田中久美子『記号と再帰』

サブタイトルに「記号論の形式・プログラムの必然」とある通り、記号論とプログラム言語について書かれた本である。
だが、自分には、記号論とプログラム言語の両方の知識が足りないために、かなり不十分な理解で終了してしまった。
ただ、読んでいてずっと隔靴掻痒な感じがしつづけた。間違ってはいないのだけど、何かがまだ足りないようなそんな感じ。
タイトルにあるとおり、これは記号と再帰の話なのだけれど、議論の前提とかが色々と気になってしまって、結局再帰とは一体何なのか、ということまでは自分の脳がついていかなかった。とりあえず、再帰が大事、という話っぽい。


記号論として、ソシュールの二元論とパースの三元論が代表として提示されている。
まず議論としては、そもそも記号論とかいいながら、この2つの論がバラバラなままになっているのはおかしい。おのおのの対応関係とか明らかにしたほうがいいんじゃないの、という問題提起がなされて、この2つの対応関係に関する仮説がたてられる。
そしてその仮説を証明するために、2つのプログラミング言語について論じられる。
基本的に、記号論プログラミング言語の概念をそれぞれ対応させていく、ということがなされていくことになる。

  • 1章・2章

プログラミング言語の用語の説明など

  • 3章

記号論における二元論と三元論の紹介
この本で使うプログラミング言語として、関数型プログラミングHaskellオブジェクト指向プログラミングのJAVAの紹介。
二元論と関数型、三元論とオブジェクト指向が対応される。

  • 4章

ラムダ計算が導入され、再帰について説明される。
再帰については、記号の投機的使用と言われる。
二元論と三元論がここで融合される。
これは、意味論(semantics)とは実用論(pragmatics)を凍らせたものである、というハーダーの言葉が引用されたりしている。

  • 5章

オブジェクト指向について、2つのプログラムの記述の方法、クラスと抽象データ型が、「である」の関係、「する」の関係であるとされ、それが三元論によって説明される。

  • 6章

ここから、第二部。第一部が記号のモデルについてだったのに対して、こちらは記号の種類について。
プログラミング言語における値の指示の曖昧性について。値は、数値を指示していることもあれば、アドレスを指示していることもある。
これをまずは、イェルムスレウの記号分類(ソシュール二元論)に対応させたのち、パースの記号分類(イコン、インデックス、シンボル)とも対応させる。

  • 7章

ここは、パースの一次性、二次性、三次性。
この概念がよくわからないので、この章もよくわからず。

  • 8章

クラスとインスタンス(普遍と個物??)
語りの自動化とか、書の自動生成とか、出てくるプログラムの例は面白そうなんだけれども、ここでいう是態というものが、いまいち何のこといっているのかつかめず。

  • 9章

ここから第三部
自然言語プログラミング言語の違いについて。
自然言語は構造的(どっかが欠けても全体は成り立つ)
プログラミング言語は構成的(積み上がっているのでどっかが欠けると全体が止まるかも)

  • 10章

インタラクション(人からの入力など)によって値が変わるような場合、プログラミング言語はどうやって処理するのか(記号系の中に時間性が導入される)。
そのために、記号の投機が必要。やっぱり再帰だーという話。

  • 11章

記号系の再帰性の話。
系全体もまた再帰するみたいな話か?


気になることなど

これを言っては元も子もないのだが、筆者が前提としている「汎記号主義」とは果たして妥当なのか。というか、汎記号主義って何を指しているのか。
記号は記号系だけで自足しているというような考え方っぽいけれど
記号の対象を心的なものとしてしまうのはなんとも……*1
プログラミング言語という範囲に限れば、記号の対象が実世界対象ではないという汎記号主義の立場はうまくいっているのかもしれない。これはおそらくそう思う。ただし、それが自然言語など他の記号系にもうまく外挿できるのかっていうのが謎。
まず、「使用」とか「実用論(pragmatics)*2」とかで言われていることが、いまいち納得できない。
プログラミング言語におけるそれと自然言語におけるそれがなんか違くないか、と。
もっとも、自然言語の語用論についてもやはり僕はよく知らないので何とも言えないのだけど。
これらに加えるなら「解釈」とかも。
この本は各章の冒頭に絵画によるアナロジーが導入されている。このアナロジーがどれくらいマジな議論なのかはいまいちよく分からないのだが、これが入っているのがまたなんだかなーという気分にさせる。
そもそも、絵画って記号なのか?
ある意味では記号と言っていいのかもしれないけれど、でも別の局面では絵画と記号って区別することもあるような気がする。そもそも、プログラミング言語のことを記号といっているような文脈で、絵画も記号って言ってしまっていいのだろうか。
そして、絵画における「解釈」ってかなり幅が広いので、ここで相当ブレが生じてしまう気がする。


記号論プログラミング言語の対応、ということに関しては、うまく言っているのかもしれない。
ただ、そこから自然言語とか他の記号系にまで同様の議論を同様に当てはめることができるのかがよく分からなかった。
あと、個人的には、一番よく分からなかったものの一番面白い感じがしたのは、第二部(6章から8章)の議論なのだけど、これが全体の中でどう位置づけられるのかも分からなかった。しかし、パースの記号の三分類をそういうふうに当てはめるのかーという面白さがあったりした。


全体的に、分からなかったとしか言ってない、ひどい記事だな。


記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

*1:フレーゲがエピグラムにだけ出てくるのだけれど、基本的に記号論理学・分析哲学の議論はほぼ参照されていない。が、意外と使えるような気がするし、うまくいけば議論の弱い部分の補強になるのではないか、と思うが、それは単に俺が分析哲学側の人間だからであって、特に根拠はない。全く瓦解するかもしれない。いや、でも、記号の対象は心的なものだと考えれば、「もし」や「たとえば」の説明がいくみたいなことは、少なくとも書かなくてすむはず

*2:語用論のことだが、筆者はあえて実用論と訳している