佐々木健一『作品の哲学』

作品という存在を主題とした哲学的探求。
従来の美学が、作品によってもたらされる体験を対象としていたのに対して、この本は作品という存在そのものを対象とする。
まず、存在を三つに区分する。すなわち、自然・行為・作品である。
自然に対して、行為も作品も人為的なものであるが、行為が行為者の人格から離れないものであるのに対して、作品は制作者の人格から離れて自立するという点で、行為と作品は区別される。
佐々木による作品の定義は、
まず第一に作られたものであるということである(広義の「作品」)。
そして、内側に世界を持っていることである(狭義の「作品」)。
「外」(文化や社会、あるいは作者)から規定されたり、「外」へ向けて開かれていたり、「外」と繋がったりしていたりしつつも、「内」の世界を持ち、自立性と自律性を有する。この「外」と「内」の往還運動をこそ、佐々木は重視する。


序論では、20世紀になって作品概念が危機にさらされていることをうけて、作品の哲学が必要になったとして、作品概念を危機にさらした芸術様式や理論と作品概念との関係を論じる。
例えば、パフォーマンス(具体的にはケージ)、テクスト(具体的にはバルト)、オブジェ(具体的にはデュシャン『泉』)である。
ケージの作品を分析することで、ケージの作品もまたやはり作品としての統一性を持ち合わせていることを述べ、またテクストに関しては、バルトの論じたテクスト概念こそがここで論じようとしてる作品概念であると述べる。『泉』のようなオブジェに関しては、それは作品と行為の中間的存在であって、作品であるとは呼べないとしている。
第一部は、作品の構造論とされている。
まずそこでは、作品の統一性と完結性について論じられている。
前者に関しては、三統一の法則が分析され、また古典主義的作品観とバロック的作品観が見出される。
後者に関しては、デウス・エクス・マーキナが検討され、作品にとって「終わり」が如何に重要であるかが論じられる。
また、これらが制作側の理論だとするならば、次に受容側の理論が検討される。
そこでは関与性の公理や行動の論理といったものが見出される。
それらは、いわば何かを理解しようとする人間精神の本質によって基礎付けられる、解釈学的意志といったものの具体的な現れであり、佐々木はこれを作品のアプリオリと呼ぶ。
第二部では、作品の人間学が展開される。
作品の構造論が、作品の内部についてだとするならば、作品の人間学は、作品とその外(具体的には作者)との関係についてである。
作者の意図について、作者が改作する権利について、作者の責任についてが論じられる。
また、作品と人格についても論じられ、作品があたかも人格のように扱われるとき、その作品はいわば自立性を有した傑作となっているのだとする一方で、人格が作品のように扱われるときがあるとすれば、それはむしろ人格の尊厳にたいする傲りであろうと断じている(具体的には、三島由紀夫の自殺を批判している)。


具体的に挙げられる作品としては、ヨーロッパの戯曲が多く、作品論と概念分析が絡み合って論が展開していく部分が多い。概念分析がなかなか詳細で興味深かった。
作品について考える上で、区別すべき(しかし混同しやすい)概念が腑分けされていく様は、勉強になるし、楽しくもある。
ただし、作品の内部世界というものについては、それほど詳しく解説されていない*1。作品の世界について語ることになると、その体験について語ることになって、従来の美学と近くなってしまって、従来の美学と区別される意味での作品の哲学にならないからかもしれない。
とはいえ、作品-世界-体験というのが僕としては気になる。


出てくる具体名としては、アリストテレスからエーコやバルト、あるいはアメリカのニュー・クリティシズムなどだけではなく、デカルト、マルブランシュ、グライスも重要な役回りを請け負っている。
作品の哲学の先駆者としては、インガルデン、グイエ、ヴァレリーハイデガーを挙げている。ことに、グイエからの影響は大きいらしい。


作品の哲学

作品の哲学

*1:面白いのは、機械との比較である。機械内部の回路やプログラムは、「内」ではないのか。もし「内」であるならば、機械もまた「作品」ではないのか。それに対して佐々木は、回路やプログラムは確かに「内」ではあるが、人の入り込める「世界」ではないとして、機械は「(狭義の)作品」ではないとしている