青山拓央『タイムトラベルの哲学』

最近哲学読んでなかったので
タイムトラベルとは一体何なのか、ということを起点にした時間論。


内容まとめではなく、テキトーに気になったとこだけ拾いメモ
序章にあるレコード盤の喩えは、『順列都市』っぽい。
「私の時間」と「前後の時間」の区別は、A系列とB系列かなと思ったけど、それとは違う。
リアリティを、「現在性」と「実在性」にわけたのはいいなと思った。この2つの区別は重要なんだけど、言葉が同じだったりするせいで混ざってしまうことがあって。現在性と実在性を置換しないこと、という議論の進め方。
現在性の「今」の単一性、実在性の「今」の複数性。
生前には存在しなかったのだから死後に存在しなくなるとしても怖れることはない、という著者の父の話。
過去へのタイムトラベルだけでなく未来のタイムトラベルについても、同じ分量をさいて、いくつかの時間モデルを検討する。
多世界解釈と確率についてあわせて考え、そもそも等しく起こりうるって一体何なのかと提起している。
アキレスと亀のパラドクスについて、これを無限分割によるパラドクスとしてではなく、別の問題として見る。アキレスと亀の世界にはアキレスと亀しかいないのだと考え、我々が無意識のうちに前提としている時間観をとっぱらって論じる。
タイムトラベルと同一性の話が一番面白かったかもしれない。
この本では、名指しで哲学者が言及されることはほぼないが、ここではカントが言及されている。過去や未来への広がりは「視点」の同一性による。そしてその同一性を、世界の同一性と繋げたのがカント。世界の時間は「視点」の同一性に基づく「形式」だが、世界の持続と「視点」の持続は経験的には区別できないが。
「視点」の同一性と「対象」の同一性、これらは言葉の中にも浸透している。言葉についてはまたあとで。
「私の時間」の無限定な広がり。これは死なない時間。対象の同一性によって死後の時間やタイムトラベルがいみをなす。
結局、時間の「流れ」とは何か。カントは結局これを消去したのだが、フッサールはこれを根源的に問い続けたのではないか。経験を越えた得体の知れないものとしての「流れ」
言語の話、再び。言語には時制表現が組み込まれている。これは後付けのものなのか。そうではないのではないか。そして、時制表現が組み込まれてしまっている言語によって、時間を語ろうとするのは、時間の外に出れないということで、うまくいかないのではないか。


言語哲学形而上学が時間論で結びつく、というのがこの本の面白かったところだった。


いい本だと思うけど、Amazonレビューが二分されていたのが気になってしまった。評価が低い人のコメントは、この本の本筋とはちょっと離れてしまってる感じがするのだが、自然科学系とSF系に脇が甘いまま喧嘩売ってるように見えなくない(実際どうかは分からないけど)あたりが、そういうコメント書かれる原因かなと思ったりした。


ちょっと違うけど、タイムトラベルについては以前ブログでちょっと書いたことがある。
時間と記憶 - logical cypher scape
『時をかける少女』 - logical cypher scape
自分はこれだけ書いて満足してしまったが、この本はここから先の話、とも言えるかもしれない。


文庫の方は読んでない