岡田暁生『音楽の聴き方』

稲葉振一郎が『社会学入門』で薦めていた本だと思って*1、なんとなく冒頭を立ち読みしたらそのままはまってしまって一気に読んでしまった。
twitterから

昨日思わず買った、岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書が、刺激的だった。クラシック音楽を題材にしているが、批評一般に通じる。
聴く・する・語るの3つが揃うことで音楽文化が成立する、と論じられている。
だが、ロマン主義と市民階級の成立、音楽の産業化がその三者を切り離してしまう。すると語るがプロ化し、人々は聴くだけになってしまった、と。
タイトルは『音楽の聴き方』だが、聴くだけでなく、音楽をしたり、語ったりすることのススメであり、またそうすることで音楽を聴くかとであるとしている
具体例はクラシックとジャズしか出てこないが、読んでいてどうしてもニコ動のことが思い浮かんでしまった
まあニコ動が、岡田さんが述べてるような文化共同体になってるとは言わないけど、マスコミ的な音楽と比べれば、よほどすると語るが聴くの近くにある
ただ聴く(受容する)だけでなく、それを語ることで「文化」になるというのが、特に気に入った。
自分は「批評家」になれるような幅広い教養は身に付けてないので、批評家になれるともなろうとも思わないが、語りたいとは思う。自分のやりたいことの位置付けができたかも。
批評、というとメタ的と思われたり、あまり創造的でないと思われたりするが、ある文化にとって、作ると受容と同じ階層にある行為ではないかということ
音楽に話を戻すと、岡田本ではサウンドとしての音と言葉としての音を分け、後者寄りに立っていたのだが、僕はサウンドについて語る言葉が欲しいと思った

masmt わざ言語の話が面白かったなーこの本。RT @tricken: @sakstyle の薦めに従い、岡田暁生,2009,『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』中央公論新社.(中公新書No.2009)を購入。…
tomad @sakstyle 語る空間があってこそ音楽だと僕も思います。そういう場所をつくりたいですね。ツイッターもその 1 つですが。
*2

ニコ動に関して言えば、DTMで曲作りする人だけでなくて、歌ってみたや演奏してみたで、かなり様々にアレンジされていたりするので、「する」という面は結構サポートしていると思う。
「語る」という面に対応するものとしてはコメ欄がある。身体的だし共同体的ではあるが、どこまで「語る」ものとして成立しうるかは難しい
ところで、本書では、音楽だけを聴くことは難しい、音楽は聴く時々の環境や社会的・文化的な文脈によって成り立っていることが再三主張されている。
ところで、それに対してふと思い出されたのが、パンドラというネット音楽サービス
ネットラジオサービスのPandora、「音楽の発見」を支援してファンが急増 - CNET Japan
複数の音楽学者によって、登録している楽曲を全て分析させている。リズムや調、メロディなどを様々な要素に分けて分類している。分析はブラインドで行われる。パンドラの経営者によれば「音楽だけ」で判断できるようにしているようにしているらしい。
インタビュー記事に載っていたエピソードに、利用者から「薦められた曲がセリーヌ・ディオンだった」という苦情(?)が寄せられたというものがあった。気に入らなかったのかと問えば、そんなことはない、だがセリーヌ・ディオンだったのだとさらにいう。最後にその人は「自分はセリーヌ・ディオンが好きだったのか」と言ったとか。
「語り」や「場」によって、ある曲がよい音楽として聞こえたりそうでなかったり、ということを岡田は強調するわけだが、このパンドラの話は、それとはまた別の音楽聴取のあり方のようでもあって面白い。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

*1:実際に稲葉が同書で薦めていたのは、同じ著者の『西洋音楽史』の方だが

*2:個人的に残しておいたメモをブログに転載したので、masmt、tomad両氏の「つぶやき」も混ぜてしまってました。引用元リンクもないし、ちょっと引用ってことが分かりにくいかもしれませんがご容赦ください