山口尚『クオリアの哲学と知識論証』

これぞ分析哲学だよねーという感じの本で、非常に面白い。
後半は結構議論が難しくなってくるが、それでも議論が追いやすくなるように作られているので基本的には分かりやすいと思う。
もっとも、心の哲学全く知らないとなると多少つらいかもしれない。
注釈がいい(後述)


サブタイトルは、メアリーが知ったこと。
オーストラリアの哲学者、フランク・ジャクソンが提唱した「メアリーの部屋」という思考実験ないしそれを元にした知識論証を巡って書かれた本である。
第1章と第2章では、知識論証の論争史がまとめられ
第3章から第5章では、知識論証に対する応答のうち、筆者とは立場を異にするものを紹介・批判され、
第6章から第8章では、筆者と立場を同じくする論が紹介され、筆者の立場・主張が展開される。
第9章は、結語で、筆者の主張に対する補足。
「メアリーの部屋」というのは、以下のようなものである。
物理(学)的に全知な*1メアリーという科学者がいる。彼女は、生まれたときから白黒の部屋にいて、白黒テレビを通じて世界について学んだ。
彼女が、ついに部屋の外に出る。その時、彼女はきっとこういうだろう。「空の青色とはこういう色だったなんて、知らなかった」
彼女は物理的に全知であるはずだが、ここで何か新しい知識を得ているように思われる。
つまり、この世界には、物理的ではない事柄がある。
ジャクソンは、ここから二元論(この世には物理的なものと心的なものがある)が帰結すると考える。
メアリーの部屋ないし知識論証は、物理主義(物的一元論)と衝突するのである。
筆者は、スマートやアームストロングらの「オーストラリア唯物論」(心脳同一説)に与する。この立場はそれほど支持者が多くないが、D・ルイスも支持者の1人であり、本書では度々D・ルイスが登場する。


第1章・第2章

ここでは、時系列に従って様々な哲学者の応答が挙げられる。
ここの章について著者は中立的であり、それぞれの論の長所と短所をおおむね把握することができる。知識論証とは一体どういうものなのか、ということがかなりクリアにわかる。
また、注釈が非常によくて、登場する哲学者についての簡単な紹介がつけられているのだが、ここでは筆者が実際に会った際の感想などが書かれていて面白い。例えば、ジャクソン「颯爽とした感じのおじいさんであった」。ユージン・ナガサワ(永沢雄仁)「ちなみに彼はプロレス好きである(これも本人から聞いた)」。「ビゲロウとルイスとスマートは(略)しばしばつるんでいたらしい」。ライカン「髯が特徴的である。(略)まさに「紳士」といった立ち居振る舞い」「デネットの見た目がダーウィンに似てきたように――チャルマーズの見た目がデカルトに似てきたと感じるのは私だけであろうか」。
なんだか思わず、たくさん引用してしまったw もっとも、こうした紹介「も」あるというのであって、こういうのも含めて勉強になる、ます。
閑話休題
まず、ここでは82年から90年の「第1期」91年から97年までの「第2期」98年から現在までの「第3期」に分ける。
第1期では、チャーチランドの批判(旧事実/新様式戦略、同様理屈反論、論点先取)、D・ルイスの批判(ミネロウに由来する能力反論)、ジャクソンの再反論、ビゲロウとバーゲッターの批判(旧事実/新様式戦略を「見知り関係」によって一般化)、ロアーの批判(「現象概念」概念を使った旧事実/新様式戦略)が登場する。
第2期では、コウニーの批判(面識知)、ライカンの批判(表象理論)、ニダ-リューメンの批判(「マリアンナの事例」という新しい思考実験を提示)、チャルマーズの擁護(ゾンビ論証とセットならびに物理主義の分類)が挙げられる。
第3期は、ジャクソンの転向から始まる。ジャクソンは知識論証が誤りであると考えを変え、能力反論と表象主義によって批判を行う。そして、ヴァン・ガリックが、知識論証への応答を分類する。


ガリックの分類に従い、上述の各論について整理しよう。
その前にまず、心の哲学については大きく分けて三つの立場がある(チャルマーズによる分類)。
タイプA物理主義、タイプB物理主義、二元論である。
タイプA物理主義は、認識論的ギャップも存在論的ギャップも認めない。つまり、この世界は全て物理的な存在によってなっており、心的な存在がないことはもとより、意識についての還元主義的な説明が可能であると考える。知識論証についていえば、メアリーは部屋を出ても全く新しい情報を得ないと考える。
タイプB物理主義は、認識論的ギャップは認めるが存在論的ギャップは認めない。この世界は物理的な存在のみでできていると考えるが、意識についての還元主義的な説明を認めない。知識論証についていえば、メアリーは部屋を出て何らかの新しい情報を得たと考えるが、しかしそのことが存在論的な物理主義を棄却しないと考える。
二元論は、認識論的にも存在論的にも、物的なものと心的なものの二つがあると考える。知識論証については、これが物理主義を退けると考える。
タイプB物理主義の立場というのが、もっともポピュラーであるが、筆者はタイプA物理主義というややマイナー立場を擁護する。
ガリックの分類によれば、以下の質問への応答によって分類が可能である。
Q1 メアリーは部屋から出て何らかの知識を得るか
 ノー→タイプA物理主義(チャーチランドの第三の反論やデネット
彼らは、そもそもメアリーの部屋の思考実験自体が偏った立場から始まっていると考える。もし本当にメアリーが物理的に全知であれば、「なるほど、これが空の青色か。私はこれを知っていた」と答えるだろうという。
 イエス→次の質問へ
Q2 メアリーは何らかの事実知を得るか
 ノー→タイプA物理主義(ルイス、ミネロウの能力反論、コウニーの面識知)
知識論証は、事実知と「どのようなことかの知」を混同しているという。能力反論においては、「どのようなことかの知」とは方法知であるとする。例えば、自転車の運転について、物理的事実を全て知ったとしても運転できる能力は必ずしも身につくわけではない。しかしそのことによって、自転車について非物理的事実があることは帰結しない。メアリーについては、想像能力や想起能力がそれに当たると考える。コウニーは、「どのようなことかの知」を面識知として分析する。
 イエス→次の質問へ
Q3 メアリーは何らかの新しい情報を得るか
Q4 メアリーは新たな事実についての情報を得るか
 ノー→タイプB物理主義(ライカン、ロアー、旧事実/新様式戦略)
旧事実/新様式戦略は、メアリーは既に知っていたことについて新しい様式で知ったと考える。教科書を通じてしか知らなかったものを、経験を通じて知るというように。Q3についてイエスと答えるかノーと答えるかははっきりしない論者もいる。ライカンとロアーについていえば、Q3はイエスでQ4がノー。ロアーは部屋を出たときにメアリーは「現象概念」という新たな概念を手に入れたのだと考える。ここでいう概念とは、何かを知るときの枠組みのようなもの。「物理的−機能的概念」と対になる。ある事実について、「物理的−機能的概念」が科学理論を通じて指示するのに対して、「現象概念」は直接的に指示する。指示する対象は同じなので、存在論的な物理主義は維持される。「現象概念」は知識論証だけでなく、心の哲学の他の問題にも答えを与えそうなので人気。
 イエス→二元論
最後に、近年の新しい立場として「新事実戦略」が挙げられる。これについては第4章で

第3章

第3章では、二元論が批判される。
二元論と一言で言っても様々あるが、ここでは相互作用二元論と随伴現象説が取り上げられる。
転向前のジャクソンは、知識論証が随伴現象を帰結すると論じたが、それに対して筆者は、知識論証は相互作用二元論が帰結すると主張する。知識論証によれば、メアリーは物理的ではないクオリアについての知識を得たことになる。そしてそのような知識は、行動に対する因果関係を持つはずであり、これは相互作用二元論である。随伴現象説は、心的なものの物理的なものに対する因果を認めない立場なので、(この立場自体はもしかして正しいのかもしれないが)知識論証からは導かれない。
相互作用二元論については、既存の物理学と全く相反するもので、これを擁護するためには、既存の物理学を覆すだけの証拠を持ち出さなければならず困難。よって、知識論証はどこか間違っているのであり、それにも関わらず何故一見まともに見えるのか考えるべき。
ところで、チャルマーズは知識論証とゾンビ論証がセットになると考えたが、筆者によれば、知識論証は相互作用二元論を、ゾンビ論証は随伴現象説をそれぞれ導くのであり、先述したようにこの二つは相容れない。
ゾンビ論証については、最低限の物理主義としての制限的スーパーヴィーニエンステーゼや可能世界論が出てくる。制限的スーパーヴィーニエンステーゼが成り立つ可能世界の集合である内圏と、それに属さない可能世界の集合である外圏の区別とか。
ゾンビ論証については、論点先取的であるとして批判されている。
ゾンビ論証が正しい可能性はあるが、それはゾンビ論者たちが考えるような意識観が正しいという前提においてであり、機能主義的意識観が正しいという前提に立つとゾンビ論証は成立しない。つまり、ゾンビ論証ではどちらの意識観の方が正しいかという証明にはならない。

第4章

近年のトレンドである新事実戦略について。
これは、メアリーは新しい事実を知ったが、しかしそもそもメアリーは最初から物理的全知ではなかったというもの。
知識論証において、メアリーは部屋を出て主観的な事実を知ったとされる。そして主観的な事実は物理的な事実ではなく、非物理的事実なので、物理主義は偽となるというのが二元論者の戦略だが、新事実戦略の立場をとるものは、メアリーは確かに主観的事実を新たに知ったのが、これは物理的事実であるのだとして、物理主義を擁護する。クレイン、ハウエル、ナガサワ、ガリックがこの立場をとる。
この立場は、物理主義の改訂を要求する。
従来の物理主義
(O)全てのものは物理的である。かつ(E)全ての事実は物理学的に、つまり客観的な探求で知られうる。
新事実戦略に基づく物理主義
(O)かつ(E*)物理学的に知られない、つまり主観的な経験によってしか知られない事実がある。
このような改変を筆者は認めない。
そして、彼らは「事実」と「知識」を取り違えているとして、D・ルイスによる自己的態度attitude de seの理論による説明を行う。
ルイスの自己的態度の理論とは何か。
態度の対象は「命題」である、というのは分析哲学では一般的に考えられているが、ルイスは「性質」の方がよいと考える。何故なら、「性質」は「命題」を全て含むことが可能であり、なおかつ「命題」では含めないものが「性質」にはあるから。
命題とは可能世界の集合であると見なせる。
一方、性質は個物の集合であると見なせる*2
命題は、世界を位置づけるとされる。つまり、命題Pが真である時、可能世界の全体の集合の中から、Pが真である可能世界が絞り込まれる(あるいはPが偽となる世界が消去される)。デイヴィッドが「P」と主張する時、デイヴィッドは自分のいる世界を絞り込んでいる。
性質は、自己を位置づけるとされる。性質について主張するとき、自分をその性質が成り立つ個物の集合へと絞り込んでいる。
性質の方が「きめが細かい」。
命題を対象とする態度を言表的態度attitude de dicto、性質を対象とする態度を自己的態度attitude de seと呼ぶ。
筆者は、言表的/自己的知識と科学的/自己的知識を結びつけて考え、世界についての事実は、言表的知識によって尽くされているとする。
メアリーは自己的知識について知ったかもしれないが、それは事実ではなく性質であり、物理主義の改訂は必要ない。

第5章

ここでは、現象概念戦略を取り上げこれがうまくいかないことを示す事で、タイプB物理主義がうまくいかないことを示す。
現象概念戦略の形式化は以下の通り。
(φ1)現象概念は、物理的−機能的概念から区別されるので、認識論的ギャップは説明できる。
(φ2)現象概念の指示対象は物理的であり、現象概念も物理的システムによって実現するので、存在論的ギャップは開かない。
これを、筆者は物理主義としては不徹底であるとする。ここで筆者は以下のテーゼを導入する。
(Y)現象概念の指示や獲得・所有・使用にかかわるファクターがすべて物理的ならば、現象概念は物理的−機能的概念と区別できない。
現象概念が物理的なものからできているのであれば、白黒の部屋にいるメアリーは当然その概念を獲得できるというわけである。
ここでは、タイプB物理主義の中で、現象概念戦略が取り上げられたが、タイプB物理主義はどれも現象概念戦略と論理構成が同じなので、タイプB物理主義は結局、認識論的ギャップはあるが存在論的ギャップはないという立場について整合的ではいられないとする。

第6章

ここまでの整理
3章:知識論証はどこかが間違っている。物理主義的な応答ができるはず。
4章:新事実戦略は成功しない
5章:現象概念戦略は成功しない
そこで、6章からは成功すると思われる物理主義的な応答が検討される。
6章では、デネットによる批判が取り上げられる。
また、ニダ-リューメリンがマリアンナの事例によって行った、タイプA物理主義への批判に対して、デネット流に応答する。
デネット・筆者による批判は、メアリーの部屋にせよ、マリアンナの事例にせよ、ある種のバイアスがかかっているということである。
部屋を出たメアリーは何か新しいことを知ったという直感(これを「知識直感」と呼ぶ)が、知識論証を支えているが、そもそも本当にメアリーが物理的に全知であるならば、新しいことを知ることはないのではないか。
デネットは、青色バナナ・シナリオを提示する。部屋からでたメアリーに対して、青く塗ったバナナを見せるとする。しかし、メアリーは「バナナは黄色いはず。青く塗って私を騙そうとしているのか」と答える。彼女は、色が人間に対してどのような反応を起こすのか全て知っているので、当然識別することができるのである。
これに対して、そのような色の識別能力と、部屋を出たときに新たに知るとされることは別ものだという反論がある。つまり、メアリーは確かに色を識別できるかもしれないが、それに加えて何らかの「一人称的な」現象を知ったのだと。
これに対して筆者は、この反論は論者の「直感」しか証拠がなく、根拠薄弱だとする。
デネットにより知識直感は否定されたが、筆者は弱い知識直感は成立しうると考える。
(知識直感)物理的に全知であっても、得られない知識がある
(弱い知識直感)物理的な知識を多少積み重ねても、得られない知識がある
弱い知識直感について、得られない知識が「どのようなことかについての知」である*3

第7章

「どのようなことかについての知」とは一体何か。
ここでは、ルイスとミネロウによる能力分析が取り上げられる。ここでも再びD・ルイスである。
ルイスはまず、「物理的情報以外に、現象的情報が存在する」という現象的情報仮説を取り上げる。
そして、現象的情報仮説は、物理主義に反するとする。タイプB物理主義は、物理的情報と現象的情報を何らかの認識論的アイテムによって区別しようとするが、認識論的アイテム――情報の媒体によって情報を個別化するというタイプBの戦略(いわゆる旧事実/新様式戦略)は、奇妙な帰結を伴うとする。すなわち、例えば英語かロシア語かによって情報が区別されてしまう(同じことについて書かれているのに英語の文には決してロシア語の文では伝えられない情報がある)ことになってしまって、おかしい。
また、現象的情報仮説は随伴現象説を帰結するので魅力的ではない、と。
かくして、現象的情報仮説をルイスは棄却し、代案として能力仮説を提案する。
メアリーが部屋を出たときに新しい経験をする、その際に得られるのは、現象的情報ではなくて、想起能力・想像能力・再認能力といった能力なのであり、これこそが「どのようなことかについての知」の正体である。つまり、「どのようなことかについての知」とは方法知なのであって、確かに方法知は事実知を多少積み上げたところで手に入れることはできないが、しかしそのことはこの世界に物理的ではない情報や事実があるということを意味するわけではない。
筆者は、ルイスの能力分析をやや修正する。ルイスは、「どのようなことかについての知」を想起能力・想像能力・再認能力の三能力としたが、筆者はこれらの能力がつねに必要になるわけではなく、状況に応じてどれかを欠いていてもよいと修正する。
これは、コウニーによる批判への答えとなっている。つまり、コウニーは、想像能力を欠いていても「どのようなことかについての知」を持っている場合があるし、逆に想像能力を持っていたとしても「どのようなことかについての知」を欠いている場合があるとして、面識仮説を唱えた。しかし、筆者によって修正された能力分析であれば、コウニーの批判は当てはまらず、面識知もまた能力仮説によって説明がつけられる。
ところで、この能力仮説による「能力」とは一体何か。それは例えば、赤色を想起したり想像したり再認したりする能力である。であるならば、そこで想起されたりする「赤色」といは何かという問題が出てくる。これを物理主義的に説明する方途として、表象主義がある。

第8章

ここでは、「転向」後のジャクソンが支持した表象主義について論じられる。
筆者は、表象主義の立場をとるが、一方でジャクソンの議論のやり方についてはこれを批判する
ジャクソンは以下のように、表象主義を論証する。
(前提1)心的状態はつねに何らかの表象的性質を有する(最小の表象主義(MR))
(前提2)心的状態が提示する性質はその対象の性質である(透明性テーゼ)
(中間結論)心的状態の対象は志向的対象である
(結論)心的状態は表象的性格しか有さない(強い表象主義(SR))
筆者は、前提と結論に同意する。しかし、この論証はあまりにも不明確であり、正当化できていないと考える。
そこで筆者は「非選言主義テーゼ」という枠組みを導入して、MRとSRをそれぞれ量化することで、妥当な論証を示す。
次に、志向的対象とは一体何かということについての分析を行う。
志向的対象を外的対象と一致すると考える直接実在論の立場があるが、これは知覚や幻覚によって否定される。
しかし、では志向的対象が何らかの心的対象なのかといえば、これは物理主義に反するし、また仮に心的対象だとしても外的対象との一致の問題を説明する必要性が出てくる。
物理主義の立場に立ちながら、知覚や幻覚、そして外的対象との一致を説明できるような志向的対象の候補はあるのか。
これについて、筆者は可能的個物の集合をあげる。
既にみてきたように、ルイスの自己的態度の理論が再び出てくる。ルイスは、知覚・感覚を性質説によって分析する。つまり、知覚・感覚とは、自らがどのような個物の集合に含まれているかを位置づけるものであると考えるのである。
そして筆者は、こうした可能的個物の集合を物理主義から許容できるものであるためには、様相実在論が要求されると考える。様相実在論の立場にたてば、可能的個物もまた物理的存在であるからだ。
いわゆる「クオリア」についてもまた、可能的個物の集合だと分析する。

第9章

最後に、筆者はタイプA物理主義が「受け入れがたい」ことを認める。
その受け入れがたさが、レヴァインがいう「説明のギャップ」にもとづくものだとするが、これはタイプA物理主義について無害だとしている。

京都現代哲学コロキアム

この本は、12月8日に行われた京都現代哲学コロキアムの第4回例会で合評が行われている。
僕はこの例会には参加していないが、TLで話題になっていたので、web上にアップされていたレジュメだけ見た。
このレジュメが面白かったので、この本も読んでみたという次第。
金杉武司から、タイプB物理主義が本当に論駁されたのかという批判
・現象概念戦略批判にでてきたテーゼYについて
・説明のギャップ論駁について
鈴木生郎からは、形而上学者としてD・ルイスの議論が本当に適切なのかという批判
・自己的態度の理論は新事実戦略を本当に批判できているのか
・志向的対象について説明するのに本当に様相実在論が必要なのか
対して、最後に筆者から再反論がなされ、加えてさらに本書では書かれていなかった筆者の立場も論じられている。
・「デフレ」的立場による唯心論的物理主義

感想

自分は、タイプB物理主義の旧事実/新様式戦略がいいなーという「直感」を持っているけれど、まあ特に論証はなくて、逆に本書における批判にかなり説得されてしまったところはある。
最初は能力反論はあまり魅力的に見えなかったのだけど、それはそれでいい手なのかもしれない、と。
かなりこの本はしっかり論証しているなあと思ったのだけど、その後で金杉・鈴木レジュメを見てみると、気になる部分も出てきたりする。
説明のギャップについては自分も気になる。
それから、様相実在論についても疑問が。
鈴木レジュメでは、集合ってどうなのって話だったけれど、個人的に気になるのは、可能的個物が物理的存在だとしても、可能世界って物理主義的に本当にokなのかよく分からない(因果的に繋がってないから)。
あと、媒体の違いによる情報の個別化のあたり。


クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと

クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと

*1:ここでいう物理的には、いわゆる物理学だけでなく、化学、生物学、神経科学などといったものも含む。

*2:これは、存在論においてクラス唯名論とされる立場であり、実は問題を含んでいるが、ここでは註に簡単に触れられるにとどまる。倉田剛『「現代存在論入門」のためのスケッチ』 - logical cypher scapeを参照。

*3:ちなみに、ここでは全然紹介しなかったが、マリアンナの事例は、部屋から出たときに得られるのは「どのようなことかについての知」ではないことを示してタイプAを棄却しようとする