはできなくなった
が、市場にがんじがらめにされたことで、長期的にはヨーロッパの力は強まった
民間に資本が蓄積されたことで経済が活発化し、また国家が軍事行動を起こすために行った徴税が、市場で使われるというサイクルによって、財の効率化が起きたから。
「商業化された戦争」

第4章 ヨーロッパの戦争のアートの進歩―一六〇〇~一七五〇年

おそらく、上巻におけるハイライトにあたる章にあたり、もっともマクニールのオリジナリティの発揮されている議論が展開されいてるのではないかと思われるところ。
「教練」の発明
ナッサウ伯マウリッツ公によって、軍隊に「教練」が導入される
例えば、銃に弾をこめて構えて撃つまでの動作を細分化し、合図とともに淀みなく行動できるように、何度も何度も反復訓練を行う。
教練によって、素人でも兵士へと育成されることになるし、また練度の差もなくなる。
また、この時代までに、軍隊は戦士による絆によって結ばれた集団ではなく、市場原理によって集められた非人間的な集団となっていたが、教練によって紐帯が生まれコミュニティとしての機能を持つようになった。
戦闘のない時期の規律と士気を維持することができるようになった。
ルーティンを守るという行動様式ができて、規則遵守が強固となった。隣の兵士が死んだとしても戦い続けるという非人間的な行動が可能となった。また、上官がたとえ地球の裏側にいたとしても、その命令に従うということすら可能となった。
マウリッツはヨーロッパ初の士官学校を組織
この卒業生が、グスタフ・アドルフのもとで働き、スウェーデン軍から、プロテスタント諸国、そして、フランス、スペイン、ロシアへと教練が普及した。
また、これにあわせて銃火器の標準化も進行した。


この教練の重要性についての議論には、マクニール自身が第2次大戦に従軍した際の経験ももとになっていると述べられている。

第5章 ヨーロッパにおける官僚化した暴力は試練のときをむかえる―一七〇〇~八九年

フロンティアが拡大し、辺境国(イギリスとロシア)が強くなっていく
ポーランドが消え、プロイセンが力を増していく
と、不安定化しつつも、ヨーロッパ諸国は勢力均衡をなしとげる。
18世紀半ば、軍事組織は4つの限界
(1)指揮技術
5万人を超えると、指揮することができなくなる
(2)補給
(3)組織
傭兵カンパニーに起源があり、人事がいきあたりばったり
(4)社会的限界
戦争を支えるのは納税者。納税者の生活をなるべく維持させるために戦争には関わらせないでおきたい。しかし、それは戦争の規模に限界を生じさせる
各国軍(特にフランス軍)の改革
・参謀部
これまでは将帥の一望直観把握(coup d’oeil)と副官の偵察によっていたが、地図、書面による命令などによる参謀部がつくられる
・師団の発明
・道路・運河の改善
・新しい戦術システム
ヨーロッパ全体では、横隊戦術が主流だったが、フランスでは、状況に応じてより自由に動ける戦術をとった。


大砲の改善
マリッツ親子
鋳型による鋳造から、くり抜き
統一のとれた製品化が可能に。また、砲弾と砲腔内部を密着させることが可能に
グリボーヴァル
野砲の開発
マクニールは、グリボーヴァルによる開発を「計画的な発明」として画期的なものだと着目する。軍隊からの注文によって技術開発が行われた初期の例として。
フランスは海軍についても、艦艇を増やすべく、クルーゾー・アンドレ計画という大規模な計画をたてるが、これは失敗する
財政難のため
イギリスは中央銀行による信用供与により市場による資源の動員が可能で、海軍の強化が可能だった
フランスも海軍強化につとめたが、イギリスには追いつくことができなかった
しかし、英仏両国ともに、アメリカ独立戦争において不況が訪れる

第6章 フランス政治革命とイギリス産業革命が軍事におよぼした影響―一七八九~一八四〇年

2つの「革命」の原因は、人口増加
イギリスもフランスも人口が増加して、農地が不足していた
マクニールによれば、ロンドンでもパリと同じような暴動が起きてもおかしくはなかった、とか。
増加した人口は、軍隊に吸収されていく
フランスの場合、将校が貴族で、下士官以下は第三身分とわかれていたこと、下士官以下は軍営に隔離されていたわけではなく普通にパリ市街で生活していたこと、また命令書を読むための教育がなされていたことによって、下士官以下の陸軍が革命勢力と一体化していく。
その後、ナポレオン戦争におけるフランス軍の強さは、第5章で見たそれ以前のフランス軍の改革と、増加した人口が徴兵制によって陸軍を巨大化させたこと、革命による熱気が波及したことによるもの
進軍が速かったことも強さの要因
ナポレオン軍は、徴兵制を全ヨーロッパへと伝える
イギリスを封じるために大陸封鎖令を出すが、むしろ大陸の方が、海外からの輸入品に頼っていたところがあってうまくいかない
また、フランス軍の弱点は補給。陸路からしか補給できなかったので、遠くなると、フランス軍の強みである速さが維持できなくなる。
イギリスは、海から補給できたので速い。


イギリスにおいて、増加した人口はやはり一方では軍隊に入り、またアイルランドの場合はアメリカへと移民していった。また、イギリスには救貧法があって、最低限飲み食いするためのお金を国から支給されたので、農村の人口が都市に流入することがなかった。
対仏戦争による軍需が工業を盛んにする、経済循環がうまく回る。