金森修『動物に魂はあるのか』

17,8世紀のフランス思想史を、動物霊魂論という観点から紐解く本*1
デカルトの動物機械論、つまり動物はただの物質に過ぎず、言うなれば機械仕掛けで動いているようなものなので精神はないという考えに対して巻き起こった様々な反応、とでも言えばいいか。
メインは、17,8世紀のフランスだが、前史としてアリストテレスからモンターニュ、現代の動物哲学としてデリダやシンガーなども簡単に紹介されている。

第一章 動物論の前史

アリストテレスからモンターニュまで、いわばデカルト以前に西欧ではどのように動物が捉えられていたか概観するもの
動物の行動から、動物にも感覚があり、推論できる理性があり、あるいは美徳すらも備わっていると考えている事例が多い。

動物にも〈知恵〉などの精神活動を認めている記述が見られる。
また、霊魂ということについて、(1)栄養的霊魂、(2)感覚的霊魂、(3)思考的霊魂といった三段階の分類を行う。栄養的霊魂は植物、感覚的霊魂は動物、思考的霊魂は人間がもっている。
つまり、動物も魂は持っているわけだが、人間と植物の中間程度のものということになる*2

動物には、自然から与えられた自分の構造が分かっており、自分自身に対する配慮(生きようとすること)、知恵が見られる。

ホメロスオデュッセイア』の中にある、女神キルケによって豚になってしまうというエピソードを元に、プルタルコスは小編を書いている。
豚になったグリュロスはオデュッセイアに対して、動物の方が人間よりも優れた美徳を持ち合わせているのだと語って、人間に戻ることを拒否するという話である。

動物にはなく人間だけが持っていると思われるものも、実は動物も持っているのであり、人間が特別な存在ではないということを示す。
推論能力、言葉、教育可能性、宗教心などの美徳などだ。
(ところで、言葉についてはこの後もちょいちょい出てくるのだが、大体動物もコミュニケーション取っているのだから言葉を使っているのだ、という論が多かった。言葉というのは、過去や未来、あるいは嘘や虚構といったものを作ることができる点で、単なるコミュニケーションの道具以上のものとなる点がポイントだと思うのだけど、そういう観点はなかったのだろうか。)

第二章 デカルトの衝撃

デカルトの動物機械論というのは、身体というのは精巧な機械仕掛けのようなものであるというもの。
人間と動物を区別する際に、デカルトは自在に話せるかどうか、臨機応変に対応できるかという点を挙げている。
デカルトは、動物が何かを感じるという点は必ずしも否定しておらず、アリストテレス風にいうのであれば感覚的霊魂は認めていたことになる。しかし、感覚的霊魂と思考的霊魂とのギャップを非常に大きくしようとしていたのである。
当然、これに対する反論も多く、デカルトはそれに再反論している。
例えば、もし仮に子どもの頃から周りに動物がおらず動物そっくりの自動人形に囲まれて暮らした人がいたとして、本物の人間や動物をみたときどう判断するだろうか、という思考実験をしているが、なんか分析哲学の思考実験っぽいなと思ったw
また、デカルトは自ら解剖実験をよく行っていたというエピソードが紹介される。
また、自分は動物に冷酷なのではなく人間に優しいのだということも言っている、らしい。
デカルトの次に、デカルトから影響を受けたマルブランシュのエピソードが紹介される。
犬を蹴っ飛ばして「別にあれは何も感じていないんですよ」といったというものだ。

第三章 魂――物質と非物質の間

  • キュロー・ド・ラ・シャンブル

今はほとんど知られていないが、当時は有名な医者。
感覚的霊魂と思考的霊魂との区別を曖昧化して、デカルトに反論した。

エピキュロス哲学を復興した哲学者*3
原子論にもとづき、能動的な物質観を持つ。これは、デカルトの物質観・形而上学と相反するものである。
そして、魂を物質として考える。特に、火として捉える。例えば、体温、食事を取ること(ランプが油を注がないと消えてしまうことと類比)、血液には油脂が含まれ燃えるということが証拠としてあげられている。
ガッサンディは、魂を物質だと考えるわけだが、しかし、筆者はそれが火であるという点に、物質と非物質の中間の曖昧な位置を占めているのではないかと述べている。
動物を機械と捉える考え方には明確に異を唱える。もし動物を機械として捉えるのであれば、障害者や有色人種をも機械として捉えてみることに繋がるだろう、と。
その一方で、人間と動物は確かに異なっているという留保も加えている。動物には内省や抽象化、自由がない。

  • ボシュエ

王権神授説で有名な神学者
彼は人間の独自性を強調する。そして、動物は人間の劣化コピーのようなものだという。

  • ラ・フォンティーヌ

『寓話』から、動物の知性などの例が挙げられる。

  • ベール

『歴史批評辞典』で知られる。筆者は彼のことを「破壊的な思想家」と呼ぶ。
『辞典』の中で書かれた「ペレイラ」と「ロラリウス」の項目がここでは紹介される。
ペレイラは、デカルト以前に動物機械論を唱えたスペインの哲学者である。ベールは、ペレイラの動物機械論が、論点先取に陥っていることを指摘する。
また、デカルトの動物機械論は、動物霊魂を認めると宗教的問題が生じる(動物霊魂が滅びることの問題、罪を犯してないはずの動物が罪を犯した人間に虐待されることの問題)ことを怖れたたmだと論じ、その一方で、アリストテレス的な、思考的霊魂と感覚的霊魂(動物霊魂)との階層性についても、もしこの2つが程度の差だとすると問題が生じると論じる。つまり、もし動物霊魂が滅びるなら人間の魂も滅びる可能性が出てくるし、動物霊魂が不滅だとするとそれはそれで不滅な霊魂で世界が溢れてしまって大変、と。

第四章 〈常識派〉への揺り戻し

ライプニッツは、動物にも不滅の魂を認める。この点で、特殊である。
彼は、動物と人間との違いは、内省の有無にみる。内省のない表象をperception、内省のある表象をaperceptionと呼んで区別し、aperceptionを動物は持たない。ただし、昏睡状態に陥った人間もまた、aperceptionは持たない。
また、微小表象について、動物だけでなく植物にも認めている。
生命原理(魂)は至るところにある。ただし、魚で溢れる池があったとしても、その池が生きているわけではないように、物質界すべてに魂があるからといって、あらゆるものが生きているわけではない。有機的身体の中に属するとき、生きている。
筆者は、モンテーニュの動物礼賛とデカルトの動物卑下をへて、議論は中庸に戻ってきたと述べる。

  • ブリエ

神学者であるブリエは、動物霊魂は、人間霊魂よりも劣るが、非物質的で知性的なものだとした。
ところで彼は、動物の苦痛に対する配慮ということを問題として取り上げている。
もし動物霊魂があるならば、つまり動物に感覚があるのであれば、動物は苦痛を感じるということになるが、何故罪のない動物が苦痛を感じなければならないのか、という動物霊魂論に対する反論がありうる。
これに対してブリエは、苦痛も感じるということは快楽も感じるということで、存在しないよりも存在する方がよかったはずであり、また動物は人間ほどには苦痛を感じないとしている。

  • ブジャン神父

動物にも動物なりの言語があるのだという諸エピソード

デカルト的な態度をとり、動物と人間の連続性をとく
また、身体はただの延長ではなく、有機化された物質であり感覚や思考の能力を有するという。これは、霊魂を身体の機能と捉えるというもので、霊魂論を解消しているともいえる。
さらに、動物倫理的な側面も見て取れる。
肉食批判、ベジタリアン的なことを書いていたり、新生児や老いさらばえた老人よりも動物の方が優れているのではないか、といったことも書いているらしい。
筆者は、こうした動物に優しく人間に冷酷ともいえる内容は、かれの〈汎戦争的な世界観〉が背景にあるのではないかと述べるが、ヴォルテールの活動期間は非常に長く、晩年に書かれた一節から彼の思想の全体を推測することはできないともしている*4

第五章 論争のフェイド・アウト

  • オフレー・ド・ラ・メトリ

動物機械論ならぬ人間機械論を唱えた思想家。
キジとトリュフのパテをたらふく食べ過ぎて死んだ、という謎エピソードが紹介されている。
さて、人間機械論といっても、実はデカルトの動物機械論の延長線上にある主張ではなく、むしろデカルト的な考えは否定している。
彼もまた、魂を物質化して捉えている。解剖学的な視点から、動物も人間と同様な感官を備えているので、当然感覚は持っていると考える。魂は、体内の器官の反応と、内臓の体制に依存しているという。
人間機械論もまた、人間の卓越性は人間の体制に依存するというものである。

  • ビュフォン

動物と人間で共通しているものと区別されるものは何か考える。
動物には感情も感覚もあるが、人間のような思考や反省能力は持っていないと考えて区別する。
彼は、動物機械論を再び復活させたとも言われていて、動物機械という言葉を使ったりもするが、しかし筆者は、彼が必ずしも動物を機械のように捉えていたわけではないとも述べる。

コンディヤックは、ビュフォン批判を展開した。既に述べたように、ビュフォンは動物機械論を主張しつつも、動物を機械のように捉えていたとは思えないところも多く、そこをついた批判である。
コンディヤックは、動物と人間との違いを連続的なものの中に捉える。確かに違うが、程度の差であるというわけである。


こうして、この本のメインにあたる17,8世紀の動物について思想の流れを見ていくというのは終わる。
年代を追うごとに、常識的・中庸的な結論へと収束していくわけだが、これはデカルトの動物機械論の説得力が時を追うごとに失われてしまい、動物機械論vs動物霊魂論という「議論場」自体が失われていったからだろうと述べられている。

第六章 現代の〈動物の哲学〉

19世紀はすっとばして、動物の哲学はアクチュアルな問題で、実は近年、流行の兆しさえ見せているということで、現代と繋ぐべく、いくつかの思想が紹介される。

  • 哲学的人間学

20世紀前半、ドイツで生まれた学問「哲学的人間学」は、「人間はどのような意味で動物と異なるか」という問いをたてた。動物学者ユクスキュルや心理学者ケーラーの仕事が準拠されている点で、17,8世紀の動物哲学とは異なる。
哲学的人間学からは、シェーラーとブレスナーが紹介される。
シェーラーは、人のみが環境世界を凌駕することのできる「世界開放性」を持っているという。
レスナーは、シェーラーの「世界開放性」を野放図だと批判する一方で、人間は世界との一定の距離があり、「脱中心性」をもつとした。

「石は無世界的である」
「動物は世界貧乏的である」
「人間は世界形成的である」
動物は、石と違って「接近可能性」があるので世界がある
しかし、動物の本質として「とらわれ」があるという。自らの衝動にとわわれ、それに応じて生きるのが動物であり、それゆえ「世界貧乏的」である。

デリダは動物と人間の二元論を問題化する。
ここではむしろ、デリダよりもバンブネの紹介に多く割かれている。デリダの『だから動物である私』をもじって『もはや動物ではない私』という著作がある。
ハイデガーの議論を現代化したようなものである。*5
人間のみが、有用性や機能性から身を引き離し、「客観性」を持つことができる、という。
筆者は、このバンブネの議論を、実在論と観念論という形而上学的議論にねじれをあたえているといって評価している(客観とか実在とかは人間とは関係なく世界があるという考え方だが、ここでバンブネは人間という生物の特殊性によって客観が成り立つとしているため)

  • 動物解放運動(シンガーとリーガン)

アクティビズムとしての位相に注目を移す。
動物解放運動には大きく分けて、シンガーのような〈動物の福祉〉論とリーガンのような〈動物の権利〉論とがあるが、ここではシンガーに力点が置かれている。
種差別や動物実験についての批判が紹介されている

シンガーの議論から、筆者は「人間と動物」から、「人間の中の動物」へと目を移す。アガンベンに言及しながらも、アガンベンのいうゾーエをフィクションとして描いた作品として『わたしを離さないで』を挙げる。この作品は、臓器移植のために作られたクローン人間の話だからだ。


終章

まとめとして、
(1)キュロー、ライプニッツ、ブリエ、コンディヤックのように動物と人間の違いを程度の違いととらえる作業
(2)ボシュエ、ビュフォンにみられるように、人間の独自性を担保しようとする作業(ライプニッツ、ブリエ、コンディヤックにも見られる)
この二点が見られるとする。
また、ガッサンティ、ベルニエ、ヴォルテール、オフレーのように、魂を物質化しようとする消去主義的な流れもあった。
最後は、シンガーの話やバイオテクノロジーの話などを交えつつ、現代における動物霊魂論を考えるというところで終わる。

ブクマコメに答えつつ感想の追記(20130522)

ここに出てくる人たち(特に現代の人たち)がペットを飼っているか、飼っているならどんなペットで、どのように付き合っているかを知りたい。
http://b.hatena.ne.jp/dadabreton/20130522#bookmark-146689898

ペットを飼っているかどうかの記述はほとんどないけれど、唯一デリダについては言及がある。
『だから動物である私』は「自分が裸体でいる時、それを飼い猫に見られて気まずい思いをするという逸話から入る」のだそうだ。筆者は、レヴィナスの〈他者〉ですら動物は入らないというのに、デリダはどうにかして、動物・人間の区別という図式を崩そうとしているという。
シンガーはたぶんペットとか飼ってないんじゃないかなー。他の本に書いてあったけど、別に動物好きじゃないみたいだしw
ビュフォンは、犬をめちゃめちゃ褒めちぎり、猫をめちゃめちゃ貶すという文章を書いていたいらしいので、もしかして犬飼っていたのかもしれない。それは分からないけど、犬派なのは確か

魂の定義次第。
http://b.hatena.ne.jp/myogab/20130522#bookmark-146689898

身も蓋もないw
まあ、その通りなんだけど、これはタイトルがややミスリーディングであって、この本は別に「動物に魂はあるのか」という問いにイエスかノーの二択で答えようとしている本ではないのであり、動物と人間でどこが同じでどこが違うんだろうねーというのを昔のフランス人とかはどう考えていたのかということがだらだら書き連ねられている歴史の本なのである。
で、そうした議論の中で、そもそも魂って何よっていうことについても立場の相違がある。
あと、マルブランシュが「魂の定義次第」というのと似たようなことを言っていて、動物に魂はない派(デカルト派)と魂はある派(アリストテレス派)は魂の定義が違うんだということ述べている。前者にとって魂は精神的なもの、後者にとって魂は物質的なものだ、と。
この本を読んで興味深かったのは、魂は物質的なものだと考えていた人が意外と多いということだった。
現代の哲学の本で「魂」って言葉が出てきたら、それは即座に二元論の語彙と解されるわけだけど、ヴォルテールなんか身体の機能を魂と呼んでいて、意外と一元論っぽい感じなのかもしれない。
動物と人間の共通点と相違点ということについていえば、それはもう現代においては動物学の課題であって、哲学の課題ではないし、実際そのことについての答えが欲しいのであれば、こんな思想史の本を読まずにとっとと動物学の本を読んだ方がいいw
ここで触れられているような時代は、まだ経験科学も十分に発達しておらず、哲学と入り交じっていて、経験科学的な話とそうではない哲学的な話がされているわけだけど、後者についていうと、これって、滑りやすい坂論法みたいなもんなんじゃねっていうのが結構出てきたりして、魂という言葉を使わずに議論の構成だけ取り出すと、現代の動物の倫理学にももしかして通じるところがあるかもねっていう感じもあった。
滑りやすい坂論法って苦手なんだけど、やっぱり説得力あるのかなあ。
ところで、著者の考えが述べられる終章では、シンガーの唱える全動物を対象とした功利主義みたいなものに対しては、「ごめん、やっぱ無理」って吐露されてて、まあ実感レベルではそうだよなあ、と思ったw

さらに追記

ここでは魂は、心のはたらきとして捉えられている、ともいえる。大体、以下のように分けられると思う。
感覚
感情・情念
理性(推論能力・言語)
美徳(性格・気質)
内省・反省能力
美徳というのは、「勇気がある」「節制することができる」など、優れた気質といったものだが、他に「狡賢い」といった、美徳ではないけれど、性格・気質といえるようなものについても、動物が持っているかどうかという話をしているので、美徳に限らず広く「性格・気質」と捉える。
内省・反省能力は、メタ的に立てる能力と考えれば、すごい大雑把な話だけど、ハイデッガーやバンブネのも含まれるのかなあ、と。
で、こういうふうに分けると、下の方と上の方についてはあまり議論が分かれていない。
つまり、感覚や感情については動物も有しているということでここで出てくる論者はほぼ一致している。例外的なのはマルブランシュくらい。
それから、内省・反省能力については、人間独自のものということになっているようだ。というか、人間と動物は違うと主張したい人だけがこれに言及しているようだが。
議論が分かれるのはやはり、理性のあたり。動物は実際に推論して行動しているのか、それともあらかじめ決められた反応として行動しているのか、と。
まあ、現代からして見ると、動物と一言でいっても色々いるし、理性か本能かの二択というわけでもないし、色々あるよとしか言いようがないけどw
(そういえば、動物と一言でいっても色々あるし、みたいなことはデリダも言っているらしい)

*1:完全に思想史の本であって、動物学の本ではもちろんないのだが、何故か図書館では思いっきり動物学の棚に置いてあった

*2:ところでこれは、先に〈知恵〉を認めていたことと矛盾するようにも見えるのだが、筆者は「裂け目、いびつさ、頓挫した部分などを抱えた思想の方が曰くいいがた奥行きをもちうる、という、分析的思考を好む人たちには反感を買いそうな講釈を、私はそれでもあえてここでしておきたいと思う」と述べている。

*3:著作が膨大で難解でもあるため、ここではガッサンディを大衆化させたベルニエの著作に基づくとされている

*4:ところで、こうした筆者の態度は本書の全体で何度も何度も出てくる。つまり、この本はあくまでも動物霊魂論や動物哲学に関わる部分を見ているだけで、おのおのの思想家についての解説はできないということ

*5:ところで、「フランス人の〈分析哲学〉への伝統的嫌悪感を克服したこの20年ほどの世代」とも言われている