第10回文学フリマ感想

何故今?って感じですが、行くことができなくて人に頼んでおつかいしてもらったものを、最近手に入れたので。

アニメルカ

雑誌制作に至る過程が語られる第0章の座談会が、楽しい。こういう楽しい雰囲気が同人誌制作の醍醐味だと思うけれど、これだけの人数で、なおかつ基本的にはtwitterとustを介した繋がりで、実際の制作にこぎつけたのはまずはすごいことだと思うし、この『アニメルカ』という冊子の魅力だと思う。
雑誌タイトルをつけていくときのtwitterの威力はすごい。そして、criticaloidアニメルカというキャラクターが、またいいなあと思う。表紙を含めて、それぞれ描き手の異なるアニメルカのイラストが複数枚入っているのだが、全て見た目がバラバラなのである。ボカロよりもさらに同一性の希薄なキャラであり、今後どうなっていくのかさっぱり分からないけれど、今後の展開をとても注目している。
内容であるが、12人の論考を120頁弱に詰め込んでいるので、分量不足を感じるところがちょこちょこあった。短い中に色々と詰め込もうとしたせいか、文章構成の面で気になるものもあったり。自分が『twitter本』やった経験からして、かなり難しいのはわかるし、自分でも全くやれていなかったのだけれど、そういうところは編集の力が大きいのではないかなあと思っている*1
あと、アニメについての本なのに、アニメの画像が全くなかった! 
多少の図表は出てくるのだけど、基本的に文章がぎっちり詰まっていて、わりと意外だった。

  • 泉論文

これは、元になっている論を読んだことがあり、その時も「見える」というのがフィクションの体験にとって非常に重要だと思って興味深く読んだ。のだが、今回その適用範囲が広くて、やや分かりにくくなっているような気もする。というか、気になったのは「映像」と「実像」の関係というか、「映像=実像」と「映像は実像ではない」という二つの考え方のうち、後者が支持されていくのだけど、そもそもそこでいう「実像」とは一体、と気になってしまった。

  • karimikarimi論文

シムーン見てないのでパス

  • EPISODE ZERO論文 反=アニメ批評論文

視聴者の認知限界と操作、というのはアニメであったり映像であったりの世界では、極めて新しい話というわけではないと思うのだけど、やはり最近の色々な情報環境がそれを加速させている状況はあるだろうし、この話は面白いなあと思った。批評として、もう少し色々言えそうなテーマなのかもなと。
渡邉大輔が、監視カメラやケータイカメラ、あるいはYouTubeなどによる映像の氾濫を論じているけれど、その中にこのような映像の操作を前提とした映像のあり方というのも位置付けられるのではないかと思ったりした*2

  • 第二章

作品論とあるが、取り上げられている作品が悉く未見なのでパス

原作とアニメの関係というテーマや、それをサウンドノベルから論じていくというのは面白いと思ったのだけど、ミステリの話が出てきたところからあまりに説明が足りなくてよく分からなかった。筆者の考えを確証する作品が『デュラララ!!』であったというのであれば、むしろそちらを中心に論ずるべきだったのでは。

  • さかさドンブリ論文

みなみけ』はマンガは読んでいるけどアニメは見てないので、パスなんだけど、こういう風にアニメ化してたのかーというのと、amazonのカスタマレビューを拾ってきて世間の評価の変遷を見せてるってのが面白いかなあと思った

  • 杉田u論文

これ、面白かった。
主要人物がそれぞれどのような人間関係の広がりを持っているか、という観点から、『サザエさん』から『らき☆すた』まで論じたもの。
名前が出てくるとは予期していなかった、『サザエさん』や『ちびまるこちゃん』に『クレヨンしんちゃん』『あたしンち』といった作品を並べ、そこから『あずまんが大王』『らき☆すた』までうまい具合に繋げてしまっている。各作品を評価する基準もわりとわかりやすい。
図を使っているのもよかった

  • ろくさん論文

はじめに、で本人が言っているように、現状整理

  • かいん論文

「続きはネットで」かよ!

  • 第五章

アニメルカがすごいのは、海外からも原稿を集めているということだなあ。
アメリカ人二人とイギリス人二人の原稿が載っていて、こちらは論というよりは、海外でのオタクの実態についてのレポートみたいものになっている。そういうわけで、基本的にどってことない話なのだけれど、海外のオタクの素の雰囲気みたいなのが伝わってきて面白かった*3
ニコン(という向こうのイベント)の低年齢化と商業化を嘆き、しかし年に一度のオフ会みたいなものだから欠かさず行っているんだって話は、なんかやけにリアルw


アニメ批評ということであれば、アニメならではのことについて書かれているものがもっと読みたいなあという感じはある。例えば、声優について主題的に扱われていたものがなかった*4
しかし、杉田uさんのは、決してアニメならではの話ではないが(原作マンガを使ってもほぼ同じ分析は可能だろうから。ただし、これらの作品がアニメ化されたからこそ、これらを並べることができたということはあるが)、面白い話だった。
さらにいえば、スミッソンさんなんて、アイマスドリームクラブの話しかしてない。アニメの話してない!w
アニメルカが今度どういう風に展開していくのか分からないけれど、今後も手に取ってみたい第一号だったと思う。
Merca(旧・アニメルカ)公式ブログ 『アニメルカ vol. 1』目次

『PLAY BOX vol.2』

中沢忠之さんの評論を読んだ。これは今は、中沢さんのブログで読めるようになっている。2010-07-18 - 感情レヴュー
SFとミステリという二つのジャンルの違いを紐解きながら、伊藤計劃円城塔に、「逆セカイ系」を見出す。それはメタデータ(規則ないしセカイ)によってデータ(個)が規定されているというもの。個によってセカイが規定されているセカイ系とは逆だから、という伊藤の発言からとられている。
ただ、個人的な感覚だとこれが「逆」という感じがしないんだけど、考えてみると、自分はセカイ系という言葉であんまり、セカイ系の典型とされる「サイカノ」「ほしのこえ」「イリヤ」をイメージしてないんだなということに気付いた。というか、まあ混乱するのでやはり、セカイ系という言葉は前島さんの本をベースにした方がいいだろうな。
自分は、自分の好きな作品を適当にピックアップしてただけで、たまたまセカイ系とは部分的に外延がかぶっていたのであって、セカイ系について語ったりしていたわけではなかったのかも。
しかし、それはそれとして、中沢さんの論は自分にとってもよい整理になった。


夏目陽の小説と陸条の小説を読んだ。それぞれ、保坂和志阿部和重に影響を受けているような文体だった*5。夏目さんの方は、一人称と三人称(?)を行き来するような実験的な文を書いている。その実験がうまくいっているかどうかは分からないけれど、読みにくくはなく、内容も結構よかった。陸条さんの方は、ちょっとよく分からなかった。全体の分量に比して、語り手の考察が多く、具体的な情景の描写が少なかったのではないか。全く分からなくなるほど少ないというわけではないし、バランスはとっていると思うんだけど、イメージしにくかった。
http://d.hatena.ne.jp/inhero/20100516/1274017662

『Fvol.6』

表紙のカオスなイルカワールドは悪くないんじゃないか、と。
まえがきがひどいww何度も読み返してしまう。
特集「暴力」
とりあえず全部読んだけれど、今回よかったのは以下の1本。

  • 鈴木さとみ「藤子・F・不二雄作品における「抑圧」された少女表象――「女のおばけ」という<暴力>」

藤子作品に出てくる少女がみな、男性からの理想像を押しつけられたようなものになっているという話だが、マンガの「記号」という観点から迫っている。「女のおばけ」というのは、伊藤剛の「うさぎのおばけ」からとられているわけだが、少年マンガのキャラ表現のベースはあくまでも少年であり、それに髪の毛などの記号が付加されることで少女が描かれることから、まず少女への「抑圧」をみていく。さらに、マンガに登場する女性がもつ記号の「重さ」や、藤子作品に繰り返し登場する<来訪者>との関係なども論じられていて、厚みのある展開になっている。
自分はなかなかこういうジェンダー論的な視点に馴染みがないのだけど、比較的馴染みのある伊藤剛の議論から展開されていったので、興味深かった。


基本的に今回掲載されている他の論が、作品の中でどのような暴力が描かれているかという点に終始していたのに対して、この論だけが、マンガという表現そのものが一体どのような暴力をふるうのかという観点から書かれていた。『F』で、「暴力」という特集をやるのであれば、そういう観点から書かれた論をもっと読みたかったかなと思った。
あと、そういえば対象作品がマンガばっかりだったな。
F6号を持って文学フリマに参加します: 現代文化研究会公式BLOG

『URZAVol.1』

「試論 フィクション論としてのクワインとグッドマン」
自分もこの前、フィクション論と分析哲学を繋げる試みをしたわけだけれど、あれがひどいグダグダだったのに対して、こちらのよ整理されて分かりやすいこと! というか、自分、分析哲学的な文章の書き方が全然出来てないんだよな。
グッドマンの投射の話をベースに、フィクションを反事実的条件法の一種として捉えるというもの。
自分は分析哲学と繋げるとかいいつつも、まさにこういう分析哲学っぽい分析は結局全然できずじまいだった。姑息な言い訳をすると、自分がフィクションに関して論じたいポイントがそこからずれてたってことなんだけど、それゆえに、自分の論とurzaさんの論とでは、同じグッドマンを使っているけれど、論点に関して一致も対立もあまりなかった。
ただグッドマンに注目している理由は同じで、可能世界論をフィクション論に使わないということ。
上に対立はないって書いたばっかりだけど、やっぱあるな。というか、そこから進んだ方向が違う。
僕はそもそも非-フィクションとフィクションではやってる言語ゲームが違う、意味論の充足の仕方が違うのだ、というある意味で反則技を使っている*6
urzaさんは、グッドマンの投射の理論、反事実的条件法の分析を、フィクションにも適用していく。これの利点は、真偽は決まってないが有意味であるということで、この場合の「有意味」をフィクション以外の言明に使うのと同じ意味で使うことができる*7。科学的仮説とフィクションを、同じく反事実的条件法として扱っている。もちろん、科学的仮説とフィクションとの区別もなされており、これを区別する方法の果てに、ごっこ遊び論が待っているというよく出来た展開になっている。
ところで、そういうわけだから、フィクションの言明とフィクションについての言明を区別せずに扱っている。というか、そのような区別自体が可能世界論を呼び寄せているのだからと、この区別を批判している。ただ、僕としてはこの区別は結構重要だと思っていて、ここらへんに違いがあるのかなあなどと思っている。
ところで、この論は可能世界論自体を却下するグッドマンの論を採用しているので、フィクションに限らず可能様相に関して、可能世界意味論ではなく素質語による説明を試みている。正直、自分は様相に関してどのように考えればいいのかお手上げ状態になっているので、素質語を使った分析がうまくいくのかも正直よく分からない。フィクションと様相は絡んできそうなんだけど、回避できるものなら回避したいというのが僕の正直なところである*8。というわけで、実際のところどこまで妥当なのかが気になる。
可能世界論を退けるにあたって、そもそも名は必ずしも何かを指示していないという、ラッセルやライルの議論を持ってきている。僕は、この2人にフレーゲも加えて、分析哲学の成し遂げた重要な功績、重要な特徴は、まさにそこにあるんじゃないかと思っているんだけど、クリプキ以降に指示の理論がまたがーっと出てきて、最近の形而上学流行りとかの流れを見ていると、初期分析哲学なものってどっかに限界があったってことなのかなあと思って、そこらへんも気になる。
つまり、urzaさんの論考とは別に、グッドマンやラッセルって近年の分析哲学ではどう受け取られているのかなあというのが気になったということ(あるいは当時どのような批判があり、議論が進んでいったのか)。
細かい部分で気になったこと。
この論では、可能世界論を批評理論として、分析哲学とは対立するものとしているけれど、それはどうなんだろう。90年代に日本に可能世界論が入ってきたときに批評界隈がどういうふうに取り込んだのかは全く知らないけれど、最近、東浩紀界隈で使われている「可能世界」は、作中のループやパラレルワールドを説明するのに使われているという感じがする。様相の感覚を物語化する時にループものが採用されている、という話であって、フィクションというものが可能世界の一種であるみたいな話はあまりしていない気がする*9。フィクションを可能世界として説明する議論は、僕は三浦俊彦しか知らない。
それから、反事実的条件法によるフィクションの分析を、さらに比喩表現と拡大できるのではないかという今後の展望が語られていた。僕は、比喩表現の分析にはほとんど興味がなくて全然考えたことがないんだけど、「彼女は薔薇のように美しい」を「「彼女が薔薇だったならば美しい」かつ「彼女は美しい」」にパラフレーズするのには、違和感を覚えた。
うるざさんごーはち (@urza358) | Twitter

*1:自分の場合、『twitter本』と『筑波批評』では編集でやってることが大分違う。担当している人数、〆切スケジュール、書き手との関係などから、後者ではかなり構成などに干渉してることがあるけれど、前者は全然できなかった

*2:その意味で、同じ『U30』に掲載されている論文から引用するのであれば、伊藤論文ではなく渡邉論文だったのではないかと思う。というか、伊藤論文の「露出」の概念は、EPISODE ZERO論文の論旨とは繋がらない話なのではないかと

*3:もちろん、面白おかしく書いているところはあると思うけど、そういうところも含めて生の雰囲気というか

*4:noir_kさんが多少言及しているが

*5:そういえば、保坂チルドレンっぽい作家は沢山あるけど、阿部チルドレンっぽい作家って見掛けないな

*6:ウォルトンや清塚さんの議論は、僕のようなトンデモではないけれど、それでも方向性は近いというか、自分にとって使えそうなんじゃないかと思っている。さらにグッドマンに関していうと、結局彼の言語哲学というか記号の哲学は自分のフィクション論にはあまり使えないかなというのが現段階での結論。そのわりに、彼の記号の哲学と密接に関わり合っている世界観の方だけ借用しているのだが

*7:僕の場合、フィクションの言明とフィクション以外の言明では「有意味」の意味が違うことになってしまっていて、サールの批判をもろに食らうことになってしまっている……。何とか言い逃れをしようとしたのだけれど、kugyoさんに看破されている

*8:様相の勉強が面倒なだけなんじゃと思われそうだが、様相は様相で気になるテーマなので勉強はしたい。ただ、様相は様相単体で手強すぎるので、フィクションを論じる上でむやみやたらに突っ込んで行かなくてもいいんじゃないのかと

*9:そもそも東浩紀界隈は、フィクションという言明が一体何なのかみたいな議論はしていないはず