金森修『ゴーレムの生命論』

ゴーレム伝説、そして「ゴーレム的なもの」が描かれた文学作品などを概観し、「ゴーレム的なもの」とは一体何か、そして「人間圏」の境界について考える。
人間以下の人間として「ゴーレム」は捉えられるが、この後、人間圏の境界ないし人間以下の生物について考えるという流れで、『動物に魂はあるのか』へと繋がることになる。

第一部第一章 伝説の歴史的点描

ここではまず、『サンヘドリン篇』や『セーフェル・ハ・バヒール』といった古代・中世ユダヤの文献から、16世紀以降のゴーレム伝説を概観している。
16世紀に、〈プラハのマハラル〉と呼ばれた高名なラビがいて、史実と伝説が入り交じっていくうちに、18世紀から19世紀にかけて必ずゴーレムと結びつけられるようになった、と。マハラルが活動していた時期というのは、あのルドルフ二世の治世でもあり、この二人は実際に会見もしているらしい。
筆者は、マハラルとファウスト博士を比較してみる。史実入り交じって伝説化した点で似ている。しかし、メフィストフェレスが悪魔という「超・人間」=人間を超えたものであるのに対して、ゴーレムは「亜・人間」=人間未満のものである。
筆者が本書で「ゴーレム的なもの」という時、人間によって創造された生物であり、人間未満であることというは幾度も確認されることになる。例えば、当初のユダヤの文献から見られるように、話すことができない、というのはゴーレムの大きな特徴である。
さらに、グリム兄弟によるゴーレムの記述では、ゴーレムを作った人間が巨大化したゴーレムによって押しつぶされるというものがあり、「魔法使いの弟子」的な要素が加わってくる。
などなど、ゴーレム伝説に共通してみられる〈伝説素〉をいくつか挙げていく。

第一部第二章 人間化するゴーレム

この章では、1909年に発行されたローゼンベルク編『ニフラート・マハラル』という本から、マハラルとゴーレムの逸話がいくつか紹介されている。
この本は世界にゴーレム伝説を広めるきっかけとなった。ところで、この本の内容は正統なトーラー解釈からは外れるので、ローゼンベルクは、ある図書館で古い原稿を見つけた、その内容がこの本であるという序文をつけたらしいが、今ではそれは虚構であることが分かっているそうだ。
さて、結構なページ数を割いて、この内容が紹介されているが、ここでまとめてもあらすじのあらすじになってしまって面倒なだけなのではしょる。
この本で書かれているのは、チェコにおけるユダヤ人迫害の物語である。
前提として「血の中傷」というものがある。これは過越祭の際に、儀礼のためにユダヤ人がキリスト教の子どもを殺すと言われたもので、ユダヤ人を裁判にする口実として使われた。
物語は、この「血の中傷」をめぐるユダヤ人迫害から、マハラルがユダヤ人を守るというものである。そして実を言えば、この物語からすると、ゴーレムは脇役となっている。
マハラルは、ユダヤ人を守る用心棒として、ゴーレムを創造する。このゴーレムはヨセフと名づけられて、〈無言のヨセル〉と呼ばれるようになる。無言で、ちょっと間抜けなところもあるが、いざというときには頼りになる、というわりと人間的な描かれ方をされている。
生まれるときと消滅するとき、マハラルの魔法によって透明になるとき以外は、魔法もほとんど出てこないという。

第二部第一章 境界線上の〈怪物〉

ゴーレム的なものの特徴として
(1)人造人間・疑似人間という意味で〈怪物性〉を持つ
(2)神よりも劣った人間が造るわけだから、欠点をもつ〈劣等人間〉である
あげ、ゴーレムそのものからは離れて、このような特徴を持つものについて探っていく。
まずは、怪物性である。
怪物についてまず、昔は人間の奇形が怪物monsterと呼ばれていたことに触れる。しかし、現代の我々からするとこのような言い方には違和感がある。
もう少し典型的な怪物というと、今まで全く見たことのないような生き物(アフリカを知らなかったヨーロッパ人が初めて目にしたワニやキリン)、あるいはキマイラ、フランケンシュタインの怪物
怪物とは〈人間外〉のものであるが、奇形を怪物という時、〈人間内〉を〈人間外〉に置いているような感じがして違和感があるのだろう、と。ところで、ゴーレムは確かに〈人間外〉ではあるが、しかし怪物の中では人間に近い……。
この〈怪物性〉が人造人間であるところから、モーム『魔術師』と映画『エイリアン4』が参照される。この二つの作品が挙げられたのは、両作品には同じようなシーンがあるからだ。
それは、巨大なガラス容器の中に、作りかけの人間が何体も入っているという光景だ。
生命創造の過程の不穏さ、出来損ないの生き物に〈怪物性〉が宿っている、と。
ところで、再び話をゴーレムに戻すと、ゴーレムというのは怪物であって怪物ではない、どこか脱力した怪物、人間と亜人の狭間なのではないか。

第二部第二章 機械仕掛けの恋人

続いて、〈劣等人間〉ということについて、ホフマン「砂男」とチャペック『ロボット』が論じられる。
「砂男」というとフロイトの分析が有名だが、筆者はフロイトによる分析は「砂男」の中で何度も強調されている〈眼〉のモチーフが抜け落ちていると指摘する。自動人形オリンピアの眼に導かれる形で物語を概観していく。
主人公のナターナエルは最初の恋人であるクラークと不仲になると、彼女を魂のない「自動人形」と罵る。一方、本当は自動人形であるオリンピアに一目惚れしたナターナエルは、オリンピアを本当の女性だと信じ込む。
自動人形のオリンピアというのは、土ではなく歯車装置で造られた女ゴーレムなのではないか。
チャペックのロボットは、機械的なものではなく、人工細胞によって造られている。ロッスム技師は、労働者集団を造るべく、人間よりも劣ったロボットを効率的に造る方法を編み出す。
それは痛覚を持たない、30年ほどで故障する、創造性や愛を持たない。〈工学的な下等人間〉である。

第三部第一章 未定形の肉塊

より現代のゴーレムへと注目を移す。
近年の文学作品にゴーレムものが多いことを指摘し、その中でアラン・デルブ『ゴーレムたち』(2004年)のあらすじが紹介される。そこでは、ゴーレムとナチス・オカルティズムが絡めて描かれている。
また、近年の生命工学の発展により、科学的なゴーレムが現実化するのも近いのではないか。ES細胞やiPS細胞は〈途上の生命〉ではないのか。
そして、さらに筆者は〈食用ゴーレム〉という思いつきについても書いている。生物個体にまで達していない細胞の塊であれば、屠殺にはならないのではないか……と。

第三部第二章 亜人の命乞い

ゴーレムは基本的に亜人であって、例えば性欲というようなものも持たない。これは、フランケンシュタインの怪物とは違うところで、かの怪物は生まれた当初に、自らが孤独であることに苦しんだ。
ゴーレムはただの土であって、生きているわけではないから、死ぬこともない、ただ土に戻るだけである。それはゴーレム伝説でも繰り返し描かれていた。
だがここで、ウィスニーウスキー『土でできた大男ゴーレム』(2000年)が紹介される。これは、プラハのマハラルが血の中傷からユダヤ人を守るためにゴーレムを造るというオーソドックスな伝説ををなぞったものであるが、しかし、このゴーレムは他のゴーレムとは違い、話すことができる。ゴーレムが土に戻される時に、ゴーレムが命乞いをするシーンが描かれる。
筆者はここで、何故ラビは、命乞いをするゴーレムを土に戻したのか、と問う。このゴーレムは何も悪いことはしていない。むしろ、ユダヤ人を守ったのである。だが、ユダヤ人を守るという目的を果たしたからこそ、土に戻されたのである。
筆者は、ゴーレムの命への無頓着さについてあれこれ悩みながら、「ゴーレム的なもの」というのは、人間圏の境界を行き来するばかりから、「人間」内部の亀裂の中にも顔をだすような概念なのではないかということを論じている。


ゴーレムの生命論 (平凡社新書)

ゴーレムの生命論 (平凡社新書)